【完結】セイウンスカイは正論男に褒められたい   作:春華ゆが

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セイウンスカイは正論男に・4

 知っているだけではわからないものというのは、世の中にいくらかある。所謂実感がなければ、知識だけでは手に取れないものは。

 たとえばその一つが大人というもの。十八になれば成人で二十になればお酒が飲める、そんなふうに一応法律が区切ってはくれるけれど、実感を持って「私は大人になりました」と言える日はなかなか来ないだろう。変化と成長は日々の積み重ねであり、ある日一段上に登るにはその前の何十日も助走しなければならない。そうして成長を重ねて、きっと人は大人になるのだ。

 もちろん私がここまでわかるのにも、それなりの実感というものが必要だった。そしてそれは伝えたくても伝えられない個々人の感覚にも依るもので、私の結論が他人に当て嵌められるとは限らない。

 今私が部屋に入ってきたというのにそれに目もくれずいそいそとしているトレーナーさんにも、きっとトレーナーさんなりの大人のなり方というものがあったはず。そしてその内容は当然、今までの指導の中には入っていないのだ。それは、あなただけの特別な気持ちでもあるだろうから。

 そして、私が今からあなたに伝えたいものも、実感がなければおいそれとは伝えられないもの。ありきたりでどこにでもある、だけど特別な。感謝という、気持ちだ。

 とくん、とくん。なんとなく、心臓は揺れ動く。なんとなく、耳は先端からぴこぴこと跳ね回る。なんとなく、尾は揺れて。なんとなく、手に汗握って。そんなふうになんとなく、緊張していた。

 私は、あなたに何を告げるのだろう。何故だかトレーナーさんの見え方が変わって、何故だか一緒にいたいと思ってしまって。その気持ちの理由も、実感しなければ見つけられないとしたら、私はそれを明らかにするためにあなたにありがとうを言うのだろうか。もちろんそれもあるけれど、それで包み隠すばかりじゃない。私の滅多にない素直な顔を、あなたにも届けたい。それは多分、そう思っているから。

 ……だけど、どうしようかな。トレーナーさん、何してるんだろう。心なしかいつもより部屋が散らかってる気がするが、いつも散らかってるから気のせいかもしれない。じーっと、観察してみる。トレーナーさんのごつごつした指が、机横の本棚に伸びる。指先が若干いつもよりは丁寧めに動いて、一冊本を掴み取る。取り出した本の背表紙を、その意外と丸くて愛嬌のある瞳でぱちくりと見つめて、開きもせずに本棚に戻す。……いや、正確には先程とは違う場所に戻した。身体の動きがちょっと違うからわかる……って、なんでそんなにじろじろ見てるんだろ。

 そんな自分に気を向けると急に恥ずかしくなってきて、ぷい、と目を逸らしてしまう。明らかに失礼だけど、あちらは作業に夢中だからセーフだ。観察のおかげでトレーナーさんが何をしてるのかもわかったし、無駄な行動ではないだろう、うん。部屋が散らかっていると思ったのは半分正解。そしてトレーナーさんの目的は、むしろ逆だ。

 トレーナーさんは、掃除をしているのだ。この狭くて埃っぽくて散らかっててトレーナーさん以外ほとんど使ってないチーム部屋を、綺麗にしようとしているのだ。それはもちろん、部屋を使う自分のため? そう結論づけるのは簡単だけど、それだけではない気がした。トレーナーさんならそれだけじゃないって、願望混じりかもしれないけど。

 多分トレーナーさんは今、変わろうとしているのだ。あの釣りの日のぎこちない態度も含めて、これはその途中。そのための片付け。大掃除。まずは身の回りからって、よく言うものね。とはいえそれを一人でこなそうなんてのは、やっぱりいつもの不器用なトレーナーさんなんだけど。まあそこはトレーナーさんのいいところでもあるし、無理に治してなんてふうには思わない。……って、何様なんだろう私。とりあえず私がこの状況で取れる選択肢なんて一つしかないんだから、さっさとそれを選べばいいのに。

 というわけで、すうっと息を吸い込んで。少しばかり自分の世界に入り込んでいるあなたにも、私の声が届きますように。

 そんな気持ちを込めて、一言。

 

「手伝いますよ、トレーナーさん」

 

 多分そっけなく、だけど心から。何度目か、あなたに手を伸ばす。その手はあなたの下から伸びてきたものなのだろうか、はたまた。

 

