「カファルナウム? それがこのプロジェクトの正式名ですか」
「そそ、まだ最終案だけどね。イエス様が、ガリラヤの地を伝道なさって、沢山の人の病を癒やした街の名前だよ」
LCLの黄褐色の液体を満載にした試験水槽を映す遠隔映像、分析した数値をリアルタイムに表示するディスプレイ、スーパーコンピューターマギを操作する為のコンソール。その前に立って四十代の女性二人が話し合っていた。化粧をキチンとして身嗜みを整えればまだまだ女の盛りと言えそうな二人だったが、このところの深夜残業続きに、さすがに疲労の色が隠しきれない。しかし、ピンと張った背筋と、溌剌とした態度だけはキチンと維持している二人だった。
白とグレーを基調とするエプロンドレス風女性医官の制服に身を包んだのは鈴原サクラ。ネルフ医務部所属医官。階級は二佐。医官とは一般的な軍隊でいう軍医に当たる。
彼女からの確認に、真希波・マリ・イラストリアスは頷いて、そのプロジェクト名の由来を説明するのだった。白衣の下にはかつての前任者、赤木リツコ博士を彷彿とさせる青い官給の制服を着ている。階級は一佐。ネルフでは司令と副司令を除いては最上位の幹部の一人だ。しかしネルフ技術開発部部長の役職は十五年以上変わっていなかった。
「マリさんは、クリスチャンだったんですね」
「……一応はね。イギリス人だし。先祖代々の国教会」
「へぇ」
「あんまり関心無かった? 一応サクラの了解を得て、プロジェクト名を決定しようと思ったんだけど」
「なんで私の了解ですか?」
「そりゃプロジェクトのサブリーダーだし。サクラの場合、想いも格別だと思うから」
選択的LCL復元プロジェクト(仮称)。これまでそう呼び慣わして来たプロジェクトに、本試験実施を前にして名前が付くのは望ましい。仮称が長ったらしいからだ。でも正式名のカファルナウムも、何だか舌を噛みそうな名前で、どうかなぁとサクラは少し首を捻る。
「ちょっと呼びにくい気がしますけど、まぁ慣れやと思うんで、反対はしませんけど。マリさんがプロジェクトリーダーなんだから、決めてください」
「なら決まりだね!」
マリは腕を組んで頷いた。
「プロジェクトも最終盤、成功した場合は大々的に発表されるし、これからは一般市民へのPRも考えていかないといけないから」
「……うちはお兄ちゃんにようやく会える、それだけが願いの全てですから」
雑念は全て排除して、プロジェクト成功に向けて打ち込む。それがサクラの決意だ。
「サクラには長いこと待たせてしまったね……」
「碇司令の理論構築が無ければ進まない事でしたから。科学的発見には時間は付き物です」
カファルナウムプロジェクトとは、サードインパクト後、LCLに溶け込んだまま人の形に戻って来れなかった人々をもとに戻すための計画だ。その基礎理論は、ネルフの司令である碇シンジを
LCLと化した人々に元の人の形を取り戻させる。それは主イエス・キリストの起こした奇跡にも匹敵する癒やしの技だと捉えることも出来る。それが技術的に可能であるということを示せれば、長く続く対使徒との戦いに絶望しつつある人々にとって大きな光明となる。打ちひしがれる人類に対しては大いなる奇跡を示す必要があるのだ。
「しかし、『お兄ちゃん』の方が随分年下になってしまうね……」
「それはまあ、もうええんです。ただ三十五年も経ってるのに、私が独りもんやと知ったらえらい怒られそうで」
「意外だったよね。サクラはもっとぐいぐい行くと思ったのに」
「えっと……碇さんにですか? もうあんなの勝ち目はないですわ。それより私こそマリさんはもっと積極的に行動するのかと思うてました」
「あたしは、いつだってあぶれた人を拾うだけだよ、男の子でも女の子でも。……イエス様と同じ博愛主義者だからね。勿論、そういう事をしてると、時としてイエス様と同じくらい酷い目に遭う」
そう言って呵々大笑するマリの言葉に、サクラは肩を竦める。
「そない言いますけど、むしろ、あぶれたのはうちらだけですよ」
「Mの会の面々は大体あぶれたんじゃないの」
Mの会というのは、ネルフの幹部女性職員のうち、Mの字を名前のイニシャルにするメンバーを集めた親睦会の事だ。真希波・マリ・イラストリアス、霧島マナ、山岸マユミ、マリイ・ビンセンス……。なぜか、松風ネネ(名字がMだが)とサクラも名誉会員になっている。
「会員でも、ミドリさんは結婚してるやないですか」
「ああ、そうだったね。北上っちは、ずっと付き合ってた多摩クンと。彼もなかなかやるよねぇ」
「割と一途でしたね、ふらふらしてるだけの優男なのかと思うてました」
「……彼の一途さは、職業柄の反動だと思うけどね」
「え? 職業柄?」
ネルフ部内では、ハンサムだが昼行灯の駄目職員として有名な多摩ヒデキだが、それがなぜ仕事の反動で、一途になるのかサクラにはよく分からない。ビジネスでは遊んでるから、プライベートでは真面目ということやろか?
