1日目.Turning Days
「―――ん、ぅ」
意識が浮上する。
ぼやけた視界に映るのは、この数ヶ月でようやく見なれた景色だった。
「そっか……帰ってきてたんだよな、家に……」
声に出してみて、改めて身に染みた。
俺は確かに、数年前まではこの町で産まれ、この町で生活を続けていた。だが、それも全てあの飛行機事故に遭うまでの話だった。
俺はあの飛行機事故の後、遠縁の叔母夫婦の所に拾われて、つい数ヶ月前までそこで生活していた。彼女たちは、良く創作物なんかである冷たい様な奴らなんかではなく、こんな会ったことも無いような俺に対しても実の親のように優しく接してくれる、とても温かくて良い人達だった。
「むしろ、良くここまで来れたよな……」
そんな折り。高校という今までに無かった社会の中に馴染もうとしていた俺を待ち受けていたのは、転校だった。
前の高校には、小学校からの友達なんかも居たりしたので、名残惜しいといえばそうだったのだが、むしろ俺にとっては衝撃の方が大きかったのだ。
昔住んでいた町の、昔住んでいた家。
そこで、唐突に『一人暮らしをしろ』なんて言われて、驚かないやつの方がきっと少ないだろう。
だが良くも悪くも人間という生き物は慣れてしまうもので、1、2ヶ月もこの家で生活すれば、もうすっかり我が家のように感じてきてしまった。
逆に、よくこの家も残っていたな、なんて感想まで浮かんできてしまうほどだ。
「―――いい加減、起きるか……」
枕元に置いてある眼鏡を手に取り、装着する。
くっきりとした視界を、カーテンと窓の隙間から漏れる光が刺激してくるようだ。
少しは働くようになった両手足に喝を入れ、窓際まで歩く。
途中、足元に何かが落ちていることに気づいた。
「あれ? これって……」
写真立てだった。
中に入っている写真には、幼い頃に撮った、俺と妹のツーショット。像の中の俺達はニコニコ笑っていて、なんだかこっちまで嬉しくなってくる。
それにしても、写真立てが落ちてるなんて縁起が悪いな。
俺はそう思う。
普段この写真立てが置いてあるのは、部屋の壁の前に置いてあるタンスの上だ。俺がさっきまで寝ていたベッドからすると、ちょうどすぐ右横に置いてある。もし俺がこれに気付くことなく足を置いたと思うと、ゾッとする。
滅多に起きないような事象に首をひねりながら、手の中にあるそれを慎重に元の手に戻す。
無事におけたことを確認した俺は、いつもの様にカーテンを開け、階下のリビングへと降りる。
寝室を出る時、何故か、いつか見た夢の内容が、やけに気にかかった―――そんな気がした。
ニュースでも見ながら、いつものように朝食を食べていると、あっという間に登校の時間になってしまう。
いくら勝手知ったる……という訳でもないが、まぁそれなりに構造を知っている町だったとしても、ここから学校まではそこそこ距離がある。なのに、バスを使うほどの距離でもないのがまたいやらしい。
その為、俺は毎朝40分近くをかけて、学舎へと向かっているのである。
習慣通りに3人に向かって手を合わせてから、『リン』をひと叩き。チーン、と静かな音が俺を学校へと送り出してくれる。
「―――いってきます」
『行ってらっしゃい』、なんて。言われたのは、一体いつ以来だっただろうか?
