子供たちのエヴァンゲリオン   作:しゅとるむ

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三話 惣流家の帰宅

 マリさんに車で送ってもらって、あたしたちは家に着いた。

 

 辺りはもうすっかり暗くなっているが、庭と、玄関には防犯目的もあって、明暗センサーによる自動点灯の灯りが灯っている。玄関横の大きな犬小屋には、グレートピレニーズのモモが眠りこけている。家族の不在中はお手伝いさんが、ご飯と水を与えてくれる事になっている。あたしは眠っているモモの頭をそっと撫でてやった。

 

「相変わらず、広いお屋敷だねぇ」

 

 メガネをクイッと上げながら、マリおばさまは感心するように言った。

 

「でも官舎なんでしょ。借りてるだけなんだから、パパたちがネルフのお仕事辞めたら出て行かなくちゃならない」

「その頃には君たちも独立して、多分それぞれの所帯を持ってるでしょ。だから心配しなくても」

「……」

 

 あたしとシンジはいずれ別々に暮らさなくてはいけないのか、そう思うと、少し気鬱になる。シンジはそんなあたしの気持ちも知らず、車中で少しウトウトしていたからか、軽く欠伸をしながら、伸びをした。

 

 来客用の駐車スペースから玄関に回ると、屋敷には少し不釣り合いの表札が目に入る。大きめの表札に、惣流という名字に家族四人の名前が彫られている所まではいいのだ。上からシンジ、アスカとパパ・ママの名前が彫られている。その下に、シンジ・ジュニアそしてあたしの名前が本来彫られていたのだが、上からマジックで、シンジ・ジュニアに横棒で打ち消し線を入れてあたしの名前を、あたしの名前を同じように消して、シンジの名前を上書きしてある。

 

「……ねぇ、アストリッド」

 

 マリおばさまがあたしの名前を表札から読み上げるように言った。やっと明日鳥ちゃんなどという省略ではなく、ちゃんとあたしの名前──惣流・アストリッド・ラングレー──を呼んでくれた。そしてそのままあたしに向かって問いかける。

 

「前から不思議に思ってたんだけど、なんで表札にこんなマジックの落書きがしてあるの?」

「だって……あたしとシンジは双子なのに、いつもシンジが上なんてズルい」

「しょうがないじゃないか、アストは僕の妹なんだから」

 

 シンジは夜風に少し乱された亜麻色の髪を掻き分けながら言った。あたしも、それを見て、ママの金髪よりも濃い栗色をした自分の長い髪を慌てて押さえる。

 

「双子に兄も妹もないでしょ!」

「ははぁん、順番が納得行かなくて、明日鳥ちゃんが抗議の落書きをしたってわけか。中々やるねぇ」

 

 落書きじゃなくて、訂正なんだけど……

 

「あんまり、アストの暴走を褒めないでください、マリさん。やること大体滅茶苦茶なんだから」

 

 失礼なことを言うシンジにあたしは反論する。

 

「そうは言うけど、じっさい昔の基準では、双子は先に生まれた方が弟だったりしたのよ。それならシンジは弟になる。あたしはちゃんと調べたの」

「どうして先に生まれたのに弟なのさ?」

「だから……先に仕込まれた方が母親の奥に居る事になるから……」

 

 と、自分でも赤面してしまうような事を説明しながら、あたしはつい、ママとパパも今、あたしが想像したようなことをしているのだろうかと考えてしまった。勿論、当然しているのだろう、だからあたしとシンジが生まれてきたのだ。でも、両親のそういう行動を想像するのは冒涜的な気がして、あたしは首を左右に振って、即座に想像を打ち消した。

 

「と、とにかくっ。あたしにとってシンジは兄であり弟よ。そしてあたしはシンジにとって妹であり姉なの」

「まあ、どちらが上とか、そんなのどうでもいいけどね」

 

 シンジが呆れたように肩を竦めると、マリさんはあたしとシンジの肩にそれぞれ手を置いて言った。

 

「君たち見てると飽きないねぇ。まるで子供の頃の君たちのパパママみたいで」

「マリおばさまは、子供の頃のパパとママを知ってるんだっけ?」

 

 確かマリおばさまはパパ、ママとは大学の同級生の筈だ。中学生のあたしたちと同じぐらいの頃のあたしの両親を知っている筈がなかった。

 

