子供たちのエヴァンゲリオン   作:しゅとるむ

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五話 放蕩息子の帰還

 シンジたちは県道731号、愛称はこね金太郎ラインを通って、第3新東京市の中心街からはやや外れるが、長閑な旧南足柄市地区まで足を伸ばした。

 

 急速に開発と都市化が進んだ旧箱根町に比べると、第3新東京市の奥座敷とも言うべきこの地域にはまだまだ緑が残り、また累次の使徒侵攻に際しても、ジオフロントよりも北に位置するという関係で殆ど被害の無かったのがこの地域だった。

 

 のびのびと広い青空の下、芝生の上で、子供たち四人がバドミントンのシャトルを追いながら、ラケットを振るっている。

 

「こ、こらっ! モモっ。邪魔しないでっ」

「バウ、バウゥ」

 

 アストが若い頃のアスカに間違えそうな、よく似た高い声で叱っている。車内ではおとなしく眠っていて、ヒカリたちに一瞬真っ白なラグかと勘違いされていた惣流家の愛犬モモが、今は四人の間を元気に駆け回って、バドミントンの真剣勝負に擾乱の要素を加えていた。

 

 シンジとアスカはレジャーシートの上で体育座りに座ってそれを眺めながら、手と手を重ねていた。

 

 二人は結婚してから、毎日お互いの手を握ることを自分たちに課している。

 

 それがしたくても出来なかった頃の切なさを想いながら、毎日手を繋いでいる。

 

 四人の勝負は、トウジがシンジ・ジュニアに喧嘩を売るようにしてふっかけたものだった。息子の方のシンジが、家族以外に味方などいないと決め付けた諦観を、トウジは打ち消せと息巻いた。他人を信用しない、世界を冷淡な潜在的加害者のように見なすのをトウジは止めさせたかった。シンジの同名の息子にそんな寂しい人生観を持って欲しくはなかった。

 

 だから、勝負を挑んだのだ。

 

 そのトウジの思いは高潔だった。しかし、一方で、鈴原トウジの足は鈍重に、空回りをしている。腕の振りが数瞬遅れ、シャトルをラケットが捉える事を許さない。

 

「鈴原ってさ……」

 

 こけつまろびつ、シャトルを追う少年を眺めながら、アスカは素朴に感想を述べた。

 

「中学の時はクラスの男子たちなんて気にも止めてなかったから……気付かなかったけど、あんまり運動得意じゃないのね」

 

 シンジは友の名誉に関わる事だけにやや躊躇いがちに頷いた。

 

「まあそうだね……」

 

 はっきり言ってしまえば、トウジは運動音痴だった。番長然とした、バンカラな態度から腕っ節も強いように一見見えるが、実際には運動能力はからっきしだった。

 

「エヴァにシンクロ率という要素があったから、トウジは順位の高いパイロット候補だったけど──」

 

 そういう要素が無ければ、トウジはパイロットには決して選ばれなかっただろう。──といった事をあれこれ思うようになったのは、シンジもネルフの司令として、あの頃のチルドレンたちの資料一式を受け継いでからだった。

 

「あんたは、ボサボサっとして見えるけど、運動神経良かったものね」

 

 かつて級友の男子に関心を持たなかったアスカだったが、流石に同居人にして同僚のシンジのことはよく見ていた。

 

 体育の授業中、彼に注目して球技などを眺めていると、シンジが本気でプレイしていないことが分かった。やる気がなくて怠けているというのではない。わざと目立たないようにしているのだ。アスカにはその態度が気に入らなかった。随所で隠しきれない光る身体動作を見せられてはなおのことだ。

 

 あの時、アスカはシンジに詰め寄ったものだ。

 

「真剣にやらないのは何故よ? 一緒に戦ってる人間にも失礼じゃない!」

「……目立つのはイヤなんだ」

「はぁ? 意味わかんない。己の能力を知らしめて何が悪いのよ?」

「悪いなんて、言ってないよ。アスカみたいに皆を唸らせて惹き付けたって構わない。ただ、僕はそういうのイヤなんだ」

 

 地味に静かに平凡に、いつの間にか消えているようにひっそり生きていきたい。存在を忘れられてさえいれば、エヴァのパイロットとして父親に引っ張り出される事も無かった。人間ではなく便利な道具として用いられるだけなら、いっそ父にさえ思い出されない方が良かった──

 

