アスカは深夜に目を覚ました。汗を吸って重くなったシーツと下になっているシンジの身体の温かさの間に包まれている。
時計は二時を回った所だった。
「んんっ」
軽く身じろぎをすると、お互いに全裸のシンジとアスカの身体の微妙な部分同士が擦れあった。思わず、喘ぎ声のような声が零れる。
「あ……ンんっ♡ 」
シンジがゆっくり目を開く。
「アスカ……」
「あ、あんた起きてたの……」
「アスカにそんな風にのし掛かられて、寝れないよ……」
「……う、それはごめん」
シンジが上に被さっているアスカの長い髪に手を伸ばしてまさぐった。柔らかい髪から、清潔感のあるシャンプーの香りが漂う。シンジは少し気弱な表情で言った。
「ジャンケン弱いんだ、僕……」
「うん、分かってるわよ」
結婚してからというもの、アスカとシンジは夜の
「アスカに三回とも負けちゃった……」
「うん、そうだったね。シンジはわざと負けてるのかと一瞬思っちゃった」
「そんな……ひどいよ」
ということは、三度に亘り、アスカが上になって夜の主導権を握ったということだ。シンジは少し気恥ずかしそうな顔をした。
「でもこの歳で三回出来るだけでスゴいわよ……それに昔みたいに、あたしに抱かれても落ち込んだりいじけたりはしなくなった。それはあんたの進歩よね」
「前はそんな風に、男として情けないままだと……いつかアスカに捨てられると思ったんだ。怖かったんだ」
過去にアスカから受けた、たった一度の性的加害によって、シンジには長らく、能動的なセックスに支障を来すというメンタルの症状があって、それが改善したり悪化したりしつつ継続していた。それはけっきょくアスカとの関係の精神的反映だったのだろう。アスカと波風が立てば、シンジは落ち込む。自信を無くす。不安になる。そうなるとアスカから抱いてやらないと、二人は交われない……そんな状況が長かったのだが、それでも二人は男女としての関係を保ち続けていた。男女の伝統的で自然な在り方を時として飛び越えてでも、アスカはシンジを抱き続け、諦めないで、ようやくゴールにたどり着いたのだ。
幸いなことに、それが純粋にメンタルの問題であることを証明するように、二人が結婚して程なく、シンジの症状は寛解した。今のシンジは自分からアスカを抱くことに何の支障もないが、だからといって、アスカが主導権を毎回すんなり明け渡すという訳でもないのだった。
「バカね。何度も言ったように、そんな事であんたのことを嫌いになるわけがない。第一、一緒になってよと、ずっと迫っていたのはあたしの方だったんだから……」
「あの頃の僕らの関係、本当におかしかったね」
「うん、肉体関係ばかり頑張って、それでいつも不安に怯えていた」
身体の関係は世界から二人を切り離し、第三者を排他する。しかし、その繋がりは導かれる絶頂までの刹那でもある。あの頃は少なくとも一週間に一度は繋がった。夫婦の振りをしてお互いをホテルで求め合った。でも、当然のようにそれだけでは満たされない想いがあった。
「シンちゃん……」
「ん……」
アスカはシンジにそっと頬を寄せた。親愛の証とばかりに、頬と頬を擦り合わせる。それから、互いにまぶたを落とし、唇同士を重ねる。乾いた唇を相手の唾液で湿らせる。交換する唾液や伝わる体温が、相手が生きていて、自分の隣に確かに存在していると感じさせてくれる。舌と舌を絡めた濃厚なキスが数分掛けてようやく終わると、アスカはしみじみと言った。
「……あたしはね。いつだって寂しかったよ、あの頃は。同じベッドに寝ていたって、どうしようもなく切なくて」
「うん、ごめん……」
「いいの。それでもあたしたちは二十年間、お互いに誠実だった。裏切らなかった。脇目も振らずに相手を見つめていた。それはとても尊い事だと思うのよ」
「アスカ……」
「それに、あの二十年間、悲しくて切なくてずっとシンジの事ばかり考えていたけれど、あんな大恋愛は二度と出来ない。きっと何回ループを繰り返したって……」
この世界が、何回も繰り返しているということをアスカもシンジも既に知っている。無限の結末があり、無限の可能性がある。しかし、アスカもシンジもお互いがそれぞれの《周回》で必ず一番そばにいる存在なのだと確信している。
「そして、どんな意地悪な神様だって、あたしたちの絆を引き裂くことは出来ないんだとあたしは悟った。そうでしょ、シンジ」
「うん……捨てる神あれば拾う神あり、とも言うしね」