「何でもない、こっちの話」
マリが失言を隠すみたいにそっぽを向いてその話を打ち切ったから、サクラは正面モニター内のLCLを満たす容器の映像に向き直った。
「……いよいよ、明後日や。お兄ちゃん、もう少しだけ待っててな」
三十五年も待ったのだ。今更、一日や二日ぐらい、どうという事はない。本当はその筈なのに、サクラは逸る気持ちを抑えきれないでいる。
◆
規則正しくはめ込まれたパネルを下から見つめていると、世界の秩序は揺るぎないもののように思えてくる。身動きの取れない場所から、そういう風景を見ていると、世界の有り様を欺瞞されていそうな気がしてくる。本当は世界は混沌として、支離滅裂なのに、天井だけを綺麗にして、誤魔化されているような気がするのだ。
「……知らん天井や」
目を醒ましたのはつい先ほどの事だ。級友の碇シンジが、度々入院していたから、目覚めた時、知らない天井を見つめる気持ちを何度も聞いていた。エヴァ参号機搭乗の後に起こった事故で、危うく命を拾った時も、こんな風に目覚めた。
消毒液臭い真っ白な部屋。作り上げられた静寂。窓から室内を染め上げる昼の光だけが麻痺しきった時間の感覚に時を告げる。間違いなく病室の気配だ。
「……ということはワシはまた命を拾ったわけか?」
そう独り言として呟いた積もりだったから、傍らに気配があって、すぐにそれに対する返事があったことに驚いた。
「うん。君は戻ってこれた。また会えて嬉しいよ……トウジ」
寝台のそばのスツールに腰掛けた声の主は知らない男だった。年齢的には三十台後半か、いや、四十代だ。見覚えのある──確か、数回会ったきりのネルフ司令碇ゲンドウや、加持リョウジが着ていたネルフ幹部用の黒い制服──を着ている。
だが、その柔和な顔立ちには、そして、声──やや低くなっていたが、中性的で透明感のある特徴的な声だ──や語り調子には覚えがある。
「遅くなってごめん。ようやく僕は君に会えた。会わせる顔なんか少しもないけれど──それでも僕は会いたかった」
「……お前もしかして、シンジか」
男は黙って肯いた。
「しかしその姿は──」
目の前の男は自分の父親と同じ様な年代に見える。老けているとまでは言わない。元が童顔だと推測される顔立ちなので、加齢の影響をかなり免れているとさえ言えるかも知れない。それでも最早若者とは言えなかった。
「──あれから、三十五年が経ってしまった。だからあたしもシンジももう四十うん歳よ」
その、当然ながら変声期を経ていない女声には目の前の男の声よりももっとハッキリ聞き覚えがあった。トウジが声の方に顔を向けると、病室の入り口と思しきドア横の壁に背中を預けて、腕を組む女が目に入った。着ている制服は明らかに葛城ミサトのものと同じデザインだったが、流れるような長い髪は金髪で、だからトウジの記憶に残るあの女におそらく間違いがなかった。
だが、しかし三十五年だって──?