 そんなシンジの願いがあの頃のアスカには欠片も分からなかった。己の存在価値を世間に認知させる。親に捨てられたアスカにとっては、それだけがエヴァに乗る理由だった。シンジと同じような出発点から、彼とは正反対の生き方を目指してきたアスカには、シンジの姿勢はアスカのレゾンデートルの否定であり、冒涜的にすら感じられたものだ。

 

 それに、今なら自分の気持ちの真実がよく分かるが、アスカは歯痒かったのだ。

 

 本当は周囲の人間にシンジの能力を知ってもらいたかった。彼が秀でた人間だと衆に知らしめたかった。それは多分、アスカがその時、シンジの事を少しずつ好きになり始めていたから。自分が好きになった人の価値を他人にも認めて貰いたかったのだ。

 

 でも、シンジ自身はそれを全く望んでいなかった。

 

 天性のシンクロ率と運動神経の高さが、シンジを自身が望まずして稀代のエヴァンゲリオンパイロットにしていたのだ。アスカも最初はシンジの能力を甘く見ていたのだが、やがてそれは賛嘆を経て、自分以上に運動能力やエヴァの操縦適性が高いと知るに至って、複雑な想いを抱くようになったのだった。

 

「頭もいいし。顔も可愛い…‥最初に冴えないと思ったのはあたしの見事な勘違いだったってわけね」

「可愛いはよしてよ。頭だって……僕は別にそんなに頭が良い訳じゃない。兎のみんなが寝ている間に、亀として歩き続けただけだよ」

 

 アスカはそれには素直に頷いた。結局はシンジの才能で一番のものは努力できるという才能だったわけだ。そして、その努力の才はアスカに対する贖罪意識や彼女を今度こそ救いたいという強い使命感によって培われたものだった。

 

「それに、トウジの凄さは運動が苦手でも、そんな自分自身を少しも苦手としてないことなんだ」

 

 運動が苦手だということによってもたらされる自己に対する卑下心は女子よりも男子でずっと強い。それも若ければ若いほどだ。それはやはり、男子には先ず腕力や駆けっこの速さなど、原初的な動物としての強さが求められるからだろう。人類がまだ知恵を身に付ける前の、群れや家族を守るための力だ。

 

 どんなに気の強い人間でも、体育の授業などの人前で無様な姿を一度でも晒すことになれば、男子の自尊心なぞ一辺で吹き飛ばされてしまうものだ。同性からの軽侮と、異性からの失笑。若い少年を永遠に傷つけてしまいかねない呪いのようなものだ。多くの運動が苦手な少年がそのトラウマを幼くして負っている。

 

 だから、運動の苦手な自分自身を少しも恥じておらず、どこまでも強気なトウジは、驚くべき存在だった。強靭で、本当の意味で心が強い。本来、誰に対しても恥じるべきでない己の資質を、開けっ広げにしていた。球技でもなんでも一番競技が下手なトウジが堂々として他者のプレイを激励し、叱咤する事などが多かった。

 

 最初、シンジはトウジの運動神経の事実を知り、彼がいつも身に付けているジャージはその劣等感を誤魔化す為のものなのかと思っていた。いかにも運動が得意そうに見えるように始終ジャージを着ているのではないかと。しかし、決してそうではなかった。トウジはその時、シンジにこう言った。

 

「ワシは、運動が苦手な事から逃げとうないんや。ジャージをいつも着よりおったら、ワシは運動の事を忘れる事は決してあらへん。忘れてもうたら、その時初めて、ワシは己の苦手に負ける気がするねん」

 

 シンジはその言葉をそのまま、現在のアスカに語って聞かせた。

 

「……そういうやつなんだよ、トウジって。いろんな事から逃げ続けてきた僕とは違う。僕はもっとトウジから学べば良かったんだ。せっかくの友達だったんだから。そうしたらアスカを傷付ける事なんかなくて──」

「でも、今のシンジは逃げてないよ」

 

 アスカは夫と繋いだままの手の指と指を絡めた。二度と離すまいと、誓うように固く手を握る。

 

「鈴原は立派な男子だ──あんたの親友やあたしの親友の恋人に相応しい。でも、あたしはバカシンジが好きだな。惑い、迷い、時として逃げ出して、それでも逃げちゃダメだと自分に言い聞かせ続けた、あんたが好きなの。こんなにも好きでなければ、三十五年も一緒にはいられない。あの赤い海の浜辺からここには辿り着けなかったよ」