二人のイメージする神は、育った文化を反映して一神教と多神教で微妙にすれ違うのかも知れない。しかし、そんな神様が与えてくる試練や運命よりも、お互いを信じることこそが遥かに大切だという強い想いを二人は共有している。
「ね、シンジ。腕枕してよ」
「いいよ」
シンジの上から下りて、アスカはシンジの横に寝直す。
キングサイズのこのベッドは広くて心地良い。
いや、本当は広すぎるぐらいなのだ。独りで眠る時には。でも二人がいつもここで同衾するようになってからは、このベッドの上はいつだって幸せに充ちていた。
「……シンジ、耳を貸して」
「え、いいけど。どうしたの」
「内緒のお話がしたいんだ」
「うん」
二人だけの深夜の寝室だ。普通に話しても、会話が子供たちに聞かれる心配などない。でも、アスカが夫の耳元で、優しく、密やかに囁き、甘い吐息を吹きかけてシンジの耳の中をくすぐると、シンジは嬉しくなってしまう。
「あのね、シンちゃん。今度のピクニックなんだけど──」
アスカはもぞもぞとシンジの身体に触れながら、寝る直前に思い付いたアイデアを開陳する。
本当は明日の朝、言おうと思ってたんだけどね──せっかく目が覚めちゃったから……
そう言って、アスカが提案してきた内容にシンジは目を見張った。
「どう。やっぱりイヤかな? せっかくのシンジの家族水入らずの提案に、それこそ水を差すようなものだけど」
「ううん……そんな事はないよ」
シンジは腕枕を提供したまま、アスカに向かって首を横向きに振った。
「親の仕事ってさ、子供の友達になることじゃないから──友達がちゃんと出来るなら──そういう機会を作れるのなら、絶対に、その方がいいと思うよ」
シンジは、自分やゲンドウの血を引く事で子供たちに背負わせてしまっている十字架が、シンジ・ジュニアとアストリッドを孤独にしていることを思わない日はなかったが、親として出来ることが限られているのも理解していた。だから、アスカの提案はありがたいと思うのだ。
「そうだね。親は子供たちに対してはちゃんとあなたたちを気にかけているよ、という姿勢を示し続ければいいんだ。そうしたらたぶん、──これは祈りにも似た願いだけど、いつも忙しくしていても、きっと家族だって感じ続けてくれるわよ」
「そうだといいな──本当に」
ネルフの司令と副司令を務める二人はいつも深夜まで残業、土日出勤もザラな仕事だから、その事により子供たちに対して後ろめたさを感じてはいる。だけど、二人がその事を後ろめたく感じること自体が、そして、こうしてピクニックなどを計画し親子の触れ合いの足らざるを補おうと努力していることが、アスカやシンジの親たちの有り様とは決定的に違っていた。
「アスカ……僕は子育ても二人で頑張って行きたい。アスカとこれからも一緒に生きていきたい」
「シンジ……もちろんだよ。あたしたちはずっと二人、一緒なんだ。もう離れる事はないのよ」
それから、そっと布団の中で二人は指と指を絡めた──シンジは腕枕をしていないもう片方の腕をアスカの方に伸ばして。
赤い海の浜辺で三十五年前に横たわっていたように、二人は今も並んで横たわっている。あるいはあのユニゾン最後の夜のようにすぐ傍らに横たわっている。でも、今度は背中合わせではないし、触れ合わない指先でもない。腕枕をして重なる裸身から、そして、指の先から相手の温もりが伝わってくる。二人の物理的位置関係はあの二つの時と殆ど変わらなくても──そして、あの浜辺で契った肉体関係もそのまま変わらなくても──もうアスカとシンジの関係は異なっている。心が通じ合っている。共同の作業で子供をこしらえて家族を築き、毎日のように優しさを分け合える関係なのだ。
年齢を重ねて、四十も後半になったが──幸せは少しも色褪せていない。だって、アスカもシンジもお互いに対して本当に求めていたのは、若々しく瑞々しい身体ではなく、その心だったからだ。
「──夢の中でもシンジに逢いたいな」
「うん、僕もよくアスカの夢を見るよ。だからきっと逢える。夢で逢えなくても、起きれば隣にいるからね」
「……うん、ありがとう」
それから二人はそっと身を寄せ合い、お互いの背中に腕を回して抱擁する。
「アスカが……好きだよ」
「あたしもシンジが大好き。この世で一番好き。だからあたしは今、世界で一番幸せな女の子だよ」
こんな幸せは二人の間でしか実現できない。だからシンジもアスカもあの赤い海の浜辺から二十年間、どんなに苦しくても、絶望しても、幻滅しても、お互いを諦めなくて本当に良かったと思えるのだ。
「僕も世界で一番幸せだよ。むかし、アスカに酷いことしたんだ。アスカを傷付けたんだ。だけど──」