柄にもなく、そんな事を考えてみたりした。
自宅から学校へと歩く途中。
その交差点は、ちょうど通学路の折り返し地点くらいに存在している。
車通りがあまりないくせして、路面だけはご立派な二車線道路。自転車で通る分には良いのだが、なんせ俺と似た思考をしたやつが多いせいで、歩行者として歩く時はヒヤヒヤする。いつ自転車が体にぶち当たるのか、なんて気が気では無かったりする。
さて。そんな交差点のすぐ手前の歩道を、俺は歩いているのだが。
"―――ハッ、ハッ、ハッ―――"
誰かが走っているようだ。それも結構近くを。
確かに、この道路は早朝にランナーの姿を見かけることは珍しいことでは無い。が、今は学生もそろそろ家を出始めるような時間帯なのだ。よほどの暇人でもない限り、ランナーなんて有り得ない。
とここで、吐息と一緒になにか硬いものがアスファルトをコツコツと叩く音が、一定周期で伝わってくる。その音は、今自分が履いているローファーの奏でる音と良く似ている。
なるほど、ならば自分と同じ学生なのか。
余程急いでいるのか、かなりのスピードを出しているらしい。その証拠に、さっきまでは拾いにくかったローファーの音がさっきよりもくっきりと聞こえてくる。
そこまで急ぐのならば仕方ない、そう思って俺は、体を少し家屋側へと寄せる。
「―――きゃあっ!?」
その瞬間、体には衝撃が走る。
背面から加わる力と、だんだんと崩れゆく自身の体幹バランス。
『ぶつかったのか』、そう思う暇もないほど、かなり強くアスファルトへ引き倒される。
何とか大きな怪我をしない程度には受け身を取る。取ろうとする。
何とか尻もちをつくまでに被害を抑えることが出来た俺は、おそらく声からして女性だろう、ぶつかってしまった女性を見る。
―――瞬間、視界には一面の赤が広がった。
その女性は、燃えるような赫い髪色をしている。そしてその目は、まるで穢れを知らぬかのように朱く、そしてまた美しい。
ではスタイルはどうだろうか。
勿論、見るまでもない。まず目に入るのは、美しく調和の取れたバストとウエストのライン。そこからヒップに向かうまでの過程も、しなやかな曲線美を描いている。
羞恥からか、それとも走ってきていた疲れからなのか、彼女の頬は紅く上気していて、それが何とも『男』という生物の本能的な部分をそそらせる。
そんな女性が、今、俺の目の前で、無防備にも倒れている。
"―――欲しい、彼女が。何よりも―――"
その
たとえその身に触れることは叶わないと分かっていても。それでもなお俺は、太陽にその身を焼かれたイカロスのように、手を伸ばす。
そして、この腕が、彼女の無垢な首筋へと届こうか、として―――。
「―――あ、あの、ぶつかってすみませんでした。それでは私、急いでますので。―――失礼します」
―――他ならぬ、彼女自身の、それもとてつもなく冷静な声によって、俺の邪な意識は一気に鎮火した。
タッタッタッ……と、彼女が走り去っていく様子を、俺はただただ眺める。
いや、なんて思考してるんだ、俺は。
なんで初対面の女の人に欲情してんだろうか、てかよく見たらあの子、うちの学校の子じゃないか。今度会ったらどうすれば……etc。
心の中で、言い訳にもならない自己嫌悪がぐるぐると回っている。
顔が林檎のように赤くなっているのも手に取るように分かってしまうのが、なんか悲しい。
「……いい加減行こ」
なんだか色々あって我を忘れてしまってはいたが、結局俺もまた学生。動かなければ、遅刻してしまうのもまた事実なのだ。
と、立ち上がった所で、彼女が倒れたあたりに何かが落ちていることに気がつく。
さっきに引き続き、今目の前に落ちているこれ。
なんだか申し訳ない気持ちになるけれど、兎にも角にもこれを拾って、さっきの生徒に返してやらなければ、良心の呵責に苛まれすぎて、今度はこっちの胃かどこかが苛まれそうだ。主にストレスに。
そんな思いを持ちながらも、俺はそれを拾う。
落ちていたものは、生徒手帳だった。
それも、やはりうちの学校の。
「マジかよ……」
意図せず彼女のクラスを―――他に知るようなこともないし―――知ってしまった。
どうやら1-B所属の彼女の名前は、『
へー、月宮かぁ……。
月、宮。つき、みや……―――?
