ナノカレコード~顔無し手品師のうわさ~   作:唐揚ちきん

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【第一部】第一章
第一話『顔無し手品師のうわさ』


 これは俺が語るある短い記録の物語。

 これは俺の知るある僅かな魔法の物語。

 まず、初めに話すとしたら、出だしはきっとこれしかない。

 ――『顔無し手品師のうわさ』。

 すべてはこの噂話を知った時に始まった。

 

 ***

 

 

 新興都市、神浜市。

 それが一週間に俺が引っ越してきた新しい街の名前。

 越してくる前にネットで概要を調べた程度の知識でしかないが、人口が三百万人近くも居る大都市で九つの区に分かれているらしい。

 引っ越してきた新居はその内の一つ、新西区にある。

 父さんの勤める会社の転勤の都合で、見滝原市から神浜市に移り住むことになった。

 何でも新しく開かれた事業所のオープニングスタッフに選ばられたのだという話だ。

 本人は栄転だと言っていたが、俺としては左遷だろうとどっちでも良かった。

 そもそも父さんの会社が何を売っているのかも俺は知らない。

 知っているのは企業名くらいだ。

 多分、ネットで調べればすぐに分かるのだろう。

 だけど、俺には興味がなかった。

 転校先も母さんが勝手に決めていた。

 俺に校風や制服とかに拘りがあれば、きっと揉めていたことだろう。

 だけど、俺には関心がなかった。

 見滝原市が嫌いだった訳でもないけれど、別段未練があるほどの愛着もなかった。

 友達と別れるのは少しだけ残念だったけれど、それもきっとあと数週間もすれば薄れていくだろう。

 俺は何に対してもそう。

 何事にも(こだわ)りがない。

 芯がなく、人の意見に流れやすい。

 自分が先頭に立って、提案するのが苦手だ。

 決断を迫られても、いつだって曖昧に答えてしまう。

 今だって、そうだ。

 どこで弁当を食べようか、昼休みも半ばだというのに迷っている。

 まだ転入した学校に不慣れという点を差し引いても、我ながら優柔不断だと思う。

 

『もシもシ聞いタ? “絶交階段のそのウワサ”!』

 

 何気なく、階段を下りていると声が聞こえてきた。

 誰かの話し声かと思って、ふと前を向くと視界に映り込んだのは……噂話に興じる女子生徒たちだった。

 階段の踊り場で集まってお喋りする様子はちょっとした井戸端会議のようだ。

 ……邪魔しちゃ悪いし、別の階段を通るか。

 

『神浜市立大学附属学校中等部、東棟の北側四階から屋上へ続く階段のコト! 絶交階段の六段目に自分の名前! 七段目に絶交したい相手の名前を書いちゃえばそれが絶交証明書! 未来永劫ずーっと交際を絶つコトが認められるの! 

 もしも仮に万が一! 仲直りなんてしようものなら、謝った方が鎖の化け物にさらわれちゃう! 絶交階段に閉じ込められて、無限の階段掃除をさせられちゃうって生徒の間じゃもっぱらのウワサ!』

 

「うっそ。本当にそんな階段があるの? コワー」

 

「間違ってもウチの名前書くなよー」

 

 そんな噂話があるのか。神浜市立大学附属学校中等部ってこの学校じゃないか。

 まあ、まだ特に親しい友達も居ない俺には関係ない。

 回れ右してその場から立ち去ろうとした時、脇目に女子生徒たちの足元にある影がぬうっと伸びたように見えた。

 

「えっ……?」

 

 思わず、顔をそちらに向ける。

 その瞬間、女子生徒の影から伸びた“影法師(シルエット)”はシルクハットを被ったような人型になると、噂話を披露していた女子生徒の背中を手に持った棒状の影で貫いた。

 棒状の影は深々と胸まで突き抜けているのに血は一滴も(こぼ)れない。

 

『ikfnsjdガlウィrjfvpエwklbjgbjg;いwrhgl;いqrh――――‼』

 

 とても人間から発生するものとは思えない異音を発しながら、その女子生徒は溶けるようにして消えて行く。

 身体が崩れていくその様を目の当たりにした俺は気付いた。

 貫かれた“ソレ”は女子生徒などではなかった。立体感のないのっぺりとした人型の何か。

 フードを目深に被った少女を戯画化したような存在だった。

 なぜ、制服すら着ていないソレを直前まで女子生徒だと思っていたのかすら分からない。

 平面じみた人型の何かが完全に消滅すると、シルクハットの影法師はすうっと薄まるように消え失せた。

 他の女子生徒たちは何事もなかったかのように平然と会話を始めている。

 最近のコスメがどうとか、興味のあるドラマがいついつ放送するとか、どこにでもあるような平凡な話題が飛び交う中、俺は硬直していた。

 たった今、目の当たりにした光景が理解できない。

 訳の分からないものが、訳の分からないものを倒し、消えて行った。

 現実感の欠如した非日常が、学校という日常の中で起きた。

 そして、それを目撃したのが自分だけだろうという自覚があった。

 弁当箱を握った手が震えている。手のひらがしっとりと汗で濡れていた。

 意を決した俺は、踊り場で談笑している女子生徒たちへ声を掛ける。

 

「あ、あの……」

 

「え? ああ、ごめん。階段通れないよね。すぐ退くから」

 

「いや、そうじゃなくてさ……何ていうか。そう、何かこの学校の噂話してるみたいだったから、ちょっと興味があって」

 

