ベッドから起きて寝ぼけ眼を擦る。ピントの合わない視界に、朝の日差しが突き刺さる。脳みその奥まで入ってくる光は、曖昧な私の意識を覚醒へと導く。うん、ちゃんと早起きできた。温かい寝巻きからひんやりとした制服に着替えると、気持ちも引き締まる気がした。
「お、珍しいね。あのセイウンスカイが早起きとは」
「おはようございます、ヒシアマさん。ちょっと今朝は早めの用事があって」
「おはよう、スカイ。昨日も遅かったし……あんまり無理するんじゃないよ」
「分かってますって。そもそも私は、頑張ったり無理するタイプじゃないですし」
「なら、いいんだけどね」
もっとも私がそのつもりでも、頑張ったり無理したりしちゃってるみたいだけど。「頑張ってますね」「頑張り続けてほしい」「諦めるな」……やれやれ、チームのみんなは私をなんだと思っているのやら。私にはわからない。だから確かめなきゃ、いけないよね。寮の玄関まで来ると、まだ春になりきらない空気が私の指先に触れる。この扉を開いた先にある世界は、未知のものだと告げるように。
「どうなる、かな」
そんな独り言と共に、私はゆっくりと扉を開けた。
※
何度も何度も繰り返した道。朝からあんな小さくて薄暗くて狭苦しい部屋にいるだろうあの人のところへ、私は駆けてゆく。やっぱり朝って寒いなあ。いつもなら布団でぬくぬくしてるのに、今は脚をぐるぐる回してる。熱っているのは身体だけ。手先はかじかんで、心はびくびくしている。この先のゴールが安心させてくれるかさえわからない。それでも、だ。
「おお、スカイ。朝練か? 感心だな!」
「おはようございます、トレーナーさん。私は朝練なんかしませんよ。それより大事な、お話があるんです」
舞い散る埃を朝日が光の粒子みたいに照らす、いつもの部屋。相変わらずの太い眉、白い歯、暑苦しさ。<アルビレオ>のトレーナーさん。私がどんなに揺れ動いても、この人は変わらないなら。
「なんだ。言ってみろ」
「……うん。実は──」
お願い。いつものように、私を導いて。
「──と、そういう話が持ちかけられたんだ」
話した。チーム<デネブ>からの引き抜き打診のこと。皐月賞でのライバルたちは、更に強くなるだろうこと。そして私自身がどうしたいのか、私では決められなかったこと。トレーナーさんは、黙ってそれを聞いてくれた。誰かに吐き出せただけでも、救われた気がした。
「私、勝ちたいよ。勝ちたいけど、それってどこまで手段を選べばいいのかな」
チームのみんなだって、移籍してもきっと応援してくれる。それが分かるからこそ、私は答えを出せなくて。
「みんな善意で、私に期待してるからの行動なのに。私はどれかを選んで、それ以外を裏切らなきゃいけなくて」
<デネブ>のトレーナーさんだってそうだ。私のことを想っての、私の勝利のための行動だ。私は期待されたいとばかり思っていて、期待された後の重荷のことまで考えが及んでいなかった。プレッシャー。逃げ続けてきたそれに、初めて逃げ場なく直面する。
「ねえ、トレーナーさん。私はどうすればいいのかな。……私には」
「セイウンスカイ」
わからない。そこまで言ってしまう前に、トレーナーさんが口を開いた。
「心配するな。俺を信じろ!」
それだけ、勢いよく言い切って。ぽん。私の肩に軽く手を置いて、トレーナーさんは部屋を出ていく。心配するなって、信じろって。あなたみたいにそれが苦もなくできるなら、問題なんて何もなかったけどさ。
まあ、善処するとしますか。頼ってしまったのだから、信じよう。……そのつもりだったんだけど。
※
「セイちゃん」
「うん」
「セイちゃん、聞いてる?」
「うん」
「セイちゃん! 聞こえてないでしょ! 呼ばれてるよ!」
「うわっ、なにさスペちゃん。大声出しちゃって」
いや、うん? ここは教室、今は休み時間、そして私は──。
「セイウンスカイさーん! お伝えしたいことが」
「ほらセイちゃん、たづなさんが呼んでるよ」
「あ、ほんとだね。ごめんごめん」
「……大丈夫?」
それには答えられない。大丈夫じゃない、そんなのは自分が一番よくわかっている。私は結局、他人を頼ってしまった。自分にとって重大な決断を、自分で決められなかった。けれど、それに救われた。本心をそのまま安易に言えば、私はきっと私自身を裏切る結果を齎してしまう。私はまだ子供だから。どうしようもない、くらい。
