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「……ファイン、ちゃん?」
相変わらず、大きめのパーカーにジーンズみたいな、軽い恰好が好きみたいだった。スーツは前の職場で着飽きたから、って言ってたっけ。何度か他のトレーナーに怒られてたけど、キミは全然反省しなかったよね。
首の後ろで纏めている金髪は、ちょっとだけ伸びたのかな? 服には無頓着だけど、髪には人一倍気を遣ってたから、よくケアの仕方とか一緒にお話ししてくれたなあ。私の尻尾の手入れとか、丁寧にやってくれたこと、ちゃんと覚えてるよ。
そう考えると、二年ぶりに見るキミの姿は何一つ変わっていなかった。それが良いことなのか、悪いことなのかは私には分からないけど、でもちょっとだけ安心はできた。
でもね。
私のことを見つめる、その驚いたような瞳だけは、初めて見たかもしれない。
「トレーナー?」
胸の内で、様々な感情が暴れ始める。
私はそれを押し潰すように、静かにキミのことを呼んだ。
そうでもしないと、キミに何を言ってしまうか分からなかったから。
だって私は、キミへひどい言葉や後悔の念を押しつけにきたわけじゃ、ない。
私は、キミがあの時に忘れてしまったハンカチを、届けに来ただけなの。
……だから、このささくれたような心の痛みは、気のせいなんだ。
「なんで、ここに……」
戸惑うように呟いたキミの元へ、ゆっくりと近づいていく。
……今、少しだけ後ずさったよね?
「こんばんは」
どうして、という言葉を必死に飲み込んで、そんなつまらない挨拶を口にした。
返事はしばらく帰って来なかった。キミは何度か目を擦ると、改めて私と目を合わせてくれた。白い煙といっしょに、煤けた香りが漂ってくる。
たぶん、私の前では遠慮してくれたんだよね。
でも、私はこの香り、嫌いじゃなかったよ。
「ファインちゃん……」
じりじりと小さな音を立てるタバコが、やがて崩れた灰をコンクリートの上に落とす。
キミが震えた声で言葉を紡いだのは、それと同時だった。
「……何しにきたのさ、こんなとこまで」
来てくれて嬉しい、なんて言葉を期待したのは、ちょっとワガママだったかな。
でも、何も言葉を交わせずにどこかへ行かれるよりは、ずっとマシだった。
「返さなきゃいけないものが、あったから」
「……返すって? 何のこと?」
「これ」
ポケットに一日中入れていた取り出したハンカチは、しわくちゃになっていて。受け取ってくれたキミは、やつれたような笑みを浮かべると、持っていたタバコを口に咥えた。
揺れる白い煙が、夜空に浮かんで行って、消えていく。
「ホントに? コレを返すためだけに、ファインちゃんここまで来たの?」
「ええ」
「……俺の住所、誰にも教えてないはずなんだけど」
「シャカールがいくつか考えてくれたの。キミが行きそうなところ。ここは、その最後の候補。詳しい住所まではシャカールでも分からなかったけど……元、同僚さんが教えてくれたんだ。多分ここじゃないか、って」
「あー……クソ、あのバカが」
不機嫌そうに眉を顰めたまま、キミはタバコを深く吸った。
濁った煙が空へ昇っていく。火種の燃える音だけが、私とキミの間に響いていた。キミの隣にはいつもいたけど、こんなに心細くなるのは初めてだった。手が震えているのは、夜風のせいだけじゃない、気がした。
溜息みたいに長く息を吐いてから、またキミが問いかけてくる。
「つーかさ、こんな時間まで出歩いてていいの? 副会長サマとか、護衛の隊長さんとか、どう説得したのさ」
「みんなには内緒で来たの。ここに来るって言ったら、絶対に反対されちゃうだろうから」
「へぇ」
興味なさそうな返事をすると、キミはもう一度、タバコの煙を深く吸ってから。
……あ。
「っ、けほ……!」
煙が目に染みて、視界がじわりと潤む。
喉の奥が焼けるような、はじめての感覚に、思わず咳き込んだ。
いったい、何のつもりで……。
「……はは、マジで一人で来たんだ?」
肺を落ち着けている私を眺めていたキミは、くつくつと笑いながら呟いた。
「意外だった?」
「まあ、ね。だってさ、このあたりって悪い大人の人たちがうじゃうじゃいるんだよ? なのにファインちゃん、マジで一人で来ちゃったからさ。怖いなー、とか思わなかったわけ?」
「……怖くないわけ、ないよ。でも、キミに会うためだから、我慢したの」
私みたいな世間知らずの子供が、こんな夜道をうろつくのがどれだけ危ないことかなんて、分かってる。その理解が、私の驕りだってことも。きっと一歩道を間違えたら、私はキミと話をすることすら、できなかったんだろうね。
でも、仮にそうなったとしても、何もしない方がずっと後悔してたと思うんだ。
「悪い子になっちゃったなあ」
「誰のせいだと思う?」
「さあ?」
きょとんと首を傾げてから、キミはおかしそうに笑った。
そうしてキミは、吸い終わったタバコをコンクリートに押し付けた。私がそれをじっと見つめていると、キミはばつの悪そうにして、吸い殻をコンビニの前にある灰皿へと捨てに行った。
いつも、だったなあ。私が見つめると、ペンを噛む癖も、その場しのぎでついた適当な嘘も、やめてくれた。そういうところは何も変わっていなくて、ちょっと安心したかな。
「これから、帰るの?」
「……うん」
「気をつけてね」
短く言葉を交わす。
そうだよね。ハンカチはもう、渡したんだから。私がここにいる意味はもう、何もない。だから早く学園に帰って、私のことを心配してくれているみんなに、何があったか説明しないと。
わかってる。
キミとはもう、これでさよならなんだ。
それなのに、どうしてだろう。
私の足が、動こうとしないのは。
「ファインちゃん?」
ダメだよ。きちんと、さよならって伝えなきゃ。
それ以外の答えは絶対にしちゃいけない。そうしたらもう、私は後戻りができなくなっちゃう。だから私とキミは、これで終わるべきなの。どれだけそれが辛くても、悲しくても。
我慢しなきゃ。私のためにも、キミのためにも。
この別れは、きちんと受け止めなくちゃいけない。
だから、トレーナー。
「…………戻ってきてよ」
――あ、れ?
