終わった……。
終わってしまったのだ、何もかも……。
魔法少女の解放も、彼女たちの不安と恐怖を取り去るための戦いも、すべて水泡に帰した。
どうにか取り繕っていた“
何一つ為すことも出来ず、知らぬ間にベッドの中へ運ばれ、僕はこうして無意味に天井を眺めている。
倦怠感と目眩に加え、身体中が熱を帯びた痛みを発していた。
けれど、そんなことが
虚無感。
空っぽ。
空虚になった心だけが胸の奥で転がってる。
「上条様。もう少しでりんごが剥けますので食べてください」
霧がかかったような朧げな頭に、誰かの声が入ってくる。
ベッドの脇へ目を動かすと、一人の黒い羽根が果物ナイフを使ってリンゴの皮を剥いていた。
ぎこちなさのある手付きから見て、使い慣れていないのだろう。
試行錯誤を繰り返して、やがて不格好に切り揃えられたりんごの切り身が皿に載せられて、脇にある小さなテーブルに置かれた。
「君は……確か、黒江さんだったね」
僕が名前を呼ぶと彼女は驚いたように呟いた。
「覚えていて、くれたんですね……ぎ、銀羽根様」
「上条でいいよ。……覚えてるさ。もう、誰のことも知らないままでいたくなかったから……」
銀羽根として特権階級を得た僕が最初に独断で敢行したは、マギウスの翼に所属するすべての魔法少女の顔と名前の開示だった。
一人一人と個別で話し、顔と名前と、それから好きな食べ物を一つ教えてもらった。
それだけで延べ二日以上かかってしまったが、それだけの価値はあったと思う。
白羽根だけではなく、黒羽根の名前も全員覚えている。
ドッペル依存症になった魔法少女の名前も可能な限り、調べた。
だがら、僕が知らない羽根はただ一人だけ。
今はもうどこにも居なくなってしまったあの子だけだ。
「りんご、ありがとうね。皆はどうしてる? アリナさんが纏めてくれてるの?」
僕が尋ねると、黒江さんは少し言いずらそうに視線を泳がせてから答える。
「最後のマギウス様もいつの間にか、居なくなられていて……。か、代わりに白羽根様たちが頑張ってくださってますから。あの上条様が新しく連れて来られた方も」
「僕が新しく……って、まさか、和泉十七夜……?」
「すいません。私、あんまり人の名前覚えるの得意じゃなくて……。でも、多分、そんな名前だった気がします」
あり得ない。
彼女は七海やちよを背負って逃げていた。
マギウスの翼に戻ってくる理由がない。
しかし、黒江さんは更に予想外の情報を伝えてくる。
「意識を失っていた上条様をここへ運んだのもその人です」
「!? 彼女が僕を……?」
ますます
和泉十七夜は僕を恐れていたはずだ。
魔法で痛みと恐怖を味合わせて心をへし折り、屈服させた。
だからこそ、暴力に怯えて従属していた。
何を思って、僕を助けたのか想像も付かない。
「黒江さん。申し訳ないんだけど、彼女をここへ呼んでくれないかい?」
「あ、はい。分かりました。でも」
「うん? 何だい?」
「りんご、ちゃんと食べてください。銀羽根様を名乗ってからずっと何も食べられてませんよね?」
ほんの僅かに咎めるようなニュアンスを含んだ言葉に苦笑する。
あまり自己主張をしない彼女がここまで言うのだから、ずっと前から気を揉んでいたのだろう。
「塩と水なら取っていたよ」
「上条様……」
「分かったよ。しっかりと頂くよ。せっかく、君が剥いてくれたんだしね」
そう答えると黒江さんは顔を明るくさせて、お辞儀をした後、部屋の扉から出て行く。
しばらく待っていると、扉が再び開き、和泉十七夜が入室する。
上体を起こして彼女を見つめていると、入り口付近で戸惑ったような眼差しを僕に向けて
「お目覚めになられたんですね、銀羽根様」
「そんなに
「! ……その、貴方は、本当に銀羽根様なのですか? もしくは多重人格などでは……」
端から見ても分かるほど彼女は動揺している。
無理もない。銀羽根をやっていた僕と今の僕にはギャップがあり過ぎる。
感情を殺し、別の自分を演じていたのだから、
苦笑して、緊張した面持ちで歩み寄る彼女を見つめた。