日頃、なかなか心の内を晒さないシンジが率直に本心を吐露している。
「だけどそれでも、僕はアスカと一緒にいたかったんだ。一緒にいなくちゃダメだと思った」
「うん、なかなか素直でヨロシイ。……むかし、シンジがしてくれたこと、しなかったこと、酷いことされたこと、全部憶えてるし、忘れないよ。だけど、それでもあたしはシンジが好きなんだ。あたしもシンジとずっとずっと一緒にいたいんだ」
シンジと一緒にエヴァに乗った初めての戦い。
シンジと心と呼吸を合わせたユニゾン。
シンジにマグマの中で命を救われた。
シンジとの初めてのキス。それは切なくて心が寄り添えなくて……
シンジは綾波レイばかり見てあたしを見てくれなかった。
あたしは加持リョウジの事ばかり話してシンジを傷付けていた。
互いに母親のような存在と父親のような存在から卒業出来ていなかった。
シンジが助けに来てくれなかった最後の戦い。その哀しみと怒りと憎悪。
シンジに首を絞められた生涯忘れられないに違いない記憶。永遠に消え去らない二人だけの時間。あの時、あたしとシンジは、本当の本当に世界でたった二人ぼっちだったのだ。
そして、それから二十年の二人の軌跡。
シンジは松代であたしとの約束を破った。離さないでとお願いしていたのに、あたしの手を離してしまった。
シンジは大学卒業を前にあたしを捨てようとした。自分ではアスカに相応しくないと勝手に決めて。
シンジはネルフにあたしの居場所を作ってくれた。刻苦勉励を進んで己に課し、自分を痛めつけ、犠牲にする事を厭わなかった。
シンジはそれからあたしをずっと守ってくれていた。
シンジは今でも、ゼーレと静かに戦ってくれている。
シンジが雨の中、ずぶ濡れになってあの子の事を告げた──あの子を生み出したことを教えてくれた。あの日からあたしとシンジと六分儀アイの奇妙な疑似家族と三角関係が始まった──
そして、シンジが寒い日、雨の日に、疼く左手の指の痛みを黙って堪えている──それはシンジがあたしのために──ゼーレと戦うために──あたしの居場所を作るために──自分で自分の指を折った古い傷痕なのだ。
あたしはそのシンジの痛みをあたし自身の痛みとして感じることが出来る。
あたしが苦しんだ痛みを、シンジも引き受けてくれたのだと理解している。あたしとシンジは同じ痛みを共有出来た。実際に感じることは出来ない痛みでも、相手を想い、その辛さを想像することが出来る。それが本当に一番大事なことなのだ。
そして、あの子を生み出したことで──あの子と別れを告げたことで、あたしたちは一緒に苦しみ、あの子の親として──大人になった。
だからあたしはもう、いつまでも、シンジと一緒に居られる──
「シンジ。今日も一緒に抱き合って寝ようね。仲良しをたっぷりした後だって、まだまだ心で仲良し出来るんだ」
「うん……そうだね。身体でも心でも仲良ししよう……だって僕らは夫婦なんだから」
仲良しの後、しばらく眠れていたアスカと異なり、行為後もずっと起きていたらしいシンジの目が徐々にとろんとしてきた。
幸せな時間に夜の帳が下りようとしている。
「……アスカ、おやすみ。夢の中でまた──」
「うん、今夜は……夢でピクニックの予行をしようか。一緒のお布団でねんねをしてるから……きっと夢の中でも草原の上に二人で寝そべって。そうしたらあの子たちがはしゃいで笑う声が聞こえてきて。目をつぶりながら、そよぐ春の風に身を任せていたら、あたしとシンジはきっと、いつの間にか眠ってしまうんだ……」
自分の腕の中に抱いているアスカの何処かうっとりとした甘い声に、シンジは段々と、
◆
現在、ネルフの司令および副司令として、新しいエヴァ二機体制に合わせた使徒迎撃プランの更新に取り組むシンジとアスカは多忙を極めている。土日まで含めてもスケジュール調整が難しく、実際にピクニックに行く日は三月の後半になってしまった。アストリッドたちの学校である第3新東京市立第壱中学校も春休みに入っている。長期休みに子供たちをどこにも連れていけないのは可哀想だから、結果としては良かったかも知れないねとシンジとアスカは話し合ったものだ。
シンジが今、運転しているファミリーワゴンは、惣流家が休日の時だけ使うセカンドカーだ。家族四人が乗り込んで、十分ほど前に家を出発した。
「………ん? 駅に向かってるの、パパ」
三百メートル先で駅に着くというカーナビの案内音声に反応して、後ろの席のアストリッドが父親に確認する。車でまっすぐピクニックに行くのではないのだろうか?