「……おお、スカイ」

 

 あなたの真横、隣から伸ばせていただろうか。どちらにせよあなたは手を取ってくれるだろうけど、出来ればより近い方がいい。

 あなたのそばが、いい。

 空を走る雲は徐々に増え、日光は途切れ途切れに部屋に差し込む。だけどまだ明るくて、身体の芯まで届く空気はぽかぽかしている。そんな秋のデイタイム、午後三時半だった。

 

 

「おお、それはそっちに置いておいてくれ」

「はいはーい。ちなみに余ったものはゴミ行きでいいんです?」

「いや、それは確認して持って帰るものは持って帰る。大体俺の私物だ」

「私物化してましたもんねえ、トレーナーさん」

「面目ない」

「ほんとですよ、まったく。だからまあ、片付けるのは偉いと思いますけどね。セイちゃん感心しました」

 

 部屋全体の模様替えとなると、それなりの大工事だ。だからそれに手をつけようということ自体は、褒められて然るべきだと思う。なんでそうなるまで放っておいたんだ、みたいなのはさておき、なんだけど。

 というわけで段ボールに要らないものを詰めていくことから始めたのだが、物を動かすたびにまあ埃が出てくる出てくる。若干引いちゃうくらい、出てくる。埃を吸ってけほっと咳をするたびに、トレーナーさんが申し訳なさそうな顔をするのが面白いので許すけど。

 さて、次はなんだろうか、そう思って振り返るのも慣れたもの。一時間ほど作業したが、流石にそれなりに呼吸が合うというか。こちらの作業が終わったあたりでぴったり次を頼まれるのは、少し気持ちいい感覚があったり。トレーナーさんと一緒にいられるということが、やっぱり嬉しいのかもしれないけど。

 ……いつ満足するんだろうな、この変な気持ち。トレーナーさんが変なふうに見えるのにも疲れたのだ、こっちは。私としては早く原因を究明するべくトレーナーさんにアクションを仕掛けたいところだが、それを私自身が許さない。流石に仕事を投げ出すわけにはいかないとか、引き伸ばせばもっと一緒にいられるとか。……我が事ながら、変な気持ちだ。

 さて、そうやって振り返ったところ。今までより一際巨大な段ボールが、私の目の前に立ちはだかる。あれ、トレーナーさんは? そう思うのも束の間、その段ボールの後ろからいつも通りの背の高いカッターシャツ姿が出てきた。この身体を隠していたのだから、相当な荷物が詰まっている。私が後ろを向いていた間に、何を詰め込んでいたのやら。

 

「全部詰めた。これを、トレセン学園の倉庫まで持っていく。そこに行けば、保管してくれる」

「保管、ですか。なら、大事なものが詰まってるんですか? それにしてもこの部屋、こんな量のものがあったんですね」

「ああ、今まではあちこちの棚に入れていたが……限界だ。俺の過去集めた資料に、君らが使い古した蹄鉄その他走るための道具。あとは大事なレースの新聞とか、とにかくそういうものだ」

「なるほど。捨てるに捨てられない、思い出の品々」

「そういうことだな。だが今日は思い切って、倉庫まで持っていく。過去に縛られるのもよくないからな」

「一理ありますね」

 

 過去は確かに大事だけど、それに縛られてはおしまいだ。過去は未来を支えるものなのだから、未来を見なければ意味はない。けれど、大切な思い出だろうに。それだけ変わりたいということなら、当然応援はしてやるつもりだけど。

 

「じゃあ、持っていきますね。倉庫、場所はどこですか?」

 

 というわけで、よいしょ、と段ボールを抱える。確かに今までのものより大きくて重いけれど、そこは私もウマ娘。これくらいなら一人で行ける、そういうつもりでトレーナーさんに問うたのだが。

 トレーナーさんの返答は、予想外のものだった。

 

「いいや、これは俺が行く。責任を持つ必要がある」

「え、なんでですか」

 

 なんで、と聞き返してしまった。いや責任とは言っているのだが、それはいくらなんでも語らなさすぎだろう。トレーナーさんが割と筋肉ある方とはいえ、これは流石にヒト一人では無理だと思うが。まったく、変わろうとしているのだと評したのは間違いだったか。これじゃ頑固なトレーナーさんのままじゃないか。

 