「アスカ……」

 

 二人はそっと見つめ合う。他の四人──子供たちが近くにいないのならば、きっとそのまま接吻に進んでいただろう。それが二人には少しだけ残念だ。

 

 

「トウジたちを復原する前に、お父さんの所に許可を貰いに行ったんだ」

 

 シンジはバドミントンの「熱戦」を眺めながら、アスカに話しかける。息子のシンジの動きも鈍く、どうも女の子たちばかり活躍しているな、と頭の片隅で考えながら。

 

「鈴原のお父さんの所へ?」

 

 マリとサクラをリーダーとサブリーダーとして進められてきたプロジェクトだ。アスカもそれは知らなかった。シンジは肯いた。

 

 ネルフの司令であるシンジだが、その時は公共交通機関を乗り継いで、最後には徒歩で、トウジの家を単身、訪ねた。それがシンジが尽くすべき当然の礼だった。中学の時にトウジが住んでいたままの一軒家が、三十五年の歳月を重ねて、満身創痍という風情で建っていた。子を亡くした家にしばしばあることだ。親はそこから転居することも建て替える事も出来ずに、子供の部屋ごと時間を凍結させたようにしてそこに居続ける。

 

 玄関先でシンジを出迎えた父親はあの頃のトウジをそのまま六十歳ほど加齢させて、丸眼鏡を掛けさせたような老紳士だった。シンジが訪ねたのはまだ冬頃だったから、何度も洗って縮んでしまったようなサイズの小さなニットのセーターを着ていた。トウジの妹のサクラはこの家を既に出ているらしい。父のことが気になったとしても、兄の思い出が漂うこの家は暮らしにくいのかも知れなかった。生活の細部にまでは目配りが行き届かない男やもめの生活感が漂っていた。

 

 トウジの父親は元々、ネルフ科学部所属の理論物理学者だった。ミサトの父である葛城博士が提唱したスーパーソレノイド理論に関する研究に携わっていた。勿論、今は引退している。一見して理知的で温厚そうな人物だった。関西弁の押しの強そうな人物を想像していたシンジには少し意外だった。シンジは挨拶もそこそこに、カファルナウム計画の説明をし、トウジをその最初の帰還実験の対象とする事について、親権者の許可を求めた。

 

「……ほう、カファルナウム。主が伝道したガリラヤの街の名前だね」

 

 そう直ぐに気が付いたところを見ると、彼はキリスト者なのかも知れなかった。いや、トウジがいなくなってから、キリスト者になったのかも知れなかった。それもまた子供に先立たれた親にはよくある事例だった。

 

「そうか。ネルフは神の奇跡を起こすか……地上に息子たちを復活させてくれるのか」

 

 もちろん、そういう人々の連想を狙ったプロジェクト名だった。長引くシトとの戦い。長い中断期間を挟んで、いつ再開するとも、終わるとも知れない人類の終末戦争。それに倦む人々にとって、LCLからの未帰還者を取り戻すカファルナウム計画は最大の希望にならなくてはならない。だけど、その反応を見て、シンジは初めてこの命名を後悔した。

 

 LCLからの復原計画が首尾良く成功するとは限らない。もしもこんな名前を冠した計画が失敗したら、「遺族」はそれこそ神にも見放された気持ちになるのではないか、と。

 

 しかしシンジの心配をよそに目の前の人物は更なる興を催したようだった。今度は区々たるプロジェクト名ではなく、目の前の碇シンジという人物に。この、既に中年になった息子の友人に、トウジの父は初めて会った。妻を失ってからというもの研究と仕事に逃げ込むように生きていた彼は、娘の大怪我の後の入院でさえ、可能な限り息子に任せていたほどだ。だから早い時間に帰宅して、息子の友人と会うような機会はむろん無かった。帰宅を毎晩繰り延べるように遅らせたのは、妻の忘れ形見の息子や娘の顔を見るのがつらかったのだ。明らかにその顔に妻の面影を見つけてしまうのがつらかった。二度と取り返しの付かない、喪われてしまった愛をもう忘れてしまいたかった。

 

