鈍行列車 作:ンゴォ
私は鈍行列車に乗っていた。揺れる車体は、私の心を、まるでゆりかごのなかの赤ちゃんのように一緒に揺らしてくれる。それは、私の心を落ち着かせるものであった。靴底から頭まで、ゆらゆら、がたんごとん、と体を揺らす。実に心地よいものである。悩みを持ってしまうと、この安らぎを感じられなくなってしまう。やはり、人は純粋に生きるのが精神的に良いんだろう。しかし、苦悩するのが人間の特権でもある。
そういえば、私は知り合いに、作品に対する考え方について話された。彼の問題提起はその通りだった。まず、彼が話したのは、作品に対するリスペクトであった。敬意とも言い換えられる。それがなくなってきていると。作品に対する敬意というのは、前提としてなくてはならないと言っていた。私の考えも、概ねこのとおりであった。作品に対するリスペクトがなければ、それをオマージュした作品や、いわゆる二次創作はなくなってしまう。なぜならそれらは、敬意、という精神の土台の上に成り立っているからである。下が崩れてしまってはどうしようもないであろう。
しかし、これは二次創作などに限った話ではないだろう。一次創作でも、その作り出した作品に敬意を持つべきである。登場人物を、無闇矢鱈に悪感情を集めてしまう性格にしたり、逆に正しいだけの存在にしたり。正しさを主人公やほかの登場人物が持っていても、それがただの一方的なものであれば、作品が途端に薄く感じられてしまう。それは、作品に対する敬意が欠けていることになるだろう。
ふと私は、男ならどう考えるか気になった。いやしかし、これに関しては、答えなど見えているだろうか。そんな単純な話題を、私は男に話したくはないと思った。もっと別の、その敬意から派生した話を男と論したかった。
ちょうどそこで、電車が駅に止まった。鳴き声をあげながら、速度が落ちていく様は、なぜかとても哀しくみえた。しかしその声は、新しき者を迎え、旅立つものを送る声でもあった。別に、人は普段電車の声など気にはしないが、こうして注意して聞くと、不思議と、なにか感情を感じとれたりするものだ。例え、それがただのかんちがいでも、それは人の応援となる。声が鳴き止み扉が開くと、スーツを着た男が立っていた。男は、電車に足を踏み入れると、真っ直ぐに私の元へと向かってきた。思えば私は、男の格好をしっかりと見ていなかったかもしれない。今まで、何度か話をしてきて、何度も男を眼に入れているはずなのに、男の格好を覚えていないのだ。失礼をしていたのだろうか。
さっきの敬意の話で言えば、私は男に敬意を、持っていなかったが故に、その姿や格好を覚えていなかったのではないか。私の目の前が暗くなった。先程まで、敬意が云々など語って起きながら、語る私自身が敬意を払っていなかったのだ。滑稽どころの話ではなかった。私は男に話しかけた。
「また会いましたね。ここで謝らせてください」
「ええ、また会いました。いったいどうしたんです」
「私はあなたに敬意を払ってはいませんでした」
私は、男に自身が犯してしまったことを話した。男は今、スーツを着ている。スーツは黒を基準としていて、ネクタイは単調な青。見れば見るほどシンプルで、しかし独特な雰囲気があった。もし、その格好が今まで着ていたのと同じであれば、いや、ちがかろうが同じである。私が男に、敬意を払っていなかったのが分かるのは、格好を覚えていない、という点にある。男が問うてきた。
「そりゃいったい何故ですか。私が覚える限り、あなたが私に、敬意、と言ったらあれですが、不躾なことはしていなかったではありませんか」
「行動ではないんだ。記憶によりあなたへの失礼があったのだ。私はあなたと何度もあっているのに、あなたの格好を覚えていないんだ。あなたは今スーツを着ているでしょう。それが今まで着ていたのか、それとも今日着てきたのかわからないのです」
「あなたはやはりひねくれている。そこまで過剰に気にすることはありませんよ。ただの格好の一つ二つ、覚えていない程度で別に敬意が損なわれることなんてありませんよ。私はそこまで気にしていませんよ」
私にとって救いの言葉であった。
「私は敬意について考えていたのです。創作だろうと現実だろうと、その人のアイデンティティを犯したりすることは、敬意が損なわれている、と。私は自分自身に失望したのです。こう考えているくせに、私自身がなにもできていなかったのです」
「落ち着いてください。私はどうも思っていません。それにしても敬意ですか。面白い話ではあります。日常で敬意を持っているつもりでも、持っていなかった、ですか」
男は心做しか、瞼が下がっているように見えた。何故だろうか。自信過剰に考えるならば、私が男に敬意を持ちたいと願っているから、それが嬉しくて笑っているのだろうか。
男は次の駅で降りていった。男は降り際にこう言った。
「また会いましょう」
私も返事をした。
「ええ、また」