「そりゃ一応知らない──んだけどさ。……何となく想像付くからね。あたしの中の想像の二人と君たちはそっくり」

 

 不得要領な事を言って、マリおばさまは笑った。

 

「そんなに似てる?」

 

 あたしとシンジはまじまじと二人で顔を見合わせた。別にそこまで両親に似ているとも思わないのだが……

 

「行動というか、性格が似てるねって話。顔はそんなにはね……普通の親子レベルだよ。見る人が見れば、すぐ二人の子供だって分かるだろうけど。パピー君は碇司令よりもお母さん似だね。モテそうな顔してる。明日鳥ちゃんは、目と鼻はお父さんだね」

「鼻ペチャ・アストだよ」

 

 シンジがあたしのことを子供の頃の渾名で揶揄した。

 

 あたしはそれが悪意のないからかいだと知っていても、憮然とする。

 

 子供の頃のあたしは低い鼻を気にして、洗濯ばさみで鼻を挟んで寝ようとした事もあったぐらいだ。もちろん、『若草物語』の四女エイミーに倣った行動だった。

 

 もちろん、そんな事をしても鼻が高くなる訳がないとママたちに止められて、叱られた。それによくよく考えれば、自分の鼻は日本人としてはごくふつうだ。ただ、すっと鼻筋の通ったママと比較して低い鼻だということに妙なコンプレックスを持っていただけなのだ。

 

 だけどその時、ママはこう言ってくれた。

 

「あなたの鼻は、パパシンジのものと同じよ。ママの大好きなパパから貰った鼻なのよ」

 

 あたしはその言葉の内容よりも、ママの言葉の力強さに思わず頷いていた。ママは本当に嬉しそうだった。好きな人の顔を、自分の子供の中に見つけられる気分ってどんななんだろう。それはきっと世界で一番幸せなことなんだろう……

 

「パパのこと、アストも大好きでしょ?」

「うん」

「ならその鼻を誇りに思って」

 

 それから、鼻を優しく摘まみながらこう太鼓判を押してくれた。

 

「あなたはエリザベス・テイラーより美人よ」

 

 そう言って、ママはスマホからリズ・テイラーの写真を検索して見せてくれた。こんな美人よりもあたしが美人? 若草物語の映画で、エイミーを演じた事があるらしい有名な女優を引き合いに出して太鼓判を押されたからまだ幼かったあたしは大いに気をよくした。

 

 それ以来、あたしはもう鼻の低さを気にしなくなったし、自信が付いたからだろうか、学校でも男子にやたらモテるようになった。それでも、シンジに鼻ぺちゃアストとか言われるとムッとしてしまう。

 

「ま、とにかく兄妹なんだから仲良くね」

 

 ウィンクをして手を振りながら、マリおばさまは去っていく。

 

「さよなら、マリさん」

「さようなら」

「バイなら~、ちびっ子たち」

 

 あたしたち、別にちびっ子じゃないのにナ。

 

 

「ただいま!」

「ただいま……」

 

 アスカはシンジと一緒に帰宅した。もう10時を回っている。ドタドタと足音を立てて、娘のアストリッドと息子のシンジ・ジュニアが玄関に出て来る。

 

「お帰りなさい、パパ、ママ」

「おかえりー」

 

 いつもの光景だが、無事に二人の帰宅を視認して、アスカは胸をなで下ろす。

 

「……二人ともちゃんとご飯は食べた?」

「うん、あたしがハンバーグを作って、二人で食べた」

「流石はうちの小さい主婦さんね!」

 

 アスカはそう言って、アストリッドを抱き寄せ、頬ずりをしてやった。「うちの小さい主婦さん」という呼び掛けは、アスカが子供の頃に親しんだドイツの児童文学、エーリッヒ・ケストナーの『ふたりのロッテ』にちなむ。その物語に登場する双子の女の子の一人、ロッテが職業婦人の母親の代わりに一手に家事を引き受けていて、そう呼ばれていたのだ。自らの子供であるシンジ・ジュニアとアストリッドも双子の兄妹なので、アスカは何かしら重なるものを感じているのだろう。

 

「だって、シンジが包丁握って、手を怪我でもしたら大変だもの」

「優しいのね、アスト」

 