「噂話……? ウチら、そんな話してた?」

 

「してなくない?」

 

 女子生徒たちは皆同様に不思議そうな顔を浮かべる。

 覚えていないのか。あの何かが話していた内容を……。

 あれは俺が見た白昼夢だったのか。

 急に恥ずかしくなって、俯いた。

 何を馬鹿なことを聞いてしまったのだろう。

 

「聞き間違いだったかも。ごめん、楽しそうに話してたのに遮って……。じゃあ、俺、もう下行くから」

 

 込み上げて来る羞恥心に促され、すぐにこの場から去ろうとする。

 すると、女子生徒の一人が俺を呼び止めた。

 

「あ、待って待って。今話してた訳じゃないけど、そういう噂話なら一つ知ってるよ」

 

「え?」

 

「“顔無し手品師のウワサ”っていうんだけど、神浜市にまつわる噂話をしているとその場に突然現れて、噂話を話していた子を跡形もなく消しちゃうんだって」

 

 ――顔無し手品師。

 まさか、あのシルクハットを被ったような影法師のことだろうか。

 さっきの状況とその噂話は完全に一致している。

 

「その手品師ってどんな姿してるの? 誰か聞いた話?」

 

 柄にもなく、俺はその話に食い付いてしまう。

 話してくれた女子生徒も俺の態度に一瞬だけ怯んだ様子だったが、親切に答えてくれた。

 

「いや、姿までは知らないけど……あくまで面白半分の噂話だからね。誰から聞いたって言われてもねぇ。いつの間にか、何となくどこかで聞くような類の話だし」

 

「そうだよな。ホントごめん。変なこと聞いて」

 

「いや、別に気にしてないから」

 

 女子生徒たちはそういうとまた雑談を始める。

 俺は弁当箱を持ったまま、上の空で踊り場を通り抜け、下の階段を降りて行った。

 その足は自然と東棟へと向かっていた。

 昼休みの喧騒(けんそう)の中を掻き分け、東棟へとやってきた俺は北側四階から屋上へ続く階段を目指していた。

 上の階に上がるほど擦れ違う生徒の数は減り、屋上へ続く階段まで来ると人気はほとんどなくなっていた。

 どこか閉塞感があり、埃っぽい空気が立ち込め、不気味な雰囲気がする。

 少し怖気(おじけ)づきそうになるが、ここまで来てそれはないだろうと恐怖を振り払う。

 薄汚れた階段の六段目と七段目に目を向けようとして視線を上げると、既にそこには先客が居た。

 背の低い水色の髪の女子生徒。

 彼女の方も俺の存在に気付いたようで振り返ると、驚き戸惑った様子で見つめ返している。

 

「…………」

 

「…………」

 

 気まずい空気が流れ、お互い無言で佇んでいる。

 俺は何か言った方がいいのだろうかと悩んでいると、彼女の方から切り出してきた。

 

「ひょっとして、あんたも絶交証明書をしに来たの?」

 

「えっと、えーと……」

 

「違うの?」

 

「その、何というか、まあ……」

 

 何しに来たんだ、俺。

 自分が見たあの衝撃的な光景が目から離れなくて、少しでも関係がありそうなここへと来てしまった訳だが、具体的に何をするということはまったく頭になかった。

 煮え切らない俺の返答に彼女は苛立ち混じりで再度問いかける。

 

「どっちなのよっ!?」

 

「どっちでもないっていうか、どっちでもいいっていうか……ね」

 

 答えに(きゅう)した俺は、自分が弁当箱を持ってうろついていたことを思い出した。

 とっさにそれを掲げて言う。

 

「べ、弁当を食う場所を探してたんだ……」

 

「そっか……。じゃ、何言ってるのかも分からないわね」

 

「あ、待って」

 

 どこか落胆したような彼女につい呼び止めてしまった。

 怪訝(けげん)そうに振り返る彼女に俺は早口で言う。

 

「絶交階段のウワサなら俺も知ってるよ。確か、絶交証明書ってあれだろ? 自分の名前と絶交する相手の名前書くってやつ」

 

「知ってるの?」

 

 女子生徒は目を丸くした様子で俺を見た。

 間近で見るとかなり可愛い顔立ちをしていることに気付き、若干顔を逸らし気味に答える。

 

「うん、まあ……」

 

「じゃあ、興味があって来た訳ね」

 

「そうか、なぁ?」

 

「何よ。男子の癖にはっきりしない態度ね」

 

 高圧的な態度の女子に俺は思わずたじろいでしまう。

 どうにも昔からこういう強気な女の子が苦手なのだ。

 もっとも俺が優柔不断なのが悪いのだけれども。

 

「じゃあ、君もやっぱりウワサを確かめに?」

 

「その前にあんた、何年生?」

 

「二年だけど……」

 

 正直に答えると彼女はまた火が付いたような苛烈な態度になる。

 

「レナ、三年生なんだけど。タメ口やめてくれない?」

 

「あ、先輩……だったんですね」

 

「何その言い方! レナがチビだから先輩に見えなかったって言いたげね! 悪かったわね、チビで。でも、あんたより年上だから! 敬って!」

 

「は、はい~……」

 

 な、泣きそう……。

 どうして、俺は言ってもいない発言で先輩に絡まれているのだろう。

 感情が顔に出たのか、先輩は僅かにバツが悪そうに顔を背けた。

 

