推奨BGM: ブラームス ワルツ変イ長調作品39-15
学校の音楽室の窓から西日が入り込んで、シンジを紅く染めている。
シンジはグランドピアノに向かい、あたしの好きな曲の一つを弾いてくれている。
ブラームスのワルツ変イ長調作品39-15だ。
この曲の、どこか懐かしく、家族との団欒を思わせるような優しい調べがあたしは大好きなのだ。
シンジは、父親譲りの音楽好きで、間違いなくピアノの才能があった。中学二年生にして、すでに多くのコンクールで入賞していて、将来はそちらの道に進むのだと思う。だから、毎日のように長時間の練習を倦まず弛まず続けている。
(シンジは、やっぱり偉いよ……)
自分のしたいことなどまだ分からず、漫然と日々を過ごすあたしと違って、シンジには先が見えているみたい。
あたしはといえば、「あたしには将来なりたいものなんて何もない」「夢とか希望のことも考えたことがない」「十四歳の今までなるようになってきたし、これからもそうだろう」てなことを作文に書いたら、案の定、まじめにやれと先生に怒られたぐらいだ。
だから、あたしは進路調査面談の時にはとっくに要注意生徒として目を付けられていた。担任が先回りするみたいにこちらの希望も聞かず、「惣流は学校の成績は抜群に良いんだから、将来的には医者とか研究者とかどうだ? そのためにはまずいい高校に行かなくちゃな」と、お為ごかしに、進路希望票を無難に埋めさせる為だけに雑に提案してきたので、あたしは腹立ち紛れに言ってやった。
「──あたしは両親と同じ、軍人になります」
もちろん、本当は別に軍人になりたいわけではない。他人の血を見たりするのは苦手だ。それでも、そう言ってやると、急に先生は鼻白んだようで、あたしは少し溜飲が下がった。
「ああ、惣流はそういう家だったな──」
そういう家って、どういう家よ? と突っ込みを入れてやりたかったが、不毛なので止めた。どうせろくな家だとは思われてないんだ。あたしの家のことなんか──パパやママのことなんか、何も知らないくせに。満腔の怒りを込めてあたしが濃紺の瞳で睨み付けたら、先生は慌ててあたしの進路の第一希望に、汚い字で地元の仙石原高校の名前を勝手に書いた。「仙石原はレベル十分高いからな、軍人にだってなれるさ……」とまるで、あたしに言い訳するみたいに。
軍人という存在は、この平和国家日本においてはいつまで経っても鬼子のような存在だった。それはセカンド、サードという二つのインパクトを経ても変わらない。みんな、暴力が剥き出しになったリアルと向き合うのが怖いみたい。
でも、そんなのあたしだって怖いんだ。みんな怖いだろうけど、みんなが向き合わなくちゃいけないことだ。それなのに、そこから目を逸らして逃げてるだけじゃないか。そして、あたしたちみたいな子供が、代わりにそれに正面から向き合うことになっている。
あたしはそれでもいい。「何かの事故やなんかで死んでしまっても別にかまわない」、時々、そう思ってしまう事さえあるあたしならば。それはシンジへの想いのやり場がなかったり、あるいはもっと漠然とした将来の不安からそう思えてしまうのかも知れない。でも、あたしとは違って、音楽家としての将来がハッキリ見えていて、そのことを考えたら──絶対に怪我なんか出来ないのに──シンジは両親から頼まれた危ない仕事を引き受けてしまった。
そんな、汚れ仕事みたいなのはあたしだけに任せてくれれば良かったのに。それなのに、引き受けた時、シンジは言ったのだ。
──守りたいんだ、アス──のこと。そして、みんなを──守りたい
あたしはその言葉を思いだそうとするたびに、溢れ出しそうな感情で頭がいっぱいになってしまって、うまく記憶の中の声を再生出来ない。途切れ途切れの、掠れたような音声として再生してしまう。
シンジの曲が終わった。もう二時間以上弾いているのではないか。
「……そろそろ帰ろうか、シンジ」
ずっとシンジの曲を聞いていたい気持ちはあるのだが、根の詰めすぎは良くない。
「そうだね。遅くなると心配されるかな」