「呆けた顔をして、暢気なものね。そこのバカシンジと同じくらいの間の抜けた面だわ」
三十五年の経過。告げられた事実の真偽は分からないが、しかし手の込んだドッキリをわざわざ自分に対して仕掛ける理由もないだろう。それに女の言動は、トウジの記憶の中にある同級生の勝ち気な少女、惣流・アスカ・ラングレーといちいち一致するものだった。だから、トウジは素直に賛嘆する。その変わらない魂の在り方に。記憶と変わらないでいてくれた懐かしさに。
「美人は得やなあ。三十代でも通用するで、惣流」
「……そういう世辞は、言う相手が違うわよ、鈴原」
否定しないところを見ると、つかつかと近づいてきた女はやはり惣流・アスカ・ラングレーであるらしい。しかし彼女はトウジのベッドに歩み寄るのではなく、その奥にあったカーテンをさっと引いた。
そこにはもう一つのベッドがあり、身体を起こして横たわる入院服姿の少女の姿があった。
頬に目立つそばかすに、両肩に対して垂らしたお下げ髪。トウジはその姿を忘れた事はない。おずおずと少女は戸惑うトウジに向かって微笑みを返した。
「鈴原……おはよう」
「いいんちょ……」
トウジより少しだけ早く覚醒したヒカリは、概ねの状況の説明と見知らぬ男女からの思いがけない自己紹介を受けた後、静かにカーテンの向こうで、トウジの目覚めるのを待っていた。告げられた余りにも長い時間経過にショックがなかった筈がない。だが、トウジが隣に横たわり、もうすぐ目覚めると知らされて、その寝顔をカーテンの隙間から垣間見て、不思議と安堵できたのだ。
二人の顔合わせが済んだのを見届けるように、碇シンジを名乗る男は言いにくい事を患者に告げる調子で説明する。といっても服装から医者とは思えない。
「二人は、僕が起こしたサードインパクトの影響で、ずっとLCLに溶け込んでいた。僕のせいで帰って来れなかったんだ。三十五年経って、復元実験が成功して、君たちは今こうして戻ってきた」
「いや、しかしそれは……」
トウジはシンジが全てを自分のせいだと言い切る事をそのまま受け入れるのに躊躇いを感じながら、しかしシンジの言葉を裏付けるような感覚を持っている。単体生命と化して全人類が合一した後に、しばらくして、繋がりがほどけるような感覚と共に、大勢の人々が汐が引くように元の形に戻ろうとした日のことを思い出した。トウジも当然、元の人の形に戻ろうとして、しかし彼の帰還は何かの強い拒絶の力に阻まれたのだ。
「トウジが元の人の形に戻ろうとした時に、僕は心のどこかでトウジに合わせる顔がないと思ってしまったんだ。僕のせいで、半死半生にしてしまい、左足を切断した。そんなトウジにまた会ってしまったら、僕には何も言える言葉がない……だからトウジの帰還は拒まれた。僕にあの時、残された強い力がそれを可能にしてしまった。本当に僕は許されない──卑怯者なんだ」
トウジはそこで視線を、自分の左足に向けた。そこにあると予想していた義足ではなく、生身の足がある。おずおずと動かそうとしたら、普通に動かす事が出来る。
「足……治っとる」
トウジにとって今後の人生においてある種のコンプレックスにもなりかねない障害が思いもかけない形で解決していて、トウジは拍子抜けした。
「LCLから復元した事で、身体も再生されたみたい。シンジもそうと知っていたら、こんな事には……」
アスカが言うと、シンジが首を横に振って否定する。
「そんな事は関係ないよ……たとえ足が戻ろうが、僕がトウジの足を奪ったことに変わりはない。こうやってトウジが戻ってきても、僕がトウジを拒んだ罪は決して消えてなくならない」
