この日が来るまで、どれだけの時間を重ねたのだろう。どれだけの積み重ねが、今日という日のためにあったのだろう。それは始点をどこに置くかにもよることだ。服を買ってすべての準備を終えたあの日か、それともデートの約束を取り付けたあの日か。そこから数えてさえなお長い長い時間だったと思うけれど、本当のはじまりはきっともっと昔。
それは、あの日。入学式をサボって誰もいない教室で微睡んでいた私を、トレーナーさんが面識もないくせに偉そうに叱りつけたあの日。すべてのはじまりは、私とあなたが出会ったあの日。そこから、何も途切れていない。チームに入ったあの日も、デビューを決めたあの日も、勝利を分かち合ったあの日も、敗北に打ちひしがれたあの日も、そしてそんなイベントの間にあった、全部の何気ない日常も。すべてが、繋がっているのだ。今日この日に、繋がっているのだ。
そして、もちろんこれで終わりじゃない。確かに今、私は積み重ねの先端に立っている。この先には何も道は見えなくて、これが頂だと錯覚してもおかしくない。もしかしたら少し前の私なら、ここで満足してしまうのかもしれない。だけど、今の私は違うのだ。導になるべきものが何も見えなくても、その先にまだ新しい目標があると知っている。ゴールをくぐり抜けたなら、更なる未来を見据えられるようになると知っている。
それも、あなたのおかげ。他にもたくさん、あなたから貰ったものはたくさんあるのだ。だから今日はそれを伝える日でもある。恋心という、最高にあなたを想う形で、だ。
さあ、まだ少し待ち合わせには早いけど。釣りとは下調べをした上で、現地を早めに視察するものだし。この格好を最大限印象的に見せるなら、きっと何食わぬ顔で先に到着して見つけさせた方がいいし。何よりこれだけ楽しみなのだから、じっとしてなんていられないや。
立ち上がる。談話室を抜ける。通り抜ける時に少し物珍しそうな視線を感じながら、玄関口まで辿り着いて靴を履く。耳をぴこぴこ反応させながら、髪の毛と尻尾に癖がついてないか手で触って確認する。うん、大丈夫。あなたに見せられるだけの手入れや努力は、全部完璧だ。
ぎい、と寮の扉を開いて。流石に外は肌寒くて、慣れない格好じゃすーすーするのは事実だったけど。
それでも、とっても暖かかった。そりゃもちろん不思議なことではあるけれど、理由はまったく不思議じゃない。
だって今日は、こんなにいい日なんだから!
※
というわけで、一時間前くらいに到着した。映画館のあるビルの前、まあそれなりには寒い街中の片隅に。もうそろそろ冬と言い切っていいくらいの冷たい風が少し服の合間を通るたびに、耳の先っぽまでぶるりと全身が震える。やっぱりこの服は慣れないな、とちょっと思った。
ちなみに待ち合わせの一時間前というだけで映画が始まるのはもちろんもっと後なので、かなり相当気が早い。いやー、かといってトレーナーさんが待ち合わせより早く来ても困るなあ。一応これだけ早く来ておけば、作戦を再確認する時間にはできるわけだし。その時間が多い分にはまあ困らない、はず。とはいえ早く会いたい気持ちもやっぱりあるので、乙女心というものは難儀というか。
さて、今日のプランを再確認しよう。まず、映画を観る。最近話題のアニメ映画。恋愛を扱ってるらしいのはちょっと私にとっても未知の領域だが、具体的には観たことないジャンルだが、まあそれも作戦のうち。そんなのを男女二人で観るなら、ちょっと意識の変化に繋がるかもしれない。どきどき、してくれるかもしれない。そんな気持ちも、ちょっとはあるのだ。
あとはまあ流行りの映画なら観終わった後微妙な空気にはならないだろうと、そういう割と現実的な考えもある。というわけで、映画は観るのだ。なんと、私の奢りで。
まあその分というか、そのあとのご飯はトレーナーさんのご馳走だ。そういう流れに、私がした。ここにはそれなりの思惑が二つほどあって、やっぱり私の作戦なのである。