「あの、ホントすいません……」

 

「もういいから謝らないでよ。レナが悪い事してるみたいになるでしょ!」

 

「ありがとうございます……えっと、それじゃあ、俺もう帰りますね」

 

 もう何だか居た(たま)れないなくなって、教室へ帰ろうとした。

 だが、(きびす)を返そうとした途中。

 

「……待ちなさいよ」

 

 呼び止められる。

 まだ文句を言い足りないのかと、恐る恐る先輩へ振り向くと、彼女は階段の方を指差した。

 

「あの、まだ何か?」

 

「……お昼、まだなんでしょ。ここで食べていきなさいよ。チャイム鳴るまで、あと十五分もないわよ」

 

 目を逸らしたまま、そう言われて、俺は弁当を未だに食べられてないことを思い出す。

 気を遣ってもらえたのだろうか。

 俺はお礼を述べてから階段の段差に腰掛けて、包みを解き、弁当箱を開いた。

 (はし)をケースから取り出し、いざ昼食を取ろうとした時。

 

「隣、座るわよ」

 

 なぜか先輩が俺の真横に腰掛けた。

 口に運ぼうとしていたおかずを摘んだ箸が止まる。

 ……さっき立ち去ろうとしてなかったか、この人。

 

「……食べながらでいいから、ちょっと話聞いてくれる?」

 

 質問形式ではあったが俺に選択に断るという選択肢は許されていなかった。

 一方的に語り出した話によると彼女――水波(みなみ)レナ先輩は昨日仲の良い友達と喧嘩をしてしまったとのことだった。

 どうして、そんな個人的な悩み事を会って間もない俺に話すのかさっぱり理解できなかったが、とにかく抱えていた感情を誰かに打ち明けたかったみたいだった。

 そのせいでご飯が全然喉を通らなかったが、これも俺の優柔不断が招いてしまったことと甘んじて受け入れよう……。

 

「あんたは、どうすればいいと思う? かえ……相手の方から謝って来るのを待つか、それとも……ほら、レナの方から謝った方がいい、とか」

 

 いや、どうすればいいと思うって、そんなこと俺に聞かれても困る。

 俺は水波先輩の友達がどういう人間かも知らないし、何より女子の揉め事の相談なんて、どうすればいいかまったく分からない。

 ……まったく分からないけども、確実にそれを伝えたら水波先輩は怒るだろうしなぁ。

 

「ど、どっちでもいいんじゃないですか? その向こうのお友達の方が悪いって思ってるなら待てばいいと思いますし、水波先輩自身が悪いって思うなら先に謝ればいいと思いますし」

 

 曖昧(あいまい)に答えてみる。

 このどっちでもいい戦法はなかなか有用であり、俺は前の中学で担任教師の無茶振りを受け流してきた実績がある。

 

「どっちでもいいってあんたねぇ、他人事だと思って。はあ……まあ、いいわよ。聞いてくれてありがと」

 

 しかし、水波先輩はお気に召さなかったらしく、一瞬ムッと口をへの字に曲げたものの、溜め息交じりに納得してくれた。

 それから、階段から立ち上がると、スカートに付いた(ほこり)を払ってから立ち去ろうとする。

 俺はホッと胸を撫でおろしたが、彼女はくるりとその場で回って、こちらを向いた。

 

「あ、そうだ。そういえば、あんたの名前聞いてなかったわね」

 

「俺の名前ですか? 俺は中……」

 

 答えようとした時、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴り響く。

 お互いにのんびりしている暇はないことを悟り、水波先輩はそそくさと走り去って行った。

 俺も残っていた弁当箱の中を急いで掻き込むと、その場を後にした。

 帰り際に目に入ったのは階段の六段目。

 いくつもの名前が油性のマジックペンで書かれている中、『水波レナ』の文字だけが異様なくらい目に付いた。

 

 放課後も脳にこびり付いていたのは“絶交階段のウワサ”。

 

『絶交階段の六段目に自分の名前! 七段目に絶交したい相手の名前を書いちゃえばそれが絶交証明書! 未来永劫ずーっと交際を絶つコトが認められるの!』

 

 クラブ活動にも入っていない俺はぼんやりと聞いたウワサの内容を思い返していた。

 六段目に水波先輩の名前が書いてあったということは、つまり絶交証明書にサインしていたということだ。

 下らない噂話だと割り切ってしまえば、忘れてしまえるのだろうが、俺は胸騒ぎが収まらない。

 

『もしも仮に万が一! 仲直りなんてしようものなら、謝った方が鎖の化け物にさらわれちゃう! 絶交階段に閉じ込められて、無限の階段掃除をさせられちゃうって生徒の間じゃもっぱらのウワサ!』

 

 鎖の化け物。

 そんなものがこの世に居るはずない。

 早く家に帰って漫画でも読んで忘れてしまおう。

 俺はそう思って廊下を歩く。

 大体、俺は別に水波先輩と親しい訳でもない。

 万が一、そんな化け物が居たとしても俺には関係ない。

 

『あんたは、どうすればいいと思う? かえ……相手の方から謝って来るのを待つか、それとも……ほら、レナの方から謝った方がいい、とか』

 

 関係ない関係ない関係ない関係ない関係ない。

 俺は何も知らないし、何もできない。

 他人の相談にもまともに乗れないし、いつだって曖昧な返事しかできない。

 どこまでも中途半端な人間なのだ。

 そう、分かっているはずなのに――。

 

