師走という言葉がある。誰かの師匠が走り回るくらい忙しい、という意味だったと記憶していたけど、どうやらそれはただの当て字らしい。なんで十二月のことを師走と呼ぶのか、それはもう誰にもわからないとか。理由も意味もわからなくても、馴染んでいるからそのままにしている。なんとなく、定着している。今の私みたいな言葉だと、少し思った。
寒空の下、寮の部屋で暖を取る。今年も終わる間際になっても、結局私はデビューしていなかった。チームに所属していて、学園にも慣れて。気ままにゆるくやろう、なんて私の当初の目的は達成されている。だから、問題ない。そう言い切ることはできた。同じクラスのウマ娘が皆同時にデビューするわけじゃない。それは知っていたし、私が焦る理由は何もない。キング、グラスちゃん、エル、スペちゃん。皆が鎬を削るのを、横からのんびり応援する。その方が、現実的かもしれない。だって。
「だって、私は期待なんか」
口に出してしまったそれは、これまで何度心で思い描いたものだろうか。幼い頃のあの日から、何度も。ここ暫く忘れていたぶん、その言葉はより痛かった。
※
「お疲れ様です! スカイちゃん、最近いつにも増して頑張ってませんか?」
冬休みだってトレーニングはある。これも日常。理由も意味もわからなくても、なんとなくやっているもの。
「そうですかね? 私目標とかないですし、トップロードさんほど頑張ってはないですよ」
「いえいえ、私はそんなっ」
「それなら私こそそんな、ですよ」
私なんかより、他の誰かの方が素晴らしい。それが当たり前だ。たまに練習外でトップロードさんを見かけると、大体誰かに頼りにされている。人柄もあるのだろうけど、それを受け止められるのは強さだ。私にはないもの。
「今年のトレーニングも後数日! みんな、頑張るぞ!」
相変わらずのトレーナーさん。トレーナーさんはあの時以来、デビューの話をあちらから振ってくることはない。私が持ちかけたのを忘れているのか、あるいは。
(もう一度、私が話を出すのを待っている?)
ふと、その可能性に思い当たる。いやいやまさか。私が一回断られた話をもう一度持ち出すなんて、私自身だってあり得ないと思う。そもそも一回断ったのは、トレーナーさん自身じゃないか。その時とその後で何か変わるの? 変わると思ったから、あの時は断ったの? 私みたいなやつに、何か変化があるなんて、期待して──。
「……あ」
「……どうした、スカイ」
私が上げた小さな声に、トレーナーさんが反応する。まるで予感していたみたいに。最初から、期待していた、みたいに。
「トレーナーさん、お話いいですか」
「ああ」
あの時掴みきれなかった、私の気持ちの正体。ライバルに勝ちたい、その焦りだけじゃ誰にも勝てないんだ。これから先に待つ苦難を越える、努力への意志。自分の価値を、相手と対等なものとする覚悟。この男の根性論を肯定するみたいで、少し癪だけど。けれどなにより。
「私、デビューしたい」
私は、あなたの期待に応えたい。
「良く言ったな。それが聞きたかった」
「私、前と言ってること変わってませんよ?」
「俺にはわかる。俺は君のトレーナーだからな」
そのあとトレーナーさんが手早く持ち出して来たのは、なんと既に用意されていた私のデビュー戦の詳細。「後はスカイの了承を得るだけだ」って、トレーナーさんはエスパーか何かかって思ったけど。私がこのまま言わなかったらどうするつもりだったんだろう。……まあ、いいか。過ぎたことを考えるのは、私の柄じゃない。
賽は投げられた。後は、場にあるものをいかに活用するか。それが私の役割で、私の領分だ。
※
冬風が吹き抜ける中山レース場。何度もみんなのレースをここから眺めてきた、もうそれなりに馴染み深い場所だ。けど今日は一つ違う。今日ターフに立つのは、私。そこが決定的に違う。
五番人気セイウンスカイ。フルゲート十六人だての、大外枠。決して大本命ではない。ちょっと前の私なら、ここで期待されてないって嘆いてたところだけど。
「セイちゃーん、頑張ってー!」
「スカイさん、負けたらただじゃおかないわよ!」
精一杯の応援をしてくれる、スペちゃんとキング。そしてその横でじっと、私を見据えるグラスちゃんとエル。こんな私が期待されてないなんて、そんなことは言えないや。
「……あ」
そしてみんなとは少し離れたところに、トレーナーさんたちチームの皆がいた。腕組みして太い眉を微動だにさせないトレーナーさんは、本当いつも変わらないなって思う。まあ、見ててよ。
「各ウマ娘、揃ってゲートに入ります」
──あなたの期待に応えてみせるから!