「はあああああああああ!?」
俺は思わず、ここが公共の場だと言うのも忘れて大声を出してしまう。
だってそうだろう。忘れることすら度し難い、あの美しい赤色。そんな髪色をした少女が、昨日学校の食堂に居たのならば、絶対に忘れるはずがないのだから。
「しっかし……変な偶然もあるもんなんだな……」
右手で落とされた生徒手帳を弄びながら呟く。
と。
「―――君、ちょっと良いかい?」
唐突に、それまで誰もいないと思っていたところから声を掛けられた。
咄嗟に、右手に持っていたものをズボンの右ポケットへと捩じ込む。
「っ、は、はい。僕ですよね?」
「ははは、君じゃなかったら、他に誰が居るんだい」
そう可笑しげに言われたので、周りを見渡してみると、確かに、周りには愚か、この周囲に人の姿は見えない。
本当に、俺以外に話しかけるんだったら、誰に話しかけると言うんだろうか。
「あはは……そうですよね、すみません。それで、何か用ですか?」
「ああ、そうだったそうだった。ちょっと聞きたいことがあってね」
「―――?」
男は『いや、見てないならいいんだけどね』なんて前置きをして。
「さっきこの辺りで、女の子を見かけなかったかい? 黒い髪の子なんだけど……」
あぁ、それなら……と、自身の記憶の中から―――とは言っても、髪色だけは違ったのだが―――思い起こし、答えようとする。
―――そして、男の目を見た。否、
俺に声を掛けてきた男。
そいつの目は、『人を人として見ていないやつ』の目をしていた。
あぁ、どうしてこんなことがわかるのか。それは簡単だ。
自身の記憶に、コイツと同じ目をした男が居た。居た記憶だけがある。そして、その男は俺の敵だった。
ならこいつも―――俺の敵なんだ。
だから俺は―――
「いや……ちょっと分かんないですかね。この辺って一応通学路になってるので、多分どこかですれ違われたんじゃないですか?」
―――とぼけることにした。
「―――」
「ッ、―――」
男の目線が、少しだけ不快感を帯びる。ならば負けじと、こちらも視線を強める。
永遠に続くかと思われた刹那の沈黙。それは、意外にも男の方から打ち切られた。
「いやはや、私も早とちりしてしまったのかもしれないね。……ありがとう、少年。お陰で助かったよ」
「いえいえ、良かったです―――それでは」
見る人が見れば和やかな、しかし当人からすれば地獄のような空気感の中、俺はさっさと男との会話を打ち切る。
―――こういう奴とは、もう二度と関わりたくなどないのだから。
「―――あぁ、そうだ、少年」
お互いに背を向け合い、今にも歩きださんとするその時に、急に男が、背中越しに声をかけてきた。
「……なんです?」
「―――その右のポケットの中身。今回は見逃してあげるよ。最も、君は私と会った事など忘れているのだろうがね」
そんな事を、言って、男は右手をこちらに向け―――。
「―――何だったんだ」
―――
学校の昼休み。
普段なら瑞乃あたりなんかに誘われて、食堂とか、教室なんかで昼食を取るのだろう。
が、今の俺は別の目的のために歩いていた。
「えっと、1-B、1-Bはっと……?」
普段なら歩くことのあまり無い、2つ下のフロア。
一つ下の後輩が俺の事を訝しげに見てくるのを尻目に、俺は目当ての教室を探そうとする。
「お、ここか……」
そうしてたどり着いた先には、堂々と『1-B』の看板が。
そう、俺は今朝拾った生徒手帳を、本人の元へと返すためにわざわざこの教室まで足を運んでいた。
―――しかし、すぐに徒労だったと気付いたのだが。
「え? あぁ、月宮さんなら、今は食堂にいるんじゃないでしょうか? あの人、いつも昼食はあそこで取ってるんです」
「そうか、ありがとう」
教えてくれた下級生にお礼を言って、その場を足早に去る。
あぁ、ザワザワと聞こえる教室内での噂が手に取るように分かってしまう。
きっと明日には、俺の名前の前には『月宮の事を探していた』などといった冠詞がくっついてくるのだろう。
それに、よく良く考えればわかる事だった。
以前瑞乃が『前行った時も食堂に親衛隊と一緒にいた』などと言っていたのだから、当然の事だった。
何せ、あそこまでの大人数が居られるスペースがある場所など、校庭か体育館、それこそ食堂くらいしかないのだから。
「……まぁ、放課後にでも渡せばいっか」