「すいません! これとこれとっ、これっ! 貸してもらってもいいですかっ!?」

 

「うわっ! え? いいけど、何に使うんだい?」

 

 清掃中の男子トイレに飛び込むように入ると、用務員さんから洗剤とスポンジとバケツを借り受ける。

 

「ありがとうございます! 落書きを落としたいんです! 油性マジックで書かれたのを!」

 

 俺の態度に目を白黒させている用務員さんにそれだけ伝えると、俺は大急ぎでトイレから出て行った。

 

「い、虐めにでもあってるのかい? あと、その洗剤強いからゴム手袋も持って行き……あれ? おーい」

 

 後ろでゴム手袋を持った用務員さんに内心でお詫びをしながら、東棟の北側四階を目指して走り出す。

 マラソン大会でもこんなに走った覚えはないくらい、俺は全力で駆けていた。

 擦れ違った生徒や教師に文句を言われながらも、ひたすらに駆け抜ける。

 ぜいぜいと息を切らしながら四階の流し台まで着くと、呼吸を整えながらバケツに水を()んだ。

 内側に入れていたスポンジが水気を含んで沈み、プラスチック製の洗剤の容器が浮かび上がる。

 それを持って屋上へ続く階段を上った。

 六段目に辿り着く前にバランスを崩して、ふら付いた脚がもつれ、重くなっていたバケツの中身をぶちまける。

 見っともなく転がり落ちた俺は制服を水浸しにして、痛みに(もだ)えた。

 背中が痛い……。何でこんなことをしているのかも分からない。

 ホント、俺、馬鹿みたいだ……。

 泣きそうになりながら、俺はどうにか立ち上がるとぐしゃぐしゃに濡れたスポンジと洗剤の容器を掴んで這うように階段を上がった。

 洗剤をスポンジに付けて、いくつもの名前が並ぶ六段目を磨く。

 擦られて泡立ったスポンジが何度も文字の上を往復するが、一向に薄くならない。

 

「く……くそ。このっ! 消えろ! 消えろよ!」

 

 『水波レナ』の名前を必死で消そうと、スポンジで擦るが黒いマジックペンで書かれたような文字は段差に刻まれているように消えてくれない。

 泡塗れになった段差を何度も擦る。

 何度も。

 何度も。

 何度も何度も。

 自分が何のためにやっているのかもよく分かっていない。

 けれど、今までの人生で一番必死になっていることは間違いない。

 一心不乱に段差を磨き続けていると、擦っていた文字が――変わった。

 

『やめろ』

 

 つい先ほどまで名前だったその文字は……。

 

『やめろ やめろ やめろ やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ』

 

 びっしりとその文字のみに埋め尽くされる。

 六段目だけではない。下から上まで乱雑に書き殴られた文字が尋常ではない速度で刻まれていく。

 

「ひっ……!」

 

 思わず、怯んで手を止めそうになる。

 だけど、俺は……。

 

「い、いやだ!」

 

 俺は震える手で再度、泡立ったスポンジで擦り出した。

 すると、文字がぐにゃりと歪んで、またも変化した。

 

『 じゃあ おまえも つれていく 』

 

「……え?」

 

 文字が寄り集まり、段差の壁面が盛り上がると何かがそこから飛び出してくる。

 それは大きな正方形の金庫ような姿をした化け物だった。

 角の一つからアーチのような突起が飛び出ていて、遠目では南京錠のようにも見えた。

 そこに鎖が左右に繋がっていて二本の触手のように伸びている。

 中央にある鍵穴からは赤い目が見えていた。

 

「な、何だよ……これ……」

 

『|「」「」「」「」「」|‼』

 

 金庫の化け物は鎖の触手を伸ばし、呆然としている俺の身体に巻き付けた。

 

「う、うわあああああああああああああ! 誰かぁ! 誰か、助けてぇ!」

 

 恐怖で頭が真っ白になる。これが鎖の怪物なのか、本当に実在したのかなんて考える暇もなかった。

 命の危機という圧倒的な状況に思考が完全に塗り潰される。

 本当に恐ろしい事態に陥った人間は逃げることさえままならないのだと初めて知った。

 鎖が音を立てて、俺の身体を引き擦っていく。

 どこへ……?

 

『絶交階段に閉じ込められて、無限の階段掃除をさせられちゃうって生徒の間じゃもっぱらのウワサ!』

 

 頭の中で蘇ったのはあの噂話の顛末(てんまつ)

 絶交階段に閉じ込められる……。恐らく、ここではないどこかに。

 そして、多分、そこへ行けばもう戻って来れない。

 

「た、助けてぇ! 誰かぁ、誰かぁ! 助けてよぉぉぉぉ!」

 

 泣き叫んで助けを呼ぶが誰か来てくれる様子はない。

 学校の一部だというのに、まるでこの場所が既に現実から切り取られているような気さえする。

 反響する自分の声が虚しくこだまする。

 階段横の手摺(てす)りにしがみ付くが、俺の脚先は階段の段差にずぶずぶと飲み込まれていく。

 もう、駄目なんだ……俺はもう助からないんだ……。

 そう絶望が胸の内に広がった時。

 引っ張られている脚の方の影から、黒い何かが浮かび上がった。

 黒い、シルクハットを被った影法師。

 ――“顔無し手品師”……。

 目も鼻も真っ黒で何もないそいつは手に持った棒状の影で俺と繋がった鎖を断ち切った。

 影の棒が鎖に触れた瞬間、熱で溶かされるように両断され、切断部分は最初から存在しなかったように消えていた。

 ぼんやりとした実体感の薄い顔無し手品師は、ちぎれた鎖を掴むと自分の方へ引き寄せる。

 

