私が頑張っている理由があるとしたら、それは早く大人になりたいからでした。なんでも知ってる大人。誰かに頼られるような大人。実力さえあれば飛び級だってできるトレセン学園は、そんな私の夢を応援してくれている気がして。でも実際に入ってみてわかったのは、私はいくら頑張っても、子供だということ。最初からわかっていたはずの結果さえまだ受け止めきれない、自分。きっと待っていてくれているのに勇気を出せない、自分。
スカイさんが元のチームに戻ってからの私はそうやって、ずっとずっと悩んでいました。大人な他の人たちはみんなとっくに解決した、取るに足らないはずの悩みでした。
(ねえ、スカイさん。私、どうしちゃったんでしょうか)
子供の私だけが、悩み続けていました。
※
「お疲れ様です、トレーナーさん」
「お疲れ様、ニシノフラワー」
ぽかぽかとした春の陽気がふきだまりを作っている放課後、私はいつもチーム<デネブ>の部屋にいます。今日もトレーナーさんと練習メニューの確認です。トレーナーさんが私のことを頼ってくれるのは嬉しいけれど、たまに私でいいのかな、そう思う時もあります。力不足じゃないか、気を遣わせていないか。他にもいろんなことを心配してしまいます。きっとその何倍も、トレーナーさんは私を心配してくれているのでしょうけど。
「はぁ……。フラワー、貴女やっぱり」
いつも通りに二人で確認を進めていると、トレーナーさんがため息を一つ。やっぱりって、なんでしょうか。私、何か間違えてしまったでしょうか……。そんな私の考えを見透かすかのように、トレーナーさんは違うの、と話を切り出します。
「ああいや、一つ頼まれてくれないかしら、と思ってね。フラワーにしかできない仕事よ」
「なんでしょうか? 私でよければ」
謙遜のしすぎは良くない。それは知っていても。私にしか、と言われるとつい、私でよければ、と返してしまって。なんだか最近こんなふうに、自分の嫌なところばかり見えてしまう。そう思うことすら、きっと良くないはずなのに。
「ありがとう。それじゃ、お願いしたいのは──」
後から思い返せば、きっとその提案は私のことを考えてくれたからこその頼みごと。人に言い出せない、それどころか自覚してすらいなかった悩みの種。それに自分で気づけるよう、トレーナーさんは道を示してくれた。それに気付くのはもう少し後。私が成長した後、だけれど。
※
「えーと、このあたりでしょうか」
トレーナーさんから渡された地図を片手に、学園のはずれをうろうろ。私が任された仕事というのは、この先の連携に向けて<デネブ>を代表して挨拶をしに行くことです。つまり、チーム<アルビレオ>。スカイさんのチームへ、一人で出向くことなんですけど……。
たどり着いた目的地らしき場所は、小さな小屋でした。看板にはアルビレオの文字。うん、間違い無いですね。明かりがついているし、誰かが中にいるみたい。スカイさんだったら、どうしよう。
どくり。少しだけ湧いた考えが、私の中でどんどん膨らんで。手をかければすぐ開くはずのドアノブが、とても遠い。怖がる理由なんて何も無いはずなのに、立ち尽くしてしまいます。すると私の代わりに、向こう側からドアが開かれました。出てきたのは、知らない栗毛の人でした。すこし、ほっとしてしまいます。
「えっと……どちら様、でしょうか……?」
「あっ、すみません! 私はニシノフラワーといいます! えっと、チーム<デネブ>から、今後のことをお伝えに、あと挨拶に」
そんなふうにぼうっとしてしまって。名乗ることさえ忘れてしまっていました。なんとか口から出てきた言葉もぐちゃぐちゃで、焦っているのが丸わかりです。
「なるほど、そういうことなら歓迎します、フラワーちゃん! あっ、私の名前はナリタトップロードです!」
けどそんなことは気にせず、にこやかにこちらに手を差し伸べるトップロードさん。優しい人だな、と思いました。大人ってこういうのかなあって、少し眩しく見えました。
