――はてさて、どうしたものやら。
宗教団体『光の紋章』の居室にて、体験入信中の宮木伊織は窮地に陥っていた。彼女の前には、救急箱と、肩に大怪我をした、伊織と同年代の女がいる。怪我の具合は、適切な処置をほどこせば命にかかわることはないが、適切に処置しなければ命にかかわる、そんな微妙なラインだ。残念ながら、伊織に適切な処置をほどこせるほど医学の知識は無い。もちろん、知識が無いからといって処置しないわけにはいかないし、普通なら、医学の知識が無い伊織が適切に処置できなくても文句を言われる筋合いもないので、できる範囲でやるだけだ。
だが、今は事情が違う。
少し前、元刑事という男が偶然伊織のことを知っていて、詐欺師ということをバラしてしまったのだいやあらぬ疑いをかけてきたのだ。その際、伊織はとっさに「自分は看護士だ」と言ってしまった。今のところ疑われてはいないと
――しかたない。やるだけやってみよう。
伊織は救急箱の中から消毒液とガーゼを取り出すと、女の傷の手当てを始めた。まずは傷口に消毒液をかけ、ガーゼで血を拭き取る。当然のごとくその手つきはぎこちなく、女は顔を歪めた。
「……痛った。もっと丁寧にやりなさいよ。あなたホントに看護士?」
「元・看護師です。現場を離れてだいぶ経つから、ケガの手当てなんて久しぶりで。ゴメンね、えーっと、
親しみを表すため下の名前をちゃん付けで読んでみたが、佳奈恵は伊織に向かって疑惑の眼差しを向けてくる。佳奈恵はあの元刑事の恋人のようだから、最初から伊織のこと疑っているのだろう。なんとかごまかしきらなければならない。
「そういやあ、結月ちゃん大丈夫かなぁ? ずっと姿が見えないけど」
手当てを続けながら、伊織は不意に思い出したような口調で結月の名を出した。佳奈恵は、以前間宮響と行動を共にしていたそうだから、結月のことも知っているかもしれない。
「え? 結月ちゃんって、三原結月ちゃん? あの子、ここにいるの?」佳奈恵は、思いがけない名を聞いたという顔になる。
よし、かかった。という思いは顔に出さず、伊織は言う。「そう。三原結月ちゃん。もしかして、佳奈恵ちゃん知り合いなの?」
「ええ。あの子が『希望の家』に保護される前、間宮さんのグループで一緒だったの」
希望の家については伊織も間宮から聞いている。この『光の紋章』の施設からかなり離れた場所にある避難施設だ。十ヶ月前、間宮と結月はそこに身を寄せていたが、訳あって旅に出ることになったそうだ。
「そう……希望の家からここまで来るなんて、無茶するわね……」佳奈恵は沈痛な面持ちになった後、心配げな目で伊織を見た。「それで、ここの施設は大丈夫なの? 薬は、ちゃんとあるの?」
なんのことか判らず、伊織は目を丸くする。「薬? なんの?」
「なんのって、もちろん、
「喘息? 誰が喘息なの?」
「結月ちゃんに決まってるでしょ」
「…………」
「…………」
「……え?」
「……え?」
きょとんとした表情で見つめ合う二人。伊織も、そして佳奈恵も、お互いなにを言ってるのか判らないようだ。
「結月ちゃんって、喘息なの?」伊織は改めて訊く。
「そうよ? あなた、知らなかったの?」
「全然知らなかった。あの子、そんなこと一言も言わなかったから」
「呆れるわね。本人が言わなくても、あの子のことちゃんと見てれば、それくらい判るでしょ。発作とかの症状があるんだから」
そう言われ、伊織は出会ってから今までの結月の様子を思い返してみる。しかし、喘息の症状が出ている所など見たことがない。それどころか、ゴーレムや襲撃者相手に、かなり派手に暴れまわっている。
「佳奈恵ちゃん、何か勘違いしてない? あの子、ずっと元気だよ? 初めて会った時とか、おっきな槍ぶん回して、ゾンビどもを倒しまくってたし」
伊織がそう言うと、佳奈恵は何のことか判らないというように目を丸くした。
「倒しまくってたって、誰が?」
「誰って、結月ちゃんが」
「結月ちゃんが、何を振り回してたの?」
「大きな槍だよ。身長くらいあるヤツ」
「…………」
「…………」
「……え?」
「……え?」
またきょとんとした表情になる二人。やっぱり、何を言ってるのか判らない。
「結月ちゃんが
「適当じゃないわよ、実際、
「ホントに?」
「ホントだって」
佳奈恵は、信じられないというような表情になる。「結月ちゃんが
こいつもゾンビと言わないクチか、というツッコミは心の奥底にしまい込み、伊織も考える。どうも話がかみ合わない。伊織が知っている結月と、佳奈恵が言う結月、まるで別人だ。佳奈恵が嘘を言っているようには見えないし、そんな嘘をつく理由もないだろう。
「喘息が治ったってことかな?」伊織は思いついたことを言ってみた。
「喘息って、治るものなの?」佳奈恵は首を傾ける。
「さあ、わかんない」
「わかんないって、あなた看護士でしょ?」
「ああ、あたし、内科じゃなくて外科だから」
「外科ねぇ……」佳奈恵は目を細めて伊織の顔と自分の傷を交互に見ていたが、すぐに真剣な表情に戻った。「あたしも詳しくは知らないけど、喘息は、現代の医学では治らないって聞いたことがあるわ」
「そうなんだ。勉強になります」
「だから、あなた看護士なんでしょ?」