まあまず一つ目は、奢りなら美味しいご飯を食べれるだろう。気兼ねなく、たっぷり。トレーナーさんは多分真剣に、誘ってくれたのだからとちゃんとしたお店を選んでくれる。ちゃんとしたお店で、私とあなたの二人でご飯を食べる。それはやっぱり雰囲気を作ってくれて、あなたの心を揺さぶるものになるんじゃないかなって。とりあえず、それが一つ目。
そして二つ目。これは本当に、理由としては本当にしょうもないような小さなものなんだけど。ただただ、デートっぽくしたいだけ。男の人が女の人をエスコートする、そんなありきたりのイメージを体験してみたいだけ。それだけだけど、それがとってもしたいんだ。
……で、その後。映画を観てご飯を食べて、その後。その後も、ちょっとした計画がある。ちょっとした、だけどもしかしなくても一番大事な。
あなたに想いを伝える、そのための作戦。これについては、あえて今は考えすぎないでおこう。まずはあなたをしっかり見つめる。釣りとは最初ちゃんと餌を与えて、その上で確実になったタイミングで色気を出すもの。それに準えるわけじゃないけれど、最初はただただあなたとの時間を楽しみたいのだ。
スマホを開いて時計を見る。あと四十分。どきどきは、時間の流れと共に大きくなっていく。多分待ち時間がゼロになった時、この高鳴りは最高潮を迎えるのだろう。……耐えられるかな。恋に気づいて、はじめての二人でのお出かけ。そういう気持ちでの、はじめての特別な時間。脚をぶらぶら、服をひらひら。もうちょっと落ち着かないといけないかも、私。今のままのテンションで向き合ったら、どうなるかわからない。そうだ、ちょっと深呼吸して──。
「……あれ、スカイ……?」
──振り返らないわけにはいかなかった。私の気持ちがどうなろうと、耳に触れたその声に反応しないわけにはいかなかった。耳をすっぽり覆っているはずのメンコ越しでも全身に甘い感覚をもたらしてくれるその声に、にこりと笑いかけながら向き合わないわけには。まだ四十分前なのに、なんてことは私に言う資格があるわけないし。そんなこともどうでもよくて、あなたが来たならやることは決まっている。私を見つけてくれたなら、やることは決まっている。
ふわり、スカートを翻す。全身をあなたの方へ向け、私の姿を見せつける。あなたを戸惑わせるほどのものなのはさっきの反応でわかったから、あとはそれを強烈に印象付けよう。
ねえ、私を見て。わたぐもみたいに真っ白な、装飾のほとんどないワンピース。だけど腰の部分は絞られているし、長袖もぴったり肌に沿っている。それとなく私の身体を浮立たせる、大人の女性のための衣装。それを身に纏う私。あなたのために、それを着た私。そんな私を、見て。
「どうしたんですかトレーナーさん、いつも通りのセイちゃんですよ」
「……いつも通りじゃないだろう。なんだ、その格好は」
「えー、そんな変な格好じゃないでしょう。おめかしですよ、おめかし」
やった、やった。こういう時に露骨な反応をしてくれるのは、私からすればもうどんな思考をしているのか丸わかりってものだ。あなたは間違いなく、私を意識した。こんな私がいたんだって、どきっとした。成功だ。大成功だ。きっと、あれだけ鈍感なあなたでも理解した。
今日という日のあなたとの時間のために、私はこんな服を着てきたのだと。今日は、特別なのだと。そう、どんな言葉より強く伝えられた。それを確信した。
「それにしても随分早いですね、トレーナーさん。まだ四十分前ですよ」
「それを言うなら君はどうなんだ。いつから待ってたんだ」
「大体一時間前ですかねえ、下見も兼ねて」
「……待たせないようにしようと思っていた。すまない」
「もう、そんなことで謝らないでくださいよ」
本当に、そんなことで謝ってどうなるというのだ。むしろ私がどれだけ喜んでいるというのか、わかっているのだろうか。いや、あんまりわからないほうがありがたいけど。時間より早く来るくらいに楽しみなのはお互い様だなんて、そんなの嬉しいに決まってるじゃないか。とってもとーっても、嬉しくてたまらないに決まってるじゃないか。