「うん、人を拾うからね」
「え、ピクニックに行くのは僕ら家族だけじゃないの?」
息子のシンジも首を傾げた。そんな話は何も聞いていないからだ。
「その……紹介したい子たちが居るんだ。今日はその子たちと一緒だよ」
「子?」
「そう、シンジやアストと同い年の中学二年生。今度、壱中に転入するんだよ」
シンジは左折にハンドルを切って駅への道に入り、そう答える。
アスカは助手席でスマホに目を落として、言った。
「時間通り、もう駅前で待ってるって」
「うん」
駅前のロータリーで一旦、車を留め、ドライバーのシンジ以外は車を降りる。改札前の広場に、黒いジャージ姿の少年と、ワンピースの少女が揃っているのを見つけて、アスカは声を掛ける。
「お待たせ、今日は来てくれてありがとう」
「よう……」
「こちらこそ今日は誘ってくれてありがとう。アスカ」
「うん」
アスカはそれから、降車しているアストリッドとシンジ・ジュニアに視線を向ける。本来ならそれぞれの名前を紹介して挨拶をさせる所だが、アスカは子供たちに任せる積もりだった。
「車を止めてるから、自己紹介とかは車中でね」
そう言ってすぐに、車の二列目の座席に洞木ヒカリとアストリッドを、三列目に鈴原トウジとシンジ・ジュニアを、女の子同士、男の子同士のペアにして押し込んだ。
「トウジ、洞木さん。来てくれてありがとう」
運転席からシンジが挨拶して、後部座席から二人の新しい乗客の返事が返ってくる。
「ううん、こちらこそありがとう」
「ピクニックなんてワシの柄やないが、まあ春めいて暖こうなってきたしな。ちょうどええわ」
それに微笑し頷いて、おもむろにシンジは車を出発させる。
しかし、初対面の後部座席組の間には、ややぎこちない雰囲気が漂い、アスカはバックミラー越しに子供たちの様子を窺った。
最初に口を開いたのはトウジだった。隣に座るシンジに対して、前を向いたまま話を振る。
「……ジブン、シンジたちの息子なんか」
「シンジって……。ま、そうだけど」
腕組みをして怪しげな関西弁で訊ねてくる少年が父をシンジと呼んだので怪訝な顔になりつつも、シンジは肯定の回答を返した。ぶっきらぼうなので、何か機嫌でも悪いのかと思ったら、どうやらそうではなく、ジャージ少年は何だか幽霊のように信じられない物を見たような顔をしている。それにしても、なぜ自分の父親が、同い年ぐらいに見える少年に呼び捨てにされるのだろう?
「名前は?」
「……シンジ」
「は? オヤジと同じ名前なんかい」
トウジは目を丸くした。それじゃ区別が付かへんやろ、と。日本人には馴染みの薄い、父と息子で同じ名前を共有する慣習に戸惑った。
「正確にはシンジ・ジュニアだよ。キミこそ、人に名前を訊ねておいて、名前を教えてくれないの」
「ふん……ワシはトウジや。鈴原トウジ」
「トウジね。トウジは、どうして父さんを呼び捨てにするの?」
すると、憮然としていた少年の顔が、突然戸惑いに変わった。何と答えて良いのか、そもそも事実を答えても良いのかと、戸惑う表情だった。
「……それは」
そこにアスカが助け船を出すように助手席から割って入った。
「鈴原、あたしから説明してもいい?」
「ああ、すまんな……惣流」
露骨に安堵の顔をして、トウジは頷いた。
「……鈴原たちはあたしとシンジの同級生だったのよ。サードインパクトでLCLに溶け込んでいたんだけど、先日のネルフの作戦で無事救出された。救けるのに三十五年も掛かってしまったから、あなたたちと同い年に見えるけど、本当はあたしたちと同い年なの」
今後は二人を先鞭として、帰還者たちが続くことになれば、戸籍や年齢をどう取り扱うか世界中で法整備が為されることだろう。
「パパやママの同級生……」
アストリッドとシンジ・ジュニアは戸惑いを隠せない。どう考えても自分たちと同じ年代にしか見えない少年少女が両親たちと同級生だとは……。
今度はアストとシンジの方が、幽霊を見たような表情になった。
◆
洞木ヒカリは快活な少女だ。一見おとなしそうに見えるが、結構押しが強い。不正や他者の困惑を見過ごしに出来ず、自分から飛び込んで行く気質は、トウジと実はよく似ている。だから二人は惹かれ合うのだろう。
だからこの時も、ヒカリから口火を切った。隣に座る栗色の長い髪の──あの頃のアスカを彷彿とさせる少女に明るく話しかける。