「スタートしました!」
がこん! とゲートが開く。待ち侘びたように一斉に、私も周りのウマ娘も飛び出す。まずは前目につけて……。
(……わぁ)
レース中ってことを覚えてなきゃ、そこで立ち止まってしまったかも。芝の上を思いっきり駆ける感触。風を切るひんやりとした感覚。何もかもが、嬉しくて。
(私、走ってるんだ)
皆と同じように、走り出せたんだ。その実感が私に活力をくれる。これならどこまでも走れそう! 第二コーナーを回ってもうすぐ第三コーナー。うん、これなら!
「そおりゃあぁ!」
「第三コーナーで先頭に立ったのはセイウンスカイ! そのままぐんぐん差を広げていきます!」
突き放す。今までの練習も悩みも、とりあえず今日は今日のために注ぎ込もう。
「セイウンスカイ、一着でゴールイン! 五番人気セイウンスカイ、なんと二着に六バ身差をつけての勝利です!」
だって今日は、こんなにいい日なんだから!
※
観客席からは歓声が上がっていた。私はそれを文字通り浴びていて、初勝利を何度も噛み締める。なんだかみんなが私に「走っていい」って言ってくれている気がした。これから先に、期待してくれてる気がした。
「あ、トレーナーさん」
ライブを終えて控室に戻ると、トレーナーさんが待っていた。私の方から声をかけるなんて、今日の私はテンションが上がり過ぎてどうかしてしまっているのかも。
「お疲れ様、スカイ」
「うん。勝ったよ」
「そうだな。次はジュニアカップだ。これからも練習を怠るな!」
そう言って、トレーナーさんは去っていく。相変わらずだなあ、と思った。私は結構喜んじゃってるけど、トレーナーさんはそうじゃないのかな。私が強いのはわかってたから予想通り、みたいな。それは確かに信頼の形で、嬉しくはあった。でも。
「もうちょっと、褒めてくれたって」
褒められたい、なんて。子供っぽい願い。子供っぽいから、諦めた願い。かつて別れを告げた気持ちが、私の中で少し芽吹く。変化とは、何かを捨てて新しくするばかりじゃない。時には古いものを思い出させるのだと、そういうことなのかもしれない。
※
続くジュニアカップでも私は勝った。開幕から逃げを打って、そのまま全員引き離して五馬身差の圧勝。私ってやれるじゃん、そんな風に考えたって無理はないと思う。トレーナーさんは相変わらず褒めてはくれなかったけど、私はあれよあれよという間にクラシック有力候補の一角となった。それはつまり、次の弥生賞。
「グラスちゃんありがとう! 次の弥生賞、頑張ってみる!」
「私もー。よろしくね、スペちゃん」
「頑張ってくださいね、二人とも」
「ちょっとグラスさん、私も出るわよ!」
キングヘイロー、スペシャルウィークとの対決。キングはいつも通りだけど、スペちゃんは寝不足なのか目の下にクマができている。……私も他人の心配をできる状態じゃないけど。ジュニアカップの後から、膝裏の違和感が抜けない。まるで不安が形になったみたいに、響いている気がする。
「グラース! アタシたちも次のニュージーランドトロフィーで対決デス! もちろん勝つのは! そう!」
「はいはい、お手柔らかにお願いしますね〜。負けませんよ?」
「最後まで言わせてクダサーイ!」
