眠い。ねむい。ねむーい! 本当に、眠い! そんなふうに私が叫びそうになっていたのは、トレーナーさんにまた明日を告げてから八時間と二十分後の、およそ午前三時半だった。誰でもわかる、良い子は寝る時間である。たとえ私は大人なんですと言い張っても、消灯時間は守らなければいけない。なので深夜の寮で出来ることなんて明かりも付けずに徘徊するか、部屋で閉じこもるか、大人しく寝るか。
……まあ、どれも経験済みではある。ダービーの日の夜は深夜にうろうろ誰もいない談話室をうろついてしまったし、春天の後しばらく私が部屋に閉じこもっていたことなんて、まだたまにキングあたりに引き合いに出されるし。けどだからまあ、初めてではないのだ、眠れない夜を過ごすのは。悩みに悩んで、そんな夜は。私を変えてしまう不思議な夜は、今日もまた形を変えてやってきたというだけ。
だけど、少し違うのは。今までと少し、けれど決定的に違うのは。
(……私、なんでこんなに元気なんだろ)
落ち着かない。脚を布団の上でじたばたさせて、それが終わればスマホを少し開いて時間を確認しため息を吐く。それも終われば今度はぐるぐるぐるぐると布団の上でしこたま寝返りを打つ。痩せっぽちの身体が、柔らかい布の上で跳ねる、跳ねる、跳ねる。そこまで終わればまた最初に戻り、たまに他の動きが混ざる。それの繰り返し。
そんな感じで、どこでも寝れるのが取り柄のはずの私が、あろうことか寝床で落ち着けていないのだ。そしてそれは多分、元気だから。朝から晩まで遊んでいて、絶対そんなことはないはずなのに。まあこれまでもレース終わりに思い悩んでいたのだから似たようなものかもしれないが、その時は流石に元気じゃなかった。今だから言えるが、ぼろぼろだったから考えすぎて眠れなかったようなものだ。
でも、今日は違う。何を考えろというのか。何を悩めというのか。私は多分眠りたいのに、身体が言うことを聞いてくれない。明日だって授業はあるし、今元気でもそれじゃ明日困るのに。なのに左右の脚をずっと上下に入れ替え続けて、私は一体何をしたいのか。
……まあ、確かに今日、少し思い悩んだと言えば思い悩んだのだけど。確かに脳みそにのしかかりつつある弛緩の感覚は、そのうち寝られるだろう、なんてのんきな予測を私に立てさせた。ならそれまで起きておくというのは、やはり悪くないのかもしれない。なんだかんだでやはり、悩みがあるからうまく眠れないのだとしたら。
(一緒にいたい、か)
それが今日、楽しかった今日に私が思い悩んだ唯一のことだろう。トレーナーさんを、釣りに誘って。朝から晩まで、二人きりで。帰り道は別れるはずだったのに、一緒に帰ろうと言ってしまって。そしてそこまでしてなお、私は満ち足りていない。また明日と言った時、心臓の裏側がもう一度ずきりと痛んだのを覚えている。それくらい、一緒にいたい。
寂しい。多分、そう思ったのだ。トレーナーさんがいない時なんてこれまでも何度もあったのに、別にトレーナーさんにずっと一緒にいて欲しいなんて思わないはずなのに、何故だか今の私はそれに近いことを求めている。
……まあ、無理もないのかもしれないけど。冷静に考えてみれば、それなりに長い付き合いで。それなりにまあ、信頼を積み重ねて。そうして、二人で見る夢も見つけた。私だけじゃない、二人がかりの夢だ。そうなれば私がそれの実現のために、トレーナーさんのことを前より重く受け止めていても仕方ない、のかもしれない。だからまあ、無理もないのかもしれない。
けれどそれで眠れないのはいかがなものか。眠いってわかっているのに寝られないというの重症だ。あくびも止まらないし、身体はぽかぽか暖かい。頭もほわほわしてきたし、それでもなお目はぱっちりしている。反動で明日は立派な隈ができてるんじゃないか、というくらいに。ともかく、眠れない。
「……はあ……困ったなぁ」
一人の寝室でまた、寝間着のショートパンツ下から伸びる太ももをばたばた布団に叩きつけながら、心底困った声を出した。だけど助けは当然来なくて、私は泣き寝入りするしかない。いや、それでもいいから寝たい。早く寝たい。まったく、そんなに悩みを解決したいか、自分。
一緒にいたい、その気持ち。それが湧いた理由を解明しなければ眠れないのだとしたら、それはなかなか難儀じゃないか。だって「あれ」と一緒にいたいなんて、なかなか思うことじゃないだろう、我ながら。とりあえず先程一つ例を出した通り、夢を掲げてしまったことはあるかもしれない。当人には言えないな、とは思ったが。それはこの思考全部がそうだった。