 そういえば、娘サクラの怪我も、この碇シンジ少年が操るエヴァンゲリオン初号機が原因だった。その事は作戦部の葛城ミサト一尉から深甚なる謝罪を受けていたし(司令の碇ゲンドウからは何の見舞いの言葉もなかったが、サクラの病室には差出人不明の高価な花が届けられていた)、息子からも聞いていた。その時に感じたのは少年やネルフへの怒りではなく、諦観だった。自分の選んだ仕事が、妻を奪い、娘を害した。天は自分から全てを奪うつもりなのだろうか、と。意外に感じたのは、その後、トウジが碇シンジ少年と親しくなったという話を聞いてからだ。子供たちは子供なりの理屈で親しくなれるものだな、と感心したものだった。

 

 ──そうか。息子の友人ということは、息子があのままサードに巻き込まれなければ、こんな年なのだな……

 

 そんな感慨に囚われながら、しかし、先ほどの説明によれば、無事に戻ってこれたとしたらトウジの肉体的年齢はあの頃と同じ中学生のままらしい。やれやれ──七十を超えてまた子育てのやり直しか。と心の中だけで呟きながらも、何故か口許が弛む。もちろん、こうも高齢では、万一の為に誰かに後事を託す必要があるだろうが。トウジの妹のサクラならその資格は充分だ。だが、経済的にはどうだろう。未だ独身の娘はそれはそれで別の意味で心配な存在なのだ。

 

 それならば、その代わりに、トウジの後事を託すべき人物として、この碇シンジという男は果たして信頼出来るだろうか?

 

 老人はその事を見極める前に、いつもの癖で、玄関の横の壁に架けてある洋画に視線を向ける。彼がいつも無言で対話する相手である油絵が、大きな額に入れて飾ってあり、シンジの視線も、自然それに釣られて引き寄せられる。

 

 その額の中では、正面を向いた赤い上衣を羽織った老爺が、跪いて背を向けた粗衣の男の両肩に手を置いている。手前の赤と白で描かれた人物が、背景の黒と対比的な色彩で、奥行きを感じさせる。シンジにも見覚えのある名画だった。

 

「気に入っている絵でね」

 

 鈴原老人はそう言って、シンジに水を向けた。

 

「確か……レンブラントですか」

「ああ」

 

 壁に架かっていたのはレンブラント・ファン・レインの複製画だった。十七世紀、オランダの画家だ。日本で言えば江戸時代初期の人だ。光と影の描き方が巧みで、「光の魔術師」と呼ばれているのだったか──。

 

 昔のシンジなら洋画家の作品や名前などさっぱり分からなかっただろう。しかし大学の時にはシンジは何でも学んでやろうと睡眠を削ってまで知識を求めていた。──何がアスカを救える助けになるか分からない。何を学べばアスカを守れる男になれるのか分からない。そんな中での知識や学問への餓えだった。──ざっくりとした知識ではあるが、美術も例外ではない。それに、アスカに基礎的な教養として教え込まれた事もあった。シンジ自身の努力とアスカによる教育が今のシンジを形作っている。

 

 確かこの絵の題材は、新約聖書の話で──

 

 記憶を掘り起こしてシンジはそれを思い出そうとする。トウジの父親はその反応を見て、静かにシンジに訊ねる。

 

「……分かるかね?」

 

 謎を掛けるように鈴原氏は言った。シンジはその時のやり取りを現在、回想を語って聞かせている、妻アスカの前で再現してみせる。その時のシンジも、今の目の前のアスカと同じように、少しの時間、考え込んだ。

 

「ま、まさか……」

 

 アスカは思わず上擦った声を上げた。アスカはもちろんその名画を知っていた。聡い彼女は直ぐに思い至ったのだ。直接トウジの父に問い掛けられた時のシンジと同じように。同じ程度の僅かな時間の思考だけで。アスカとシンジの思考の速度や経路はユニゾン訓練や長年の交際を経て、極度に似通って来ている。

 

 レンブラントのその絵画は、『放蕩息子の帰還』と呼ばれている。新約聖書のルカ伝で述べられた、イエスのたとえ話をモティーフにした名画だ。

 

 ルカによる福音書に曰く、ある人に息子が二人いた。下の息子は財産の分け前を要求し、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くした。何もかも使い果たして、身を持ち崩し、やがて父のところに帰った。父はたちまち息子を見つけ、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は、犯した罪を認め、もう息子と呼ばれる資格はないと言った。しかし父はしもべに命じた。「急いでいちばん良い服を、手には指輪を、足には履き物を。肥えた子牛を屠り、食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」と。

 

 死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった。──それは奇妙な程に、これから復活の試みが成功しさえすれば、鈴原トウジの状況にぴたりと一致している逸話だった。