エルもやってきて、テーブルはわちゃわちゃしてきた。でもいよいよ、私たちの直接対決が始まるんだ。少し前まで一歩引いて見ていた場所に、今は私も居る。それはとても嬉しい。緊張するし、怖いところもある。けど、嬉しい。だから。
(負けないよ、二人とも)
そう、心の中で宣言する。きっとそう思っているのはキングもスペちゃんも同じだと、そんな確信があった。
※
「今日は初めての重賞だな、セイウンスカイ」
「それ発破ですか、脅しですか?」
「無論発破だ! スカイならやれる」
「またまた、根拠のない」
弥生賞の日はあっという間にやってきて、もうすぐコースに向かわなければいけない。珍しくトレーナーさんが地下バ道にやってきたのはなんだかんだで心配なんじゃないの、なんて思う。重賞ともなれば、背負う重圧は桁違いだ。そしてそれは今日出走するウマ娘全てに言えることで、だから皆が絶対に負けられないと思っている。それでも勝負は残酷で、誰か一人しか勝つことができない。けれど。
「勝ちますよ、今日も」
「その意気だ」
たとえ何があろうと、勝利を目指さなければ勝利は得られない。負け知らずで迎えた三戦目、その点において私はキングやスペちゃんより経験が少ない未熟者。けれど未熟であることを、勝てない言い訳なんかにしたくない。だから、私はあらためて宣言する。今日も勝つ、と。
「じゃ、行ってくるよ」
「行ってこい!」
ばん! 私の背中を強く叩くトレーナーさん。押し出されるように飛び出し、運命を決めるターフへと駆けてゆく。
「期待してもらってるとこ悪いけど、私は今日もゆるっといくよー」
ゲートインすると、歓声が私を迎える。キング、スペちゃんに次ぐ三番人気。私がここまで来れるなんて。期待して、もらえるなんて。ついつい気にしないふりをしてしまうけど、応えなきゃ、って思う。
そうしていると一際大きな歓声が。スペちゃんがゲートに入ったんだ。
「お手柔らかにねー」
「は、はい!」
ありゃりゃ、ガチガチだ。でもスペちゃん、走り出すと雰囲気変わるもんね。油断はできない。そういやキングは……。
「スカイさん。一番人気は私が貰ったわ」
「そうだねー。流石キング」
「……人気で勝っても意味ないのよ」
そう言って、キングは口をつぐむ。やっぱりキングは強い。前のレースの負けを、今の糧にしている。今日は負けない、そういう執念に変換している。
「各ウマ娘、ゲートイン完了しました!」
おっと、いよいよだね。友達との、ライバルとの初めての対決。恨みっこなしとか、そんな甘っちょろいこと言ってられない。
「本日のメインレース、弥生賞! 一斉にスタートしました!」
恨まれようがなんだろうが、私が勝つ!
「セイウンスカイ、ハナを進む!」
ジュニアカップと同じく、私は逃げの一手を打つ。気ままに走って、場を支配する。私にはこれが一番合っている。キングもスペちゃんも、終盤の切れ味は私以上。ならば話は簡単。終盤に入る前に、既に勝負を決めてしまえばいい!
後ろから誰かが迫ってくる。けれど焦っちゃいけない。この少し速めのペースなら、今追いつこうとする子は無理してるだけで脅威じゃない。勝負は次、第四コーナーを越えた先。
「第四コーナーを回って坂を登る! セイウンスカイ、依然先頭です! おっとここで!」
……来た! この足音、気迫、振り返らなくたって分かる!