「なんで、じゃない。俺が行くから、スカイはもう帰っていいぞ。これで終わりだからな。お疲れ様」

「ええちょっと、それはひどくないですか」

「ひどくない。さあ、段ボールを貸してくれ」

「やでーす。それより倉庫の場所教えてくださいよ」

「嫌だ」

「強情ですね」

「それはスカイの方だ」

 

 正論を言わない時のトレーナーさんは本当に不器用で、駄々のこね方が子供みたいだ。このままずっと問答をしていても退屈しなさそうだけど、それじゃ前に進まない。私はそりゃ多分今は一緒にいたいのだろうけど、感謝を伝えたいのも本当だ。そのためには早く掃除を終わらせて、フリータイムに入る必要があるのだ。それも私とトレーナーさん、同時に。そうじゃなきゃ不自然だし、待つのも待たせるのも照れ臭いじゃないか。

 そんなふうに段ボールの裏でなんと言おうか悩んでいるうちに、トレーナーさんがひとつ閃いたようで。

 トレーナーさんの意思は、言葉より先に感触でわかった。ほんの少しだけ軽くなった段ボール。指先に当たるもう一人の指。その感覚に追いつく前に、あなたの声が50cm先から聞こえて。

 

「なら、二人で行こう」

 

 ……本当に、この人は。私がどんな気持ちかも知らないで、そんなこと言って。一番非効率じゃないか、一番時間がもったいないじゃないか。

 

「はい。そうしましょうか」

 

 だけど一番一緒にいられるから、私はその手を取ってしまうのだ。

 秋の空は次第に寒さを伝え、うろこ雲が空をゆく。夕日が目覚め始めるデイタイムの終わり際、午後四時半だった。

 

 

「このまま進めばいいんですか?」

「そうだ。このまままっすぐ行けばいい」

「私後ろ向きなので、ちゃんと指示してくださいね」

「任せろ! スカイのことはばっちり見ているぞ」

「そう断言されると、逆に恥ずかしいんですけど」

 

 二人で行こう、そう言われた時はなんて提案だと思ったが、悔しいことに私はすんなりそれを受け入れてしまっていた。トレーナーさんと二人で過ごす時間に、しっくりと来てしまっていた。

 もちろん、一筋縄ではいかない。指先はちょくちょくトレーナーさんの硬い指に当たるし、その度にその熱を感じてしまうし。視界に入るのが段ボールだけなのは嫌だなと思って横を見遣ると、トレーナーさんの年甲斐もなくキラキラした真っ黒い目と視線が合ってしまって思わず逸らすこともう七回……今八回目だし。

 はあ。なんで、こんなに。おかしいと思った。私の仮説では、釣りが楽しかったから一緒にいたいと思ったわけだ。つまりその記憶が薄れる頃にはもうちょっと落ち着いて探れると思ったのだが、私の意識は更にトレーナーさんに向いている。心臓には、まだ針が刺さったまま。本当に、なんでだろう。

 今日はなんてことない日だけど、色々な人に感謝を伝える日と決めた。もちろん、あなたにも。それがよくなかっただろうか? でも私はそう思うから、その気持ちは嘘にしたくない。今まで積み重ねたものを改めて、あなたの前で言葉にしたい。

 もちろん、感謝を伝えたことくらいはある。それにそれを言うのなら、トレーナーさんの姿を見るのも触れるのも初めてじゃない。慣れ親しんだと言うのはなんとなく嫌なのだが、まあ慣れたものだろう。けれど今日が違うとしたら、きっとそれは今だから。積み重ねたものが違うから、多分違って見えるのだ。私にとってのあなたは、今何に見えているのだろうか。

 

「もう少しで着くぞ」

「おっ、そうですか。いや、流石に二人だと早いですね」

「そうだな」

「ところでトレーナーさん、重くないですか」

「平気だ。君一人に渡す必要はない」

「ちぇ、けち」

 

 そんなことを考えるうちに、ゴールは間も無く。倉庫に着けば今日の作業は終わりで、そうすれば私は夕焼けを背にあなたに感謝を伝えられるのだ。なかなかドラマチックな演出じゃないか。トレーナーさん、感動して泣いてしまうかも、なんて。

 そして確かに思うのは、トレーナーさんが変わったということ。今日の大掃除そのものが、トレーナーさんの変化を表している。それは間違いない。……けれど、変わらないものもあるはずなのだ。だからトレーナーさんはトレーナーさんであり、私はそんなトレーナーさんにだから伝えたい感謝の気持ちがある。