シンジのその自己糾弾に、トウジは呆れた顔をして思わず声を上げた。
「なんや……いいオッサンになったかと思ったら、やっぱりお前はシンジやのう」
「……トウジ?」
「昔から変わらん。お前が本当に言いたいのは単純な事やないか」
「単純なこと?」
「せや。お前は何だかんだ言うて、大袈裟に自分を許さず罰して見せてるが、その本音は、誰かにそんな事はない、シンジは悪くない、そう言うて欲しいだけなんやないか?」
「……そ、それは」
シンジは痛いところを突かれた気がした。いつだってシンジは自分の仕出かした事への許しを求めていた。救いが欲しいと悲鳴を上げていた。それが余計に卑怯な姿勢だとは分かっていても、やめられなかった。でも、だったら、本当はどうすればいいのだろうか。
「そういう時に男が言うことは、たった一つや。すまん、悪かった、許してくれの三言や」
トウジが三つ指を立ててそう教え諭すと、アスカが突っ込みを入れた。
「……全然、たった一つじゃないじゃないの」
「うるさいわい!」
アスカの混ぜっ返しに、トウジは声を張り上げる。こいつとは昔から言い合いが絶えへんな。ずっと大人しくコレと付き合っとったシンジは大したもんや。
と、そこで当然の疑問が湧く。この二人──アスカとシンジの関係は何なのだ? 記憶の中の二人はエヴァパイロットとしての戦友かつ同僚で、葛城ミサトの家に居候という形で同居していた。しかし、もう三十五年も経つのだから、別々に生活していてもおかしくはない。
「……でも、鈴原の言うとおりだわ。あんたはちゃんと他人に謝って、それで許して貰えたら、もう後ろを振り向かない、そういう風に生きるべきなのよ」
「……うん」
でも、シンジは頷きつつもトウジに差し伸べられた救いの手をそのまま握ってしまって良いのか、躊躇いがあった。自分で見つけた訳じゃない、独りで見つけた訳でもない、そんな解決法に乗ってしまっても本当に良いのだろうか。だから言葉はそれ以上、続かない。
その時、ずっと黙って、もう一つの寝台を中心に巻き起こるやり取りを眺めていた洞木ヒカリが口を開いた。
「──私も、鈴原が人の世界に戻れなかった時、迷いがあったの。そのまま私だけが戻るのか。鈴原と一緒にいることを選ぶのか。LCLの中で意識だけの存在になりながら、そういう逡巡があったのを確かに覚えている。でも結局、私は鈴原と一緒にLCLの中に残ることを選んで、それで、ちっとも寂しくはなかった。鈴原とずっと居られたのだし、コダマお姉ちゃんやノゾミも一緒に残ってくれたから」
鈴原トウジがLCLに居残り、それに芋づる式に引かれるように洞木ヒカリ、そしてその姉妹もあちらの世界に居続けとなった。シンジは改めて自分の罪深さを思わざるを得ない。
「……洞木さん。さっきも伝えたけど、トウジとキミがLCLからの復元に成功した第一号なんだ。洞木さんのお姉さんと妹さんはなるべく早く元の世界に戻したい……僕はそのために全力を尽くす」
「全力を尽くすって、そういやシンジ、お前は今、何の仕事をしてるんや……研究者でもやっとんのか?」
そう言って、シンジの見覚えのある制服にもう一度目をやると、肩の所にある縫い取りが目に入った。かつてのネルフのシンプルなイチジクの半葉ロゴとは異なり、ひっくり返して剥き身にした林檎のような形の下にイチジクの半葉が切り抜かれている、初めて見るロゴだ。
「まあ研究もしてはいるんだけれど……」
シンジは言い淀んで、語尾を濁す。
「……シンジは今、特務機関ネルフの司令をしている。そしてあたしはその副司令」