それから部屋の中に案内されて、とりあえずトップロードさんから<アルビレオ>の説明を受けて。お返しに<デネブ>のこともお喋りしました。双方のチームの良し悪しとか、それを踏まえてこれからどう協力すべきかとか。チームのリーダー同士実のある会話ができて、トレーニングが始まる頃にはすっかり打ち解けていました。
「あ、ごめんなさいフラワーちゃん。もうトレーニングの時間ですね」
「いえ、気にしないでください。色々参考になりました」
「それにしても本当、しっかりしてますね! スカイちゃんから名前と話は聞いてたんですけど、噂に違わぬというか」
え。スカイさんが、私の話を? それを聞いてまた心の中に、何かが膨らんでいくような感覚。やっぱり答えは出せなくて、言葉にならなくて。そんな私にトップロードさんが助け舟を出します。
「あ、せっかく来てもらったんですし、トレーニング見ていきませんか?」
「えっと、その。そんな、いいんでしょうか」
「<デネブ>のトレーナーさんは、今日いっぱい時間をくれたんですよね? それならすぐに帰らなくてもいいじゃないですか!」
「そ、それはそうなんですけど」
「それに。スカイちゃんもきっと、フラワーちゃんに会いたがってると思います」
その言葉で、やっぱり揺れて。私はそのままトップロードさんに丸め込まれてしまいました。こういうのも大人だとしたら、私はまだまだ敵わないなあ……。
※
陽気はまだまだ残っているけど、少し日が落ちてきたグラウンド。そこに向かってゆく私は、もしかすると少し駆け足だったかもしれない。はあ、はあって、息の切れる音が聞こえたから。
「フラワーちゃん、速いです……」
「すみません、トップロードさん」
「褒めてるんですよ! 制服って走りにくいですけど、それでもフォームが綺麗だったので」
その言葉でやっと気づく。私、やっぱり走ってたんだ。そんなことにも気づかないなんて、どうしちゃったんだろう。そんな疑問に答えを出そうとした、瞬間のことだった。
「あ、フラワーじゃん。久しぶり」
「あ……スカイ、さん」
あっさりとした再会でした。そもそもほんの数日会ってないだけで、再会というのも正しくはないかもしれません。それでもその時、私の中で何かが変わった気がして。きっとそのことには意味があるのだと思います。
「嬉しいなあ、わざわざ会いにきてくれたんだ」
「あのすみません、そういうわけじゃなくて」
「冗談冗談。フラワーは真面目だし、そんな理由で<デネブ>のトレーニングをサボったりしないでしょ」
久しぶりに喋ってみても、スカイさんは変わらない。そんなふうに思えました。
「スカイ! まだトレーニング中だぞ!」
奥の方から大きな声。あの人が<アルビレオ>のトレーナーさんでしょうか。その声を聞いてぴくんとスカイさんの耳が動きます。
「呼ばれちゃった。後でまた話したいことあるし、良かったら待っててくれると嬉しいんだけど」
「はい、私は構いませんけど」
「ありがとフラワー。じゃ、もうちょっと頑張りますか」
そう言い残して、スカイさんはグラウンドの中心へと駆けていきます。他のチームメイトの方々に囲まれて、軽く笑みを浮かべていました。元気そうで良かった、そう思うはずなのに。なんだかそれだけでは、しっくりきませんでした。そのまま、<アルビレオ>の練習を眺めながら。私はずっと、何かを考えていました。けれど少しも、考えはまとまりませんでした。
※
夕日が落ちて、星が僅かに見える空。青空は橙に染まって、やがて黒へと変わっていきます。結局そこまで考え続けても、自分が何に悩んでいるのかすらはっきりしなくて。トレーニングを終えたスカイさんがこちらにやってくるのに気づくのも、少し遅れてしまいました。
「あっ、お疲れ様ですスカイさん」
「ありがとう。いや、本当疲れるよね。<デネブ>の効率的なトレーニングが恋しいなー、なんて」
