サスケとのつらい別れから、早や五日が過ぎた。船内にはサスケが言ったとおり十分な水と食料が積まれていた。二人分で二週間と見越していたので、悲しいことに一人でいるいろはにとって三週間ぐらいは持ちそうである。
サスケが船の中でいろはに語ろうとしていたのだろう。魔王について現在のジパングで可能な限り知りうる情報を細かに記されていた帳面があった。
その他、アリアハンの国勢情報やその歴史。勇者オルテガのこと。冒険者の集い場、ルイーダの酒場についてもサスケは詳細に調べてあった。単なる思いつきで彼がいろはにアリアハン行きを勧めたわけではないことは容易に察せられる。
驚嘆すべくは、この小船に魔物がほとんど近づけなかったことである。サスケは船の東西南北に魔除けの鈴を取り付け、かつ聖水もこれでもかと云うくらい船全体に染み込ませていたのである。
だがそこまで準備しても、やはり海を無人の野のごとく進むことは出来ない。幸い大王イカやマーマン、ガニラスあたりとは遭遇しなかったものの、しびれクラゲやスライムつむりとは数回は遭遇した。たいていの冒険者は一蹴できるモンスターであるが、いろははこのモンスターにも敵わない。船を急いで漕いで逃走するしかなかった。姉ひみこと忠臣サスケの魂がいろはを守っているのか、船足が速く、不思議にも、必ず逃走が出来た。
アワでの戦いの時、サスケはここまで準備をしていた。おそらく彼は敗戦を予期し、かつ国内に何らかの形で自分と主君いろはが留まることができなくなるか、またその必要が無くなることをも読んでいたのかもしれない。
「何が『女王の知恵袋』よ…私はサスケの足元にも遠く及ばない…」.
改めて家臣の慧眼に敬服するいろははサスケの残した帳面を食い入るように読んだ。
一方、アリアハンは近海に棲み漁船や定期船を襲う海棲モンスターを討伐するため船団で出撃していた。
その海戦にて十分な戦果を挙げた船団はアリアハンに向けて帰港する準備が進められていたころであった。船首で長い釣り糸を垂らしていた少年が見慣れない様式で作られた小船を発見した。
「漂流者か?」
少年は釣竿を置いて船室にいる船長へ報告に走った。船長の名前はロイス、アリアハンの騎士団長でもあり、あの勇者オルテガの高弟だ。船室内の机で王室に提出する書類を作成しているとノックが室内に響き
「師匠、もとい騎士団長」
「どうした、アレル?」
「見かけない様式で作られた小船が浮かんでおります。船首の向きからアリアハンに向かっていると思うのですが」
「漂流者か。よし救出しよう。アレル、行ってこい」
「はいっ!」
アレル、後の勇者である。
アレルの乗っていた船から小型ボートが下ろされ、漂流していた小船へと向かった。ボートにはアレルと彼とアリアハンの少年騎士ベイツが同乗していた。ボートが小船と接触するとアレルは飛び移った。
「誰かいるか…」
と言いかけた時、アレルは見つけた。そこには見慣れない服装をした美少女が倒れていたのである。何やら高熱を発しているようだった。アレルは少女の額に手を置いた。
「すごい熱だな。急ぎ船に運ぼう」
アレルがその少女を抱きかかえた。少女はそんな状態であっても帳面数冊を決して離そうとはしなかった。
「う、ううう…」
抱きかかえるのに不自由であったため、ベイツがその帳面を一時預かるべく、少女の手からそれを取ろうとした。しかし少女は離さなかった。
高熱にうなされながらも、自分の大事な帳面が取り上げられようとしていることに気づいた少女は目を明けた。そこには黒髪も鮮やかな精悍な面持ちをした少年が自分を抱きかかえていた。
「サ、サスケ? サスケなの?」
少女は高熱のため、少年を誰かと見誤り抱きついてしまった。
「生きていたのですね…。良かった…良かった…」
抱きつく時、不覚にも帳面を落としてしまったのをベイツが拾った。
「…何て言っているんだ?」
「分からない…。聞いたことも無い言葉だけど、どうやら俺を誰かと間違えているらしい」
少女はそのまま少年に抱きついたまま気を失ってしまった。ベイツは帳面をパラパラとめくった。
「見たこともない文字だ…。まるで絵みたいだが何やら美しいな」
「ベイツ、彼女にとっては大切なノートらしい。持っていってやろう」
ジパングを発って十四日後、少女は漂流の疲れと孤独と海の魔物への怯えから、疲労困憊し、高熱を出していた。それを運良く海戦から引き上げ準備中のアリアハン船団の三番船が発見した。
少女の名はいろは。辛い船出と航海を経て、ようやく辿り着いたアリアハンへの道であった。
その日から丸二日、いろはは眠り続けた。オロチの脅威とひみことサスケの最期が頭から離れず悪夢となっていろはを襲う。眠りながら悲痛な叫びをあげているが、アリアハン船団の者でその言葉が分かる者はいない。だがよほど辛い目にあったのだろうと誰もが察していた。