そのアスカの説明に、シンジは僅かに身構える。トウジの反応が怖かった。かつて世界を壊し、トウジやヒカリたちの青春を断ち切った男が、どの面を下げて、ネルフの司令などを勤めているのか。そんな罵声すらも覚悟した。しかし、トウジの言葉は全く異なる方向性のものだった。
「さよか……シンジはオヤジさんから家業を継いだんやな」
それは新生ネルフを再建し、司令職を継いだシンジに対してかつて投げかけられた事のない、優しい響きの言葉だった。ゼーレに対して面従腹背のまま己の目的のためにサードインパクトを画策した父ゲンドウと、サードインパクトの依り代……トリガーとなったシンジ。父の所業に由来して、これまで息子シンジに浴びせられてきた無数の猜疑と不信の言葉、そういったものとは全く違っていて、まるで八百屋の息子が跡目を継いだ、とでも言うような、他意のない温もりのある言い方に、シンジも思わず言葉を喪った。
「トウジ……」
「ワシは難しい事はよう分からん。しかしネルフなんてけったいな組織にまだお前や惣流が囚われてるってことは、三十年以上経っても使徒はまだ居るんやな」
「うん……使徒の脅威は消え去っていない、残念ながら」
「せやかて、お前がワシらをわざわざ起こしたんなら、絶望だけが待っとるわけやないんやろ」
それに対して、アスカが割り込むように代わりに応える。
「それはそうよ。あたしとシンジはそのために戦っているんだから」
「そうやろな……なら、シンジたちは堂々、胸を張ったらええんや。土台、世界全部の命運を背負うなんて、人間一人には無理があるんや。適当に肩の力を抜いて、あんじょうやったらええ」
目覚めたばかりのトウジの、しかし真情あふれるアドバイスに、温かい空気が通い合う。
「鈴原にしては良いこと言うわね。本当にその通りだと思うわ」
アスカが感心するように頷くと、トウジにはかつてツンケンして攻撃されてばかりだった彼女に肯定される事へのむずがゆさもあって、先ほどの混ぜっ返しへの軽い反撃の気持ちが湧いてきた。
「……しかしシンジが司令で、惣流が副司令か。逆でのうて、よう惣流が納得しとるわな」
「なんですってえ!」
トウジの言葉に、アスカは眦を吊り上げ、シンジはようやく口元を緩める。
「アスカはいつも僕を助けてくれてるんだよ」
すると、珍しく眉尻を下げて、アスカは困ったような顔をした。
「……まあどれだけ勉強してみんなが舌を巻くような業績を上げたって、いつだって頼りない所あるからね、あんたは」
腰に手をやり、アスカは溜め息を付く。
その様子を見て、ヒカリがポツリと言った。
「アスカ、なんだかお母さんみたい……」
その感慨に、シンジもトウジも噴き出した。
「惣流がオカンか、似合わんのう」
「そんな事もないって、トウジ。あれでアスカも……」
アスカがシンジの所につかつかと近付いて、頭をはたく。
「余計な事を言ってるんじゃないわよッ」
実はサクラたちから医学的助言があり、あまりいっぺんにトウジとヒカリに情報を与え過ぎないようにと言われていた。時間経過により激変した世界の情報の洪水が、心理的負担になりかねないからだという。
「ご、ごめん……」
「ったく、すぐ調子に乗るんだから」
シンジがへこみ、ヒカリの所にアスカがまた取って返すと、アスカのミサト譲りの赤いジャケットの肩に、シンジ同様に縫い付けられた新生ネルフのロゴにヒカリの視線が惹き付けられる。
「その英語、昔のネルフのロゴにあったのと同じ?」
「ええ、そうね──」
奇妙に惹かれるその言葉。ヒカリが長く合一していたLCLの海の中で、誰かがこの詩を英語で口ずさんでいたのではなかったか。
God's in His heaven,
All's right with the world.