「……あの黒服の連中、また付いて来るのかしら」
「多分ね。エヴァンゲリオンのパイロットは政治的駆け引きの対象になるって聞いたでしょ。どこかの国の諜報機関に拉致されてもおかしくはないって。だから護衛は外されないよ」
「はん。こんな時まで、人間同士、国同士で争ってるって事よね……しょうもないわ」
「でもそれが人間だよ。自分や家族が一番で、次が同じ国の人。どうしたって身近な人から愛するのが、人間だもの」
なら、あたしもシンジに愛される資格は十分って事になるわよね──。
「さあ、帰ろう」
「うん」
シンジがピアノの周りを片付け、帰り支度を整えてあたしに声を掛けてくる。あたしは頷いて学生鞄を手に取った。
校庭に出ると、日はもう沈んでいて、紫色の中であたしはシンジに話しかける。
「ねぇ、シンジ」
「ん?」
「シンジは……怖くないの?」
「怖いって何が」
「あの、エヴァンゲリオンってロボットの事よ」
あんなものに乗って(厳密には昔のエヴァと違って本当に乗るわけじゃなくて、リモートエントリープラグとやらの中から遠隔操作をするんだそうだけど)、使徒とか呼ばれる巨大な化け物と戦うなんて、冷静になって考えたら信じられない話だ。何度かシミュレーションで戦っても、あたしはそれだけで卒倒しそうになった程だ。
シンジはあたしの方を振り向いて、それから頭を掻きながら言った。
「そりゃもちろん──怖いさ」
「そんな風には見えないけど……」
「だって僕は男だもの。怖くたって、ガマンしなくっちゃ」
「性別なんて関係は──」
「関係、無いわけがないよ」
シンジはそれからあたしを気遣うように後ろを気にしながらゆっくり歩き始める。だから、あたしは急いで追い付いて、シンジに手を差し出す。
「ん──」
シンジは無言で、あたしの手を取った。子供の頃から当然のように手を繋いでいたのに、つい一年ぐらい前から妙に恥ずかしがって、反抗していたのだが。しかし、今は元に戻っている。その変化はエヴァに乗ることを決めてからだった。シンジの中で何かが変わったのだろうか。
「前に父さんが言ってたんだ。母さんはずっと父さんに守って貰いたかったんだって。だけど、昔は父さんだってどうしようもなく子供で。だから母さんを守れず、それどころか手酷く傷つけた。……やっぱり男には女の子を守る義務がある。責任がある。僕はそう思うんだ」
その話はあたしも前に何度か聞いたことがある──あの二人の子供の頃の話はいつ聞いても胸を締め付けられる。未熟な子供たちが世界の命運をその小さな肩に背負わされて、その中で幼い恋も──きっとそんな環境でさえ無ければすんなり成就していたに違いない淡い恋心も──踏みにじられていた。
だけど、あの人はそれを大人たちのせいにはしない。大人たちのせいにだけは出来ない。与えられた環境や条件であっても、それにどう反応するか、どう行動するかはあくまでも自分で決める事だったのだから。だからこそ、──その未熟だった、どこまでも子供だった過去の自分の選択と行動への悔やみは尽きない。次の世代に対してはかくあれかしという想いが滲むのも仕方がない。
「だから、あたしを守ってやれって言われたの?」
シンジは無言で、首を横に振った。
「父さんが僕に何かをしろ、なんて強要する筈がないよ。そういうのを一番イヤがる人だって、知ってるでしょ?」
それは確かにそうだけど……あの人は子供に対して何かを強要する人じゃない。自分が子供の頃に父親からの強要で手酷く傷つけられてきたのだから。彼が受けてきたそれは、あえて突き放して成長を促すとか、獅子は千尋の谷に我が子を突き落とすとか、そういう厳父としての振る舞いによるものではなかった。単に、我が子をも一個の道具として、己の欲望を叶えようとしているだけだったのだ。殆ど理解しがたい親子関係だ。