そして三日目の朝。いろはは見慣れない天井を見た。外からは波の音も聞こえるため、まだ海の上には違いないが、今までの小船とは違う。
「ここは…」
「おや、気がついたようね」
ベッドから起き上がり、いろはは声の主を見つめた。年の頃は二十代後半と思える穏やかな表情をしている女であった。
「と、言っても私の言葉は分からないか」
「…いえ、分かります。貴方が私を助けて下さったのですか」
「ほえ、驚いた私の言葉分かるのかい?」
いろはは微笑んでうなずいた。かつて世界の盟主国となったアリアハンの言語は世界共通語である。そのことはいろはも知っている。だから彼女はジパングにいる時、すでに学んでいたのだ。
「アタシの名前はルイーダ。人はマダム・ルイーダと呼ぶね。本当は酒場の女主人なんだけど船団が出撃中は店も暇でね。船医のバイトをしているのよ。そこにアンタが担ぎ込まれたってわけ」
船団出征中には、酒場に登録されている冒険者たちも傭兵として参加しており、また得意にしてくれている城の兵士たちも無論のこと全員が出兵しているので、開店休業状態となってしまう。やむなくルイーダは一時店を閉めて、昔にかじった医術を生かして船医として働いていたのである。
「じゃ、じゃあこの船は?」
「アリアハン船団三番船。で、ここは医務室」
「アリアハン!」
到着はしていないが、このままこの船にいれば、間違いなく目的地に着けることを知り、いろはは安堵した。
「あの、私、アリアハンに向かっていたのです。船賃は後日必ず支払いますので、このまま私を連れて行ってもらえませんでしょうか」
ルイーダは吹き出した。
「金なんかいらないわよ。漂流者から船賃を取るなんて聞いたこともない。アリアハンに向かっていたのなら、ちょうどいいじゃない。あと二日もすれば到着するからゆっくり休んでいなさいよ」
「はいっ、ありがとうございます」
ルイーダといろはがそんな会話をしている中、医務室のドアをノックする音が室内に響いた。
「どうぞ」
ルイーダが短く答えると、いろはをこの医務室まで運んできたアレルが入ってきた。
「おや、坊やかい。ごらん。お嬢ちゃん目が覚めたようよ」
アレルは水差しをルイーダが肘をもたれさせている机の上に置き、いろはに微笑んだ。
「良かった。すごい熱だったから心配していたんだ。…と言っても俺の言葉わからないか」
ルイーダと同じ事を言う少年を見て、いろはは苦笑した。
「大丈夫です。貴方の言葉、分かります」
「お嬢ちゃん。この坊やがアンタをここまで運んできてんだよ。そしてこの二日間ほとんど寝ないで看病したんだよ」
「え?」
自分の体を見てみると、船の中にいたときと衣服が違う。ではこの人が脱がしたのだろうかと、いろはは赤面した。それを察した少年はあわてて言った。
「違う違う。服を脱がして新しいパジャマに着替えさせたのはルイーダおばさ…」
ドン!!
「アタッ!」
アレルのお尻にルイーダの蹴りが炸裂した。
「三十路前のアタシにおばさんは無いだろう! 坊や!」
さっきまで穏やかな表情だったルイーダが鬼のような形相をしていた。
「す、すみません…。いやだから、このルイーダお姉様がパジャマを着せたのですよ。俺じゃないので大丈夫だよ」
「…プッ」
いろはは笑った。久しぶりに笑った。
「ご、ごめんなさい。笑ったりして。でも貴方が助けてくれたのですね。しかも看病して下さったなんて…感謝の言葉もございません。ありがとうございます」
「いや、船に乗っている者なら当然のこと。礼には及ばないよ。あとこれ、大事なノートなのでしょ。返すよ。あと貴方が乗っていた船もこの三番艦がけん引しているから安心してよ」
アレルがいろはに差し出したものはサスケの帳面であった。
「ああ…ありがとう。大事な帳面なのです」
いろはは帳面を胸に抱きしめた。
「ああ、言うのが遅くなったけど、俺の名前はアレル。アリアハンのアレル」
「あ、私こそ紹介が遅れました。私の名前はいろは。ジパングのいろはです」
「へえ、アンタ、ジパングの人だったのかい。あの東の果ての島国のことでしょう?」
ルイーダは目を丸くしていろはに聞いた。ジパングは世界から見て、やはり辺境と思われているのだなといろはは感じながらうなずいた。
「俺の親父も、もしかしたら立ち寄ったかもしれないな。親父がお袋に話したことがあるそうで、俺はお袋からジパングという国を聞いたことがあるよ。他の国とは違う文化があり、緑ゆたかな国だそうだね」
「アレルさんのお父様がですか?」
異国人がめったに来ることの無いジパングに『外人』と呼称される人間が都ムサシノに来た場合、宰相府にいるいろはの耳にも入るが、いろははその事を聞いたことがなかった。
「親父は鍛冶技術が素晴らしいジパングに剣を作ってもらうため立ち寄ったそうだけど、異国人に剣を作るのは、その国では禁じられているらしく断られたらしいけどね」