階段を登りながら、そう考えてみた。
―――後にこの考えも甘かった事に気付くのだが。
「―――ハァ……」
学校から徒歩でおおよそ30分。
俺は今、悪態をつきたくなるくらいの長い坂を、『ウサギとカメ』の亀もかくやというスピードでとぼとぼと歩いていた。
こうなるきっかけは、つい1時間ほど前のこと。
放課後になったので再び1-Bに向かった俺は、しかしそこでも月宮の姿を拝むことは出来なかった。
彼女の学友曰く、『月宮さんは、放課後にも恐ろしくなるくらい習い事とかを詰め込んでいる』との事。確かに。
彼女の実家は『あの』月宮グループなのだ、それを率いる立場になるであろう月宮も、様々な視点に立って物事を見られる立場の人間にならなくてはならないのだろう。
だが、いくらお稽古事だの勉強だのがあったとしても、せめて生徒手帳くらいは返してやらないと、学校外なんかで何かがあった時に困るだろう。
そう思った俺は、随分と冷めた目付きが印象的だった土屋さんに頼み込み、月宮の邸宅の場所を教えて貰った。
そうして今に至る、というのが事の顛末だった。
「それにしても長いな……いつまで登らせるつもりなんだろう」
自身が登ってきた過程を振り返ると、少なくとも学校前の門よりは長い一直線が、そこにはあった。
まるで目眩がしそうなくらいだ。
これ程までに長い道路をこさえられるのだから、その土地の出鱈目な広さ加減も窺える。
「こんなことに、なるなら……瑞乃のチャリ、借りればよかった、な……」
それにしても長い。
唯一着いてきてくれそうな存在である瑞乃は、確かに途中までは一緒に居た。一緒に居たのだが、『なんかヤな予感がするからパス』なんてほざいて、自転車に乗って道半ばで離脱していきやがった。
せめて自転車くらいは貸してくれよ。
そう口を挟む暇すら与えないほど、見事に認識の隙間を離脱して帰りやがった。
くそぅ。悔しいから、明日アイツの自転車乗って帰ってやる。
そう思わずにはいられなかった。
そうして無心で足を前に動かし続け、ようやく頂上へと辿り着いた。
目の前にそびえ立つのは、侵入者を何人たりとも通さない、堅牢な正門。少しだけシックな感じの門扉の隣には、現代の利器たるインターフォンの姿があって、なんだか滑稽な物にも見えなくはない。
そしてレンガで出来たそれの奥には、大きな広場が。
中央で吹き出す大きな噴水の周りには沢山の名も知れぬ花々が咲き誇っていて、視界に彩を添えている。
それらを大きく超えた先、庭の一番奥には、月宮や月宮のご両親が住んでいるらしい屋敷がある。どうやら、その建物はバロック建築という建築用法を使用しているらしい。
そこは異様に物々しいまである雰囲気を醸し出していて、もはや屋敷というより、『城』と言った方が良いのかもしれない。
家の中に入る訳でもないのに、なんだか緊張してしまう。
―――別に何をしに来たというわけじゃないんだ、生徒手帳を渡して、さっさと帰る。これに限る。
1分くらいだろうか、門の前で悩んでいたが、漸く意を決した俺は、そろそろと危なっかしい手つきで、門扉の横にあるインターフォンを押す。
しかし、手元からは『カチッ』だとか『ポチッ』だとかそんな音しかならない。
驚いた事に、どうやらここは、良くあるピンポン式のチャイムを使用していないらしい。
まぁ仮に、こんな厳かな風貌の建物から、ピンポーン、なんて軽快なチャイム音が流れても、客人は困惑するだけなんだろう。
チャイムから手を離すと、一歩後ろに下がってじっと誰かが来るのを待つ。
―――1分……2分……3分……。
じっと待つ。
が、一向に誰かがやってくるような気配はない。
それ所か、少し暗くなり始めたと言うのに、屋敷の電気はつく気配も見せない。
「どうしたんだ……?」
空は既に赤くなり始めている。
俺もそろそろ帰らないとまずい時間になりつつある。というか、暗くなってしまったらこの坂が大変危険なものと化す。
「……帰ろう、また明日だ」
これ以上は粘れないと判断した俺は、足を後ろに向け、帰ることを選択する。
坂が下りになっているからか、その速度は自然と行きよりも速い。
だんだんと薄闇に包まれゆく町中を、俺は急ぎ足で駆けていった。
―――頭上では、まだ出るには早い紅い月が、ぼんやりとこちらを見下ろしていた。
時刻は午後6:39。