 父親のシンジの料理の才能はアストリッドに受け継がれている。同じ名前の息子のシンジには、音楽の才能か受け継がれたが、料理はほとんどする事がない。器用な性質の男の子だったが、ちゃんと作れるのは、家庭科の授業で教わった料理ぐらいだろう。別にそれでいいとアスカもシンジも思っている。それぞれが興味のあること、好きなことを伸び伸びとやればいい。

 

「二人ともご飯は? 簡単なお夜食くらいなら作れるけど」

 

 アストリッドが水を向けると、アスカは答えた。

 

「大丈夫よ。パパのお部屋──司令室でディナーデートと洒落込んじゃった」

 

 今、アスカとシンジは使徒迎撃プランの刷新作業を進めている。アストリッドとシンジ・ジュニアという二人のエヴァパイロットを得て、ようやくエヴァ二機体制が復活したのだ。抜本的な迎撃プランの見直しが必須となっていた。

 

 連日夜遅くまで及ぶその作業の合間に、今晩の夕食は一昔前のハリウッド映画みたいに、テイクアウトの中華を頼んで、紙製の容器に入ったチャーハンや焼きそばをかき込んだだけだから、とてもそんなに洒落たものではなかった。

 

 でも、アスカもシンジもそんな風に二人で共にする夕食が楽しくて仕方がないのだ。

 

「シンジが作るディナーじゃないのだけが残念」

「ごめん、平日はなかなか……」

「いいの、ネルフの司令の忙しさはよく理解している。そこまで我が儘は言わないわ」

 

 アスカはうっとりと夫の顔を見つめた。シンジはあたしを守る為に必死になって、この新生ネルフという居場所を作ってくれた。あたしの為に、指の骨も命も残りの人生も全て賭けてくれていた。アスカの為にそこまでしてくれた男は、他にただの一人もいない。

 

「その気になりさえすれば、いつでもシンジの全てが手に入るというのが重要なの……それさえ分かっているのなら、別に本当に毎日全てを手に入れなくたっていいの」

 

 だから帰宅したアスカは、ずっと夫シンジの隣で笑顔で居られる。シンジを自分のものにする事が出来たから、もうアスカの顔が真の意味で、憂いに曇ることは無いのだ。

 

 シンジ・ジュニアが父に向かって、手を差し出した。

 

「父さん、書類鞄を持って行くよ。書斎でいい?」

「ああ、うん。ありがとう。シンジ」

 

 自分と同じ名前で息子を呼ぶとき、いつもシンジは不思議な感覚になる。明らかに自分とは別の人間で、どちらかと言えば亜麻色の髪などは妻であるアスカを想起させる少年なのに、自分の名前と血を確かに引き継いでいる。

 

「ピアノの調子はどう? 頑張ってるみたいだけど」

「まあぼちぼちだよ」

「そうか。まあ、あまり無理はしないように……」

「うん」

 

 父と息子は男同士らしく、言葉少なに会話を交わす。シンジは、ネルフの黒の制服の上を脱いで脇に抱えると、そのまま息子の後を付いていこうとするが、アスカに腕を掴まれた。

 

「あんたはこっち!」

「へ?」

 

 廊下からアスカに脇に引きずり込まれて、シンジは目を白黒させる。ここは浴室だ。アスカは後ろ手で脱衣場と廊下を繋ぐドアを閉めると、シンジを壁際に追い込んだ。いわゆる壁ドンのような姿勢で、皮肉な笑みを浮かべると、シンジのワイシャツのボタンを上から外していく。

 

「あ、あの……アスカ。外に子供たちがいるよ」

 

 このまま、アスカのペースで艶っぽい状況に雪崩れ込まれるのかと思わず不安になったシンジだが、そうではなかった。シャツの半ばでアスカのボタンを外す手は止まる。

 

「あんたは先にお風呂に入ってなさい。お仕事も疲れたでしょ、少しは湯船でゆっくりしたらいいわ」

「アスカは一緒に入らないの?」

 

 ほぼ毎晩、二人は一緒にお風呂に入っていたのだからシンジはいつもと違うアスカの行動に戸惑っている。

 

「子供じゃないんだから、たまには独りでも入れるでしょ」

「だって……」

「あたしの裸が見たいなら、後でベッドの上で幾らでも見せてあげるから」

「もう、アスカはすぐそういう事言うんだから」

 

 シンジが少し甘えた声で拗ねてみせる。

 