今、あたしたちが課せられてる使命は、形としてはそれとよく似ている。でも、あたしたちは何かを親たちに強要されているわけではない。あたしとシンジにはリスクの説明を受けた上で、ちゃんと拒否する権利があった。全てから逃げ出して、やがて来る世界と人類の破滅までの時間を家族と平穏に過ごす選択肢もあった。だから、エヴァに乗ると決めたのはあくまであたしたちだ。その決断があたしのように半ば流されているだけ、というのはあるとしても。そして、その点でシンジはあたしとは決定的に違うのだ。
「エヴァンゲリオンには僕の意志で乗るんだ。みんなを守りたいから──」
覚悟を決めたシンジの凛々しい表情を横から眺めていると、あたしの心の中の柔らかな部分が確かに疼くのを感じた。本当はこんな感情、あたしとシンジの間柄を考えれば、持ってはいけないんだと分かっているのだけれど。
「霧島一佐がいつも言ってるじゃない? 言われた事をただするんじゃなくて、自分の頭で、好きな人たちの為に何が出来るのかを考えてね、って。だから僕は、今はエヴァで戦うよ。そして将来は、音楽で人を楽しませたい。感動させたい」
霧島一佐。ママの親友の一人でもあり、あたしたちがエヴァンゲリオンのパイロットとして仕事をする上での上司にも当たる女性だ。──ネルフ作戦部長、霧島マナ。
元々は戦略自衛隊からの出向者だったという話だけど、今はネルフがすごく気に入ってしまって、ネルフの皆が好き過ぎて、居着いている……そんな風に笑いながら話してくれた事があったっけ。
「自分の頭で考えて、か……」
「人に言われて、そのまま言いなりに動いていると、皆が不幸になる──父さんと母さんの話を聞いていると、僕はいつもそう思うんだ」
あたしは、それに対して頷く。
「……でも、理屈では分かるけど、あたしには自分が何をしたらいいのか、何をするべきなのか未だに分からない。皆に言われるままにイヤなことでも受け入れてしまったり、逆に誰かに指図されたと感じたら、反撥してとんでもないことを宣言してしまったり」
エヴァのパイロットになるという話は前者だろうし、進路相談で先生に軍人志望と口走ってしまったのは後者なのだろう。後から、自分の心理を分析してそう思う。あたしは本当に、いつだって自分の気持ちに素直になれない性格なのだ。
「今はそれでもいいんじゃないかな。そんな風に色々足掻いていたら、いつか本当に自分がやりたいことが見えてくるかも」
シンジがにっこりとあたしに向かって微笑む。あたしはこのシンジの笑顔が大好きだ。物心付いてからずっと見て来た。あたしに向けられる、あたしだけの笑顔だ。そう思えるのだ。
「でも、あたし本当は怖いんだ──」
「僕が守るよ」
その言葉にあたしの心は簡単に揺さぶられる。シンジは女の子にモテるから、そう言われて嬉しい女の子も多いはずだ。だけど、そう言われて一番喜ぶ女はあたしだと確信している。だって、あたしが一番シンジのことを近くで見て、ずっと同じ時を過ごして来たんだから。シンジの事なら、食べ物の好み、好きな音楽、寝相の悪さ、お気に入りのパジャマ、おへその下の黒子の位置まで知っている。
だからあたしは手を繋いだままに、つっと距離を詰め、シンジの顔に自分の顔を近付けて、その唇を──奪おうと──
しかし、間が悪かった。
あたしがそのある意味では「暴走」を実行に移す前に、シンジが声を上げる。
「足音が……」
カツカツカツ……と鳴る靴音が迫ってくる。いつもの黒服たちの音を立てない移動音ではない。プロではなく素人の、しかし、偶然すれ違うような足音ではなく、それは明らかに段々と近付いて来ていて──
「キャー!」
あたしが緊張に耐えられずに甲高い悲鳴を上げてシンジにしがみつくと、シンジからも震えが伝わってきて、こいつったら自分でも怖いくせに、必死になって、あたしを庇うように前に出ようとして……
数の少ない街灯の光を迫り来る眼鏡のレンズが反射する。あたしは思わず息を呑む。各国の諜報部員の話などを聞かされていたから、恐ろしい想像ばかりが頭に浮かぶ。
このまま、シンジと一緒に見知らぬ外国に拉致られて、実験材料か人質にでもされるのだろうか。いや、シンジと一緒ならばまだいい。あたしだけさらわれたりしたらどうすればいいのだろう!?