『|「」「」「」「」「」|!?』

 

 驚愕するかのように小刻みに震える金庫の化け物へ向け、容赦なく影の棒を突き刺した。

 中央にある鍵穴、そしてその隙間から覗く化け物の目を黒い線が貫く。

 空気に溶けるように、水が蒸発するように、金庫の化け物は消滅した。

 そう、例えるなら消失マジックの手品のような、あまりにも呆気ない消え方だった。

 影法師はそれを見送ると、俺の方へ正面を向く。

 黒塗りで潰れたような顔が、俺を見ているように感じた。

 

「助けて、くれたのか……?」

 

『やっぱり僕が見えてるみたいだね。それなら、余計なことに首を突っ込むと要らない危機を招くことを学んで、さっさとこの場から逃げることを勧めるよ』

 

 ノイズが入り混じったような声音。

 しかし、想像よりもずっと流暢(りゅうちょう)に喋る顔無し手品師に驚きを隠せなかった。

 

「逃げるって鎖の化け物は今、あなたが倒したんじゃ……?」

 

『あれは絶交南京錠のウワサ。大元の絶交階段のウワサじゃない。本体の端末みたいなものだよ。絶交階段のウワサはまだ“消えていない”』

 

 まだ消えていない?

 それなら、水波先輩の絶交証明書もまだ有効なのか。

 

「でも、あなたなら今みたいに倒せるんじゃないのか?」

 

 期待して尋ねると、彼は首を横に振った。

 

『無理だね。悪いけど、今の僕にはそれほどの力はないんだ。せいぜい、ウワサがこれ以上拡散しないように嫌がらせするくらいしかできないよ』

 

「そんな……じゃあ、水波先輩のこと、助けられないのかよ?」

 

『そうまでして助けたい相手なの? 君の友達? 恋人? 大切な人? 自分の命を()してでも守る価値がある存在?』

 

 顔無し手品師にそう問われて、俺は返答に困る。

 別に水波先輩のことは好きでもないし、そもそも正味(しょうみ)三十分も話してない相手だ。

 一年上の先輩で怒りっぽくて、高圧的なことくらいしか知らない。

 

「別にそうじゃないけど……」

 

『じゃあ、他の人に任せておくといい。放って置いてもその子には助けが来るよ。君は家に帰って宿題でもしていればいい。君には何の力もない。だから責任もなければ義務もない』

 

 そうだ。この人の言う通り、俺には何の力もない。

 何にもできないなら、何もしなくていい。

 それに水波先輩がどうなっても俺には関係ないじゃないか。

 助かった方がいいと思うけど、そこまで俺には義理なんてないんだ。

 どっちでもいい。どうでもいい。

 そうやって、何事にも拘わらずにいたじゃないか。

 うん、どっちでも――――。

 

「――よくない……。どっちでもよくないよ。俺の曖昧な言葉のせいで、化け物に襲われるかもしれないなら無視できないんだ。俺さ、優柔不断で何にも自分で決めて来なかったけど……そこだけは、そこだけは」

 

 影の上に佇む顔無し手品師をまっすぐ見上げ、言う。

 

「譲ったら駄目だと思うから」

 

 俺の言葉を聞き、手を顎先(あごさき)へと置いた彼は静かに答えた。

 

『この選択は間違いなく君を不幸にする。百害あって一利もない。一時の感情のために無意味に命を晒すことになる。それでも構わないというのなら』

 

 俺にゆっくりと手を差し伸べる。

 

『僕と契約して、君の身体を貸してほしい』

 

「俺の、身体を?」

 

 顔無し手品師は頷いた。

 

『僕は言うなれば、実体の曖昧なエネルギーの塊のようなもの。器になる肉体がないせいで魔法を十全に使えない状態にあるんだ』

 

「俺の身体をあなたが使えば、水波先輩を助けられるんだな?」

 

『まだその子がウワサに喰われてなければね。ただ、よく考えて選んで。僕は君を騙そうとしている存在かもしれないんだから』

 

 懇切丁寧にそう告げる顔無し手品師に俺はもう疑う気は微塵も起きなかった。

 もしも騙されていたのだとしても、さっき言われたことが実際に起こるとしても俺はきっとこの選択だけは後悔しない。

 

「頼むよ。俺にできることがあるのなら、ちゃんとやりたいんだ」

 

『分かったよ。なら、君の名前を聞かせて』

 

「俺の名前は――」

 

 

 ***

 

 

 不思議な気分だった。

 まるで自動車の助手席に座っているかのような当事者意識薄い感覚。

 身体が自分の意志とは別に動いている。

 今、自分の格好を正確に把握している訳ではないが、黒いテールコートのような姿をしているはずだ。

 頭にはシルクハット。両手は白い手袋。そして、真っ直ぐに伸びた黒いステッキが握られている。

 

「それじゃあ、行くよ」

 

 俺の声で顔無し手品師が喋る。

 ステッキの先を屋上へ続く七段目と六段目の間に引っ掛けると、グッと押し上げた。

 飴細工のようにぐにゃりと歪んだ段差は大きな亀裂のような隙間を作る。

 そこへ俺の身体はするりと身を潜り込ませて、内側へと侵入した。

 一人称視点のファンタジー映画でも見ているように、どんどん俺の想像を超える展開が起きていた。

 異様に長く傾斜の激しい階段が目の前に伸びている。

 周囲にはいくつもの人名が明朝体やゴシック体、見たこともない書体で浮かんでいた。

 川面に浮いたゴミのように緩やかに流れてはぶつかり合って止まったり、沈んだりしている。

 これが絶交階段なのか……?

