「……いろは」
「うん……?」
重たい意識の中で名前を呼ばれている。
頭がはっきりとしない。
「いろは」
「……まだ、もう少し……」
やだ。目を覚ましたくない。
意識を手放し、もう一度眠りの底に戻ろうとして──。
「起きて」
「うっ……づ」
お腹に鈍い痛みが走る。
殴られたと分かった瞬間、不明瞭だった意識は
見開いた目に映ったのは、覗き込む白い仮面。
両目と口だけ楕円形の黒い穴がぽっかりと空いている。
「なんだ、魔女の私か」
「世の中
回りくどい突っ込みを入れてくる魔女の私。
なんだか遠回しに酷いこと言われてる気がする。
「いいから真面目に聞いて」
魔女の私にそう言われたので、私は正座をしてから言い返す。
「私はいつだって大真面目だよ?」
「………………」
「ごめんね。真面目に聞くよ」
無言が一番嫌だって分かっててするんだから、やっぱり魔女の私は性格が悪い気がする。
魔女だからかなぁ? あ、でも、こう見えて結構思いやりがあったりするから、魔女の中では良い子だと思う。
「……真面目に」
「はい、真面目。私は真面目」
「………………」
あれ? ひょっとして呆れられてる?
困ったな。私としては本当にふざけている訳じゃないのに。
ただ、相手がもう一人の自分だから他の人より気安い感じになっているのかもしれない。
「もしかして、嫌な気分にさせちゃった?」
「……違う。こうして対話できるのが最後になるから」
「えっ?」
「………………」
今度の沈黙が私たちの間から温度を奪った。
凍えるような気持ちで唇を動かす。
「それ……どういうこと?」
「その前にここがどこか分かる?」
魔女の私に言われて、周りを見渡した。
一面に色取り取りの花々が敷き詰めたみたいに咲き誇ってる丘……。
「お花畑……」
「そうだけど、そうじゃない。これは心象風景。私たちは心の中に居るの」
心の、中……。
つまりは私の心。私の内面の世界。
そう理解してから眺めてみると、花畑の合間に背もたれがアンティーク調の椅子が等間隔で置かれていることに気付いた。
どの椅子も地面に脚が着いていない。でも、横倒しになっている訳でもない。角度は違うけど、全部斜めに浮いている。
浮いているのに、安定している。まるで見えない斜めの床に乗っているような、そんな景色。
「真っ直ぐじゃないのに固定されてる……?」
「そう。それが今の私たちの状態」
ぽつりと漏らした呟きに、魔女の私が
私が周りから彼女に向き直ると、静かに語り始めた。
「正常じゃないのに、安定してしまっている。本来、魔法少女と魔女は同じカードの表と裏。どちらかが現れる時にどちらかは消えていなければならない」
魔女の私は手元に一枚のトランプのカードを取り出す。
書かれているのはハートの
上と下の両端を指先で摘み、話を続けた。
「無理やり、自分の反対側をみようとすれば……」
カードが捻じ曲がり、カードの端に小さく亀裂が入る。
「あっ……」
「──こうなってしまう」
破れた一枚のカードは二つに分かれて、彼女の手からひらりと落ちた。
「ドッペルの場合は、少し違う。表のままで裏の一部だけをめくる」
次に出したのはクラブの
真ん中より少しだけ下を折り曲げて、カードの裏面で逆さの顔を覆い隠す。
「でも、何度も折り曲げる内に、折り目が付いて元に戻らなくなってしまう。これが
「だったら、私たちは……?」
私の問いかけに彼女はダイヤの
輪っかになったカードの穴から、私を
「これが私たち。だけど、不安定でほんの少しでも力を弛めると……」
魔女の私の手から、バネのように跳ねて弾かれたようにカードは飛んだ。
少し離れた先でカードは花の間に落ちる。
カードは──裏面になっていた。
「安定している理由は……分かる?」
「分かってるよ。私が魔女に……あなたになるから、だよね?」
「………………」
その無言はどんな言葉よりも、はっきりと私の言葉を肯定していた。
仮面で形作られた顔には表情はない。
でも、雰囲気だけで分かる。
彼女は悲しんでくれている。
「あと、一度……あと一度でも『巻き戻し』の魔法を使ったら、あなたは完全に
「心配、してくれるんだね。あなたにとっては困ることなんで一つもないのに」
「それでも……使うつもり?」
「うん。外がどうなってるのか、段々思い出してきたから」
ウワサ空間に囚われて、みかづき荘の皆や逆沢君たちが助けに来てくれてることも。
皆がピンチに
かごめちゃんが、私に助けを求めてくれたことも、全部聞こえていた。
「だから、私が助けないと」
「……もうやめていいよっ!」
初めて、魔女の私が感情的な声を上げた。
両肩を掴んで、彼女は私との距離を詰める。表情のない白い仮面が今は泣いているように見えた。
「ずっと助けてきたでしょう! ずっと頑張ってきたでしょう! お父さんお母さんに心配かけないようにお見舞いに行って! ういを救うために魔法少女になって! 神浜に来てからもずっと、ずっとあなたは誰かを助けてきたじゃないっ!」
ああ、そっか……。
この子は、私なんだからずっと一番近くで見てたんだ。
「やっと……ういと一緒に暮らせるようになって! 対等な目線で受け入れてくれる仲間ができて! これからでしょうっ!? 報われるのはこれからでしょう! なのに……なのに、あなたは……」
仮面に空いた黒い空洞が、私の顔を見つめる。
分かる。
彼女の気持ちが。
伝わってくる。
彼女の祈りが。
こんなにも、私の幸せを願ってくれていたんだね……。
置かれた手に、自分の手のひらを重ね合わせる。
「ありがとうね。本当に、ありがとう……」
「いろは……。泣いて、いるの……?」
「うん……泣いてる」
だって、嬉しいから。
私のすぐ
それは、すごく幸せなことだって感じるから……。
「ねぇ、魔女の私」
「……何?」
「あなたの名前を教えて」
「『私』の名前……?」
「あるんでしょ? 『
確かにあるって信じてる。
彼女は私を『いろは』って呼んだ。
『魔法少女の私』じゃなく、『いろは』と。
それは自分が『
「私の、名前は────」
彼女の名前を聞いてから、背中に手を回して深く抱き締める。
「よかった。これで私の最期にあなたの名前を呼べる」
「いろ、は……」
「誰にも言えなかったけど、あなたになら言えるよ」
ずっと一緒に同じ世界を見てきて、あなたになら私は何の
ぎゅっと抱き締めて、私は穏やかな気持ちで
「私を助けて。──『ジョバンナ』」
花畑に咲いていた色取り取りの花が、空に向かって弾けるよう散っていく。
寂しいけど、悲しくはない。
切ないけど、苦しくはない。
未練はあるけど、後悔はない。
不安はあるけど、絶望はない。
ああ。誰かに助けを求めるって、こんな気持ちだったんだ。
心残りがあるとすれば、ういやみかづき荘の皆にお別れを言えなかったことだけ。
うい……。
お姉ちゃん、──魔女になる。