何はともあれ、予想より早く。予想より嬉しく、始まった。私とあなたの、はじめてのデートは。
透明な自動ドアの方に足を踏み入れ、映画館のあるビルへの道を開いてやる。これからの時間へ、手招きするのは私からだ。
「じゃ、ちょっと早いですけど、行きましょうか。外は寒いですし、映画館の中で時間を潰しましょう」
それはまあ、割と何気なく言ったつもりだった。これ以上外で、出会い頭で話すこともないよなあと思って。
だから、予想外だった。
「そうだな。……ああ、その前に一つ、その」
「……なんです? 何かありましたっけ」
あなたが、私を呼び止めたこと。そして。
「その、びっくりはしたが。その服、似合ってるぞ。うん、スカイにぴったりだと思った。本当だ」
そんなふうに、ぎこちなく。それでも、しっかり言葉にして。
私の精一杯のおしゃれを、褒めてくれたこと。あなたが、そう思ってくれたこと。それを、伝えたいと思ってくれたこと。
全部、予想外だった。全部全部、思ってもみないことだった。
そりゃもちろん、そうやって意識させようと頑張っていたはずだけど。それがうまくいったなら当然で、開幕から順調にデートが進んでるってことかもしれないけど。
それでもそんなの、実際に言われてしまうなんて。現実に、それが言葉という形になるなんて。
「……それは、ありがとうございます。……えっと、じゃあ今度こそ行きますよ」
「ああ。楽しみだな、スカイ」
「……はーい」
ああ、もう。順調すぎて作戦が狂いそうになるなんて、我が策士人生の中で初めてだ。せっかく可愛らしい反応をしてくれたのに、若干そっけない受け答えになってしまったのも許してほしい。だって、今確実に前に進んでて。だって、遠くて遠くてたまらなかった恋がこんなに近くて。だって、今までで一番幸せで。
大好き。
気を抜いたら一瞬で、指の先までその気持ちで染まってしまいそうだから。
好き、好き、好き。一歩ずつ建物の中に足を踏み入れるとともに、足音の代わりにそんな気持ちが私の足から鳴った気がした。
きっと、今日はずっとそうなのだろう。そんな気も、した。
※
「で、どんな映画だったか。その……なんとか」
「ええ、全然調べず来たんですか。せめてタイトルくらいは見といてくださいよ。『ホワイトエンディング』、ですよ」
「すまん。なんというか、できるだけ何も知らない状態で観たいと思って」
「本当ですか? 調べるの面倒くさかっただけじゃないですか?」
そう問うと、トレーナーさんは太くて真っ直ぐなその眉毛を微妙な感じに歪める。なんとも微妙な感じに。少し図星、といったところか。
ちなみにこんなふうに映画館内での会話がちゃんと映画についてのものになるまで、大体一時間ちょっとはかかった。具体的には映画が始まる十五分前になるくらいまでかかった。そこまではずっと世間話とかいつものからかい。トレーナーさんが若干目のやり場に困ってる感じを見るのはかなり楽しかったけど、いつも通りばっかりじゃムードがないというかなんというか。せめてポップコーンでも買っておけば先に映画の話に切り替えられたかもしれないのに、なんとトレーナーさんはポップコーンは苦手らしい。あれは妙にお腹に溜まるんだ、だって。ちゃんと後のご飯のことを考えてくれてるということでもあるから、そんな言葉でもにやけそうになってしまったのだが。
まあ、それはそれ。もうそろそろ劇場に入れる時間である。映画を二人で観る、その時間は近づいている。……なーんて、それまでの僅かな空白を感じる暇もなく。
「まもなくスクリーン三番で上映致します、『ホワイトエンディング』、只今よりご入場を開始いたします。チケットをお持ちの上、劇場窓口までお越しください」
「お、いよいよですよ。さあ行きましょうか、トレーナーさん」
「そうだな。……ところで、どんな映画なんだ」
「えー、事前の情報は仕入れないんじゃなかったんですか」
「直前になって気になってきた。……すまん」
「後で教えてあげますよ、とりあえず劇場に入りましょう」