「頭から足のつま先まで綺麗にね。先っぽまでちゃんと洗わないと、仲良ししてあげないからね、バカシンジ!」

「分かったよ……」

 

 舌をべーっと出して、シンジに命令風に宣告するアスカの姿に、シンジは出会ったばかりの頃の中学二年生だった彼女を重ねてしまう。いつだって、彼女の若い頃の姿が目に焼き付いている。

 

 アスカが鼻歌を歌いながら足早に浴室を去ると、シンジは服と下着を全て脱いで、浴室に入る。ドアを閉めると、シンジは背中で軽く寄りかかった。

 

「先っぽって……やっぱり、これのこと?」

 

 シンジは自分の下腹部に視線を落とす。

 

「……膨張しちゃった」

 

 かつて中学生だった頃にアスカたちの温泉での会話を男湯側から漏れ聞いて、同じような台詞を呟いた事を思い出した。

 

「ちゃんと丁寧に洗おう……」

 

 それから、シンジは丹念に時間を掛けて、身体を隅々まで磨いた。元々、男子としては珍しいぐらいに几帳面で衛生的なシンジだった。身体を洗い終えると、ゆっくりと大きな湯船に身体を横たえた。アスカとまだ愛人だった時代に、家に招いた彼女と一緒に入浴したこともあった。ゼーレに対抗してスパイ紛いの防諜の為、風呂場でアスカと秘密を語り合った。そんな思い出があるからか、かなり古びてしまった浴槽をなかなか、入れ替える気にはなれないでいる。

 

 シンジは汗をかきながら、子供たちが入った後のぬるめの湯に身を沈める。それから、天井をゆっくりと見上げた。

 

 ──三十五年前、僕にはもう何もなかった。立ち向かうべき苦難から逃げ続けた結果、アスカも含めた全ての人の信頼を喪って、もうこれ以上、生きていく意味はないように思えた。

 

 それなのに、今、僕は欲しかったものを全て手に入れている。お金とか広い家とかそんなものじゃない。本当に欲しかったものは、人間の優しさだ。自分が人に優しさを与えようとしなかったのに、手前勝手にそれを欲しがっていた。だけど、アスカや新生ネルフの人たちは、シンジに優しさを求める前に、まずシンジに優しさを呉れた。本当の愛というのは見返りを求めない愛だ。だから、シンジはようやく自分の幼い過ちに気付けた。それに気付くのに二十年も掛かってしまった。

 

「僕は今、幸せなんだ──」

 

 天井を見上げたままのシンジの両目から熱いものが込み上げ、溢れ出してきて、両の頬を伝った。お風呂場だから、湯船に顔を付けて洗えばもう分からない。でも、何回洗っても、また涙が流れ出してくる。

 

「アスカや、ジュニアや、アストリッドがいてくれて嬉しい。みんなが僕の家族で幸せだ。もう僕は、何も喪いたくないよ──」

 

 

「さてと……」

 

 シンジを一時、バスルームに片付けて、アスカは二人の子供たちと居間に入った。

 

「あれ、父さんと一緒にお風呂に入らないの?」

「……毎回、一緒に入る訳じゃないわよ」

「ママがパパと一緒に入らなかったの見たこと無い。明日は雪でも降るんじゃない?」

「あんたたちねぇ……」

 

 アスカはこめかみに指を当て、頭痛を抑えるような仕草をした後で、こほんと小さく咳払いした。

 

「あのね、今度の週末、みんなでピクニックに行こうと思うのよ」

「ピクニック? みんなでって、家族四人で?」

「そうよ。今お風呂に入っているお父さんの提案」

「なんで、パパがお風呂中にあたしたちに話すの?」

 

 アストリッドは小首を捻った。パパの提案なら、パパの居るところで話せばいいじゃないか。

 

「だって……あなたたちが嫌がって断るかも知れないから」

「断ったらどうなるの?」

「無理強いはしないわよ。あなたたちも中学生なんだから、友達との付き合いとかもあるだろうし。中学生だから、親と一緒なんてもう照れくさいとか色々あるんでしょ?」

 

 その言葉に、アストリッドとシンジ・ジュニアは顔を見合わせた。あたしたちに休日にまで約束があるような、本当の友達なんかいるわけないじゃないか、と。だって、世界に公共の敵と目されてきた碇ゲンドウの孫、そして碇シンジの娘と息子なのに……。親と一緒は照れくさいというのは確かにあるのだけど。