「あの、こんにちは。……私の名前は洞木ヒカリ。今、アスカが言ったとおり、あなたのお母さんとは中学生の時、同じクラスで友達だったのよ」
「そう……」
「ごめんね、突然でびっくりしたわよね。アスカにピクニックに誘われて、嬉しくなって来てしまったんだけど、少し無神経だったかな」
「別にあんたが謝る必要、ないじゃない。どちらかと言えばあんたたちは被害者なんだし」
LCLからの未帰還者は数にすれば全人類人口の1パーセントにも満たないだろうが、それでも絶対数としては多い。世界中で数千万の人間が戻ってこれなかった。大部分は、本人が単体生物としての生に安住し、自分の意志で戻ってこないのだと推測されているが、碇ゲンドウは勿論、サードインパクトのトリガーとなった旧姓・碇シンジへの非難も「遺族」を中心にして隠然と続いている。
アストリッドもこれまで多くの被害者の「遺族」を見てきた。大半が報道番組でのインタビュー映像などだったが、アストリッドはいつも自分たち家族が彼らに責め立てられているような気がしていた。しかし、遺族ではない被害者本人にまみえたことは当然ながら無い。これまでLCLの海から後になって生還した人は一人も居なかったからだ。
「……被害者? どうして?」
ヒカリは不思議そうに小首を傾げた。アストリッドの見るところ、彼女はこれまで見た遺族の多くと違って、恨みがましい思いを抱いてる感じではなかった。遺族でさえ恨みが消えないのに、三十五年もの時間を奪われた本人がこんなにも淡々としているものだろうか。アストリッドは意外の感に打たれた。
「えっと。……サードインパクトのこと、聞いてないの?」
「聞いたよ、碇くん……あ、あなたのお父さんから全部」
「聞いたのに何で。……うちの家は、昔からその事で皆に白い目で見られている。ましてあんたたちはずっとLCLに溶け込んでたんでしょ。恨み言ぐらいないの?」
「だって。あなたの両親はずっと世界のみんなの為に戦って来たのよ。そしてそのお陰で、まだ世界は滅びていない。全員を守りきる事なんて誰にも出来ないし、助けてもらっておいて上手く行かなかった時の事だけ非難するのは、ね……」
そんな考え方、してみたこともなかったから、アストは驚いた。アストリッドの周りには、祖父ゲンドウや父シンジの行った事で露骨に冷淡な態度を取る大多数の人間、その逆にアストリッドとシンジの二人を特務機関ネルフの最上級幹部の子女として下心を持って近づく少数の人間で占められていた。同級生だけではなく、教師にさえ──勿論、全員ではないが──そういう傾向が見られたほどだ。
後者は、いよいよ人類が滅亡するときは、アストたちの友人知人として「特別な便宜」を期待しているのだろう。そんな連中と仲良くする義理などアストたちには更々無かったから、冷たくあしらっていると、後者から前者に転向する例も多い。しかしどうやらヒカリというこの女の子は、前者にも後者にも属さない稀有な少女であるらしかった。
「でもだからって……」
アストリッドの混乱した様子に、ヒカリは頷いた。
「うん、本当はそんな格式張った理由じゃなくて、もっと素直な理由があるの。──私も鈴原も、アスカや碇くんのことが好きなのよ。とても大切に思っているの。一生の友達だってね」
アスカは助手席に座ったまま、ぐっと膝の上で両手の拳を握り込んだ。唇をキュッと引き結び、フロントガラスを真っ直ぐに見つめて、つい溢れ出しそうになる想いを堪えている。
隣で運転をするシンジだけがそんな妻の様子を察して、黙ってアスカにだけ分かるように頷いている。
──良かったね、アスカ。
アスカもシンジのそのサインに気付いて、こくりと小さく頷いた。アスカの繊細な気持ちに寄り添ってくれる夫の優しさが愛おしい。
そして、そのヒカリの言葉は、今度こそアストリッドの胸にもすとんと落ちた。だから、アストリッドは我知らず自分から申し出ていた。
「……ヒカリ、って呼んでいいわよね? あたしはアストリッド。惣流・アストリッド・ラングレーよ」
「ええもちろん。アストリッド……いい名前ね」
ふふとアストリッドは笑った。
「大仰な名前だと思ってるでしょう。ママが『長くつ下のピッピ』の作者、アストリッド・リンドグレーンから貰って付けてくれたのよ。あのお話、あたし大好きなんだ」