しかし、それにしても眼鏡のスパイだなんて、まるでマリおばさまみたいな──
ん? マリおばさま?
緊張に身体を竦ませるあたしたちの前に、にゅっとママたちと同じくらいの年齢の女性が現れたのだ。
ほ、本当にマリおばさまだっ。
あたしはこの知り合いの陽気なおばさまに会えて、地獄に仏とばかりに全身が安堵感で弛緩するのを感じていた。安心したのはどうやらシンジも同じだったようだ。あたしを庇うように広げていた手をあたしの身体に回し、ポンポンとあたしの背中を無意識に優しくはたいてくれている。
「やっほー! パピー君、
パピー君──すなわち子犬君というのは、「ちっこいわんこ君」っていう意味で、マリおばさまがシンジに付けた渾名だ。
「まーた、ヘンな渾名で呼んで!」
あたしは、少しだけ残っている恐怖に上擦る調子を隠し、殊更に呆れたような声を上げて、マリおばさまに抗議をした。
「ヘンかな? 明日香と飛鳥で、
「だからあたしは──あたしの名前はッ──」
しかし、あたしの言葉は唇に当てられたマリおばさまの人差し指に塞がれる。
「二人とも、まだ中学生なのに夜遊びは駄目だよ?……」
「夜遊びなんかしてないわよッ!」
本当に心外だ。学校で真面目にシンジのピアノ練習という課外活動をしていただけなのに。
「……遅くなっても、どうせネルフの保安諜報部とやらの人がガードに付いてくれているんでしょ」
「そうだよぉ。つまりは君たちが早く家に帰らないと、彼らも可哀想な事にいつまで経ってもおうちに帰れない。残業になるんだよ。諜報部員だって家族のある只の人間だ。その事を忘れたらいけないね──」
「それはまあそうだけど……」
そう言われると、確かにあまり強くは出られない。自分たちの行動で人に迷惑をかけるのはイヤだった。
「でもどうして、マリさんがここに?」
シンジが不思議そうに首を傾げると、ふふんとマリおばさまは少し胸を張った。大きい胸。シンジが恥ずかしそうに目を逸らしたのをあたしは見た。おっぱい星人のくせに、無理しちゃって。
「それは君たちの親、それぞれに頼まれたからだよ」
マリおばさまはそう言って、シンジとあたしの顔をそれぞれ覗き込む。
「それって、父さん──と」
「そう、碇司令」
マリおばさまが肯く。そして、あたしも言葉を続けた。
「ママ……も?」
「もちろん、惣流副司令も。二人の未帰宅が携帯端末で確認出来ちゃうから、とても心配していたよ。だから丁度、仕事が終わったあたしがちょっくら見てくるよー!って請け負ったんだ」
マリおばさまは確かにフットワークが軽そうだ。安請け合いをするけれど、簡単かつ確実に仕事をこなして戻って来そうなイメージがある。
「さあ、二人ともあたしの轟天号で家まで送って行くわよん♪」
「轟天号って……あのマリおばさまの派手なピンクのスポーツカーのことだっけ?」
「そそっ」
「うーん、マリさんのセンスってよく分からないなぁ」
あたしもシンジの感想に同感だ。エキセントリックで、どこか昭和の香りのするマリおばさま。お歳から言えば、ママと同じく平成生まれの筈だけど……。でも、マリおばさまが助けに来てくれるのなら、あたしは海底軍艦だろうが、万能宇宙戦艦だろうが、喜んで乗り込んでしまうはずだ。
「ところで、
クルマに乗り込もうとする時、マリさんがそっとあたしだけに聞こえるように耳元で囁いた。
「な、なにって!」
「イケない事をしちゃダメだにゃー」
あたしは真っ赤になった。この人には全てを見抜かれているようだ。
「い、言わないでよっ。ママとかに」
「もちろん言わないよ。こんな面白そうな事♪」
マリおばさまはちょっと意地悪な人かも知れない……。
◆
「……二人ともちゃんとマリが確保したって!」