 

 シンジはアスカと一緒になる時に、碇の家名を断絶させると決意して、惣流の姓を選択した。碇シンジの名前は旧姓として仕事で使うだけだ。昔、アストが父に理由を尋ねたら、「悪名は無名に勝るというからね……仕事では便利なんだよ」とだけ彼は答えた。しかし惣流という姓にした所で、シンジの悪評は家族の周囲から完全に排除出来る訳ではなかった。

 

「断っても勿論自由だよ。ただ……目の前で子供たちに断られたら、ショックとまでは行かないだろうけど、シンジが可哀想だなって思ったのよ。だって、あいつは子供の頃から、父親にそうやって拒まれてきた。家族として、親として、自分をちゃんと見てくれる事を望んだのに、彼は受け入れて貰えなかった……」

 

 だからアスカはシンジの居ない所で話をして、もし子供たちに断られたら、適当に話を取り繕ってシンジの計画をフェイドアウトさせる積もりだった。

 

「そういう風にパパのことを拒んだのって、あの、碇ゲンドウなのよね」

 

 アストリッドの言葉には明らかに険があった。

 

「碇ゲンドウって本当にひどい奴。パパが可哀想だ」

 

 シンジの前で話をしたくなかった理由のもう一つがこれだ。シンジがゲンドウとは築けなかった家族の絆を取り戻そうとしている以上、碇ゲンドウの話が出て来る可能性は高い。そして、子供たちがシンジに肩入れする余りに、ゲンドウを非難したとしても、シンジは父への非難で傷付いてしまうのだ。シンジはいくつになっても繊細で優しい男の子だ。

 

「……パパはもう可哀想じゃないわよ」

 

 アスカは反論の代わりにそう言った。

 

「シンジが欲しくてたまらなかったもの、あたしが欲しくてたまらなかったもの、それをあたしたちはもう手に入れている。それは……お互い自身と新しい家族だ。碇ゲンドウが世界を巻き込んで破滅させても二度と手に入れられなかったものよ。……当たり前だよね、だってあいつは目の前に居る、手を伸ばせば届くはずの息子のシンジから逃げたんだから。それ以上、何も温かなものを手に入れられる筈がない」

 

 けっきょく、人間はやってきた事に相応の物が得られる、もしくは、やってこなかった事に対して相応に何も得られないだけなのだ。

 

「でも、僕はおじいさんと話をしてみたかったな」

 

 シンジはポツリとそう言った。

 

「シンジ?」

「おじいさんはピアノを弾いてたらしいって父さんから聞いた事がある。父さんも直接は見たことなかったみたいだけど。ピアノを弾く人なら、僕は話をしてみたかった。──どんな音楽が好きなのか、どんな風に音楽や世界を見ていたのか……」

 

 小さなシンジは穏やかな顔をしていた。自分の血に流れる祖父の血、ピアノの才能を彼──碇ゲンドウから受け継いだ事に彼は忌避感を感じていない。

 

 アスカもアストリッドもゲンドウ批判に傾く中で、シンジ・ジュニアだけは自分の考えを持ち続けているようだった。猛々しくはないが、芯があって、簡単に考えを変えようとしない。それは、父親であるシンジ譲りの頑固さの表れかも知れなかった。

 

「あたしは碇ゲンドウなんて大嫌いよ」

 

 アストリッドは噛みつくように言った。

 

「パパシンジの事を悪く言われたら、あたしはいくらでも反論する。でも、ゲンドウの事を言われたら、あたしたちには反論なんて出来っこない。それなのに、バカシンジったら、話がしたいなんて……お人好しにも程がある。呆れるわ」

「でも話をしなくっちゃ、何が間違ってるのかも分からないよ」

「話しても意味ないって。妻一人と世界を引き換えにするなんて頭おかしい。あんなのの血が自分にも流れてると思うとぞっとする」

 

 まくし立てる娘に対して、少し危うさを感じてアスカは窘める。

 

「アストリッド。それはあなたの考えでしょ。それをシンジに一方的に強要したりしてはダメよ。人にはそれぞれの考えがあるの。違う意見を受け入れるのには抵抗があるかも知れないけど、それでも理解しようとする努力を放棄してはダメ」