「今トレーナーさんと一緒に、<アルビレオ>との合同トレーニングを組み立てているところです。もう少し、お待たせしてしまいますが」
「なるほど、流石だね。<デネブ>のトレーナーさん、元気してる?」
「はい。今日<アルビレオ>を見に来たのも、トレーナーさんの指示です」
「それは良かった。それじゃあ、フラワーは元気?」
その問いを聞いて、私は言葉に詰まってしまいます。今の自分はどうしているのか。悩んで、悩んでしまう。そう悩むこと自体がきっと元気とは呼べないのでしょうけど、そのことにも気づかなくて。するとスカイさんが、はっと思いついたように。
「そうだフラワー、明日暇かな? 一応学園も休みだし」
「えっ、えっと……。暇、だと思います」
「そっか、なら一緒に散歩しない? 朝からのんびり、二人でさ」
突然の提案でした。いつも暇な日は勉強していて、一人で遊んだこともありません。私にも息抜きというものが必要なのでしょうか。確かに今抱えるもやもやは、そうすれば晴れるかも。
「はい、私でよければ」
「やった。じゃあまた明日、寮の前まで迎えにいくねー」
それだけ伝えると、スカイさんはグラウンドから走り去っていきました。私はしばらく、まもなく日がすっかり落ちるまで、そこに立っていました。私の外側は動けなかったけれど、自分自身の内側の何かは、少し形を変えていました。どきどき、していました。
※
次の日の朝はすぐに来ました。よく晴れた青空が、窓の外から私を待ち構えている気がしました。制服じゃなくて、私服に袖を通して。隣のベッドで寝ているブルボンさんを起こさないように、そうっと部屋を出て。
「いってきます」
誰もいない玄関で、誰かに向けてそう言いました。そして自分自身で、その声を聞きました。やっぱり少し控えめだけど、いつもよりはっきりしているように聞こえました。
がちゃり。そうして、扉を開きます。外に向かって、踏み出します。
「おはよう、フラワー」
「おはようございます、スカイさん」
約束通り、スカイさんが外で待っていました。あくびを噛み殺して、寝ぼけ眼を擦っていました。そういえばスカイさん、朝は弱かったような……。今日は朝の待ち合わせでよかったのでしょうか。
「それじゃ、行こうか。今日目指すのはあっちの河川敷だよー」
「はい、わかりました」
そして、二人でゆっくりと歩き出します。ゆっくり、歩幅を合わせて。どこかへ向かうことより、その道のりを楽しむような。初めての経験でした。私の不安がどんどん取り払われてくような、そんな気持ちになりました。私のことを気遣って、スカイさんは散歩に誘ってくれた。そこで、そのことにようやく気づきました。スカイさんはやっぱりすごいなあって、思ってしまいました。トレーナーさんも、トップロードさんも、スカイさんも。私は誰かに心配してもらうばかりだったと、その時にわかってしまいました。だから、やっぱり。やっぱり私は、まだまだで。
河川敷までたどり着くと、スカイさんは川の方にちらりと目を向けて。私も釣られて、そちらを見ます。川は太陽の光を跳ね返して、きらきら光っていました。
「綺麗ですね。こんな綺麗なものが、こんなに身近にあったなんて。私、考えたこともありませんでした。……やっぱり、スカイさんはすごいですね。大人、ですね」
いくら勉強したって、知識ではわからない経験があって。それはどんなに頑張っても、時間でしか解決できなくて。たった一日だって長く感じてしまうことこそが、私が子供な証でした。少しの間チームにいただけのスカイさんが、私にとっては長い間に感じられていた。チームが提携を始めるまでの少しの間会えなくなっていたことが、私にとっては落ち着かなくて、焦ってしまうほど、耐えられないほどに。相手の言葉を待つこともできず、私は続けます。
「スカイさん。私、きっと寂しかったんですね。子供だから、ちょっとのお別れにも不安になってしまって。頭ではわかっているつもりなのに、気持ちが待てなかった。だから、不安だったんです。私が、まだまだだから」