一緒にいたい。寂しい。そんな甘い痺れが傷跡をなぞり、私の心はまたちくちくずきずきと痛む。薄めの微睡の中にある痛みは、先程よりもより浅く広くなっていた。身体全体に広がるように、甘くて深い痛みが奔る。……はあ、どうしてこうなっちゃったかな。
まあ気を取り直して、眠気混じりの思考再開。なんでこんなに目だけ冴えているのか、本当に不思議だ。早く明日が来て欲しいと心も身体も思っているのに、目だけはそれを拒否している。ひょっとして、私の今日目にしたものが原因か。その考えは鋭そうな気がしたので、軽く記憶を辿ってみる。とはいえショッキングなものは見ていないのだけど。釣り竿、バケツ、コマセ、アジ、サビキ仕掛けあとは……まさか、やっぱり。
(トレーナーさん、なのかなあ)
確かに今日一番目にした人間ではあるけれど、何がそんなに気になるんだろう。一緒にいたいということは、目が離せないってことかもしれない。思えば今日はやけにトレーナーさんが視界に入った気がする。ちらちらちらちら、目に映る空間の隅っこに、いつもあの太眉と大きな背中が交互に入ってたような。もしかして私、心配してるのかも。トレーナーさんが心配だから、目を離せない。
それもなんとなく、割と的を得ている気がした。だってトレーナーさん、今日は特に危なっかしいやつだったし。ぎこちない褒め言葉とか、すぐ謝るところとか、悪い人に騙されてしまいそうで心配になったのは間違いない。それで、目を離せない。だから、一緒にいたい。だから、不安。……筋は通っている、かも。
だけど、まだもやもや。なんとなく気持ちは昂ったままで、今日の堤防釣りの余韻はいささか長すぎる。いや、確かに楽しかったんだけど、今日。トレーナーさんを指導してやるのも、いつもの真逆なのが結構おかしくて笑えたし。でも初めてのことじゃない。こうやって悩んで起きるのが初めてじゃないように、トレーナーさんと釣りに行くのだって初めてじゃない。むしろそろそろ慣れてきたくらいだ。それなのに、どうして。
どうしてこんなに、後を引く。それが、ずっとわからない。
理由の一つは、多分トレーナーさんの変化にある。態度が変わって、だからそれが目につく。気になる。もやもや、する。無論成長はいいことだけど、慣れるのには時間がかかるというものだ。だから多分、気になる。私はあなたを、気にしている。
そしてもう一つ、これは確実に。確実だけど、正体のいまいち掴めないもの。私自身の、変化だろう。二人で夢を追いかけると決めてから、そこそこ時間が経って、おそらく私はようやくやっと、そのことを丁寧に噛んで飲み込み切れた。そして飲み込んだことで、じわりと浸透するように、全身に変化が現れた。多分、そんな感じ。それがすぐに出てきたのが、私の目なのだろう。
目に焼き付いた、トレーナーさんの姿。割と荒れたのを無理矢理ワックスか何かで整えてる髪の毛、意志の強い暑苦しい眉毛、割と大きめの、私たちには付いてないヒトの耳。そこら辺まで見て今日私が気付いたことと言えば、案外この男は童顔なのだということ。暑苦しい大人っぷりからは今まで本当に思いもよらなかったのだが、わりかしまつ毛がしっかり長くて二重なんだよね、あの人。だから目がくりくりしてて、なんだ意外と幼い感じじゃん、という。ほっぺたも意外と丸いし、鼻もそこまでとんがってない。割と、幼い顔立ちだったのだ。
そう、今日はそこまで見えたのだ。何故かははっきりわからないけど、多分距離感が変わったからだとは思う。トレーナーさんの方から、私に近づいている。そして多分私も、トレーナーさんの見方が変わっている。そういうこと。日常の行動を変化させるということは、些細な積み重ねの上にあるイメージを揺らがす行いだ。トレーナーさんが今変えようとしているものは、そういう思ったより大きなもの。だからそれに釣られて、私のあなたへの印象も揺らいでいる。……のかも、しれない。
もっともこんなのは理屈を長めに並べただけに過ぎなくて、結局わかるのは二点だけ。今日はトレーナーさんのことが、なんだか目に焼き付いてしまったのだということ。そしてトレーナーさんと、もっと一緒にいたいと思ってしまったこと。そう、それだけ──。
(……あれ?)