 

「そうだね。でもまずは、手厚いお出迎えみたいだよ」

 

 お出迎え?

 階段の上の方で音程の外れた(かね)の音が響く。

 するとどこからともなくさっき見た金庫の化け物が群がるように湧いてきた。

 その様は大量の蜂の群れようにも見える。

 二十、三十、いや確実にもっと多い!

 一体だけならさっきみたいに倒せるもしれないが、こんな数、一体、どうれば……。

 

「どうもしないさ。むしろ、リフトが来てくれてありがたいくらいだよ」

 

 え? どういうこと。

 俺の疑問を余所に、身体がその場で跳ね上がると群がってくる金庫の化け物を踏み付け、それこそ階段のように一体一体駆け上がる。

 最低限の動きでステッキを使い、踏み台にできない化け物を()なし、穿(うが)ち、掻き消していく。

 アクションゲームのように意図も容易く、金庫の化け物を消滅させながら、踏み付けて上へ上へと進んだ。

 それでも階段は恐ろしく長く、一向に上が見えて来ない。

 そもそも何をどうすれば、この絶交階段のウワサが消えるのかも俺には見当が付かなかった。

 

「ああ、それについては大丈夫だよ。さっきの鐘が鳴った時、強い反応を感じた。頂上の鐘。あれが多分、核に当たる部分だ。その証拠に絶交南京錠のウワサは上に上がるのを阻むように襲ってきている」

 

 襲い来る金庫の化け物の鎖を中途半端に打ち消して掴むと、ヌンチャクのように振り回して余計な化け物を弾いて、踏み台にしやすい位置に飛ばす。

 ゲーム配信者の実況プレイでもここまで淡々と攻略はしないだろう。

 本当に強い。というか、意味が分からない動きをしている。俺の身体とは到底思えない。

 しかし、それでも未だ頂上が見えて来ない。

 

「あんまり時間もないし、そろそろズルをさせてもらうとしようか」

 

 それだけ言うと、持っていたステッキを槍投げのように思い切り、階段の上へと投げた。

 何をしているのか分からず、俺は声にならない叫びを上げる。

 唯一の武器を捨てるだなんて、自殺行為以外の何物でもない。

 

「まあ、そう慌てないで。一、二……の三!」

 

 シルクハットを頭から取ると、そのままそこへ足を突っ込む。

 いや、足だけじゃない。

 身体まで何の抵抗もなく、シルクハットの中へと吸い込まれた。

 明かりのないトンネルを潜り抜けたような感覚の後、俺の身体は広げられた黒い布の上に立っていた。

 今のは一体何だったのか。それを問う前に顔無し手品師が話し出す。

 

「さて、それでは目的地へとご到着」

 

 その言葉に俺は視界へと意識を向ける。

 いつの間にか、そこは既に階段の頂上だった。

 大きなアーチとそれにぶら下がる鐘。そして、その鐘を鳴らしている円形の頭部を持った人型のもの。

 胴体があり、手足があるが頭は開いた朝顔をそのまま押し花にしたような奇妙な形をしている。

 

「あれが本体か。そしてあそこに居るのが君のお目当ての先輩かな?」

 

 俺はその言葉に周囲を見回すが、水波先輩の姿はどこにも見当たらない。

 

「ほら、よく見て。あのアーチの真上にある突起物だよ」

 

 そこまで言われて、ようやく俺は気が付いた。

 鐘の上。正確に言えば鐘がぶら下がっているアーチの上部に植物の(つた)のような突起物が何本も生えている。

 その内の一本に絡め取られるようにして、少女が一人目を瞑った状態で吊るされていた。

 その少女は水波先輩……ではなかった。

 赤毛の少女はどこからどう見ても水波先輩には似つかない。

 もしかして、水波先輩はもう……。

 絶望感を懐いた俺に、気負うことなく顔無し手品師は言う。

 

「そうとも限らないよ。あのウワサは謝った方が連れていかれるって内容だっただろう? お友達の方が先に折れたんじゃない?」

 

 ああ、言われてみれば水波先輩、自分から謝るタイプの人間じゃない気がする。

 本人に聞かれたら大激怒されるようなことを思い浮かべた。

 

「それにしても、あんな煩そうな場所で眠れるなんて、神経が図太い子なのかな」

 

 顔無し手品師は呑気な発言をしつつも、手にはいつの間にか新しいステッキを握り、シルクハットを被り直している。

 弛んでいる振りをして、臨戦態勢に入っているのが俺にも分かった。

 アーチの内側に居た人型が、鐘へと手を伸ばす。

 

 ――ラン ラン ラン ラ !