と、呼ばれた方に行かなきゃ。理事長秘書の駿川たづなさん。いつもと同じ緑色の服と帽子だけど、いつもと違う真剣な表情だった。
「セイウンスカイさん、大切なお話があります」
「は、はい」
「セイウンスカイさんには、今日からチーム<デネブ>でトレーニングを受けてもらうことになります」
「そう、ですか。ありがとうございます」
「大丈夫ですか? 急な変更ですが、各チームのトレーナーさんたちにかけ合うことも」
「いいえ、大丈夫です」
皐月賞が控えているのにそんな時間はない。私のために決まったことを、私の意志でめちゃくちゃには出来ない。それがこの場で私ができる、『大人の対応』というものだ。
一礼して去っていくたづなさんを見送りながら、私は先ほど伝えられた言葉を舌の上で転がしていた。トレーナーさんは、私の言葉を聞いて。私の意志もおそらく察して。その上で、「俺に任せろ」と言った。私はそうやって、大人に責任を押し付けた。だから、せめてその結果は呑み込まねばならない。
トレーナーさん、あの後すぐ<デネブ>にお願いしに行ったんだな。どんなことを言ってくれたんだろう。「ウチのスカイをよろしく頼む」とか。「期待の新人なんだ」とか言ってくれたりして。頭なんか、珍しく下げてたのかな。……ああ、でも。もうそんな言葉も、聞く機会もないんだな。結局、褒めてもらえなかったな。お別れだって、言ってないな。
ぷい。誤魔化すように、滲んだ視界を窓の外に向ける。青空だけが、私の顔を見ていた。
※
運命の時というと大袈裟だけど、それくらいの気持ちでその日の放課後を迎えた。今日の私が向かうのは慣れ親しんだ道じゃなく、初めて向かうチーム<デネブ>の部屋。そしてあっという間に、それが新しい日常になる。それも変化。今まで何度も受け入れたもの。だから拒んでも仕方ない。拒むべきものじゃない。それを再認識して、一歩。また、一歩。新たなる道を、私は進む。
「ここ、かな」
<デネブ>の部屋の前に来ると、扉の外から話し声が聞こえる。片方は聞いたことある、<デネブ>のトレーナーさんの声だ。もう片方は誰だろう? トレーナーさんと一対一で話すなら、トップロードさんみたいなチームのリーダーかな? そんなことを考えていると、あちら側からノックののち扉が開けられる。声の通り、<デネブ>のトレーナーさんだった。
「こんにちは、セイウンスカイ。今日からよろしくお願いするわね」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「ちょうどよかった。うちのチームのリーダーを紹介するわ。入って」
促され、部屋の中へ。清潔で整然、一目でわかる<アルビレオ>との違い。ちゃんと椅子もテーブルも綺麗に置かれているし。と、そこで目に入ってくる、一人のウマ娘。
「あ、あのっ! セイウンスカイさん、よろしくお願いします!」
私より、いや今までここで見た誰より歳下っぽい。一生懸命な感じが可愛らしいと思ったけど、会話の流れから察するに、この子が。
「彼女はニシノフラワー。チーム<デネブ>のリーダーよ」
やっぱり。人は見かけによらないなんて言うけど、この子もそういう類だな。
「こちらこそよろしくね、フラワー。スカイ、でいいよ」
「は、はい! えっと、スカイさん! 私、スカイさんを精一杯サポートしますからっ」
「この子、貴女が来るって決まってから今までずっと、貴女のためのトレーニングを考えようって頑張ってたのよ」
「あわわっ、それは」
私のためのトレーニング。その言葉でより、私がこのチームに歓迎されていることを再確認する。トレーナーさんもフラワーも、私を知らないなりに知ろうとしてくれている。ならば、私はそれに応えるべきで。いや、応えたくて。期待されているのだから。
「そろそろ時間ね。トレーニングに行くわよ、ニシノフラワー、セイウンスカイ」
「はい!」
「はい。頑張ります」
頑張れって、言われたから。このチームで私がやることは、頑張ること、それだけだ。
※