そんなやり取りをしながら、二人一緒に立ち上がる。二人並んで、同じ方へ向かう。それもやっぱり幸せ。チケットを渡して、二名様ですねって二人組で扱ってもらえるのも、すごく幸せ。なんでもないことでも、あなたとなら幸せだから。
広い、広い劇場。流石に流行りの映画だけあって、それなりに大きな場所で上映するということらしい。だけど大勢の人がそれぞれの指定席に座るから、劇場というものは広くて狭い。それは少し不思議な場所かもしれない、そう思った。
「ここですよ、トレーナーさん。ここと、ここの席」
「……隣同士か」
「当たり前じゃないですか、なんで一緒に来て別々なんですか。それにそもそも、カップル割ですよ」
「それはそうだが、その」
「なんですかー?」
「こういうのは、初めてだ。だから、緊張はする」
「なんだ、そんなことですか」
周りを見ればそれなりに他にカップルらしきものは居て、それに自分達も溶け込むこと。それはやっぱり、流石のトレーナーさんでも取り繕えないほど恥ずかしいことなのかもしれない。だけど、そんなのは。
「それは、私も一緒ですよ。私だって、男の人と映画を観るなんて初めてです」
そんなのは、私も一緒。だけどあなたとなら、はじめてのことができる。あなたになら、はじめての恋を捧げられる。そういう気持ちで、今日はあなたを誘っているのだ。
「……そうか。じゃあ、座らせてもらう」
「はい。私の隣、ですよ」
そう言って、二人並んで座った。こんなに広い劇場なのに、そこには二人だけの空間があった。大きくて私より背の高い、あなたの背中が真横にあった。少し身体を傾ければ、寄りかかれてしまうような距離にあった。心臓は、また一段と高鳴る。私の世界はそうやって、今日はどんどんと色づいていくのだ。
「そういえば、どんな映画なんだ」
「あ、そうでしたね。恋愛映画、らしいですよ。夜の街で出会った少年と少女の、恋の話」
「……なんでそんなのを」
「いやまあ、評判良かったんで。なんですか、私がそんなの観ようとしたのが意外ですか」
「……それは、そうかもな」
むー、やっぱりそんなふうに思ってたんだ。私がこんなに恋してる間も、そんな可能性なんて考えてもなかったんだ。ちょっと抗議してやろうかと思ったけど、その前にトレーナーさんは言葉を続ける。
「でも、変だとは思わない。スカイがそういうところもあると知れて、嬉しい」
私が何も言えなくなるような、そんな言葉を。
「そうですか、そりゃどうも。……ほら、そろそろ静かにしましょうか」
「まだ始まらないと思うが」
「いいから」
強引に説き伏せて、会話はそれきり。隙を見せたら嬉しいことを言ってくれてしまうから、本当に困った人だ。とりあえず、映画で気分転換をしないと。もしかしたら映画の内容がもっと気持ちをかき乱してくるかもしれないけど、とりあえず。とりあえず、これも大きなイベントだ。二人で過ごす特別な時間、その一つなのだから。
上映前の予告。上映前の注意。今流れているそれは何かの感情を乗せているものじゃないし、ひょっとしたらこれから始まる映画そのものだって、ただの映像と切って捨てることはできるかもしれない。
けれど、そこには物語があるのだろう。少し前は所詮フィクションだと冷ややかに見ていたけれど、それはきっと手の届かないものへの羨望に近かった。今ならわかる。人の気持ちは、誰かのそれは必ず理解の及ぶもの。フィクションでも、現実でも。人は相手を理解して、どこまでも寄り添うことができる。かけがえのない特別にだって、なれる。
だから、楽しみだ。恋愛映画なんて縁のなかったものでも、とても楽しみ。……まあでも、一番楽しみな理由があるとしたら。
あなたの隣で、体温すら僅かに感じられること。終わった後、あなたと語り合う話題を持てること。結局、そんなことかもしれない。
どちらでもよかった。幸せだったから。今日はずっと幸せで、どんどん幸せになっていっていたから。
そうして間も無く、少しだけ残っていた灯りが消える。スクリーンが開いていく。
幕が開く。
すべての幕を、下ろすために。