 

 外れた調子の鐘の音が響いたと思うと激しい衝撃が波のように頂上の床を叩いた。

 俺の身体は弾かれ、階段の縁の方まで吹き飛ばされる。

 痛みは――まったく感じなかった。

 けれど、直接身体を動かしている顔無し手品師の方は違うようで、僅かに顔を(しか)める感覚があった。

 舞い上がった身体を、頂上に杭のように突き刺したステッキを使って、踏ん張り、何とか頂上に留まる。

 俺には痛みはないが、この傾斜の階段から転げ落ちれば、確実に俺の身体はぐしゃぐしゃに潰れてしまうだろうことは容易に想像できた。

 

「全方位に放たれる音の衝撃波か、点じゃなく面での攻撃はどうにも消し辛いね」

 

 どうするんだよ? このままじゃ、近付けない!

 だが、俺の心配事など無用とばかりに彼は言う。

 

「さっきのズルをもう一度使うだけさ。どうにも絶え間なく、鐘を鳴らし続けることはできないようだしね」

 

 さっきのズル、というのはあの謎の移動方法のことだろうか。

 そうこうしている内に人型が鐘へと再び手を伸ばす。

 間髪入れずに、顔無し手品師は持っていたシルクハットから新たに長いステッキを取り出すと、それを人型目掛けて投げ付けた。

 そうか! ステッキを投げて鐘を鳴らす前に倒せばもう衝撃波は飛んで来ない。

 だが、飛び道具を使われることを分かっていたのか、人型はそれを脇へ飛んで(かわ)す。

 ああ、駄目だ。

 俺がそう思った時、投げたステッキは、バサリと広がって一枚の黒い布に変わった。

 あれは足元にあった布と同じ……!

 そう思ったと同時に頭に被っていたシルクハットを大きく被り直す。

 視界が途切れ、次の瞬間には目の前に鐘と人型の姿が現れた。

 違う。現れたのは俺たちの方だ。

 原理は分からないが、あのステッキは布状に変化させることで門のような役割を果たすことができるようだった。

 シルクハットの内側は入口だったのだ。

 まさにワープ移動だ。

 度肝を抜かれたのは俺だけでなく、向こうも同じ。

 文字通り、一瞬で距離を詰められた人型は逃げることもできず、伸ばした顔無し手品師の腕に捕まえられた。

 円形の頭部をがっしりと白い手袋が鷲掴みにし、門として使った黒い布が空中で巻物のように纏まって、ステッキに戻る。

 反対の手でそれを掴み取ると、人型の腹部へと突き刺した。

 勢いを削がず、人型を貫通したステッキは奥にあった大きな鐘へと()り込む。

 

「どうしたの? 鳴らしてやったんだ。響かせなよ、下手クソな歌声を」

 

 底冷えのするような声で吐き捨てる。

 

 ラ ン ラン…… ラ……ラ ァ ァ ア ァ ァ ァ !

 

 ひび割れた鐘の音が空間全体に響き渡った。

 貫かれた鐘は断末魔のような鐘の音を鳴らし切った後、刺した場所から溶けるように消滅する。

 消滅の輪が音のように周囲に広がり、アーチが消え失せるとその上部に吊るされていた赤毛の少女が落ちて来た。

 

「おっと、忘れちゃいけない。眠り姫の救出だ」

 

 顔無し手品師は彼女を両手で優しく抱き留めると、崩れゆく階段の下にステッキを蹴り落とす。

 シルクハットを弄る感覚の後、三度目の空間転移により階段下まで退避する。

 背後で上から順に崩れていく長い階段は瓦礫(がれき)すら残さずに跡形もなく、消えてなくなりつつあった。

 これで絶交階段のウワサは消えるのか……。

 そう俺が思った時、後ろから声を掛けられた。

 

「あんた、誰! ううん、誰でもいいわ! かえでから手を離しなさい!」

 

 この声は……!

 顔無し手品師が視線だけで振り返ると、そこに背後に立っていたのは水波先輩だった。

 無事だったのか安心する間もなく、彼女は大きな三又の槍を突き付けていた。

 

「……随分と遅い登場だね。魔法少女」

 

 ストライプ柄のワンピースのような衣装に身を包んだ水波先輩に顔無し手品師はそう呟いた。

 魔法少女……?

 何とも言えない単語に俺は(ほう)けてしまう。

 

「あんたがかえでを攫った魔女ってワケ? だったら……」

 

「待ちなさい、レナ。それにしてはどうにも雰囲気がおかしいわ」

 

 背の高い青髪の少女が今にも襲い掛かってきそうな水波先輩を制止した。

 彼女は顔無し手品師を見て、警戒しているものの、事を荒立てる気はないようで静観している。

 その隣にはポニーテールの金髪の少女とフードを被ったピンク髪の少女が居た。

 

「魔女、ね。渦中に居て、その程度の状況把握しかしてないなら何も言うことはないよ。ほら、この子を助けに来たんだろう? 受け取ってよ」

 

 心底面倒だとばかりに赤毛の少女を水波先輩に押し付けようと近付く。

 少しだけ彼女は警戒したように睨んでいたが、悩んだ末に赤毛の少女を抱き留めた。

 

「それじゃあ、僕はもう行くから」

 

 背を向けようとした顔無し手品師に、武器を持った少女たちはその切先を向けてきた。

 そのどれもが大振りで装飾の多いものだったが、玩具ではないことは見て取れた。

 

「……まだ何かあるの?」

 

 一切の焦りもなく、半目で顔無し手品師は尋ねる。

 むしろ、武器を向けている少女たちの方がよほど緊張した面持ちだった。

 