 

 話は続く。弟が帰って来て、兄は怒って家に入らず、父はなだめた。兄は父親に言った。「わたしは何年もお父さんに仕え、言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに子山羊一匹すらくれなかった。ところが、弟が娼婦と一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠ってやる」すると、父親は言った。「わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前の弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」

 

 イエスという人の人間観察の鋭さを感じさせるたとえ話だ。善悪、正義不正義だけでは割り切れない、人間の真情や情愛を活写している。そして、放蕩息子が心弱き人間の象徴であることも明らかだろう。

 

 そう。『放蕩息子の帰還』……それは漢語で、もっと簡潔に言えば──

 

「だ、駄洒落じゃないの…‥」

 

 脱力気味のアスカの確認に、シンジは苦笑いして肯いた。

 

「うん。放蕩息子の帰還……つまりは、蕩児(とうじ)の帰還だね」

 

 蕩児の帰還。すなわち、トウジの帰還。逆境に在って悲嘆に暮れていても、そんな諧謔を込めて名画を飾っていたとすれば、トウジの父親は稀代のユーモリストなのかも知れない。ユーモアこそが、哀しみや苦しみに抗する人類最高の武器だろう。洗練された人物だった。あのトウジの父親と言われて、納得できる人物だった。

 

「だけど……流石に本当に冗談なのか、そうだとしても笑っていいのか、分からなくて弱ったよ。でも、玄関にトウジの帰還という絵を掲げて、その絵を毎日矯めつ眇めつ眺めていたに違いないトウジのお父さんの気持ちを思うと、やっぱり僕にはいたたまれないものがあった。その絵は父親としての切なる願いだったんだと思う」

 

 だからその時のシンジは改めて頭を下げたのだ。名前も知らない赤の他人の未帰還にだってシンジは責任を感じている。まして親友であるトウジの事は、不作為とか無力とか以上に、シンジには直接的な罪があったのだから。その告白はシンジに怒声と面罵を、覚悟させる。それを受けても当然だとシンジも理解している。

 

「息子さん──トウジが帰って来れなかったのは僕のせいなんです。僕はトウジが片足を失った事で、彼に会わせる顔がないと思った。面目無くて、今、一番会えない人で、会いたくない、そう思って──それで、あの時、エヴァンゲリオンの途方もない力を握っていた僕は──彼の帰還を無意識に拒んでしまった──」

 

 しかし顔を伏せたままいつまで待っても予想していた怒りのつぶては飛んで来ない。トウジの父は、静かに首を横に振った。それは、シンジの謝罪、贖罪を拒むような否定ではなかった。

 

「物事には見方によって異なる側面がある。レンブラントの絵を彩る光と影のように」

 

 そうだろう? と老爺はシンジに同意を求める。

 

「碇シンジ君。……息子は確かに帰ってこなかった。それは確かに私をますます絶望させた──しかし、その事でこの三十五年間、誇張なく、私は息子の事を考えない日は無かったよ。そんな風に息子の事で心が一杯になったのは息子と私が引き裂かれたからかも知れない。会えない時間が、私を──妻亡き後、研究に没頭し、息子や娘から逃げていた私を──再び家族と向き合わせてくれた」

 

 いつだって大切なものは喪われて初めて、その大切さに気付かされる。ありふれた教訓かも知れないがね、とトウジの父は言葉を結んだ。

 

 その言葉は、シンジに「あの世界」の事を想起させる。いつも心の片隅に残っている、アスカとシンジが別れてしまう別の世界の話──この世界のアスカとシンジがもはや決して認知し得ない、あり得たかも知れないもう一つの可能性の世界──あの世界の二人も別れる事になって、初めてお互いの大切さに気付かされたのだろうか。それからの日々は、長い人生は──お互いの事を想わない日はなかったのではないか──。

 

「世間では……碇シンジ君、キミを悪魔のように呼ぶ者たちがいる。その逆に神のように崇める者も。しかし、キミが悪魔である筈がない。悪魔ならそんなに後悔を顔に滲ませていないだろうからね。また、キミが神である筈もない。神なら、私も息子もそしてキミ自身をもたちどころに救えた筈だ。キミは己の運命に戸惑う、迷える子羊に過ぎない」

「……お父さん」

 

 鈴原氏は続けた。

 

「キミには改めて礼を言わせて欲しい。これから息子の事を救ってくれることを。三十五年間、息子の事を忘れないでいてくれたことを。そして、息子と今も親友でいてくれることを」