「そこまで! セイウンスカイ、貴女は膝裏を痛めないよう、暫くは他の子より多めに休憩を取りなさい。ニシノフラワー、セイウンスカイの脚の状態をチェックしてあげて」
「はい!」
「はーい」
なるほど確かに、<デネブ>のトレーニングは理論や技術を重視している。今までなんとなくで走ってたやり方にたくさん名前がついていてびっくりした。こうやって二人チームを組ませて小さなチームごとにトレーニングメニューが分かれているのも特徴的かも。私の相手がフラワーなのにも多分理由がある。少しでも会話した経験がある子をあてがって、私がチームに早く慣れられるようにしているんだと思う。
「スカイさん、大丈夫ですか? 疲れたら無理しないでくださいね」
「ううん、ありがとフラワー。前のチームに比べたら楽勝だよ」
「前のチームはそんなに厳しかったんですか……?」
「何も考えてないだけだよー」
根性論のトレーニングより、こっちの方がよっぽど性に合っている。<アルビレオ>やそのトレーナーさんへの不満なんて、今ならいくらでも言えそうだ。
「スカイさん、本当に大丈夫ですか? 不安なことがあったら、いつでも言ってください」
「不安そうに見えたかな」
「あの、そうじゃなかったらすみません」
「いいよ。多分当たってるから。……そろそろ休憩終わりだね」
「あ、はい! 行きましょうか」
立ち上がってトレーニングに戻っていくフラワー。私は遅れて立ち上がる。ああ、ダメだなあ。私以外のみんなは、私のために一生懸命なのに。私だけは、私に本気になれない。一番私に期待していないのは、私だ。
ねえ、トレーナーさん。あなたはこれも分かってて、私を移籍させたのかな。それとも私に期待しすぎて、私のちっぽけさは見抜けなかったかな。
その日からのトレーニングは、確かに効果的で効率的で、私の身体を仕上げていった。膝裏の違和感も取れて、何もかもが順調だった。正反対に沈んでいくのは、私の心だけ。
けど、そんなある日のことだった。私の心は、予想外の方向から揺らされることになる。
※
「グラスさん、大丈夫なの?」
「心配してくださってありがとうございます、キングちゃん。大丈夫……と言いたいところですが。大事には至りませんが、しばらくは走れませんね」
「グラス……アタシ、アタシ……」
「やっと対決、というところでしたのに、エルには申し訳ないことをしましたね。でもいつかまた、一緒に走りましょう」
グラスちゃんが怪我をした。その話はすぐに教室中に広がった。練習中に違和感があったので検査したら、骨が折れていたらしい。早めの検査のおかげで大事にはならなかったけど、いくつかの大事なレースを諦めなくちゃならない。そういうふうに、いろんなところから聞こえる。直接は聞けない。私の、友達なのに。どうにもならないくらい、私は自分のことでいっぱいいっぱいだった。
「グラスちゃん、私たちにできることがあったら、なんでも言ってね!」
「ありがとうございます、スペちゃん」
スペちゃんもキングも、皐月賞を控えているのは同じ。私だけが追い詰められている言い訳になんかならない。しちゃいけない。何か言わなきゃ。そう思って、振り絞る。
「グラスちゃん、その」
グラスちゃんの目を見る。恐る恐る。そこにはまだ闘志が燃えていた。諦めないって意志を感じた。やっぱり、強いなあ。
「その。頑張ろう」
そう言って、私はグラスちゃんに手を伸ばす。グラスちゃんはそれを握り返す。微かに汗が滲んでいて、そこで初めてわかる。グラスちゃんも、平気なわけがない。
「はい。頑張りましょう、セイちゃん」
みんな、強いだけじゃない。辛くて、苦しい時もあって。グラスちゃんも、怪我は悔しい。涙さえ流したかもしれない。運命を呪いさえしたかもしれない。それでも前へ進もうとしたから、今ここにグラスちゃんはグラスちゃんのままでいる。なら、私も。
私も、そうありたいって思う。期待されているセイウンスカイというウマ娘がいて、私はその期待に応えられるセイウンスカイでありたい。
努力は裏切らない、だっけ。なら私を押しつぶしそうなこの重圧も、努力で跳ね除けてみせよう。いつのまにか染み付かされた根性論を、私自身で実証してやろう。そうすれば。
それは何よりも強く、勝利への助けとなる。そう、祈りにも似た決意を秘めた。