「キミがいないと、寂しいよ」
やめ、て。
「あれからずっと、待ってたんだよ? もしかしたら、キミがまたふらっと戻ってきてくれるかも、って。そうしてまた、前みたいに過ごしたいよ。一緒に笑って、泣いて、たくさん思い出を作りたい」
お願いだから、やめて。
私が伝えたいのは、こんなことじゃない。
そうだ。私は……私、は!
「もう一度、キミと一緒に走りたいよ……!」
……どうして、こうなっちゃったんだろう。
こんなこと、私もキミも望んでるはずないのに。
なんでこんなワガママ、言っちゃったのかな。
でも、ああ、そうなんだ。やっぱり、私は。
キミのことを、諦めきれなかったんだ――
「………………」
私を見つめるキミの顔には、どんな表情が浮かんでいるんだろう?
涙で潤んだ視界からは、何にも見えなかった。
「トレーナーぁ」
ひくついた喉から、震えた声が吐き出される。溢れてくる涙は、どれだけ抑え込もうとしても止まってくれない。そんな情けない私に、キミはハンカチを持ったままの手を差し出してくれて。
「……ホント、ファインちゃんってワガママだなあ」
頬を伝う涙を、優しく拭ってくれた。
「初めて会った時からさ、ずっとそうだったよね。お父さんに反対して、レースの世界で生きていきたいって……筋金入りのワガママだな、って思った。正直、ファインちゃんの担当になるときさ、マジかよってなっちゃったもん。こんな子に振り回されるなんて最悪じゃん、って。実際、マジでファインちゃんの担当って大変だったし」
「……ごめん、なさい」
「ホント、もっと謝ってよ。言っとくけど、他のトレーナーじゃ絶対、ファインちゃんのワガママに付き合ってらんないからね? 俺だって実は、何度かファインちゃんの担当降りようとか考えたことあったし」
「…………」
「……でも、さ。結局、辞められなかったんだよね」
「どうして?」
「そうやって自分を貫き通してるときのファインちゃんが、すっごく綺麗だったから」
いつもなら茶化すように笑うキミは、その時だけはまっすぐ、私の瞳を見つめてくれた。
それに私がじっと見つめ返しても、キミは黙ったまま何も答えなかった。そっか、嘘じゃないんだ。こんな私を、キミは綺麗って言ってくれるんだ。そう思うと、自然と口元に笑みが浮かんだ。
泣きながら笑うなんて、初めてのことだった。
きっと今の私、とても酷い顔してるよね。
でも、キミならこんな私でも許してくれるって、信じてるから。
「それなら、私のこのワガママにも付き合ってくれる?」
「……ずるいなー、そんな聞き方。誰から教わったのさ?」
諦めたように、君が笑う。
自動ドアが開いて、知らない女の人が出てきたのは、それからすぐのことだった。
「ちょっと……ハルくん? その子、だれ?」
ビニール袋を片手に吊り下げたその人は、キミのことをそう呼んだ。私の知らない呼び方だった。お友達、なのかな。でも、だとしたらキミは、そんな困ったような顔はしないもんね。
誰なんだろう。キミの居場所を教えてくれた人みたいな、元同僚さん? それとも、私といなくなってからできたお知り合いかしら? ……もしかして、今お付き合いしてる人、じゃないよね。
ちらり、とキミの横顔へ視線を向ける。
「……このコともそろそろ、潮時だったしなぁ」
キミがそう小さく呟いたのと、何かに気づいた女の人が、私に駆け寄ってきたのは同時だった。
「え、もしかしてファインモーション? ホンモノ!? うわ、どうしよ! えっと、私この前のエリザベス女王杯見てたよ! 結果はアレだったけど……でも、すごかった!」
「……ええと」
「ねえねえ、写真撮っていい? 私ね、一度でいいからウマ娘とツーショ決めたかったんだ~」
乱暴に言葉を浴びせながら、その人は勝手に携帯を取り出してきて。
呆気にとられたままフラッシュを焚かれようとした、その瞬間。
「はい、没ッ収ー」
私の背中越しに腕を伸ばして、キミが彼女から携帯をひょい、と取り上げた。
「あ、何するのハルくん!」
「許可なしにウマ娘ちゃん撮るのは流石にダメっしょ」
「えー、いいじゃん別に。てかさ、ハルくんなんも関係なくない?」
「関係あるって。だって俺、この子のトレーナーだもん」
キミが答えると、その人はすん、と急に落ち着いたような表情になってから、
「……やめたって言ったじゃん」