目頭がじんわりと熱くなります。早く大人になりたい、そんな私の夢はきっと。子供の大それた夢で、達成なんて不可能で。それなら私は、私がやるべきは。
諦めること。それしか、ないのかな──。
「フラワー。ありがとう、教えてくれて」
──そう思った時でした。スカイさんが立ち止まって、私に向かって目を向けて。いつもより少し、真剣な表情で。私の眼を見ていました。
「すごいよフラワー。それだけ自分のことを見つめられて、嫌になっても目を逸らさなくてさ。『自分が子供だから』、なんて結論出せる子供はなかなかいないよ? 私だって出来ないよ」
「でも、それは。私はそれじゃダメなんです。頑張って勉強して、確かに頼られることもあります。けど私は、大人になりたいんです。スカイさんみたいな、本当の意味で頼れる人に」
そう言うと、スカイさんは少し考えて。ゆっくりと口を開きます。少し、声のトーンを下げて。
「私が大人、か。そうだとしたら、それは何かを捨てたから、諦めたからだよ。子供の頃から持っていたものが成長したからじゃない。本当の意味で大人になるなら、むしろ私みたいになっちゃダメだよ、フラワー」
「そ、それは……」
「……悪いね、今日はフラワーを元気付けなきゃいけなかったのに。ほらやっぱり、私はまだまだだよ」
そして。そうして、スカイさんはくるりと前を向いて歩き出します。私にはきっとわからない、スカイさんの経験の話。それに対して言うべきことは、何もない気がしました。
「スカイさん」
でも。
「スカイさんは、ダメなんかじゃないです!」
でも。私が言いたいことはありました。初めて、自分からそれを引き出せました。
「私はスカイさんのこと、尊敬してます。皐月賞、本当にすごかったです。<デネブ>のトレーニングにすぐに慣れたのも、スカイさんの力です。それに今日だって、私のために朝から散歩に連れてってくれて。私だけじゃないです。色んな人が、スカイさんのことすごいって思ってます。きっと力をもらってます。だから」
そこで気がつく。頬を一筋、滴が伝っていました。
「だから。自分を卑下しないでほしいです。それは、それは。それはきっと、スカイさんを応援してる人みんなが……がっかりしちゃうと思います」
ぽん、ぽん。いつのまにかスカイさんはまたこちらへ戻ってきていて、優しく私の頭を撫でます。こんなことで泣いてしまう私は、やっぱりまだまだ子供です。
「叱られちゃったな。うん、やっぱりフラワーはすごいや」
「そう、ですか……?」
「そうだよ。それこそ自分を卑下しないでほしいな。私、フラワーには期待してるんだから」
「私に、ですか」
「そう! 頼りにしてるよ、フラワー。もちろん私以外にも、君を頼りにしてる人はいると思うな」
頼り。それなら私、大人に近づけているのかな。今日は人を心配させたし、泣いてしまったし。ちっとも大人にはなれていない、そんな気もしてしまうけど。
スカイさんが言うなら、信じよう。そう思いました。
「今日はありがとう。……私の方が教わっちゃった」
「こちらこそ、ありがとうございました」
気がつけば太陽は真上に上り、爽やかな青空を照らしていました。すっかり話し込んでしまったようです。
スカイさんにとっての私は、頼れる人。期待している人。そのことはとっても嬉しい。スカイさんを包む大きな輪のうちに、私もしっかり入っているということだから。
けれど、今日気づいたことはそれだけではなくて。私もまた、誰かから包まれている。今までは子供だから、心配されているだけ。そんなふうにもどかしく思っていたけれど。そこにある意味合いは、ちょっと違っていました。そう、誤解を恐れず言葉にするならば。
愛。誰かの愛が集まって、他の誰かを包んでいる。そしてその愛の輪は人を守り、育て、いつか。
今はまだ、小さな蕾でも。