私たちが歩いている廊下の側面には大きな水槽が並んでいる。
水族館なのだから、それ自体はおかしなことじゃない。
だけど、本来海底を思わせる青に染まっているはずの水槽は、どれも薄い黄緑色に覆われていた。
コケや藻とは違う、水槽のガラスそのものが黄緑色になっているみたいに見える。
「気になるでありますか?」
先導していた旭さんがそう尋ねてくる。
「あ、はい。何で水槽が黄緑色をしてるのか気になって」
「近付いてみれば、分かるであります」
言われた通り、私が水槽に近寄ると凄まじい速さで何かがガラスへ突進してくる。
薄い黄緑色の壁に阻まれ、へばり付くその巨体は魚でもなければ、水に棲む生き物ですらなかった。
輪切りにした巨大なレンコンの中心に人間の鼻から下の顔が付いた異形の存在。
「魔女……!」
その時、魔女が貼り付いた箇所のガラスが淡く発光し、レンコン頭の魔女を弾いた。
『itai itai itai!!』
奇声を発して、水槽の内側へ弾き飛ばされたその様子を見て、私は察する。
これは魔女を閉じ込めていくための檻……いや、箱なんだ。
それに今一瞬、魔女が触れた部分に小さな六角形を密集させたような線が見えた。
鏡屋敷の最深部にあった壁と同じもの。
つまり、あの壁を作った存在がこの箱を生み出したって考えていいはず。
魔女をこういう風に閉じ込められるなら、鏡の魔女を結界ごと運び出すのも難しいことじゃない。
この力の持ち主が、鏡の魔女を攫ったんだ。
「魔女を捕まえて、ここに閉じ込めてるんですか?」
「肯定であります。この場所には捕獲した魔女も居れば、使い魔から成長させた魔女も居るのであります」
旭さんの言葉を呼び水に、私はこのはさんから教わった知識を思い出した。
魔女が生まれる場合は大まかに分けて、二種類ある。
一つは魔法少女のソウルジェムが濁り切った場合の『孵化』。
そして、二つ目が使い魔が一定数の人間を捕食した場合の『成長』。
それじゃあ、この水族館は……──。
「魔女の
吐き捨てるように言うリヴィアさんに対し、旭さんが反論する。
「魔女プラントは元々“マギウスの翼”が作り上げた手法であります!」
「嬉々として流用してたら同じ穴のムジナやろ。使い魔をこないな魔女まで育てんのに、一体どんだけ人食わせて来たん?」
なおもリヴィアさんは挑発を続ける。
旭さんは更に語気を強めて、それに返した。
「我々には“果たさねばならない大義”があるであります! それに人間をエサにした事実など無根! 魔力さえ与えればよいのに、わざわざ人間を食べさせる意味はないであります!」
「それを踏まえても思うとこあんねんけど……人食わせてへんだけ安心したわ。私も言いすぎたな。堪忍してやぁ」
今度は一転して、へりくだった笑みと共に謝罪した。
段々と分かってきた。リヴィアさんは相手をわざと怒らせて、情報を引き出している。
でも、結構危ういバランスの会話術だ。見ているこっちが冷や冷やさせられる。
ただ、旭さんたちが人間を犠牲にしていないことが分かって、そこだけはちょっと安心した。
「……ソウルジェムは我が所持していることをお忘れなく」
「忘れてへん忘れてへん。せやから、ほら。大人しゅうしとるやろ?」
旭さんの脅しにも、のらりくらりとした態度で受け流し、縛られた両腕をこれ見よがしに突き付けた。
この人は捕虜の自覚がない……。というよりも、この程度では旭さんが自分を殺すような真似はしない相手だと判断したんだろう。
旭さんは初対面こそ冷徹な魔法少女に見えたけど、こうして話してみると真面目だけど可愛げが見え隠れする人だ。
私の手首を縛る紐も、手首を締め付け過ぎないように留めてある。
きっと、本来は優しい人なんだろう。
だからこそ、そんな人がこんな行為をしている理由──“果たさねばならない大義”が気になる。
「旭さん、足を止めさせてしまってすみませんでした。もう行きましょう」
「そうでありますな。貴殿らの処遇は教授に決めてもらうであります」
『教授』……!