「スペシャルウィーク! スペシャルウィークが迫ります!」
この坂が正念場。登るだけで精一杯、でもそうなっても大丈夫なようにここまでリードしてきたんだ。負けない、負けたくない。いや、勝ちたいんだ! もう少し、坂を登りきればすぐそこに──。
だから、ギリギリだった。ギリギリ、だけど。
「スペシャルウィーク! 並んだ並んだ! そのまま差し切ってゴール! 一着はスペシャルウィークです!」
ギリギリ、負けた。私にとっては、初めての敗北だった。
割れんばかりの大歓声を浴びるスペちゃんは、眩しくすらあって。
「流石ね、スペシャルウィークさん」
「……キングもお疲れ様。いやー、今日は仕方ないね」
「スカイさん、貴女」
「キング、人のこと心配してる場合? それに、皐月賞はすぐそこだよ」
でもキングが心配したように、もしかしたら私の顔は結構みっともない表情をしてたかもしれない。初めて。初めて、悔しいって思ったから。次は負けないって、思ったから。
皐月賞。そこでもう一度、私とキングとスペちゃんで。これから何度もぶつかり合う、今日はその緒戦に過ぎない。そうだとしても、やっぱり悔しいけど。次を見据えられなければ、未来はないのだから。
※
弥生賞の次の日、私は夜まで自主練をしていた。トレーニングが休みなのにトレーニングするなんて、昔の私からは考えられない。けど私の頭の中は、「どうすれば勝てるか」でいっぱいだった。皐月賞までそれほど時間はない。私にそれなりの素質があったとしても、それだけじゃ勝てなくなる。それが昨日の結果だ。今の私が勝つために、足りないものは──。
「こんばんは、セイウンスカイ。脚は大丈夫なのかしら?」
「……はい。どちらさま、でしょうか」
不意に私に話しかけてきた、知らない声。そちらを振り向いてみると、やっぱり知らない顔。茶色の長髪を湛えた、綺麗な女の人だった。
「自己紹介がまだだったわね。私はチーム<デネブ>のトレーナーよ。弥生賞の結果を受けて、貴女に話があるの」
「話、ですか」
「単刀直入に言うわね。貴女は<アルビレオ>には向いていない。うちのチームに来れば、もっと伸びる」
「それ、引き抜きですか? 私なんかを?」
「そう受け取ってもらって構わないわよ」
いつかの私がリフレインする。このチームのトレーニングには理論がない。根性論なんて、私には似合わない。そう言っていた、昔の自分を。いつのまにか居心地の良さで、私はそれを誤魔化していた。
「<デネブ>の指導は理論と技術を重視する。座学の成績は見たわ。貴女のような頭の回る子なら、そういった方が向いていると思う。それにセイウンスカイ、これは<アルビレオ>のためでもあるの」
「チームのため、ですか」
「私もチームを率いる一人のトレーナーとして分かることがあるわ。たとえどんな形でも、チームメイトが勝利すれば嬉しいものよ」
「理論だなんだと言っといて、情に訴えかけるのは卑怯ですよ」
「……ごめんなさい」
でも、それはこの人の本心なんだと思う。心から私のことを思っての発言。それはなんとなくこの短いやり取りでもわかった。この人もまた、私に期待してくれている。
「俺は俺の目を信じている。君は『走る』と」
あの正論男と、同じように。
「本当、見違えちゃいましたね! 私も負けてられないなあ……」
ああ、トップロードさんのことも思い出しちゃった。それからチームメイトのみんなのことが、次々に思い出されて。
「セイウンスカイさんには、頑張り続けて欲しいです」
あの日チームを辞めていったあの子のことも、私の脳裏を掠める。ああ、参っちゃうな。
「急かしてしまったみたいね。すぐにとは言わないわ。けど皐月賞を見据えるなら、なるべく早く回答を頂戴。貴女のためにも、<アルビレオ>のためにも」
「……わかりました」
そうして、<デネブ>のトレーナーさんは去っていく。私のしっぽと、心がそこに残されて。孤独に揺らめいている。合わないチームから乗り換える、それが勝つために必要なこと。言い訳ならいくらでも考えられた。面倒だとか、そこまでして勝ちたくないとか。けどそれはもう、私から出てくる言葉じゃなかった。今の私から出てくる、ただ一つの否定の言葉は。
「私、<アルビレオ>にいたいよ」
そう、夜空にだけ告げて。春の大三角の先端に、スピカが煌めいていた。まるで、このままじゃまた勝てないと、私に言い聞かせるように。