「あれは、まあ……あはは。ホントは俺も、そのつもりだったんだけど」
「また、私に嘘ついたの?」
「……ごめん」
笑いながら後ろ手で頭を掻くキミに、女の人が近づいていく。
知ってる。これ、修羅場って言うんだよね。マンガやドラマで見たことあるよ。現実で見るのは初めてだけど。ホントに起こるんだね、こういうことって。でも、ごめんね。キミならもしかするとあり得るかも、ってちょっと思ってた。
なんてことを呑気に考えていると、その人は右手を大きく振り上げて。
……あ。
「痛っ……」
「一緒に暮らせるって言ったじゃん! 私、ハルくんがそう言ったから住んでたマンション解約したんだよ!? なのに、今さら嘘だったって……信じられないんだけど! どうしてくれんの!?」
「……んなこと頼んだ覚えはねーよ」
「はぁ!?」
……さすがに今のは、キミが悪いと思うなあ。
持ってたビニール袋を乱暴に投げつけてから、その人はキミのお腹を蹴り飛ばした。そのまま地面に横ばいになったキミを、女の人が何度も踏みつける。地面に落ちたビニール袋から転がるホットレモンが、私のつま先に当たった。拾い上げたそれは、まだほんのりと暖かかった。
「最ッ低! もう、ハルくんなんか知らない!」
「俺も……お前みたいな暴力女とは、付き合ってられねーよ……」
「死ね!」
蹲るキミへそんな言葉を吐き捨てると、女の人が私の方へゆっくりと振り返る。
噛み締めた唇の端から、血が滲んでいるのが見えた。
「……さっきはごめんね、ファインちゃん」
「えっと……ううん、大丈夫。初めてのことじゃないから」
「写真はちゃんと消しとく。それと、応援してるのは本当。これからも頑張ってね」
「……ありがとう」
「それと、あんなことした身で頼めることじゃないんだけど、一つだけいい?」
「うん」
首を縦に振ると、彼女は横たわるキミの体へ指をさしながら、
「もう、コイツにトレーナー辞めさせないでね。でないとまた、こんな風に誰かのこと騙すから」
「大丈夫だよ。私も、そのつもりでここまで来たんだもん」
「そっか。なら、安心だ」
ビニール袋を拾い上げならが、女の人がどうしようもないように笑う。
「次の有馬には出るの?」
「うん。……次は一着になれるよう、がんばるね」
「大丈夫。ファインちゃんなら勝てるよ。私、絶対見に行くから」
そうして最後に彼女は、キミの方へ振り返ると。
「じゃーね、クソ野郎。二度とそのツラ見せんなよ」
どこか寂し気に吐き捨ててから、足早にその場を去っていった。
……すごいところ、見ちゃったなあ。
「あー……畜生。あの女、ここまでやるかよ……」
キミはまだ、お腹を押さえたまま動かない。隣にしゃがみこんで顔を覗くと、キミは目だけをこちらに向けた。目蓋の上には擦り傷ができていて、血がちょっとだけ流れてる。キミはそれをハンカチで拭うと、ゆっくりと体を起こして溜息を吐いた。
「あはは……恥ずかしいとこ、見られちゃったなあ」
「よかったの?」
「何が?」
「だって、今のひとって彼女さんでしょ? なのに、あんなひどいこと言って……」
「んなわけないでしょ。ちょっと遊んでただけだって」
「ほんとに?」
「ホントホント。普通に前の職場の知り合い。……あ、トレーナーになる前のね」
「……キミってトレーナーになる前、どんなお仕事してたの?」
「女の子と酒飲みながらお話する仕事」
立ち上がったキミは、服についた泥を手で払うと、うん、と大きく体を伸ばす。そうして乱れた前髪をかき上げると、少しだけ情けない笑みを浮かべながら、また私に声をかけた。
「……終電って、まだあったっけ?」
「ないよ。もう日も跨いじゃってるもん」
「うわ、もうそんな時間? え、じゃあファインちゃんどうやって帰んの?」
「帰れないよ。だから今日は、キミの部屋にお泊まりかな?」
「あー……マジで?」
「大丈夫。みんなには内緒にしておくから」
「問題はそこじゃないんだけどなー……」
だとしても、大丈夫だよ。それくらいの信頼はしてるから。
それを口にするのは少しだけ、恥ずかしいからやめちゃったけど。
「……とりあえず」
「うん」
「ご飯だけ、買ってこっか」
こくりと頷くと、キミはあのいつもみたいな、子供っぽい笑みを浮かべてくれた。
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