その人が旭さんたちのトップで、鏡の魔女を攫った首謀者。
色々と聞きたいことはあったけれど、これ以上は旭さんも答えてくれはしないだろう。
それなら直接本人と話して真意を聞いた方がいい。
再び、歩き始めた私たちは魔女が収監された廊下を渡る。
薄々は感じていたものの、ここは現実空間じゃない。館内は外から見た建物よりもずっと広い。
加えて、電気が通っているとは思えないのに、足元に照明が点灯している。
『哀憐のニグレド』や『悲憤のアルベド』の時と同じ、現実空間を魔力で変質させた場所で間違いない。
『教授』は“銀羽根のウワサ”のカケラを得た人物だ。
いくつかの通路を通過していくと、やげて最奥に位置する場所へと辿り着く。
そこは一際高い天井の大広間だった。
背を向けた一人の男性が、奥にある大きな水槽を眺めている。
「教授。施設への侵入を企てていた者たちを捕虜として連行したであります。彼らの処遇のご判断を」
「ご苦労様、旭。君は少し休憩を取りなさい。このところ、あまり眠れていないのだろう?」
報告を受けた『教授』は、想像していたよりも穏やかな顔をしていた。
肩の上辺りまで伸ばされた髪は整えられておらず、丸いフレームの眼鏡の下には若干の
身だしなみに気を配らない、くたびれた中年男性というのが第一印象だ。
ただ着こなしている、緋色の幅広で大きめなコートだけが浮いている。
軍服にも似たそのコートは柔和で物静かな線の細い男性が身に付けるには、あまりにも攻撃的で、エッジが効いていた。
にもかかわらず、不思議と服に着られているようにも見えない。
アンバランスなのに調和が取れている奇妙な感覚だ。
旭さんからリヴィアさんのソウルジェムを受け取り、彼女を部屋から下がらせると『教授』はそっと
「こんばんは。私は里見太助。お連れの方とは違って、君はまだ魔法少女ではないようだけど、どうしてここへ?」
「あの、私は佐鳥かごめって言います。ここには……鏡の魔女を探しに来ました」
「鏡の魔女を? それはコレのことかい?」
里見さんは部屋の奥一面の巨大な水槽を指し示した。
それはあまりにも大き過ぎて、今まで視界に入っていたのに認識できていなかったもの。
薄い黄緑色の壁の内側に広がる、白と黒のシンメトリーのオブジェ。
外側を向いた女性の顔にも見えれば、絡まり伸びた羊の角の集合体にも映る。
騙し絵のような異形は、初めて見るはずなのに『鏡の魔女』だと何故だか確信できた。
「──それとも、そこに居る彼女のことかい?」
顔を動かした里見さんが今度は視線で示した先は、ちょうど鏡の魔女の水槽とは真逆の方向。
「……っ! みことさん!?」
反対の水槽に細長い糸で全身を吊り下げられたみことさんの姿があった。
意識がないのか、目を閉じたまま、両手を広げて
すぐに駆け寄り、ガラスに触れて、彼女の名前を呼んだ。
「みことさん!!」
呼びかけると、みことさんの顔があがる。
開いた瞳は焦点が定まっていないようで、数秒のズレの後、私と目が合った。
「……かごめ、ちゃん? どうして、ここに?」
「みことさんの方こそ、何でそんな場所に居るんですか? いや、そうじゃ、なくて……」
次に会ったら言いたいことを沢山考えていたのに、いざ会ってみたら言葉が出て来ない。
ほとんど無意識に思い浮かんだ台詞は……。
「……生きててくれたんですね」
「何それ……私、あなたを殺そうとしたんだよ? それも何度も何度も」
正気を疑うような目を私に向けてくるみことさんに、気持ちが弛んで
この理不尽で不条理な対応。本当に私の知ってるみことさんだ。