 

 思わずシンジの両目から熱いものが伝った。

 

 それはシンジにとって、望むべくもなかった最大の赦しの言葉だった。

 

 シンジの声に涙の色が混じる。

 

「……っ。いいんでしょうか。僕がそんな言葉を受けて。僕がそんな風に沢山の人たちに優しくされ続けても……僕は数え切れない酷いことをしてきたのに」

 

 シンジの言葉は鈴原氏からだけではない、ネルフを中心にして大勢の人から──、一番大きなものはアスカから──受けた優しさや赦しに対する率直な疑問だった。それを受けるのに自分は値するのか。自分は赦されても良かったのか、と。

 

 それはシンジにとって繰り返し繰り返し問い続ける問いだ。一度は納得し、他者の優しさを受け入れたとしても自問自答はし続ける。それはもはや自虐ではなく、自分の存在意義や生きる意味の確認であり──

 

「『放蕩息子の帰還』は、赦しの物語なんだよ。放蕩の限りを尽くした息子を父は愛で赦した。主は、罪を犯しても赦されない事など無いのだとこの喩え話で仰りたかった。……実の息子でさえ赦すのに、息子の親友を赦せない訳がないからね」

 

 ──善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。

 

 鈴原氏の言い様は、そんな浄土真宗の悪人正機説にも似て、常識を転倒させる。家族でさえ赦せるのならば、他人を赦せるのは当たり前ではないかと驚くような事を言ってのけたのだ。家族より他人を重んじるそのレトリックは逆説的だったが、キリスト者の「愛」を強く物語るものだった。

 

 無事に復原計画への許可を得ると、玄関の引き戸を静かに閉めて、鈴原邸を辞去するとき、シンジは深く深く頭を下げた。

 

 名残惜しさのようなものまで感じて、踵を返してトウジの家を去るまで、随分と時間が掛かってしまったような気がしていた。

 

 

 バドミントンの勝負の形勢は既に明らかだった。ダブルスだった筈なのに、あまりにもしつこく繰り返される連戦に辟易したアストリッドとヒカリの女子二人は既に離脱し、アスカや父シンジと同じくレジャーシートの上に座り込んで、トウジとシンジ・ジュニアの対戦を見守っている。

 

「もう……諦めなよ」

 

 自身、肩で息をしながら荒い呼吸を整える息子シンジだったが、彼の勧告に、疲労の色も明確なトウジは首を横に振る。

 

「ま、まだや。ワシは負けてへん、ワシが負けたと認めてへんからや。お前が参ったというまで、何度でも挑む」

「そんな……無茶苦茶な」

 

 しかし、そう顔をしかめながらもシンジはそのある意味ではみっともない足掻きに何か心惹かれるものを感じていた。

 

 シンジは世界が彼の家族に冷淡である事に諦念を抱いている。シンジの父と祖父が、サードインパクトに強く関わり、人類そのものに取り返しの付かない程の被害を与えた。彼らによって、人生そのものをねじ曲げられ、幸せを失ったものは数え切れない筈だ。そんな男たちの血を引いている事をシンジは別に疎ましいとは思わない。シンジは父や祖父とは別の人間だからだ。だが、それは多くの人間には理解されない。

 

 そして父シンジもまた、与えた被害に釣り合うような仕事をしている。それは人類と世界を守るという途方もなく大きな仕事だ。でも、それについても、多数の人に理解され、評価される日は遂に来ないのだろうと息子であるシンジは寂しく思っている。父は家族の中で、ネルフの中で、認められ、愛されているが、その外の世界ではどこまでも孤独だった。

 

「なんで君は……トウジはそんなに足掻くのさ。どうせ勝てっこないのに」

 

 トウジは明らかに運動が得意ではないようだ。シンジの運動神経は普通だと自分でも思っていたが、これなら負ける気遣いはないと思ってしまう。それなのに何故トウジはある意味で無謀な勝負を挑んできたのだろう。どうして負けを認めようとしないのだろう。

 