シンジは難しい顔をして、手と手を父ゲンドウみたいに組んでいたが、スマホに首っ引きだったアスカの弾む声に相好を崩した。二人とも仕事の手が離せないからと、マリに任せてはみたものの、結局、仕事など手につかず、気を揉むばかりだった。
「そっか! 見つかって良かった……」
「まぁ見つかっても何も、二人がずっと校舎内に居たのも、下校してからの経路も全部追跡してたけどね。保安部のガードも外れてない。だから大袈裟……ちょっと過保護過ぎかもね」
「うん、少し騒ぎ過ぎたかな」
見つかるまでは二人ともヤキモキ、ソワソワとしていたのに、事が落ち着くと、ようやく冷静になって自分たちの行動を反省する余裕が出て来た。
アスカはシンジの執務机に近寄ると、机の上にヒョイと腰掛けて、座っているシンジの髪を弄る。司令室内で他の人間ならとても出来ないアスカならではの無遠慮不作法だが、この時間帯ならそうそう司令を訪ねてくる部下も居ない。
「ま、本当を言うとね、あたしも少し心配だったのよ。……親って不思議なものだよね。時々、頭の片隅に子供の最悪の光景がちらついてしまう。もちろん片時も目を離さず、なんて訳にはいかないけど、そうできるものならそうしたいとさえ思うのよ。だからあんたの不安な気持ちは分かるわよ」
「うん、そうなんだよね……四六時中そうなんじゃないけど、何かをキッカケに不安になると、止まらなくなる」
アスカは、彼の肩をポンポンと優しく叩いた。
「でも大丈夫だよ、シンちゃん。……あたしたちにはもう二度と哀しみは訪れない。あたしはそんな風に思うんだ。だってあたしたち、これまで散々に苦しみと哀しみを味わい尽くしてきたんだから……ね?」
人生における哀しみの総量が決まっているなら、とっくに品切れになっているはずだ。アスカはそう信じているのだ。
「うん……」
そして、その中には、シンジがアスカに与えた痛みもあるはずだ。長い間、身体が結ばれても本当の意味では結ばれず、ずっと傷つけあってきた二人だから。でも、それを今更アスカに謝ったりするのをシンジはもう止めている。
「あのね、アスカ……」
「ん?」
「今度、皆でピクニック、行かない?」
「ピクニック?」
「うん。あの子たちがまだ小さい頃には結構行ったけど、最近はそういうの無かったじゃない?」
共働きで、子育てに仕事にと駆け抜けて来た。忙しくて、あっという間に時間が過ぎていった。自分たちなりに、やれるだけのことはやってきた積もりだが、特に子供たちに対しては、もっとああしてやれば良かった、こうしてやれば良かったという思いが時として、頭をよぎるのは避けられない。
「でも……お仕事、大丈夫?」
「頑張って、週末開けるよ」
「へぇ、マイホームパパさんだね」
アスカがからかうように言うと、シンジは少しだけ深刻な顔をした。
「本当は僕が父さんや母さんとピクニックに行きたかったのかも知れない。それは、子供の頃の憧れみたいなもので、もう二度と叶うことのない夢だけど。そんな寂しい想いを子供たちにはさせたくないんだ」
「……うん、そうだね。あたしもママが生きていた頃、一緒にどこかのお花畑に行った事があるんだ。一面に向日葵が咲いていた。夢の光景みたいだった。あれはどこにある花畑なんだろう……。ああいう想い出はなんでかな、一生忘れられないよ。あたしがつらかった時、切なかった時、もちろん、シンジの事をずっと考えていたんだけど、心のどこかであの温かなママとの想い出が支えてくれていた気がする……」
黄色い大輪の花が、アスカの心の奥底で咲いている。明るい日差しと真っ青な空に彩られた真夏の記憶だ。その記憶の温かさが無ければ、何度も壊れかけたアスカはきっとどこかの段階で完全に壊れてしまっていたに違いない。