 

 そもそもそう言うアスカ自体が、夫シンジと考え方がすれ違い続けて、長く懊悩してきたのだった。だけど途中で理解する努力を捨てていたら、シンジを突き放していたら、どこかの時点で諦めていたら、今の家庭はなかった。今の幸福はなかった筈だ。

 

「あと、パパシンジの前でそういう自分の血を呪うような言い方もしないでね。昔、シンジにも言ったことがあるけど、碇ゲンドウの行動性向は全て後天的なものなの。彼が生きていく中で、自分で能動的に選んだものなのよ。真に信頼できる相手を妻以外に作らない──妻以外の人類の痛みに共感できない。それは遺伝なんかじゃない。そんな忌まわしい事、遺伝や生まれつきであってたまるものか」

 

 アスカには、そんな風に子供たちに自分を疑い、自己規定して欲しくはなかった。この子たちには無限の可能性が拡がっている。

 

「シニカルに、斜に構えた生き方をして、孤高を気取るソシオパスが、たまたま異能の才と野心を持ってしまった。世界と人類の運命を左右する力を手に入れてしまった。そういう種類の不幸なのよ……。だから、それはシンジにも、あなたたち孫にも一切、関係がない」

 

 碇ゲンドウはもしかしたら、自分が妻の消失により傷付いたから、人類全体にもその傷心を拡大しよう──少なくとも、他の人類が苦しんでも一向に構わない──と考えたのかも知れなかった。

 

 碇ユイが、この世界から消えてしまったのに、そんな灰色の筈の世界で、何一つ傷付く事なく、日々を以前と変わらないそれぞれの小さな幸せの中で過ごせている他人に怒りと苛立ちを感じていたのかも知れない。碇ユイの存在が、自分以外の他者にとってはそれほど大きくなく、場合によっては殆ど無価値で無意味だったという事実の散文的な冷たさに堪えられず、許せないとさえ感じていたのかも知れない。

 

 そんな怒りはむろん馬鹿げている。誰だって、自分の恋人や家族が一番で、よく知らない相手に同じような愛情を注ぐことなんか出来はしない。人間は自分に近い者から愛を注いでいく生き物だ。それなのに、碇ゲンドウは、世界が、人類が、ユイの不在に対して彼のように怒り、嘆き、悲しんではいないことに絶望したのかも知れなかった。

 

 そんな風に、彼と彼の妻に対して冷淡な人類であるのなら、ユイとの再会の為に彼らを犠牲にしても構わないと思い定めたのだろう。だから、今、シンジが新生ネルフでアスカや多くの部下たちとともに、親疎に関わらず人類全体を救うべく行動しているのは、碇ゲンドウがそうやって投げかけた人類全体への怒りと憎しみに対する後始末であり、補填なのかも知れなかった。

 

「……分かった。パパの前でこんな事はもちろん言わないわよ。だからママもパパがお風呂に入ってる間にお話ししたんでしょ」

「ええ、そうね」

 

 さすがにアストリッドは聡い娘だ。アスカは小さく頷いて、安堵の表情を形作る。

 

 その時、お風呂場から音がして、やがてスリッパのひたひたとする足音が廊下から近付いてきた。シンジがどうやら風呂から上がったらしい。水色のパジャマ姿のシンジが居間に入ってきて、声を掛けた。

 

「あの、上がったけど……」

 

 アスカがそれを聞いて振り返り、微笑んだ。

 

「茹で蛸お父さんが、帰ってきたわね」

 

 それからアスカは子供たちに向き直り言った。

 

「さっきの話、すぐ決めなくてもいいから。明後日ぐらいまでにあたしに返事を教えて」

 

 だけど、そんな留保は必要なかった。

 

 アストリッドは、横目で兄のシンジを見た。双子だから、言葉に出さなくても言いたいことの大半は分かってしまう。この時のアストの視線の意味は、「ちゃんと空気を読みなさいよ、バカシンジ」だ。

 

 その妹の表情を見て、シンジはやれやれと肩を竦めた。わかってるよ、ちゃんと付き合うさ──

 

「あたし、ピクニックに行く! パパと一緒にお弁当を作るから。あ、モモも連れて行くからね」

「僕も行くよ。……ピアノの先生が、自然や色々なものに触れて感性を養うことも大切だって言ってたから。ちょうど良かったよ」

 