「もちろん、僕が銀羽根だよ。でも、素の僕はこうなんだ。だから、無理に
和泉十七夜は一瞬躊躇ったような素振りを見せた後、静かに語り始めた。
「自分は……貴方に命を救われました。貴方にとってワルプルギスの夜の確保は最優先だったにも関わらず、絶好の機会を不意にしてまで自分を助けることを優先してくださった。それも、既に自分がマギウスの翼から造反していたことに気付いていながら」
「自惚れすぎだよ。君のなんかじゃない。あれは僕の──エゴだ」
あの時が僕が助けたかったのは和泉十七夜の命ではなかった。
一時的とはいえ、部下の“魔法少女”をもう見捨てたくなかった。
助けられるかもしれない魔法少女の命を切り捨てる行為が、どうしても選べなかっただけのこと。
ただの弱さ。
ただの甘さ。
身勝手な感傷でしかない。
「結局、あの場面でワルプルギスの夜を手に入れていたところで、それを与えるエンブリオ・イブが消滅した以上、何の意味もなくなっていたんだ。それについて君が責任を感じる必要はないよ」
自分の手のひらに視線を落として、指先を開閉する。
そう。この手は何一つ掴むことはできなかったのだ。
ワルプルギスの夜も、エンブリオ・イブも、魔法少女の未来も皆、指の隙間を通り抜けてどこかへ行ってしまった。
「上条様……」
「七海やちよたち侵入者はどうなったんだい?」
「混乱に乗じて、逃がしました。正気に戻った由比鶴乃も共に」
「そう……」
由比鶴乃。
ウワサと融合され、自我を奪われた哀れな魔法少女。
彼女があのままの姿でいるのは本意ではなかったから、そこだけはよかった。
怪訝そうに僕を眺める和泉十七夜が言う。
「自分を、咎めないのですか?」
「どうして? 君がそうしたいと思ったのだから、そうしたんだろう? 僕としては一緒に逃げなかった方が理解に苦しむよ」
確かに彼女たちを人質にすれば、環いろはを誘き寄せて、環ういの返還を交渉できたかもしれない。
だが、それを行うための人員も士気も頭脳も今のマギウスの翼には残っていない。
怒りや憤りの矛先が人質となった魔法少女たちに向くだけだ。
その感情が無意味な私刑や拷問に代わり、小さな地獄が生まれるだけ。
それくらいなら逃げ出してくれた方が幾分マシだ。
「ですから、それは……」
「助けたといっても、そもそも力づくで君を従え、利用したのは僕だ。侵入者の足止めという最低限の役目を果たしたであろう君に、最低限の報酬を与えただけ。そこに恩も義理も借りも感じなくていい」
仮にも彼女を従える立場であったのだから、そのくらいのことはするのが当然だ。
それは最低限の責任だ。
前に立つ者の果たさなければならない義務。
「上条様。自分は貴方に敗れてから、ずっと貴方を恐れていました。強大な力を持つ化け物だと思っていました。何の容赦もない冷徹な魔人だと……けれど」
ベッドの脇に立っていた彼女は、手を伸ばして僕の手に触れる。
「貴方はずっと無理をしていただけの、育ちのいい男の子だったのですね」
「……君は僕に手足と顔を融かされたこと、忘れたのかい? 僕はそういうことができる人間だよ」
「気付いていらっしゃらないのですか? そういった発言をする時点で貴方は自身で思っているよりも誠実な人間ですよ」
温かな感触に、自分の体温が思った以上に低くなっていることを感じた。
ワルプルギスの夜の一部と融合した後に使った高速移動の魔法のせいか、それとも純粋に今まで魔法を乱用してきた弊害か。
どちらにせよ、肉体の限界はそう遠くないだろう。
ぼんやりと考えながら、和泉十七夜の顔へ視線を戻すと彼女は皿に載ったりんごを見ていた。
「よかったら食べてくれるかい?」
空腹なのかと思い、そう提案すると彼女はとんでもないとばかりに大袈裟に首を左右へ振ってみせた。
「いえ。上条様が召し上がってください。もし手を動かせないようでしたら、自分がお手伝い致します」
「……少し前からね、食べられないんだ。どうしても口の中で食べ物を噛み潰して呑み込もうすると連想してしまうから」
「何を、ですか?」
「僕の腕の中で融けた女の子のことを」