 変わらないものの一つが、外見だ。人が他人を認識する上で、これ以上のものはないだろう。まあ当然私の見た目もそう簡単に変わらないし、成長の止まった大人で特におしゃれでもないトレーナーさんは尚更だ。改めて今日目に焼き付いた姿を思い返しても、やっぱりいつものトレーナーさん。それを何故だか、私の方が意識してしまうだけ。

 いつも見ている、あなた。いつも私の近くにいてくれる、あなた。あなたにはそうやって、変わらないものもある。そう、そういうことなら。

 ざり、と結論に一歩近づく感覚。私は、あなたに。

 

「よーし、着いたぞ。ここがトレセン学園の倉庫だ。トレセン学園の歴史の一部、と言っても過言じゃない。……中に入って、右だ」

「あっ、はい」

「どうした、スカイ」

「いえ……ちょっと考え事をしてただけです」

「そうか。お疲れ様だな」

「はい。お疲れ様です、トレーナーさん」

 

 そこで思考を現実に戻し、倉庫のドアを後ろ手で開ける。ドアから入って横にすぐ、大きな部屋があった。ここが倉庫なのだろう。ちゃんとは見えないけれど、他にも私たちが運んできたのと似たような物が置いてある気がする。

 というわけで、後ろに進んで、進んで、また目が合った、まあそれでも進んで……よいしょ。

 

「ふう、これにて一件落着ですね」

「ああ、助かった。今日は本当にありがとう」

「いいえ、たまには助けてあげないと。……それにしても、なかなか壮観ですね」

 

 荷物を下ろして開けた視界を見渡すと、そこには沢山の物品が、埃まみれで。まあそれでも保管するというのは、嘘ではないのだろうけど。なんせ奥の方に積まれた物は相当な年季ものに見える。あの鍬とか、多分。そういう意味で、壮観なのは間違いなかった。ここには一つの歴史がある。

 トレセン学園は、ウマ娘たちを巡り合わせ、そしてトレーナーとも出会わせる不思議な場所。そんな不思議な場所が作り上げてきた繋がりが、ここで礎となっているのだ。そう思うと身体は勝手に動いてしまうもので、ぺこり、と小さく荷物の山にお辞儀をした。

 

「どうした」

「ああ、ちょっとすごいなって思って。今日は私、感謝を素直に伝える日なんです」

「なるほど。それは偉いな」

 

 褒めてくれるのは結構だけど、この流れならもうちょっと気が付いてもいいじゃないか。あなたにも、伝える言葉があるのだ。

 そう、これにて全行程終了。マジックタイムに差し掛かる、秋の夕暮れ午後五時だった。くるりとターンして、夕日を背に回す。逆光を背負わなきゃ直視できないくらい、あなたへの気持ちは大きくなっていたから。

 だから私の声は、これ以上ないくらいに響き渡る。膨れ上がったあなたへの感謝を、この一瞬に込めるため。

 

「トレーナーさん」

「なんだ」

「いつも、ありがとうございます」

「……そうか」

「はい。トレセン学園の入学式の日、私はサボりを決め込んでました。それを見咎められなければ、今私はここにはいません」

 

 過去が積み重なったこの場所は、私たちの出会いまで遡るのに相応しい場所かもしれない。私の想いは、きっとそこから始まっている。そこから積み重ねと変化によって、こうなっている。

 

「最初は厄介な人だなと思ったけど、いつのまにか私の大事な人になってました。……トレーナーさんが期待してくれるから、ここまで来れたんです」

 

 だから、私はあなたに感謝したい。そう思うところまで、あなたへの見方を変えている。それほどまでに、あなたを大切に思っている。ずきりと痛む胸の奥は、ますます深く深くまで。だけど、止められない。

 

「本当に、ありがとうございます。クラシックもシニアも、トレーナーさんがいてくれたからこそです。それはずっと思ってましたけど、やっと言えました。そしてそれは、レースだけじゃなくて」

 

 やっと、やっと言えていた。もやもやした気持ちが、すーっと晴れる感覚。そう、私も変わっていたのだ。あなたの見方を変えていたのは、あなたを大切に思うから。だからそれを告げられる今は、溜め込んだものを言葉に出来る今は、たまらなく幸せで幸せで。大事に大事に思っていて、だからきっと──。

 