「あなたは一体何者? ここで何をしていたの?」

 

「見ての通り、チンケな手品師だよ。ここで何をしてたかって? 観光だよ。お嬢さん」

 

 ふざけたような言い回しでそう答える。

 当然、魔法少女たちは納得する訳もなく、語気を強めた。

 

「ふざけないで」

 

「ひょっとして鏡見たことないの? ふざけたような格好しているのは君らの方だよ」

 

 青髪の少女は槍と斧が合体したような武器を突き付けたまま、動かない。

 顔無し手品師は呆れたように全員に向き直ると、咳払いを一つして言う。

 

「分かった分かった。なら、一つ手品を見せてあげるね。これを見たら、お家に帰って宿題でもして寝るんだよ」

 

 シルクハットを目深に被った彼は、帽子のツバをなぞる。

 そして。

 

「一、二の……三!」

 

 視界は一瞬の暗転。

 そして、一足早く、現実の屋上までの階段の前へと辿り着く。

 どうやら、あの転移による移動で彼女たちの前で脱出ショーをしたらしい。

 きっと彼女たちは目の前で一瞬にして消えた顔無し手品師に戸惑っているはずだ。

 酷い人……いや、人なのか?

 

「酷くないよ。僕は何一つ嘘は吐いてないんだから。それじゃあ、ちょうど時間切れだ。身体を返すね」

 

 それだけ言うと、俺の身体から何かが抜けるような感覚がして、一気に意識が表層に押し出される。

 指先の動きまで自分の意思で動かせるようになると、途端に身体に痛みが走った。

 

「うっぐ……つぅ……いったぁ!」

 

 馴染みのない身体の痛みに俺は床に(うずくま)った。

 全身に打撲、関節は筋肉痛を更に濃くしたような激痛が走る。

 あまりにも痛過ぎて涙と鼻水が自然と滲んで来た。鼻の奥がツンとする。

 

「どう? 割に合わない人助けの代償は。向こうは顔すらまともに覚えてなかったようだけど」

 

 身も(ふた)もない言葉を投げかけて来た顔無し手品師の声は、前と違って澄み切って聞こえた。

 しかし、どこに顔を向けても彼の姿は見当たらない。

 

「どこに居るんだよ。なあ、おい……」

 

 まさか、もう俺には彼が見えなくなってしまったのだろうか。

 不安に思って俯くと、すぐ前の床に黒いウサギのような物が居た。

 実際のウサギとは違う。デフォルメされたその姿は生物よりもぬいぐるみに近かった。

 

「やあ」

 

「やあって……もしかして、その声、顔無し手品師なのか?」

 

「別にそのネーミングを自称している訳はないけど、まあ、そうだよ」

 

 ウサギっぽい何かになった顔無し手品師はそう言って階段脇の手摺(てす)りの上に跳び乗った。

 身のこなしはウサギというよりも猫のような跳ね方だった。

 

「ど、どうして、そんな姿に?」

 

「否定の魔法……ようは僕の力を一度に使い過ぎたから、人型も取る余力もなくなったんだよ。省エネモードとでも思ってくれればいい」

 

「魔法……。あの化け物を跡形もなく、消滅させていた力が魔法ってやつなのか。凄い……」

 

 今更ながら、自分の身体から放たれていた尋常ならざる力に感激する。

 だが、顔無し手品師はその発言に嫌悪感を隠さずに言った。

 

「凄くなんかないさ。魔法なんて質の悪い手品みたいなものだよ。タネも仕掛けもない、この世界にあっちゃいけない手品さ」

 

 何となくだけど、この人は魔法が心の底から嫌いなんだ。

 あのウワサという名の化け物も。

 そして、きっと魔法少女という存在も。

 だから、消して回っているのだろう。大嫌いな魔法を使いながら、少しでも魔法がこの世界から消えてなくなるように。

 

「それじゃあ、僕はもう行くよ。君もさっさとこの場から離れるといい。あの魔法少女たちも少ししたらこの場所に辿り着くだろうしね」

 

 そう言って、ウサギのような姿になった顔無し手品師は器用に手摺りの上を通って、俺の前から去ろうとする。

 だが、俺はどうしても彼に言っておかないといけない言葉があった。

 

「あ、待って」

 

「うん? 何」

 

「ありがとう。俺に力を貸してくれて」

 

 顔無し手品師は俺のその言葉に、少しだけ優しく微笑んで返した。

 

「どういたしまして。それとこれは忠告だけど、この街からすぐに引っ越せないなら噂話には関わらないことだね。もう二度会わないことを願ってるよ。それじゃあね、“中沢君”」

 

 最後に俺の名を呼んで彼は去って行った。

 俺もまた痛む身体を起こして、屋上の階段前から立ち去ろうとした。

 後ろ髪を引かれて、振り返って見ると、泡に塗れた六段目と七段目の段差には何の文字も書かれてはいなかった。

 初めから名前など一つもなかったかのように、経年劣化の汚れだけを残して空白の段差を見せ付けている。

 これでいい。少なくとももう、この階段に名前が書かれることもないだろう。

 洗剤の容器とスポンジを拾い集め、転がっていたバケツに入れる。

 取りあえず、これを用務員さんに返しておかないと。

 そう考えて、俺は階段を下って行く。

 何の変哲もない平凡な日常への階段の上を歩むために。

 

 それがきっと俺の――中沢の本来の物語(じんせい)だと信じて。

 




                           
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