アスカはヒカリが見つめている、昔のロゴと同じように染め抜かれた英文を綺麗な発音で読み上げ、それから日本語に訳した。
「神、天にしろしめし、世はすべてこともなし」
ヒカリは陶然とした表情で、アスカの訳詩に反応した。ようやく自分の中での記憶と知識が繋がった感じがした。
「それ……赤毛のアンの詩だわ」
「そう。ブラウニングの詩ね。赤毛のアンのラストシーンでアンの言葉として引用される」
アスカがヒカリの呟きに優しく応じた。
その詩を作中のアンがささやいた時、アンの特異な個性を理解し、無私の愛情を注いでくれていた老養父マシュウは既に亡くなり、その妹でありアンの母親代わりだったマリラも目を悪くして、アンは大学への進学を断念したのだ。何事も思い通りには行かず、人生には辛いことやぶち当たる壁が沢山ある。
……しかしそれでも、アンの手元には本当に欲しかったものは残ったのだ。マリラと共に暮らすグリン・ゲイブルスでの慎ましくも喜びに満ち足りた生活。そして、アンに対してかつて過ちを犯し彼女を傷付けた、ギルバート=ブライスとの和解だった。
それは孤児だったアンがどうしても欲しいと望んできたもの、愛する家族、家族の愛だった。そして、やがて家族になる人からの愛だった。
だから神様は確かに天にいらっしゃる。本当に大事なものは必ず、手元に残してくださる。
辛いこと、哀しいことも含めて全てが神様の御計らいだとしても、最後には必ず収まるべきところに収まる。費やしてきた努力や、堪え忍んできた苦しみに相応の幸せが必ず得られるのだ。
だから──世は全て事もなし。世界の全てが正しく、うつくしい。
確かにそう言えるのだ。そう言える世界でなくてはおかしいのだ。
「ねぇ、アスカ。私は必ずあなたが私たちを迎えに来てくれると信じていた。そして、今、あなたがアンと同じ平安を得ていると確信しているの」
ヒカリはそう言って、寝台からアスカとシンジを交互に見比べた。二人の関係は何も詳らかに語られていない。でも、ヒカリには確信があった。
──揃ってヒカリ達のもとを訪れたアスカとシンジは、アンとギルバートのように和解し、ついに幸せに辿り着いたのだろうと。
「だっておかしいわよ、あんなにアスカは頑張ってきて、私の目にもアスカの欲しいものは明瞭で、苦しめられ続けてきた二人が幸せにならないなんて、そんなのはおかしい! だから、アスカは幸せになれたんだって、私、確信してる」
ヒカリの言葉に、アスカは息を止める。蒼い瞳の縁に透明な水が溢れ出そうとしている。
「ヒカリッ」
アスカはベッドの上で半身を起こしているヒカリを強く抱き締めた。
「アスカ……」
アスカの両頬を熱いものが伝う。そしてそれはヒカリも同じだった。二人の頬を、清らかな液体が流れ、それによってまるで心の澱までもが押し流されるようだった。親子のような年齢差に見える女二人だったが、この時ばかりは、二人の魂はあの頃のまま、同じ年齢の時のままだった。
ヒカリはアスカの本当の幸せが何なのか、知っている。アスカの哀しみと寂しさ、辛さと苦しさをずっと一番近くで見て来た友達だから、分かるのだ。そういう友達だからこそ、アスカが本当に幸せを手に入れたのかが一目で分かった。そして、本当の友達だからこそ、それに対して誰憚る事もなく涙を流すことが出来るのだ。
「ヒカリ。……あんたは全くあたしの腹心の友だわ!」
アスカは、ヒカリに対して、アンがその親友ダイアナに対して使ったのと同じ表現を使った。アスカの心情と幸せとを深く理解してくれているヒカリに対するアスカの最大級の讃辞だった。
そんな涙を流して心を通わせる二人を見て、シンジは自然にトウジに向かって頭を下げていた。
シンジは、いよいよ、自分が恥ずかしくなったのだ。相手のことだけを一心に考える二人の友情の様を見るにつけ、いつまでも自分のすべき事をせず、過ちを糺すのにさえ、自力でないととか他力では駄目だとか、そんな本質ではない事に拘っている自分に。
「すまなかった、僕が悪かった。僕は心の底から思う。トウジと──洞木さんに許して欲しいんだ」
許されないことをしたとか、許してもらえないと思うけどとか、そういう余計な修飾語はもう一切付けられなかった。それが只、己の罪悪と過ちを強調して、相手からの同情による許しを受け身に待つだけの卑怯な逃げだとシンジには分かっているから。それが本当に男らしくない事だと分かったから。