「ピッピ! 私も好きだったわ!」
天衣無縫なニンジン色の髪をした少女ピッピ・ナガクツシタが活躍する児童文学だ。
「子供の頃からピッピは好きだったのよ。リンドグレーンを作家として、女性として尊敬している」
すぐ前の座席からアスカも話に加わった。アスカは、この、母を幼い頃に亡くし父も行方不明で、たった九歳で一人暮らしをしているピッピという物語の少女に恐らくは幼い頃の自分自身を重ねていた。
アストリッドという名前はドイツや北欧などに見られる女性の名前で、王妃や王女の名前にもなっている。真希波・マリ・イラストリアスになぜか姫呼ばわりされ続けているアスカの娘にも相応しい高貴さを持つ名前だ。そして、その命名にはアスカの、ピッピ・ナガクツシタという「世界一つよい女の子」への憧憬や、実母のいない自分とも重なる孤独な境遇への共感が込められている。
付け加えると、リンドグレーンはスウェーデンの作家だが、実は日本との奇縁もある。
すなわち『エヴァ、ノリコさんに会う』という写真絵本を出しているのだ。もちろん、このエヴァというのは主人公の女の子の名前で、スウェーデンの少女が日本の少女を訪ね、日本の風習を学ぶというストーリーの本だ。エヴァというのが、たとえ人名だとしても、アスカはそこに不思議な暗合を感じてもいる。そういえば、実母のキョウコから与えられたあの絵本のお陰で、アスカは自分のルーツの一つである日本の文化や習慣の一端を知ったのだった。やがて訪れる事になる、未来の伴侶と出逢う国とのそれが初めての接触だったかも知れない。アスカにとってとりわけ思い入れの強い女性作家なのだ。
「でも、本当にアスカと碇クンの子供なんだね。驚いたわ……」
「やっぱり信じられない?」
アスカが前の席から振り向いて尋ねる。ヒカリの主観的な時間の流れでは先月までの同級生がいきなり子持ちになっているようなものだろう。現実を呑み込むのに時間がかかるのも仕方がない。それに反応して、ヒカリはアストリッドと後席のシンジ・ジュニアの顔を覗き見比べて、それからうふふと笑った。
「ううん。納得せざるを得ないわ。二人の顔を見たら。二人ともアスカに似てるし、碇クンにも似てる」
「……だってさ。このこのぉ」
助手席のアスカが、運転席に座るシンジを肘で小突く真似をする。実際に小突いたら危ないからあくまで素振りだったが。
「な、なんだよ。アスカ」
「あたしとシンジの両方に似てるんだってさ」
シンジの横目に、にやにやと笑うアスカの表情が入った。
「そ、そんなの……当たり前でしょ。……だって僕とアスカの子供なんだから」
「確かに当たり前だけど」
シンジの顔も含羞に少し赤らんでいた。アスカはそんなウブな夫に向かって言葉を続けた。
「それってやっぱり……最高に幸せな『当たり前』だよ」
うふふと、アスカは頬を染めて、助手席から夫を蒼い瞳で熱く見つめている。
「アスカ、本当に良かったわね」
「うん!」
ヒカリが満面の笑みで親友を祝福すると、アスカも振り返って嬉しそうに大きく頷いた。
しかし、同じ旧友でも感じ方の感覚が違うようで、トウジは呆れたような声を上げて、子供たち二人に尋ねる。
「あー、熱っちいわい。お前ら……いつもこんなのを聞かされとるんか?」
「まあね……」
トウジの突っ込みに応じたアストリッドは、パワーウィンドウのスイッチを押して窓を開ける。
確かに恥ずかしい。家族だけならまだいつものことかと堪えられもしようが、家族でない人間が二人も居る前で、両親がいちゃついているのだ。仕方なくアストリッドは窓から入る涼風で赤くなった顔の火照りを冷ます。
その様子を後席から眺めながら、シンジ・ジュニアは言った。
「僕はちょっと前まで母さんと父さんに苛々してたよ。いつまで経っても新婚気分なんだから……」
「シンジ?」
アストリッドが振り返り、席の間から気遣わしげに双子の兄を見た。運転席と助手席の二人も、そっと視線を交わしあう。
「……でも親が険悪な家庭よりは良いと思う。つめたく冷え切った家よりは、母さんと父さんがイチャイチャしてる方がいい。今日みたいに外の人がいると恥ずかしいけど……」
腕を組んで目をつぶって話を聞いていたトウジが口を開いた。
「せやな。それに両方の親が揃ってるだけでも羨ましいわ」
