その日の青空はキレイだった。視界に収まりきらないほどの絶景と、絶え間なく形を変えるわたぐも。いつ見ても、今見ても飽き飽きしない。足元に広がる緑もきっとキレイだけど、今は下を見たくない。それは蹄鉄で踏み締めるだけでいい。ここからゴールまで、ずっと。
「本日のメインレース、皐月賞。まもなく開幕です!」
ずっと、前だけを見ていよう。
※
「スカイさん、またタイム更新です! これなら皐月賞もきっと」
「ありがとうフラワー。でも油断はできないよ……なんて、せっかく応援してくれたのに水差すのもよくないか」
「いえ、流石ですね。それに、スカイさんなら勝てると思ってるのは、本当ですから」
ついに今週末に皐月賞を控えて、私は最後の仕上げに入っていた。身体は万全だし、迷いは決意に変えた。フラワーのおかげで、<デネブ>にもすっかり慣れた。そして私は、その変化を受け入れられた。
「ありがとう、フラワー。今度何かお礼をしなくちゃね、色々付き合ってくれたお礼」
「いえ、そんな。私はただ、チームのリーダーとしてやるべきことをやってるだけですし」
「えー、それならこれまでの関係は全部ビジネスだったんだあ」
「えっ!? そ、そんなことはないですよ! あのあの、個人的にも」
「冗談だよ。フラワーは純真だねえ」
フラワーはしっかりしているけど、年相応なところもある。大人ぶってる子供の私とはまた別で、しっかりした意味で大人びた子供なのだろう。ついついからかってしまうけど、私じゃ敵わないな、という時もある。これも最近の変化でできた縁。得難いものの一つ。
「みんな、今日のトレーニングはここまでにしましょう」
そうして今日もまた、トレーナーさんがそう告げた。刻一刻と、皐月賞は迫っている。理由は色々あるけれど、今の目標はただ一つ。皐月賞で勝つことだ。もう迷わない。今日もそれを再確認する。……と、そこでトレーナーさんがこちらを向いた。
「セイウンスカイ。後で渡すものがあるから、チームの部屋まで来てくれるかしら」
なんだろう? わからないけどはいと答える。<デネブ>のトレーナーさんのことも、もうそれなりに信頼しているから。
そうして解散した後トレーナーさんと部屋に向かうと、彼女は自分の机の引き出しから丁寧に何かを取り出す。そして、丁重な手つきでそれを持ってくる。これは……。
「今日届いたの。セイウンスカイ、貴女の勝負服よ」
「勝負、ふく」
そうか。皐月賞はGⅠレースだから、勝負服を着て走るんだ。改めて、丁寧に畳まれたそれを見る。薄い色合いが私の毛色に似ている。雲みたいな色合いだな、なんて思ったりして。
「正真正銘、貴女だけのための勝負服よ。受け取って」
「そう言われると、逆に受け取りづらいですね」
私がここまで走ってきて、GⅠの大舞台にまでやってきた証。私に唯一無二のものがあって、期待されていることの結晶。たらり、とあぶら汗が流れて、カーペットに落ちた。
「そう言われても、私も渡さないわけにはいかないの。……あれだけ必死に頼まれた手前、ね」
「へ?」
つい素っ頓狂な声が出てしまう。頼まれたって。
「ああ、言い忘れてたわね。この勝負服、頼んだのは私じゃなくて──」
その続き。多分聞いてから思わずの行動だったんだけど、半ばひったくるみたいに勝負服をトレーナーさんの手から取っていったのは、かなり申し訳ないな、と後で思った。
※
ワアァァァァ────。
……と、そこまで思い返していたけれど、大歓声が私を現実に引き戻す。戻ってきた瞬間焦点が合ったのは、やっぱりキレイな青空だった。新品の勝負服に身を包んで、この中山レース場に今、私はいる。その現実は、先ほどよりも鮮明に、痛烈に。
少しだけ視線を落としてみると、色とりどりの勝負服を着たウマ娘たちがレースに向けて息を整えていた。その中にある二つの見知った顔。スペシャルウィークとキングヘイロー。彼女達の勝負服姿もまた初めてだな、と思った。……そのうちの一つが近づいてくる。
「スカイさん、ごきげんよう。今日は勝たせてもらうわよ」
「わざわざお嬢様直々にご挨拶とは、光栄なことで。ところでキング、その服似合ってるね」
「へっ!? ほ、褒めても手加減なんかしないわよ!」
「知ってるよ、だから純粋に褒めただけ」
「……もう! 貴女は本当、マイペースなんだから!」
こちらとしては、こんなに緊張する場で話しかけてきたキングの方がよっぽどマイペースであると異議を申し立てたい。そんな余裕があるくらい、今日の彼女は調子がいいってことなんだろうか。でも私だって負けない。自分でもわかるほど、コンディションはいい。万全の準備。完璧な仕上がり。気分だって悪くない。はず、なのに。