 何だか言い訳がましい息子シンジの台詞に、残りの家族三人は顔を見合わせて、すぐに噴き出した。

 

「なんで笑うんだよ、もう!」

「だって反抗期丸出しなんだもん」

 

 ニヤニヤ笑いながらアストリッドが代表して感想を漏らすと、温厚なシンジ・ジュニアが珍しくむくれて見せた。

 

 それを見て、大きなシンジは心から思った。

 

 ──僕はやっぱり、幸せだ。心の中がぽかぽかする。家族ってこんなに温かいんだ。三十五年前にはこんな事、知らなかった。家族ってもっと冷たいものなんだと思っていたから──

 

 

「お・待・た・せ」

 

 白いネグリジェを着たアスカが寝室に入ってきた。シンジに遅れて風呂から上がり、白皙の肌を仄かにピンク色に上気させている。

 

 シンジは、キングサイズのベッドの上に横になって物思いに耽りながらアスカを待っていたのだが、すぐに、掛け布団を剥ぐって、妻を招じ入れる。

 

「アスカ、おかえり……おいでよ」

「うん……おじゃましまーす」

 

 そう言ってアスカがベッドインすると、シンジはすぐに彼女にしがみついた。

 

「アスカ……」

 

 抱きつくと、アスカから石鹸とシャンプーの清潔な香りがした。

 

「あらあら、抱っこはいつものことだけど、今日のシンジはいつになく甘えん坊ね」

「……そういうのじゃないんだけど」

 

 風呂の中で現在の幸せを深く噛みしめ、自覚したシンジは、それを喪う事が急に怖くなったのだ。だから、アスカを離すまいと必死でしがみつく。

 

「ピクニック、みんな行きたいって言ってくれて良かったわね」

 

 シンジの背中に腕を回しながら優しくアスカが耳元で言うと、シンジは囁くように呟いた。

 

「僕、お風呂の中で泣いちゃったんだよ」

「えっ、どうして。独りで入ったから寂しかった?」

「そんなんじゃない……ただ、今が幸せすぎるって思って」

「うん……」

 

 アスカはシンジの背中をポンポンと静かに叩いた。

 

「シンジは幸せになっていいんだよ。その幸せを不快に思う人間が、もしかしたらこの世界には沢山いるのかも知れない。でもシンジが幸せだと、あたしも幸せな気持ちになれる。だからシンちゃんにはあたしの幸せの為に幸せでいてほしいのよ」

「アスカっ……」

「だから……今日も仲良し(セックス)するわよね? 幸せになるために」

「う、うん……」

 

 シンジは慌てたように、枕元をまさぐって、そこに置いていた個包装の避妊具を取り出した。それを見てアスカは微笑した。

 

「年齢的に、さすがにもう子供は出来ないだろうから、それ、そろそろ要らないんじゃない?」

「でも……そんなの分からないんじゃ」

 

 シンジにはかつての「失敗」が頭によぎる。もちろん、その失敗は決して不幸に繋がっていた訳ではないのだが。

 

「少なくとも今日は大丈夫な日だよ。あたしは久しぶりにそういうの無しで、シンジと触れ合いたいな」

 

 アスカはそう言って、シンジの手を握る。シンジは頷いて、そっと避妊具を枕元に戻した。お互いの肉体に直接触れ合う交接は確かにこの上なく、気持ちが良いものだ。

 

「あたしは前から言ってるけど、中学生だった頃からシンジと友達になりたかったんだ。『仲良し』は男女、夫婦の関係を深めるものでもあるけど、あたしはシンジと『仲良し』で遊びたい。夜更けまでシンジと遊びたい」

「うん、僕もアスカといろんな事したいよ。……これからもずっと……」

「そうだね。……毎晩、いっぱい遊ぼう。そして、あたしを気持ちよくしてね。シンジのもので満たして、世界で一番幸せな女の子にして。あたしたちは友達で親友で戦友で同僚で夫婦で恋人なんだから」

 

 そんな大人のやり方で、アスカとシンジはその時ばかりは中学生だった二人に戻れる。彼らは、今や二人の子供を持つ夫婦だけど、世界で一番仲良しな友達に戻るのだ。

 

「どちらが上になるかは、まずジャンケンで」

 

 夜の勝負は始まっている。

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