「え?」
「……ワシら、シンジも惣流も委員長……いやヒカリも、みんな母親はおらん。母親が亡うなっとるのが、エヴァのパイロット候補の要件やったんや」
と一通り説明できるのは、トウジも復活後、新生ネルフで諸々の説明を受けたからだ。
「ネルフ司令として、君たちに謝罪するよ。人間としてまともな扱いをしなくてごめん。済まなかった」
再建されたネルフの代表としてシンジは説明を終えて、こう謝ったものだ。だからトウジは当然のごとく反駁する。
「何を言うてんのや、お前かてワシらと同じ、いやそれ以上に、まともな扱いをされてこなかったんやないか。同じエヴァパイロットのチルドレンとして、お前がワシに謝る必要なんかあらヘン」
「でも、今ネルフは僕が指揮してるんだ。トウジに謝れるのは僕しかいない」
その言葉に、あの時トウジは複雑な顔をした。目覚めた日、シンジから病院で受けた謝罪とは違う。あれは、自分たちの帰還が、一時的に神人的な力を保持したシンジによって無意識的に拒まれたという件への謝罪だ。だがこの謝罪はシンジ自身の行為ではなく、かつてのネルフ司令碇ゲンドウやネルフを率いていた大人たちに成り代わっての謝罪だ。シンジ自身がトウジと同じく被害者だった案件なのだ。
「大人は、自分のした事でのうても謝罪する、ちゅーやつか」
「うん……そうかもね」
「ワシらは子供のままで、シンジたちは本当に大人になってしまったんやな……」
「ごめん。一緒に大人になれなくて」
その謝罪は先に大人になってしまったシンジからのものなのか、親友だった二人の時を隔てさせてしまう原因を作った子供だった頃のシンジからのものなのか、どちらからの謝罪と取るべきなのかトウジには分からなかった。
ただ、その謝罪自体がどうしようもなく寂しかったし、シンジが身体に合わない大人の服を着て、無理をしているような気がしてならない。もっと自然な、大人ではなく友人としての対応を期待してしまうのだ。
トウジはそんなやりとりを束の間思い出した後、車中の隣席に向かって言った。
「お前らもエヴァパイロットなんやてな」
「まあね──」
トウジたちは、シンジ・ジュニアとアストリッドをきょう実際に見てそれなりに驚かされたが、シンジとアスカの間に二人子供がいて、その子供たちが今、エヴァ初号機と弐号機の新たなパイロットになっていることは、あの病院での説明の後日、衝撃を受け過ぎないようにとの配慮の上で、緩やかに少しずつ説明を受けていた。
トウジの質問を受けたシンジは自分の亜麻色の髪をアストが開けた窓から入り込んだ風に吹かせるままにしている。
「怖ないんか……ジブンは」
鈴原トウジは自分が参号機パイロットとなり、危うい所で命を拾う羽目になったことを当然覚えている。しかし、自分は事故に遭う前から、エヴァンゲリオンに乗ることが怖かったのだ。だから、シンジやアスカにはどうしても敵わないと思っている。
「そりゃ怖くない訳がないけれど、僕は父さんの仕事を手伝って──みんなを守ろうとしているだけだよ」
シンジ・ジュニアはさらりと言った。
「だって、ネルフはうちの家業なんだ」
それは奇しくもトウジが入院中の病院で父親の方のシンジに告げた見立てだったから、息子のシンジが同じように思っている事に驚く。彼らはトウジたちの存在を知らなかったのだから、父のシンジが息子にトウジの見方を伝えたわけではないのだろう。
「僕ら家族に優しくしてくれる人もいる。ネルフの職員の人たちはみんな大好きだ。だからエヴァに乗ることでネルフの人たちに恩返しもしたい。でも、殆どの人は僕ら家族に対して醒めてるよ。お爺さんがあんな人だったんだからね──だから僕たちの味方は最後には家族だけだ。家族で助けあわないなら、僕らを助けてくれる人はいない」
「シンジ……」
アストリッドが思わず目を瞑って、俯いた。シンジはよく物を見ている。全部その通りだ。シンジはみんなを守りたいと言うけれど、そのみんなはまず家族やネルフの人たちなんだ。シンジは音楽で身を立てたいという願いを持っていて、アストは幼い頃からシンジのピアノが大好きだったが、最近のシンジの音楽にはその根底にどこか諦観があった。一方通行にシンジの側から感動を届けようと試みるが、それに対する人々からの反応については諦めているような──。ずっと子供の頃からシンジのピアノを聴いて来たから、アストには分かるのだ。シンジのその身の内には強い自己表現への欲求があるが、人々からの理解については期待していないような割り切りを感じる。