液状になって腕の中から零れ落ちる、名前も知らない黒羽根の少女。
ドロドロに融けていく仮面の顔が、舌に触れる噛み砕いた食べ物と重なって、耐え切れずに戻してしまう。
だから、あれ以来、塩と水以外は
目を瞑れば、昨日のことのように思い出せる、彼女の温度と感触。
僕の手に重ねられた手のひらが小さく震えた。
「聞きました……。自分が邪魔をしたせいで、貴方が黒羽根を一人殺したのだと」
ももこさんが話したのか、それとも黒羽根の誰かから聞いたのだろうか。
少なくとも恨み言の類だったのは想像に難くない。
「あそこでもし調整屋が間に合っていても、ドッペル症患者が増えただけの話だよ。……もしかして、それが留まっている本当の理由かい?」
「はい……」
彼女は静かに頷いた。
「なら負い目なんて感じる必要はないよ。あの子が僕が殺したんだ。僕の罪だ。それを背負うのは僕だけでいい」
「ですがっ……」
未だ納得のいかない様子の彼女に言い聞かせる。
「あの子の命は最後まで一番傍に居た僕が責任を負うべきものだ。その役目を君に明け渡すつもりはないよ。あの子は僕の部下なんだ」
押し黙って視線を落とす和泉十七夜へ、僕は違う話題を持ち出した。
「現状の羽根たちの様子が知りたいな。十七夜さん、僕を皆が居る場所へ連れて行ってくれるかい?」
***
フェントホープの本館から出ると、そこには崩れ果てたキレーションランドの惨状が確認できた。
ワルプルギスの夜の影響で捲れ上がったタイル。残骸と化したアトラクション施設。
腕を引きちぎられて穴だらけの兵隊クマのウワサが散乱している。その中央でクマのウワサを束ねていた女王グマが頭部を失った形で果てていた。
その周囲で大勢の黒羽根たちが白羽根たちへ何か叫んでいる姿が見える。
「計画はどうなったんですか!? どうして、マギウス様たちは現れないないんですか!?」「私たちはこれからどうすればいいんですか?」「教えてくださいよ、ねぇ!?」
白羽根はそんな彼女たちを宥めようと必死に説得しているが、聞く耳を持つ様子はなかった。
それも仕方のないことだろう。聞かれている彼女たちですら何の情報も展望もないのだ。
マギウスというトップが離脱し、残されたのは不安と破壊の痕跡のみ。
この状況で落ち着いていろという方が難しい。
僕が十七夜さんの肩を借りて、そちらに向かうと白羽根の一人が気付いて声を上げた。
「きょっ……銀羽根様!」
「月咲さん。名前で呼んでもらって構わないよ。今まで皆を宥めてくれてありがとうね」
すると、分かりやすいほど顔を綻ばせ、月咲さんは僕の方に駆け寄ると思い切り抱き締めてくる。
感極まり過ぎて、若干目も潤んでいた。
「恭介様がぁ……元の恭介様に戻ったぁ……!」
随分と心配をかけてしまったようだった。
僕なりにけじめとして魔法少女との距離を平等に離したつもりだったが、それでも親交があった女の子には心労を与えていたらしい。
彼女の頭を軽く撫でながら、隣に居るもう一人の白羽根にも声をかける。
「月夜さんもご苦労様」
「もう大丈夫なんでございますか? 恭介様」
姉の月夜さんの方は一歩引いた様子で体調に気にかけてくれた。
本音を言えば、万全には程遠い状況だが、それを口に出しても気を遣わせてしまうだけだ。
「うん。大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
他の白羽根たちにも一人ずつ労いたいところが、これ以上黒羽根たちを放置しておく訳にもいかない。
「マギウスの翼の皆、ごめんね。本当なら、今日、君たちは魔法少女の運命から解放されるはずだった。でも、計画は失敗し、マギウスは三人とも僕らの元を去った。本当にごめん。すべて、僕の力不足のせいだ」
可能な限り、声を張って全員の耳に入るように話す。
同時に翼のシンボルにも魔力を通し、ここには居ない羽根たちにも伝える。
「残ってるグリーフシードは各々に分配するつもりだけど、マギウスが居なくなった今、これ以上のウワサを維持することもできなくなる。事実上、マギウスの翼は崩壊した。それぞれ、元の生活に戻ってほしい」