 そうだ。どうせ、世間の冷たい視線や無理解には勝てっこない。僕のピアノだって、いくら技術を身に付け、心を音楽に籠めても、世間はあの碇シンジの息子だと思うから、まともに相手にされる筈がない。物珍しさから耳を傾ける人間はいるだろう。同情めかして擦りよる人間もいるだろう。そうする事で、何だか自分が公正な人間になったような気分に浸れるから。だけど、誰もシンジの音楽そのものを理解しようとはしてくれない。いつだって、それは色物で、碇シンジの息子、碇ゲンドウの孫の弾くピアノなのだ。これまで取ってきたコンクールの賞だって、本当に実力によるものなのかは分からない。敵意と同情の間で揺れる危うい天秤がたまたま後者に傾けば、そういうトロフィーが与えられる事もあるというだけの話で……

 

 アストリッドは知らず爪の先を噛んでいた。シンジの醒めきった悟りが、いつだって手に取るように双子である彼女には伝わってくる。兄であるシンジがそんな風に世間と人々の無理解を信じ切っているのに、なお感動を人々に伝える手段であり、相互理解の架け橋にもなる音楽を棄てようとしないのが、僅かな希望のようでもあり、また、残酷な呪いのようにも感じられるのだ。

 

「……アホ言うなやっ!」

 

 トウジは疲れきった身体のどこから出したのかと思うぐらいの大音声で言った。

 

「ワシは間違っとる事は間違っとる言うんや! お前の世間への見方は間違っとる! 勝てっこない、やて? 理解されてへんと思ったら理解されるまで何度でも何度でも、足掻くんや!」

「……それでも理解されなかったら? もう十四年も生きてきて、僕がそういう努力をしてこなかったとでも?」

 

 トウジは呟くようなシンジの声に合わせて、声量を下げた。シンジの反論を受けて、その言葉は力強さを失っていた。

 

「それは……しかし、せやかて……」

「安心しなよ、別にそれで世界を僕が見捨てる訳じゃない。エヴァンゲリオンで世界と人類を守ってみせる。世界が僕らを理解してくれなくても、僕らはちゃんと世界を守る。ただ、世界には期待はしていない、それだけだよ」

 

 その言葉に、傍らでやり取りを見ていたアスカが思わず立ち上がろうとする。見ていられなくなったのだ──息子であるシンジが世界に一方通行の醒めきった想いを抱いてるのが。それは違うと思った、違わなくてはいけないと思った。もちろん、世界の全てがシンジや彼の家族を理解してくれる訳ではない。でも、万人に理解されなくても、理解をしてくれる人はいるのだから……。

 

 しかし、息子の近くに行こうとするその肩に夫シンジが手を置いて、彼女を押し止めた。

 

「お母さんの出番は今じゃないよ」

 

 シンジはゆっくりと首を横に振った。

 

「シンジ……」

「今は子供たちに任せたい。大丈夫だよ。僕とアスカの子供なんだから」

 

 再び二人がトウジたちに目を向けると、トウジがラケットを投げ捨てて、地面に座り込む所だった。

 

「……ワシはLCLに溶け込む前、親父とは疎遠やった。親父はお袋が亡うなってから、家に居着かんようになった。せやからワシが妹のサクラの面倒を見て、大怪我をした時は入院の手続きもした。まあワシの家も、お前の親父のシンジの家とあんまり変わらん状態だったわけや。ワシはそんな親父を軽蔑しとったかもしれん」

「……」

 

 トウジの述懐に、シンジもおもむろに地面に座って、耳を傾ける。

 

「三十五年ぶりに会うた親父はずいぶん老け取ったわ。髪もすっかり白うなってな。親父はワシの両肩に手を置いて言うた。頭を下げて、珍しくへたくそな関西弁で『すまんかった、儂が悪こうた……もっとお前たちと向き合うべきやった』とな。ワシの関西弁は堺生まれのお袋譲りや。お袋が早う亡うなったから──だから、テキトーなんや。そのワシやサクラの関西弁よりも、もっとへたくそな関東生まれの親父の関西弁モドキや。正直、へたくそすぎて、笑うたで。やけど、ワシはそれで親父を赦そうと思うた。サクラをちゃんと大人になるまで育てたのは親父や。サクラは立派な医者になっとった。もうそれで充分や」

 

 それでようやく惣流家の子供たちは、ネルフの医官であり、父母の友人であり後輩に当たる、気さくな鈴原サクラさんがこの目の前の少年の妹なのだと思い至った。やや珍しい名字が同じであることを知っていても気が付けない程に、自分たちと同じ年格好の少年の妹が、自分たちより遥かに年上のおば様だというのは随分ふしぎに思える話だった。

 