「……家族って同じ車に乗っているようなものだと思うんだ。運転は時々夫婦で交代して、だけど、子供たちは親の運転次第でどこに連れて行かれるか、大きく変わってくる」
シンジは言った。
親が運転席とその隣に座り、後部座席に子供たちを乗せる。やがて老いた親は車を降り、後部座席にいた子供たちが、新しい親として前の席に移ってくる。そうやって、世代は紡がれていく。
最低限の運転だけして、後部座席の事など気にしないという親もいる。途中で運転を投げ出して、子供の存在などすっかり忘れたように振る舞う親もいる。そうなったとしても、親に自分の人生の責任を求める訳にはいかない。シンジの行動の責任はシンジのものだ。ただ、それでもシンジがずっと寂しい想いをしてきたのは確かだ。今でも、シンジは思うのだ。生きている間に、ちゃんと父さんと腹を割って話したかった。父の誤りを糺し、いや、それはもはや叶わなくても、せめて自分は立派に父親をやれているんだと示したい。だから、シンジは子供たちに対して、決して自分の父親のように冷淡には振る舞いたくなかった。
「もし行くなら、シンちゃんは美味しいお弁当担当だね」
「うん、それは任せて」
「あとは……ジュニアがどう言うかしら」
「もしかして嫌がる……かな」
「思春期だからね──。あたしからベタベタしようとしても一時期、避けられてた気がするし。家族と一緒に出掛けるのとかも嫌がられるかも」
「そういうもの?」
幼い頃に母親と触れた記憶さえなく、まして第二反抗期で母親に反撥する機会さえ奪われていたシンジにはよく分からない世界だ。
「反撥するのは独立した人間として、自分のアイデンティティを確立しようとしているから。反抗期だって大人になるためには必要なのよ。いつまでも母親に甘えてるよりは余程いい」
「まあ、そうだね──」
「それに甘えん坊は大きいシンジだけで十分だしね」
「僕はそんなに、アスカに甘えたりしては……」
「そうかしら、でもゆうべは……あたしにしがみついて来て思い切り甘えてたじゃない……やっぱり頭をなでなでされたりすると嬉しいんだよね」
「そ、そういうの、反則じゃないか!」
シンジは顔を真っ赤にして俯いた。寝室での秘めたる行為をからかわれるのは、それがアスカと二人だけの秘密であるだけに一層恥ずかしい。
「ま、夜はあたしもシンジに甘えているんだし、こういうのはお互い様、だけどね♪」
つかの間、艶っぽい目で良人を見て、それからアスカはとこしえの安らぎを得たような優しい顔になった。
「……親からはいつか卒業しなくちゃいけないけど、妻や夫から卒業する必要はないんだから……ね」
「うん」
二人はお互いから卒業する必要はない、それはシンジにとってもアスカにとっても、心休まる事実だ。長年の艱難辛苦を乗り越えてようやく手に入れた安住だ。
「……いいわ、ピクニックの話、あの子たちにしておく。反抗期だったジュニアも最近は少し変わった気がするのよ。あの子がエヴァに乗るって決めた時から、家族に対して急に優しくなった。きっと、あの子がエヴァに乗るのは、家族の為、家族を守る為なんだね」
「うん……だから僕も、あの子たちを守らないと」
「それは正にあんたの仕事ね。ネルフの司令なんだから」
シンジがそのために全力を尽くすことをアスカは疑っていない。一緒になるまでの二十年間で、シンジは間違いなくアスカを守るための努力を惜しまなかった。そして、今はその守る対象が、アスカだけではなく、家族に広がっている。
「だから頑張んなさい。あたしが副司令として手伝ってあげるんだから!」
向日葵のように咲いたアスカの大輪の笑顔に、シンジも安心して頷くのだった。