だから、シンジはただ、深々と頭を下げた。
それが──赤心を晒したシンジの謝罪が、二人に受け入れられない筈がない。
◆
トウジとヒカリの二人は、病室に残され、同じ天井を見つめて横たわっている。
本来は家族でもない男女だから、同室に入院はできない。だけど、二人きりで話す機会をあげたい、暫くの間ね、と残されたのだ。よくよく見れば、トウジの寝ているのは移動式の寝台で、他の病室から一時的に移動させられたのだろう。
「これからワシら、どないなるんやろな」
かつての親友たちと旧交を暖め直したが、現実の問題としては、こちらの彼らとあちらの彼らの間には年齢の大きな隔たりが出来てしまっていた。自分たちはまだまだ子供で、彼らはもうとっくに大人になっている。それはとても寂しい事で、普段は余りくよくよなどしないトウジさえも、不安にさせるのだった。まるで同窓会に出て、煌びやかに活躍する同級生や身を固めたかつての友人に置いてけぼりにされてしまったような不安感を感じる。
「……分からない。でも私は鈴原と一緒に残ったことを後悔してないの。もし私と鈴原が時の流れに引き裂かれ、別々の時間を歩むことになっていたら、辛すぎると思う。そんな運命は誰にとっても辛すぎるのよ」
「……せやな。ワシもいいんちょを引き止めて、世の中に取り残させてしまった責任はちゃんと取る。男やからな」
「うん。私たち、時の流れの中でふたりぼっちだものね」
ヒカリの父、そして、トウジの父と妹は存命だと知らされた。しかし、引き離されてしまった時間の流れは決して本当の意味で共有されることはない。だからそれが独りだけの旅路だったらヒカリは耐えられなかった事だろう。でも、ヒカリは独りではない。
「そういや、シンジのやつ、新しい学校にワシらを入れる、ちゅうてたな」
「ええ。ネルフが出資して再建した第壱中、制服も昔のと同じだって言ってたわね」
「そこで、ワシらに会わせたい相手がおる、か」
「それってもしかして……」
そこで二人は、未だに関係が審らかでないシンジとアスカについて考える。口に出してこそ説明されないが、きっと二人は辿り着くべき終着駅に辿り着いたのだろう。だから、トウジとヒカリは、きっとシンジとアスカの決定的な絆を証す存在に会えるのではないか。そんな予感がするのだ。
もしそんな存在に出会えたのなら、トウジとヒカリは何を話して聞かせるのだろう。中学生だった頃のシンジやアスカの思い出だろうか。二人が懸命に世界の為に苦しみながら、戦い抜いた事を伝えるのだろうか。アスカとシンジの二人が尊敬すべき、誇るべき存在である事を伝えるのだろうか。
「人と人の絆が形になる。未来へと紡がれていく。素敵だよね、それって」
「……すべて世は事もなし、やなぁ」
トウジの声が、涙声になっているのにヒカリは気付いた。
「鈴原……」
「なんでやろなぁ、ワシはシンジと惣流がついに、救われた、報われた気がして無性に泣けてくるんや!」
ヒカリはこんな時に涙声になれるトウジが大好きだった。お互いに、友達のために泣ける人間であり続けたいと思うのだ。
そして、その幸せの空気のただ中に、勢いよく飛び込んでくる、トウジには聞き覚えのある声がある。
──お兄ちゃん!!
いくつもの再会が生み出す幸せは、幾重にも重なり合って、決して終わらないのだ。
◆
「友達って、いいわよね……」
シンジとアスカはリノリウムの廊下を歩き始める。背中で、病室にサクラが駆け足で入り、三十五年ぶりの再会に感激の声を上げるのが漏れ聞こえた。
二人はそれを振り返らずに進む。もう、この病院で二人に出来ることはない。友との再会は果たした。これからシンジとアスカにはまた仕事が待っている。彼らにとって大切な人も、そうでない人も、丸ごとまとめて、人類全部を救うという大仕事だ。それは二人にしか出来ない仕事なのだ。
「ヒカリはやっぱりヒカリだった。あたしにはあれから二人も親友が出来たけれど、それでもヒカリとの友情は変わらない。特別なんだ」