「私の無様な姿が見られて、そんなに嬉しいの? はあ、分かってるわ。自分でも笑っちゃうくらいに見っともないってことは。それでアキラちゃんはどこ? あの子なら指を差してゲラゲラ下品に笑うと思うけど」
「……逆沢さんは、死んじゃいました」
目を逸らして、彼の死を告げる。
喜ぶだろうか。嘲るだろうか。どちらにしても、それは見たい光景じゃない。
だけど、予想に反して、みことさんの浮かべた表情は虚を突かれたような顔だった。
「え? ……死んだ? 死んじゃったの、アキラちゃん……?」
意外な反応に私の方がまごついた。
「は、はい。逆沢さんは『悲憤のアルベド』と戦って、命を落としました」
「負けたってこと?」
その言葉を聞いて、カッと頭に血が昇る。
「負けてません! そんな訳ないじゃないですか! 逆沢さんは勝ちました! 勝ったんです! だから、中沢さんだって生きてるんです! 中沢さんが生きてるのも、中沢さんが『悲憤のアルベド』を倒せたのも、中沢さんがいろはさんを救えたのも! 全部全部逆沢さんのおかげなんです! だから──」
反射的に口に出した声は自分でも驚くほど大きな響きを持って
「逆沢さんは勝ったんですッ! 勝ったんですよ……! 誰もそれに気付こうとしなくても……」
「かごめちゃん……泣いてるの?」
みことさんに指摘されて、瞬きをした時、頬を雫が
ああ、そうか。私は聞いてほしかったんだ。
逆沢さんの存在を。その最期を。誰かに知ってほしかったんだ。
「みことさん。逆沢さんは最後の最後まで極端で、真っ直ぐで、誰よりも格好いい人でした」
「そう……。アキラちゃんらしいね」
「はい。本当に、そう思います」
みことさんは眉尻の下がった笑みを作った。
鏡を見なくても分かる。私も同じ表情している。
私たち二人は今同じ
ガラス越しだけど、確かに私とみことさんは心と心で繋がっていた。
「良かったよ。これで彼女も思い残す事はなくなったみたいで」
里見さんの言葉の直接、みことさんを吊るしていた緋色の糸が淡い魔力の光を放つ。
「がっ、ああっ!?」
彼女の瞳が限界まで広がり、
「みことさん!? ……みことさんに何をしたんですかっ?」
みことさんの異変を止めるため、後ろに居る里見さんへ顔を向ける。
振り返って目にしたのは、人差し指でみことさんを示す里見さん。
そして、──彼の表情。
「何をしているかと言われると
里見さんは、最初に私へ挨拶した時とまったく同じ穏やかな微笑を浮かべていた。
私は、心の底からゾッとした。
超常的な力を使う存在は何度も見てきた。
その力で命を奪おうとする光景も何度だって見てきた。
笑って殺戮を行おうとしている人だって初めて見た訳じゃない。
けれど、この人はそれとは違う。
“狂気”から来る歪んだ笑みとは根本的に異なる、波のない“正気”の笑み。
そう。この人は正気なんだ。
何故なら“銀羽根のウワサのカケラによる
まさらさんも、中沢さんも、カケラに支配された人は皆、魔法少女と見れば親しい相手さえ
里見さんは旭さんを部屋から帰して、今もソウルジェムを握っているリヴィアさんを無視し、みことさんへ力を使っている。
それは正常な思考を保持していることの証明だった。
「私が得た『掌握の魔法』はね、外部の魔力を完全に制御下に置く力なんだ。感情エネルギーである魔力を制御するという事はその者の行動だけではなく、思考、記憶、魂の性質にまで干渉できる。だから、掌握した際、彼女には未練がある事が分かってね。鏡の魔女の半身とはいえ、未だ魔法少女としての自我を残している以上、
──だからね、これは私なりの思いやりなんだよ。
里見さんはそう私に告げた。
その発言に嘘はないんだろう。その気持ちに偽りはないんだろう。
でも、私には認められない!