 鈴原家において、蕩児はトウジではなく、むしろ家を顧みずに仕事に没頭した父親だった。没頭していたのが仕事であっても、それは向かい合うべき──妻の死という──現実からの逃避だった。妻ユイの幻を追って、人類補完計画に邁進した碇ゲンドウとそっくり同じだった。しかし、トウジは父を赦した。赦せない理由がなかった。人間は皆過ちを犯す。犯さない人間などいない。全能の神でさえ、悔い改めた人間を赦す。であれば、自らも必ず過ちを犯す人間が、誰も他人を赦さないでいてよい道理がない。

 

「皆がお前の家の悪口を言うても、ワシは違うと言い張るわ。お前の親父とお袋は立派に人類と世界の為に、戦こうとった。そしてこうして、ワシらをLCLの海から救い出して呉れたんや。皆、よう知らん人間のことは勝手に決めつけとる。誰もが他人のことなど、正面から見た片側しか知らんで、後ろから見たことものうて、それで好き勝手言うとる。家族でさえそうやで。……ワシは親父を決めつけとった。世界もお前の親父を決めつけとるのかもしれん。しかし、シンジ、お前まで、世界を……他人を決めつける必要はないんや」

 

 そう言ったトウジが、シンジ・ジュニアを見つめる視線は、兄が弟を見るようないたわりに満ちた優しいものだ。そんな風に気張らんでもええ、世界に絶望することなんかあらへん。世界はもっと優しさに満ちているんや、と。

 

 そして、トウジは、かつての親友と同じ名前を持つ、その息子のシンジに向って手を差し出した。

 

「トウジ……」

 

 しかし、少年のシンジはその手を握りつつも、不敵な顔で笑った。

 

「僕はトウジに勝負で負けていないから、別に考えは取り消さないよ」

「こいつ……」

「ただ、考えに例外を作ってもいいと思っている。家族やネルフ以外にも、信じられる人はいるみたいだ」

 

 そう言って、もう片方の拳骨を突き出すから、トウジもニヤリとして、自分の拳をそこに突き合わせた。

 

「四月からは同じ学校や。ワシラは二回目の中学二年やがな。……あんじょうよろしうな、シンジ」

「うんよろしく、トウジ」

 

 いつの間にか、二人の少年は下の名前で呼び合っている。

 アストリッドが呆れたような顔をして言った。

 

「男子って、なんだか暑苦しいわよねえ。……シンジも、最後まで意地張っちゃって」

 

 先ほどまで、憂いに満ちて兄を見つめていたアストリッドの表情が明るくなっていた。だから、その言葉は字面よりもずっと温かくて、優しいものだとその場の誰にも明らかだった。

 

 だから、ヒカリがその言い様に、かつての親友を思い出して小さく笑った。この子、お母さんに本当にそっくりなんだわ。見た目よりも、性格が本当によく似ている。素直になれなくて、言葉ではあれこれ言うけれど、本当に優しくて、心の温かい女の子。だから、ヒカリは少しだけ、アストリッドが素直になれる補助線を引いてあげる。

 

「でも、それが素敵なんだと思う。男の子って素敵だよ。アストリッドもそう思うでしょ?」

「……まあ、そうかもね」

 

 それから二人の少女は顔を見合わせて、今度は声を上げて笑った。

 

 だから、その光景を眺めている大きいシンジはほっとする。アスカは、シンジの肩に手を乗せて、耳元でそっと囁いた。

 

「……今日は、シンジの判断が正しかったみたいね」

「実は、ああは言ったものの、本当はどうなるかハラハラしてたんだ」

「でもまあ、それでも子供たちに任せるしかないのよね。あたしたちはもう大人になってしまったんだから」

「うん、そうなんだ。寂しいことだけど、トウジたちはもう、うちの子供たちと同じ側にいる」

 

 アスカとシンジは、親として、大人として、それを見守ることしかできない。でも、自分たちの親友が、もしも自分たちの子供の親友にもなってくれるのなら、こんなに温かくて、力強いことはないと思うのだ。

 

「さあ、みんなそろそろお昼にするわよっ! シンジとアストが腕によりを掛けたお弁当よ」

 

 アスカが遊び疲れた子供たちにそう呼び掛けると、わっと、四人の子供たちの歓声が上がった。

 

 アスカ自身が一番楽しみにしていたから、彼女の声も少女のように弾んでいる。

 

 シンジはそれを見て微笑みながら、お重をレジャーシートの上に丁寧に並べていくのだ。

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