アスカの言う新しい親友とは、真希波・マリ・イラストリアスと霧島マナの事だ。それぞれ大学時代と、ネルフの仕事の中で知り合った。二人ともアスカの事を親身になって想ってくれる友人と言ってよい。しかし、そういう存在があるとはしても、ヒカリはアスカにとっては生涯で初めて出来た友人だったのだ。
「うん。トウジもやっぱりいい奴だった。痛いところは突かれたけど、一言も僕への非難めいたことは言わなかった。かなわないぐらい、人間として大きいよ」
でも、アスカには分かる。今日もシンジはちょっとだけ前に進んだことを。それがアスカには嬉しく、誇らしい。
「ちゃんと謝って、肩の荷が少し降りた?」
「そうだね、少し楽になったかな。トウジたちに較べて、相変わらず僕は情けなくて、ダメだなと思ったけど」
シンジはそう言いながら、アスカの顔を窺う。アスカはだから、尋ね返す。
「それも……あたしからの否定待ち?」
「かも知れない。僕はつい、アスカには甘えてしまうから」
「だったら単純な否定はしてあげない。シンジは情けなくてダメだけど、それはまあ概ね事実なんだけど、だけど──」
アスカは言葉を切って、そっとシンジに柔らかな視線を投げかける。
「みんながあんたの事、好きなのよ。誰もがあんたの味方になろうと思ってくれている。それは分かるでしょ?」
「うん。ネルフの皆も、トウジや洞木さんも、そして勿論、アスカも。どうしてみんなそんなに優しいのかなと思ってた……今でも思ってる」
「理由はカンタン。それが人間の本質だから、よ。優しさが人間の本質なんだ。弱いあんたが一生懸命に足掻き、もがき、苦しんでいた事をちゃんと知っている人間にとっては、あんたがどれだけ間違えたって、決して嫌いにはなれない。だって、あんたの苦しみは人類皆の苦しみを肩代わりしてるようなものだから。あんたの立場に置かれたら、皆が同じ様に苦しみ、間違えると分かっているから。だから、あんたに優しく出来る。あんたに優しくしたいと思う──」
あの時、碇シンジは人類の代表だった。たった十四歳で世界の全てを背負い、破滅した世界の浜辺で、辛くても苦しくてもアスカに拒絶の言葉を浴びせられても、もう一度他人との触れ合い、関わり合いを望んだ。アスカと二人だけで第三者は誰もおらず、二人が新世界のアダムとエバとして否応なく結ばれる事が確定した世界をシンジは選ばなかった。二人が結ばれない可能性があるとしても第三者がいる世界を望んだ。
この世界は、だから──ある意味ではシンジが作り上げた世界なのだ。そうしてシンジが選んだ世界は、シンジにとって居心地がいいだけの世界ではなかった。むしろ様々な苦しみと悩みが入れ替わり立ち替わり襲ってくる世界だった。シンジとアスカはその後の二十年間、それを一つ一つ共に乗り越えてきたのだ。
「ありがとう。そんなみんなの中で、アスカが一番僕に優しくしてくれている」
「あたしが、あんたに優しくするのは、他の人間とは違う意味よ。流石に分かってるでしょうけど」
「それはもちろん──」
「危なっかしくて、情けなくて、ほっとけないから、あたしはシンジと一緒にいてあげるんだ。お互いの最期を見届ける時まで」
シンジは頷く。アスカの特別な気持ちをシンジはちゃんと分かっている。十五年前にそれをちゃんと受け止めて、共に歩み出してからは。
「ヒカリたちはね、あの子たちと同じクラスに編入するよう、手配したの」
「そうなんだ──仲良くなれるかな?」
「当たり前でしょ。あたしたちの大親友なのよ? 二人とも、いっぺんで好きになるわよ」
本当は、高校生以降も、ずっとトウジ、ヒカリと同じ年齢の親友でいたかった。僕らと彼らは時間に引き裂かれて、歩む道を違える他なかった。それは少しだけ切なく哀しみに彩られた運命だった。
でも、シンジとアスカは二人でいる。トウジとヒカリも二人でいる。だから、どちらも決して寂しくなんかない。
そして、あの子たちとトウジ、ヒカリが四人でいる光景を想像すると、自然に口許が緩むのだ。僕らとでは最後まで歩めなかった、運命に断ち切られてしまった友情を、あの子たちがきっと引き継いでくれる──。
アスカは手を差し出した。シンジが無言で微笑みながら、その手を取る。
まさか、病院の廊下で走るわけには行かないから、気持ちだけは駆け出していく──。
「さあ行こう、シンジ!」
「うん、行こう!」