その法を作ったのはいろはの父であるが、いろははそれを廃止している。やや昔の話のようだが、いろはは気になったので少し深く訊ねた。
「あの…失礼ですがアレルさんのお父様のお名前は…?」
アレルは父のことを語るのは好きだが、名を出すのをあまり好まなかった。茶を濁そうとするがルイーダがあっさりしゃべってしまった。
「アレルの父は、あの勇者オルテガよ」
アレルは肩から力が抜けた。
「オルテガ様の?」
いろはは驚いた。噂でしか聞いたことの無い勇者オルテガの息子が目の前にいるのである。
「へえ、さすがはオルテガ様。ジパングにもその名が轟いているなんて」
ルイーダは自分の国の英雄が辺境の国にも伝わっているのを聞いて、少し嬉しそうである。アレルも満更でもないようだった。
アリアハンに到着するまで、いろははルイーダとアレルに色々なことを聞いた。特にルイーダが営業している酒場についてはずいぶん興味を示していた。
「へえ、アタシの店に冒険者登録するためにねえ…。ジパングからじゃ大変だったでしょう」
「はい、でも幸いにしてこの船に拾われ、無事に辿り着きそうでホッとしています」
「でも、いろは、アンタはまだ何の職にも就いていないんだ。登録は無理だね。職の神殿であるダーマが定めている職に就いてもらわないと」
それはサスケの手記にも書かれてあった。一通りダーマが定めた職種も記されてあったが、そうすぐに決めることなどは出来なかった。
「アンタがどんな目的で登録したいかまでは問わないけどさ。どの職にするかは酒場に行ってからでも遅かないからさ。とにかくアリアハンに行ってもアテはないんだろ? とりあえずウチに寝泊まりしなよ。家賃はウチの店の給仕でどうだい?」
「あ、はい! ありがとうございます!」
口はやや悪いが、気風の良い姉御肌のルイーダに会えたことはいろはにとり幸運だった。
アリアハンにも行けて、そしてその国で仮とはいえ寝床と仕事も見つかった。あとは自分の職を何にするかと、頼りになる仲間たちを見つけることである。
『魔王バラモスを倒す』途方も無い目的を共に進んでくれる仲間たちを。いろはは期待と不安を胸に秘め、医務室の窓から見える水平線を見つめた。
しばらくして、甲板からアレルの大きい声が聞こえてきた。
「アリアハンだ―!」
いろはも思わず甲板に出た。
「あれが、アリアハン!」
豪華な城が見え、港には多くの者が出迎えにきている。町も活気に溢れていそうだ。
「とうとう、やってきましたサスケ! 辿り着きました!」
感無量でアリアハンを見つめるいろは。その後姿にアレルが声をかけた。
「アリアハンへようこそ! いろは!」
満面の笑みをいろははアレルに返す。
「ありがとうアレル!」
この時をもって、お互いの名前を呼ぶときに『さん』をつけることは無くなった。いろはは鮮やかな長い髪を潮風に流しながら、船の上を気持ち良さそうに飛ぶカモメの鳴き声を心地よく聞いた。
そして、念願のアリアハンにいろはは到着した。木と紙で出来た住居中心のジパングの町並みとは全く違った。レンガ造りで丈夫そうな住居と商人たちで活気にあふれる城下町。遠め目に見える山のような建物は城であろうか。とにかくいろはは驚くばかりの光景であった。
いろはは、ルイーダの好意に甘え、ルイーダの酒場に落ち着くことにした。とはいえ冒険者として登録するにも彼女には職が無い。登録するにも冒険者としての『職』が必要なことはサスケの手記にも記されていた。『戦士』『武闘家』『魔法使い』『僧侶』『盗賊』『商人』そして意味は不明だが『遊び人』などと云う職種があったが、いろはにはどれも当てはまらない。
そして自分を助けた少年はまだ卵とは云え『勇者』この職業はアレルしかなれないことも知った。
いろはは思案の結果、『僧侶』を選んだ。剣や拳で戦うことは自分の細腕ではモンスター相手には無理であるし『商人』として身を立てていくつもりもなかった。
いろはは元々巫女である。姉のひみこも同様にジパング王室に生まれた女子は、みな巫女になる決まりがある。前身が巫女なら僧侶が一番近い職業と言えるだろう。
それに死んだ姉ひみことサスケ。ジパングの民たちの冥福を祈るためにも、いろはは『僧侶』となることを選んだ。
だがルイーダの定める『レベル1』にも満たないいろははまだ登録の資格が無いので城下町の教会や修道院で修行をしながらルイーダの酒場で給仕として働き始めた。
幼き日はお姫様のように崇められ、長じては宰相として崇められた少女が今、酒場の給仕をやっている。心無い者から見れば「落ちぶれた」と思うかもしれないが、いろはは心から労働も修行と楽しんだ。
これが勇者アレルと僧侶いろはの出会いである。この時アレル十五歳。いろは十六歳であった。二人が魔王バラモス討伐の旅にあと二人の仲間を引き連れて城を出るまで、あと一年である。