「スカイさん、大丈夫?」
「……なにが?」
「脚、震えてるわよ。それにそろそろゲートに入らないと」
なんで、こんなにも。なにもかもが、こわいんだろう。
「武者震いじゃない? 先行っててよ」
「……待ってる、わよ」
キングを見送り、そのままゲートを見る。目を逸らしたくなる。逸らせない代わりに、視界は思考で濁っていく。
スタンドから向けられる期待がある。けどそれはコインの裏表のように、簡単に反転しうる。否。コインに準えるなら、それはそもそも同質のものなのだ。かつての私、幼い私の受けた賞賛が、私への心配と同質であったように。
だから私がここで証明できるもの、してしまうものも、正反対に見える二つが一つになっている。確かに万全だ、確かに完璧だ、確かに何もかもが順調だ。なら、それなら? その状態でもし負けてしまうなら、私の限界はそこだということになってしまう。上には上がいて、私自体は平々凡々。そんな、私という器にはぴったりの結論がそこで口を開けている。ゲートという形で。
「セイウンスカイ、早くゲートに入りなさい」
係員さんが私にそう言っている。嫌だ、そう叫びそうになる。必死に堪えて、でも前には進めなくて。結果が出てしまうのが、ピリオドが打たれてしまうのが。前を向いているはずなのに、前が見えないほどに。
──イ!
戦略、作戦、それらを積み重ねても確実な結果は得られない。ならば最後は自分を信じるしかなくて、そこで自分を信じられないとしたら。やっぱり私に走りの才能はないのかもしれない。そうだ、そうなんだろう。
──スカイ!
今までがうまくいきすぎただけ。運には揺り戻しがあるんだから。これからは良くてそこそこの順位を繰り返して、ほどほどに練習する。余った時間は釣りにでも当ててしまおう。よく思い出してみれば私はそういうキャラじゃないか。そう、そういうことにしよう。
そうやって諦めなきゃ、前には進めない。それが私だった、はず──。
「セイウンスカイ!!」
今日初めて私を振り返らせたのは、懐かしい人の声だった。
「セイウンスカイ!!」
あははっ、ひっどいなあ。久しぶりに顔を見たと思ったら、随分人相が変わっちゃってるじゃん。その眉毛、人生で一度もしわくちゃにしたことなさそうだったのに。トレーナーさん、今日が初めてじゃないの? そんな顔ができるなんて、<アルビレオ>にいた時は教えてもらえなかったなあ。いつもみたいに「努力しろ」とか「頑張れ」とか「諦めるな」とか、元気付けるのがあなたの役目だったのに。
「セイウンスカイ!!」
さっきから震えた声で、何度も何度も私の名前だけ。それじゃ応援じゃなくて、神頼みみたいじゃないですか? せっかくレースを見に来てくれたんだから、しっかり応援してくださいよ。
ほら、そんな不安そうに眉を顰めて。ちゃんと見えてます? 私の勝負服。<デネブ>のトレーナーさんから聞いた時はびっくりしましたよ、あなたがデザインを頼んだって話。私に向けて、あなたが込めた願いの結実。このひらひらも雲みたいな素敵な色合いも、あなたが考えたとするとくすぐったいけど。しっかり見えてる? あなたの願った勝負服と、あなたが信じたウマ娘がそれを着ている姿。……ああ。久しぶりすぎて、聞きたいことがいっぱい思い浮かんじゃった。何か大事なことを考えてた気がするのに、ね。
芝の上を一歩ずつ、前へと進む。足から伝わる感覚も、もう怖くない。今日は今日だ。それで全てが決まるわけじゃない。私は私らしく、気ままに向かえばいい。なんてったって、それが最高の私だから!
「ゲートイン完了。各ウマ娘一斉に」
だから。
「スタートしました!」
しっかり見ててよ、トレーナーさん。
「セイウンスカイ、今日は二番手につけています」
まずは作戦通り。今日はハナを譲って、後方のスペちゃんのマークを切る。すぐ後ろのキングにもプレッシャーをかけなきゃいけないからペースは落とせないけど、脚を使い切ったらスパートで追いつかれちゃう。他の子だって油断できない。一筋縄でいく相手なんていない。けど。
だん、だだん。蹄鉄が芝を踏み抜く音が、何重にも重なって。それを聞いて私は、楽しいって思えていて。走ってよかったなって、当たり前のことを考えて。負けたくないって、期待に応えたいって。それも確かにあって。
第四コーナー手前、後ろからスペちゃんの気配がする。仕掛けてくるつもりなんでしょ? でも、それは!