それだけ。「だけ」? そんな自分で弾き出した思考に、自分で疑問符を投げかける。妙に、引っかかる。……いや、この二つなのは間違いない。考え直してみても、やっぱりそうだ。なら、そうじゃ、そうじゃないのは。
そうして私は少しだけ、私の気持ちの形を知る。短く狭い結論に対して、私の本質が投げかけた疑問もまた単純なものだった。
(「思ってしまった」とか、「それだけ」とか、そう思う自分が多分、嫌なんだ)
何故かは、やっぱりわからなかった。
(否定すべき気持ちだと、決めてしまうのが嫌なんだ)
けれど、それは確実に思ったことで。
(取るに足りない気持ちだなんて、あしらわれるのが嫌なんだ)
だから私は、大人の私の変化を見る。
(……ああ、私)
自分に自信が持てなくて、褒められたいと願っていた少女は。
期待を望みながら、期待を裏切る自分が怖かった少女は。
(私、そんなに自分の気持ちが大切なんだ)
自分を自分で認められる、そんな大人になったのだ。
だから私は、大人の私の抱いた気持ちを無碍にしたくなかったんだ。そう考えれば全てに筋が通る。あなたを見た目が閉じることを否定し続けるのも、あなたと一緒にいたいという気持ちを何度も咀嚼しているのも、全て。
いつのまにかぶらんぶらんと動いていた脚は止まり、全身はゆらゆらと蠢くだけになっていた。目はかすみ、思考は睡魔に落ちようとしていた。……ああ、悔しいな。ようやく、ようやく眠れない理由がわかったのに。私の行動は、全て一つの理由に通じる。そこにある、答えは。
「私、今日が本当に楽しかったんだなぁ……」
そんな最初からわかりきった、当たり前のことだった。
今日が本当に楽しかった。永遠にしたいくらいに。だから私はそれを手放したくなかったんだ。そう、眠れないのではなく、眠りたくなかったのだ。明日を迎えれば記憶は薄れる。明日が来なければ、記憶は薄れない。永遠に出来る。だから多分、そうしようとしてしまった。
子供だって誰でもそんなこと無理だってわかってるくせに、大人の私がそうしてしまった。やはりなかなか、大人はうまくいかないものだ。私も変わっていくのだから、そのうち慣れるのかもしれないけど、慣れる前のこの感覚は、得難くて手放したくないものだ。
そしてこれも、きっと変化の一つで。先に述べたように、誰かの変化は波紋を作り他者に伝わる。トレーナーさんの変化が、私をこうやって変えているように。そしてそれならば私の変化もまた、誰かに干渉していくのだろうか。
些細な変化だ。だけどあなたへの態度はきっと変わる。既に、変わり始めている。それならその変化は、きっと他の誰より早くあなたに伝わる。あなたに、私の気持ちが伝わる。
ずきり。そこまで考えると、また針が心に血溜まりを作る幻が見えた。この傷の正体までは、そこまでは今日はわからなかった。今日わかったのは、たった一つ。だけどきっと、大きな一歩。かけがえのない、私の変化。
私は、私を認めている。
自分自身を、褒められている。
そんな、変化。私にとっては、やっぱりすごいこと。今まで期待を他者に頼っていた。どこか自分が信じられなかった。それでも誰かの言葉で、前に進めるようになって。その先で遂に、私は私に「よくやった」と言ってやれる。
……そうか、今の自分はもしかして。深夜四時の夜更け、疲労の溜まった袋が一気に弾け飛び、全身の筋肉に襲いかかる刹那。
(私、褒められるより先があるんだ)
未来は私に存在するのだと、そんな至極当然のことを最後の思考に浮かべた。そしてそこまでで、それきりで、まるでブレーカーが落ちるように私の意識は急速に眠りにつく。明日、ちゃんと起きられるだろうか。今日のこと、一つも忘れないでいられるだろうか。それはもちろんわからない。けれど、大丈夫だと思った。大丈夫だと思ったから、眠りについた。
未来は、明日から始まるのだから。
※
夢を見た。遠い、遠い夢だった。
夢を見た。遠い、過去の夢。
夢を見た。あなたと出会った日のリフレインだった。
「何してるんだ、こんなとこで」
「見ない顔だな、新入生だろう? なんで入学式に出てないんだ!」
夢を見た。最悪の夢、まさしく悪夢だった。うるさい正論男が、私を叩き起こす夢だった。ああやって入学式をサボって居眠りをしていたら、何も起こらないと思っていたのに、そこで全てが始まってしまった。今思えばあの頃の私はまだまだ幼くて、それでも悟ったようなことを言っていた。どうせ、とか、私なんか、とか、そうやっていれば平穏無事に何事勿れ、そう思っていた。本当は、何も起こらなかったあの日が怖くて怖くて仕方なかったくせに。
「一つだけ言っておこう。セイウンスカイ、諦めるな」
夢を見た。あなたが私を奈落から掬い上げる、そのはじまりの夢だった。「諦めるな」は何度も言われた。そのたびに多分、煩わしくて嬉しかった。複雑な心境、というやつだった。そんなふうに多分私は、扱いやすそうに見えて面倒だ。物分かりのいいふりをするだけで、何かにつけて悩み始める。今日もそうだし、ずっとそう。変化を重ねてもなかなか直らないことはあって、これもその一つ。難儀で面倒な女だと、今はつくづくそう思う。
夢を見た。だけどそれにしつこく「諦めるな」と言ってくれる人と、私が出会えた夢だった。そういう意味ではずっと、私たちの関係は変わっているけど変わっていない。それは多分これからも、きっと。そうだったら嬉しい。過去があるからこそ未来があるから。私は過去の関係を、未来のために蔑ろにしたくはない。だから私は、あなたのことを──。
夢を見た。そこで透明なヴェールのような白に戻る、泡沫の夢だった。
夢を見た。だけどそこにあったものに、私は手を触れられていたと確信できるものだった。
夢を見た。私は過去を忘れない、ずっと手放さない。そう信じて再び明日に向かって眠りにつける、幸せな夢だった。
夢を見た。近い、近い夢。
夢を見た。近い、過去の夢。
夢を見た。昨日のように近い、あの日のリフレインだった。
過去は、明日に繋がっているのだから。