マギウスが逃げた手前、それに次ぐ僕が解散を促す他ない。
しかし、それで納得が行く魔法少女ならば、既にこの場には居ないだろう。
当然の如く、難色を示す反応しか返って来なかった。
「それって私たちのこと、見捨てるってことですか!?」「元の生活って……それができないからここに来たんですよ!」「……魔女と戦ったり、魔女になるかもしれない恐怖に怯えて暮らすなんて、もう耐えられないのに……!」「置いていかないでくださいよ! 銀羽根様ぁっ……」
混乱。悲憤。不安。恐怖。
どれも痛いほど理解できた。彼女たちの立場からすれば当然だ。
もうどうしようもないと思ったからこそ、マギウスの翼に希望を見出してやって来たのだ。
それがここに来て、何も為せないまま、元の生活に戻れなど到底受け入れられない提案だ。
「静粛に! 上条様は不調の身体を引きずってお越しになられたのだ。そのくらいに……」
千鳥足になりそうな脚を抑え、僕は黒羽根たちの元へ近寄っていく。
「見捨てるつもりなんてないよ。でも、僕の魔法でできるのは何もかも融かして混ぜることだけ。君たちに未来を創ってあげることはできないんだ。それでも君たちに終わりを与えることはできる。それでいいかい? 一緒になって破滅してあげることくらいしかできないけど、それでもいいかい?」
もう彼女たちを救う手立てはない。
希望の未来も、解放の運命も与えてはあげられない。
精々、手を繋いで死んであげることくらいしかしてあげられない。
でも、もしそんなものですら欲しいと願うのなら、僕は……。
「一緒に、行ってくれるんですか?」
一人の黒羽根が一歩前に出て、僕を見上げた。
「私たちと一緒に終わってくれるんですか?」
ああ……そうか。
そうなんだね……。
「うん。黒江さん。僕も一緒だよ。一緒に終わってあげる」
黒江さんは、その傍に居る魔法少女たちは、微笑んでいた。
安心しきったような、肩の荷を下ろしたような、安堵の笑み。
君たちはそこまで魔法少女であることに疲れ果てていたんだね……。
「少しだけ待ってて。すぐに創るから」
「上条様……何を」
後ろで十七夜さんの声が聞こえたが、僕はそちらを振り返ることはしなかった。
魔力を背中に回し、銀の輪を形成する。
余剰で漏れ出した魔力が膜のように張り付いて、銀色のローブとなった。
その上へと舞い上がる。重力に従っていた身体は羽根のように軽く、空へと跳ねた。
小さな頃、空を飛ぶことを夢見ていた。でも、夕暮れの冷えた風は思ったよりも冷めていて、心地よさは感じられない。
上へ。より高く、上へと昇っていく。
──見えた。
黄緑色のハニカム構造で形作られた魔力の膜。
アリナさんが張った魔法の結界。ドッペルシステムを支える枠組み。
その表面に左手を伸ばした。
触れた箇所から銀色の魔力で塗り潰されていく。
まるで水の中に絵具を垂らしたかのように、アリナさんの
ワルプルギスの夜との接触を経た後、僕は自分の魔法の本当の使い方が分かった。
この魔法は、自分と何かを繋げるものではなかった。
自分の
“融合”はその過程の一つに過ぎない。
僕の本当の魔法は……。
「掌握……」
他者を自分で塗り潰す魔法。
銀色に変わった結界が融解を始め、変形していく。
さあ、終わりを創ろう。
せめて、彼女たちが融けて消えるまで、幸福な幻想を見られるように。
夕焼け空が夜に変わる前に、魔法少女が苦しむ今日を終わらせよう。
皆が最期まで楽しい気持ちで眠れるよう、素敵な寝床を完成させよう。
一人一人が望む幸福を、魔法少女へ。
そうして、僕は作り上げた。
僕の結界を。
魔法少女の墓場を。
彼女たちの夢見る世界を。
ぬるま湯のような生温かい銀色の魔力が、服越しに肌へとへばり付いていく。
「……ああ、結局、あのりんご。残しちゃったな」
銀の世界に沈みながら、ふとベッドの脇に残してきたりんごのことを思い出す。
確か、あの子の好きな食べ物ものもりんごだった。
どうしてだか、急にそんなことを思い出した自分が間抜けで、口元が綻んだ。