「大外からスペシャルウィークが猛追! しかしここでセイウンスカイ、一気に外に出る!」
読み通り、だよ! 外を使って一気に前へ! スペちゃんの前に躍り出て蓋をしながら、キングもかわしてハナへ。ここからが最後の勝負どころ! 中山レース場の心臓破りの坂は、スペちゃんの苦手とするところ。ばっちり研究してきたんだから。そしてそれは、ここで勝負を仕掛ければ私にも優位が残っているということ。あの末脚を有効には使わせない!
「セイウンスカイ、二バ身のリードをキープ! 懸命にキングヘイローが追っている! スペシャルウィークももう三番手まで上がってきている!」
作戦はここまで。あとは抜かせない、その気持ちだけ。キングもスペちゃんも、追いつくのは時間の問題だけど。その時間が来るまでに、ゴールまでに私が耐えればいい。つまり、最後は!
「セイウンスカイ、粘って粘って……」
根、性、だぁぁ───!!!
「ゴールイン!」
駆け抜けた瞬間、目に入ったのはキレイな青空だった。
「セイウンスカイ、おめでとーっ!」
呼吸は荒れ放題。青空以外は霞んで見える。それでも確かに、私の名前を呼ぶ声がたくさん聞こえる。たくさんのお客さんが、私の走りに何かを見てくれた。その紛れもない証明。私、勝ったんだ。私が、一番だったんだ。
「ありがとーっ!!」
気づけば大きく手を振りながら、観客席に向かって叫んでいた。あの正論男みたいに、うるさい大声で。
※
「セイウンスカイ、おめでとう!」
「スカイさん、本当にすごかったです!」
地下バ道に向かうと、<デネブ>のトレーナーさんとフラワーが出迎えてくれた。この二人も自分のことみたいに喜んでくれて、なんだか気恥ずかしい。まあこれからもよろしくやっていきたいな、なんて──。
「本音を言えば<デネブ>に残ってほしいところだけど、そうもいかないのよね」
──トレーナーさんは今なんと? フリーズした私を見ながら、彼女はまた一言。
「皐月賞までの集中トレーニングのため、<デネブ>と<アルビレオ>の提携の予行演習のため、一時的にではあっても貴女のトレーナーが出来て嬉しかったわ……って、セイウンスカイ、どうしたのその顔」
「なんですか、その話」
「あれ、もしかして聞いてない?」
<デネブ>のトレーナーさんが目を丸くする。まさか、まさか。
「……それ、誰が私に聞かせる予定の話でしたか?」
「<アルビレオ>から持ちかけてきて、セイウンスカイには伝えておく、と彼が言っていたけれど……まさか」
「まさか、ですね」
二人で思いっきりため息をつく。なんだか今までで一番息があった気がする。息を合わせられた原因には、全く感謝する気が湧かないけど。
「それでフラワーもついてきたのよ。貴女と仲良くしてたんだから、やっぱり寂しかったんじゃない」
「ちょ、ちょっとトレーナーさん!」
「あらあら、ごめんなさい」
この二人もいい関係だな、と思う。確かにこれでお別れはちょっと寂しい。
「ありがとね、フラワー。でも大丈夫、提携するって話なら、合同トレーニングなんかもありますよね?」
「ええ、その予定よ。というより、やっぱり<アルビレオ>のトレーニングをそのまま貴女に受けさせるなんて腑に落ちないもの。積極的に介入させていただくわ」
それは結構ありがたいかも。それになにより、縁が消えない。
「だってさ、フラワー。嬉しい?」
「う、嬉しい、です……」
「私も嬉しい。これからもよろしくね」
そう言って、小さな少女に手を伸ばす。フラワーの両の掌が、花弁みたいに私の手を包んだ。この縁も、これからも続く。
「……じゃ、私は行くとこが出来たので」
「まだ帰ってないはずよ。今後のチームの連携について、打ち合わせをする予定だったから」
「ありがとうございます」
そうして、私は駆け出す。まず思いっきり文句を言ってやるつもりだったから、個人的には怒りの表情を浮かべていたと記憶しているんだけど。
後で<デネブ>のトレーナーさんが言うには、さっきゴールした時と同じくらい、青空みたいに晴れやかな笑顔だったんだって。
※
「おお、スカイ! 頑張ったな」
「あの、トレーナーさん。私がまず聞きたい、問い詰めたいのはですね」
「よくやった。ありがとう、スカイ」
「……ばか」
「それでなんだ! 聞きたいことがあるなら聞こう!」
「……はぁ。じゃあまずは、勝負服のことから──」