「私がこんなふうに考えられるような大人になれたのも、トレーナーさんのおかげです。諦めるなって言ってくれたから。褒めてくれたから」

 

 ──きっと、この気持ちはずっと抱えていた。

 

「だから、ありがとうございます……これしか言えてないですね」

「いや、こちらこそありがとう」

 

 ──きっと、だからこうやってすらすら述べられる。

 

「ちょっと、まだまだ言いますよ。なんだかどこまでも喋れそうなんです」

 

 ──きっと、「褒められたい」のその先にある。

 

「ええとですね、多分私はあなたに──」

 

 ──きっと、今だからこそ形になる気持ちなのだ──。

 

「あな、たに」

「……スカイ?」

 

 ──あれ。

 そんな、まさか。

 思考を理性が止める。すんでのところ、ギリギリで。

 あれ。

 "私は今、何を言おうとした"? 

 

「……ちょっとセイちゃん、急用を思い出したので。これにてさらばです、トレーナーさん!」

「あっ、ちょっと何か言おうとしてなかったか」

「気のせいでーす。では」

 

 だめだ。見れるわけがない、その顔をいくら暗がりでも見れるわけがない。二人きりなんて、耐えられるわけがない。誰だ一緒にいたいなんて、くそっ、くそっ、くそっ! 

 自分に悪態を吐きながら、ぐるりと強引にターンして全力ダッシュ。夕日が目に沁みようが構わず、校門まで一直線だった。

 

(まさか、まさか。嘘だ、うそだうそだ!)

 

 校舎を全部横切って、強引に校門から外へと飛び出す。走り出したい、弾け飛びたい、抑えきれない、どこまで行けば叫べるだろうか。そんなことばかりを考えていた。心臓から溢れる血を、口から吐かなきゃいけなかった。

 

(あり得ないあり得ない、だってそんなのおかしい、絶対おかしいじゃないか)

 

 そう否定が湧き立つ心と、その裏で膨れ上がるもう一つの気持ち。それを不思議と俯瞰する、また別の私。三人がかりで人気のない河川敷まで、夕焼け小焼けと一緒に道を駆けて。

 穏やかな川のせせらぎを全部塗り潰す勢いで、天を仰いだ私は一言。

 

「うわあぁぁあぁあぁぁあーーーー!!!!」

 

 声にすらならない叫びを噴水のように吐き出しながら、汗を流しての全力疾走だった。スカートのついた制服姿なんて、しこたま走りづらいのに。

 だだんと強く鳴る足音。それすら消し去る叫び声。吐いて、吐いて、吐いて、吐くために息を吸ってはまた吐いて。そして息をするために走るのだから、私の全身は吐き出すために使われていた。全部の泥を吐き出せば、本当の気持ちはわかるから。

 

(私、私、私は──!)

 

 知っているだけではわからないものというのは、世の中にいくらかある。所謂実感がなければ、知識だけでは手に取れないものは。

 

(いつからだろう、わからない、ずっとかな、昨日の釣りからかな)

 

 たとえばこれもその一つ。誰でも存在は知っていて、だけども決して捉えることができない。その時が、来るまでは。そしてその時が来れば一瞬で、世界に別の色が着く。そんな感情。その、スタートライン。

 

(どうしようどうしよう、明日からどうすればいいんだろう)

 

 そして誰でも持ちうるけれど、誰もがそれぞれ違う結論を持つものの一つ。だからやっぱり、実感を得るまではわかることは出来ない。あるいは唐突で、だけどこれまでの積み重ねが形成するもので。だから降って沸いたはずのそれは、あっという間に私に馴染んでしまう。紛れもなく私の持つ思考の爆発だと、別物にしか思えないそれを理解する。

 

(でも、でも、吐いても吐いてもどきどきが止まらない。やっぱり、私やっぱり)

 

 だからこそ大事で、大切で。あるいは感謝よりも先にある、誰でも持てて、他の誰にも持てないもの。痛くて苦しくてそれでも手放したくない、私にしかわからない感覚。たとえ自分の全部を吐き出しても残る、焔より強く美しく揺らめく極みの情念。

 

(ああ、そうなんだ)

 

 誰もが胸に秘められる、どこにでもありふれたもの。だけどどんな魔法より人を彩る、世界で一番特別な気持ち。

 

「私、トレーナーさんが好きなんだ」

 

 これをきっと、恋と呼ぶ。




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