疑惑たっぷりの佳奈恵の眼差しを無視し、伊織は考える。喘息は治らない病気……佳奈恵も医学は素人だろうから本当かどうかは判らないが、それが正しいとしたら、なぜいま結月は発作も無く健康に暮らしているのだろう。考えて、不意に思い当り、伊織は口元に手を当てた。
「ひょっとして、喘息って設定したの、忘れてるんじゃ……」
「……はい? あんた、なに言ってんの?」
「あ、いや、だからね」コホンと咳払いをし、伊織は続ける。「結月ちゃん、ホントは喘息じゃないけど、なんらかの目的があって、喘息のふりをしていたのよ」
「目的って、なに?」
「例えば、周囲の人に同情してもらうためとか。あるいは、離婚した父親とかがいて、治療費だまし取るためとか。そういうの、長くやってると、自分で設定したことでもつい忘れちゃうのよね。あたしもよくあるの」
佳奈恵の目が汚い物を見る目になる。「あなたみたいな詐欺師と結月ちゃんを一緒にしないで。結月ちゃんが、そんなことするわけないでしょ」
「あたしは詐欺師じゃないです。でも、まあそうだね。あたしも、あの子がそんなことするとは思えない」
仕事柄、騙す人や騙される人を見抜くことに、伊織は絶対的な自信を持っている(もちろん看護士の仕事だ)。あの子は、嘘をついたり詐欺に加担するような子ではない。
がちゃり、とドアが開き、長身の女性が部屋に入って来た。佳奈恵たちが「ジアン先生」と呼んでいた人だ。治療道具がない場所で佳奈恵の傷を積極的に手当てしていたから、恐らく医者だろう。
ジアンは颯爽とした足取りで歩くと、佳奈恵のそばに立った。「怪我の具合はどう?」
佳奈恵は大丈夫ですと答えた後、ジアンに問う。「訊きたいことがあるんですけど、喘息って、治ることがあるんですか?」
どうしたの急に? という表情のジアンに、佳奈恵は結月のことを話した。
話を聞いたジアンは、「そうねぇ」とあごに手を当てた。「あなたの言う通り、喘息は、今の医学じゃ完治させることは不可能な病気よ。だけど、適切な治療と生活環境の改善があれば、健康な人と変わらない生活を送ることは可能ね」
「でも、今の世界の惨状じゃ、適切な治療なんて、無理ですよね?」
アウトブレイクが発生して一年が過ぎ、文明社会は完全に崩壊した。病院に行っても医者に診てもらうどころかゴーレムに襲われるのが関の山だ。薬を入手することも難しい。今や、生き残った医者やわずかな薬を生存者が奪い合うような状況である。そんな中で、病人や怪我人が適切な治療を受けるのは困難だ。それが喘息のように継続して治療や投薬が必要となると、致命的な病になりかねない。
ジアンは「そうね」と頷いた。「でも、今の世界の惨状こそが、結月ちゃんの喘息症状が治まってる理由じゃないかしら?」
「どういうことですか?」佳奈恵は首を傾けた。
「喘息の原因は、ダニやほこりなどのハウスダスト・食事・ペットなどのアレルギーによるものや、激しい運動や過度なストレスとか様々だけど、原因のひとつに、大気汚染があるわ」
「大気汚染……」
伊織と佳奈恵は、顔を見合わせた。
車や飛行機などの乗り物・工場などの排気ガスに含まれる汚染物質が原因で起こる大気汚染。アウトブレイク後のゴーレム惨禍で文明が崩壊し、車などの数は大幅に減った。工場なども完全にストップしている。このゴーレム惨禍が世界のどこまで広がっているのか、テレビやラジオなどの情報網さえ無いため知ることはできないが、関東地区のみの惨禍だったとしても、大気汚染はかなり改善されているだろう。もし、世界中が同じような状況だとしたら、地球上の空気は劇的にきれいになっているはずだ。結月の喘息の原因が大気汚染だった場合、症状が表れなくなるのも当然と言えた。
「もちろん治ったわけじゃないから、もしゴーレム惨禍が収束して世界の経済活動が再開すれば、また症状が表れると思うわ」ジアンは、少し表情を暗くしてそう付け加えた。
「それって、なんか皮肉な話ですね」佳奈恵も肩を落とす。世界が平和だった頃は不治の病で、世界が惨劇に襲われると症状が出なくなり、世界が平和になるとまた症状が発生する……あの子の普通の生活は何処にあるのだろうかと、伊織もやるせない気持ちになった。
「そうね……まあ、それより」
重くなった空気を入れ替えるように、ジアンは声のトーンを上げた。「これは、あなたがやったの?」
ジアンは伊織が手当てをした佳奈恵の傷を指さす。伊織が、「そうです。完璧でしょ?」と満面の笑みで答えると、ジアンと佳奈恵は大袈裟にため息をついた。佳奈恵の傷には、何十枚もの絆創膏がベタベタと貼りつけてある。貼る方向はてんでバラバラで、失敗して皺くちゃになっているものもあった。
「……小学生の頃、クラスの男子がこんな粗っぽい治療してたわね」ジアンが呆れた声で言って、伊織を見た。「あなた、ホントに看護士?」
「ああ、あたしが勤めてたの、歯医者さんなんで」
「さっきは外科って言ってたでしょうが、この詐欺師が」佳奈恵は蔑むような口調で言った。
「あたしは詐欺師じゃありませーん」
伊織がとぼけた声で答えると、ジアンと佳奈恵はやれやれと肩をすくめた。よし、うまくごまかせた。伊織は胸の内でガッツポーズをする。
それにしても。
本当に、結月はどこにいるのだろう? ずっと姿が見えない。ついさっき、この施設内で大きなトラブルがあったところだ。また無茶なことをしていなければいいけど。伊織は小さくため息をついた。