幼い頃、二人は夜毎、帰りの遅い両親を待ちながら、自分の親たちは世界を救うために頑張っているのだと言い聞かせて寂しい自分たちの心を慰めてきた。世界にはシンジとアストリッドが含まれているから守っている。両親はそう言っていたから、子供たちは世界は家族の拡大版のようなものだと思っていた。だけど、シンジはその世界を拡大家族だと信じる事について自信を失いつつあるのかも知れなかった。一方通行のまま、自分たちに感謝も理解も返してくれようとしない世界をそれでもいいと腹を括って守ろうとしているのかも知れなかった。
アストリッドはそんな双子の兄の諦めを哀しく思う。兄に掛ける言葉を見つけられず、両親も沈黙していて、静寂の空気が車中を満たす。
「……ジブン、運動は得意なんか?」
トウジが突然、初めて正面からシンジの顔を見て言った。何かに怒っているような口調だ。
「え、別に得意ではないけど。フツーかな」
「さよか。車降りたら、ワシと勝負をせんか」
「勝負って何で?」
シンジは勝負をしなければならない理由を問うたつもりだったのだが、トウジはそれを勝負の方法の確認と受け取ったようだ。
「なんでもええ、球技でも、それ以外でも」
「ちょっと鈴原……」
ヒカリが思わず窘めようとするが、アストリッドは口の端を吊り上げた。そうだ、落ち込んでいるのなんてらしくないじゃないか。これから、みんなでピクニックに行って、楽しく遊ぶのだ。幸い、初対面とはいえ、ヒカリと鈴原は悪い人間ではないのがすぐ分かった。そういう相手との勝負なら勝っても負けても爽快な筈だ。挑戦だかなんだか知らないが受けて立とうじゃない。
「面白いじゃないの。その勝負とやら、あたしとシンジ、あんたとヒカリのダブルスでやりましょうよ。ちょうどバドミントンのラケットとか持ってきているし」
「よっしゃ、乗ったワ」
「なんでそんなことを勝手に決めるのよ……鈴原」
呆れる良識人のヒカリを余所に、アストリッドとトウジはどんどん話を進める。
「いいわよね、シンジもそれで」
「ま、別に僕はいいけどさ……」
「何か勝負で賭ける? その方が面白いわよね」
「ワシが負けたらお前らの言うことを何でも一つ聞く。その代わりワシが勝ったら、さっきの言葉を取り消してもらうで」
「さっきの言葉?」
シンジが片方の眉を上げながら確認すると、トウジは言った。
「お前が、家族以外にお前らを助けてくれる味方なんておらんと言うた事や。それだけは取り消してもらわなアカン」
「……どうしてだよ。そんなの僕の勝手じゃないか」
「勝手なんかやない! ワシはそないな寂しい言葉を、碇シンジの息子から聞きとうないんや!」
トウジの表情は真剣だった。真剣に怒っているのだ。それに気付いて、運転席のシンジは思わずぐっとハンドルを握り込む。アスカも厳粛な表情になった。二人とも身の内側から何か熱いものが込み上げて来そうだ。ヒカリも振り返って彼女の想い人の顔を誇らしげに見つめている。そしてアストリッドはそんな彼女の様子を見て、ヒカリのトウジへの気持ちに今更ながらに気付くのだった。
「鈴原……」
「……わかった。だけど、取り消すのはあくまで君が勝ったらの話だよ」
シンジはそう回答する。
若きシンジも簡単に考えを撤回するつもりはない。十四年生きてきて、それなりに悟った結論として「家族以外に真の味方はいない」と言ったのだ。ネルフの職員の人たちはむろん敵ではない。でも、あの人たちは──マリさんにせよ、霧島一佐にせよ、どこかしら家族の延長みたいなもので。シンジにとってはやはり家族以外の味方など考えられないのだ。
そんな子供たちの対決を、アスカと大人のシンジは遠くから見守るしかない。シンジたち二人は、トウジたち二人と時の流れにより残酷に隔てられてしまった。子供同士の話に大人は介入できない。それでも、シンジは運転から注意をそらさずに、小さな声でアスカにだけ聞こえるように言った。
「ね、最高でしょ、トウジって」
「……うん、あんたの一番の親友のことだけはある」
アスカの返事にはちょっと潤んだ声の響きがあった。