「私はもう、目の前で大切な人を失いたくないんです! みことさんは奪わせません!」
「よう言うたで、かごめちゃん!」
私の叫びに、今まで静観を貫いていたリヴィアさんが呼応する。
彼女の姿が黒と紫を基調とした衣装に変わる。
腕を拘束していた
「そら、行くで!」
シルクハットのつばの部分を摘んで、私が居る方へ放り投げる。
コマのように回転するシルクハットは、私とみことさんの間にある薄い黄緑色の障壁を打ち砕いた。
落下したシルクハットの内側からはトランプのカードが飛び出して、私の腕を縛る紐とみことさんを吊るす糸を切断する。
「リヴィアさん!? どうして魔法を!? だって、ソウルジェムは……」
彼女のソウルジェムは旭さんに取り上げられて、今は里見さんの手の中にあるはずだ。
視線を里見さんの方へ移すと、答え合わせをするように彼が持っていたリヴィアさんのソウルジェムがスウっと薄くなって、魔力の光に変わっていく。
「いやはや、すっかり騙されたよ。大した精巧さだ。ソウルジェムのレプリカとは恐れ入る。ここまで緻密な魔力操作ができる魔法少女は初めてだよ」
「おおきに。調整屋の魔法少女は死ぬほどソウルジェム触ってきてんねん。自分の魔力の波長ぐらい消せるし、作れる。そういうことや」
言うほど驚いた様子のない里見さんと、不敵に笑うリヴィアさんの会話の応酬で、私はやっと理解する。
リヴィアさんは最初から自分のソウルジェムなんか渡していなかったんだ。
魔力で作った偽物を渡し、自分の魔力の反応を消して変身できない振りをしていた。
もしかして、旭さんを挑発していたのも情報を聞き出すためじゃなく、ソウルジェムを没収していることを彼女に印象付けるためだったのかもしれない。
「かごめちゃん、はよ行き! ここは私が抑えとく!」
私は糸から解放されたみことさんに肩を貸して、入って来た方向へ走る。
転がったシルクハットからは、先ほどよりも更に多くのトランプが吐き出され、私たち二人を里見さんから遮るように室内を舞った。
一体どこまでリヴィアさんは計算ずくだったのか、私には分からない。
でも、本当にありがとうございます。
心の中で感謝を述べながらも、私は通路へと逃げ延びる。
脇目も振らずに、ただただ通路を走り続けた。
肩を貸したみことさんは、やや呆気に取られた顔で私の横顔を見つめている。
一番混乱しているのは彼女かもしれない。
だけど、今は言葉を交わす時間も惜しい。
ここで捕まれば、何もかもが水の泡になってしまう。
そんな中、廊下に響き渡る美しい音色が耳に入ってくる。
弦を指で弾く透明感のある暖かな音……これはハープ?
必死に足を動かしていたはずの私は、自分でも気付かない内に緩やかに失速していた。
あれ……? 何で急に、こんな気力が削がれてるの……?
疲労とは違う、走ろうとする気持ちそのものが消えていくような感覚に
ポロンポロンと弾く音色が大きくなる。
逃げないといけないのに。走らないといけないのに。
私の足は自然と止まっていた。
「そんなに急がないで、まずはサーシャのハープの音色でリラックスしちゃってください」
ハープを持った少女が後ろから現れる。
両方の肩が出るほど大胆に首元が開いた薄桃色のドレス姿の魔法少女。
この音色だ。この音色を聞いていると急ごうとする意思が削がれていく。
それでも少しでも距離を取ろうと、一歩ずつ前に進む。
絞り出したその気持ちを
「無駄な足掻きはそこまでにしておいた方がいい。希望を持てば、その分だけ絶望はより深いものになる」
鳥の羽飾りを頭に巻いたインディアンのような民族衣装の魔法少女が、文字通り、私たちの道を
酷く冷め切った目で、こう告げる。
「あなたには何も変えられない。変える権利があるのは、教授のような力と覚悟を持った人だけ」