ちょうど迎えるサラリーマンたちの帰宅ラッシュに、駅前は喧騒に包まれていた。
そんな中を俺は、学生鞄片手にスイスイと進んでいく。
俺の住んでいる『
そのくせして、結構ショッピングモールとかのある県郊外にも近かったりするので、人口自体は多い。
それでも近年の人口流出の流れには抗えず、じわじわと若い人間の数は減りつつあるのが、この町の現状だった。
そういえば―――と、町の現状で思い出した。
最近、町の中に流れている、奇妙な噂を瑞乃から教えられたのだった。
『お前さ、こんな噂知ってるか?』
『噂? 噂って、何だよ』
昼休み。
昼食を食べ終えて、瑞乃や他のクラスメイト達と、次の授業が始まるまで、グダグダと雑談をしていた時。
クラスメイトの1人が、そんなことを言い出した。
『あっ! 私知ってるよ、その噂!』
そう声を上げたのは、近くで女子のグループと話をしていた土屋さんだった。
別に俺たちはコソコソとした声で話をしてはいなかったので、自然と耳に入ってきたのだろう。
そして、彼らはこんな事を話し始めた。
―――曰く、この蒼星町の北側で、事件に巻き込まれる人が増えている。
―――曰く、その人達は生きては戻って来れない。
―――曰く、彼らは全身から血を抜き取られた状態で発見されていて、その姿はまるでミイラのようだった。
etcetc……
出るわ出るわ、噂話の山。しかもそのどれもが人々の生死に関わるもので、この街で起きている出来事だとは俄に信じ難いものだった。
―――そう言えば。
今しがた自分が向かった屋敷も、町の北側にあったような。
そんな嫌な思考を、首をぶんぶんと振ってかき消す。
どうしてこう、気持ちっていうものは1度沈んだら更に深く沈みたがるものなんだろうか。
「嫌なこと考えちゃったな……」
―――と、いつか見た朱が、視界の中に写った、気がする。
「あれ……? あの子って、確か……」
記憶に相違がなければ―――今朝拾った生徒手帳に載っていた人物が、今さっき道の反対側を歩いているのが見えた。
というか、彼女の髪色が特徴的すぎて、忘れることは愚か、見間違えることすら出来ないのだが。
「―――行ってみるか」
思い起こされるのは、昼休み。
そして自宅を訪ねても、誰一人として家族どころか召使いにすら会うことの出来なかったつい先程。
なら、会えるか分からない明日を繰り返すよりも、今ここで、彼女自身に手渡してしまった方が手っ取り早く、何より確実だ。
そう決めた俺は、気持ち駆け足で人の溢れる駅前の北口広場を駆け抜ける。
所々人にぶつかりながらも、この身体は確実に彼女の元へと向かっている。
ようやく彼女の背がはっきりと見えるようになって来るまで近づくことが出来た頃―――
―――突然、彼女の姿は人並みに飲まれて消えた。
「―――なッ!?」
急いで彼女が最後に見えた地点に向かう。
が、当然と言うべきか、彼女の姿は前にも後ろにも見当たらない。車道側なんて尚更だ。
では何処にいるのか。
「―――」
横道だった。
彼女は、その背中を小さく、小刻みに揺らしながら路地を進む。その路地は、室外機や植木鉢等といった細々とした雑多なもので溢れかえっていて、人が通るような場所には到底見えない。きっと、近所の人だってここを通ることは無いのだろう。
俺は迷わずその横道へと入る。
中は、外から見ていたよりもさらに薄暗く、陽の光など一切入って来ない。光源があるとしたら、近くの人家から漏れる明かり位なものだろう。
だとしても、俺があの朱色を、俺を魅了したあの朱を見逃さない限り、この道で迷うことなんて絶対にない。有り得ない。
それだけは、なんにも分からない俺にだって断言出来た。
と、つい先程の焼き直しかのように、その朱色が今度は右へと逸れ、壁の向こう側へと消えていった。
一気に明るさを失った暗い路地に手を付きながら、俺はゆっくり、ゆっくりと進んでいく。
その進みはまるで先程月宮邸前の坂で見せた歩きにそっくりだった。が、進もうという俺のその意思だけは、全く真逆の姿かたちを見せていた。
ようやく手のひらが、ザラザラした感触を90度折り曲げている点へと到着する。
「ここか―――」
この先に月宮がいる。
そう期待しながら進んだ先は―――
「―――って、居ない……?」
―――さっぱり無人である、路地の行き当たりだった。
3方をほぼ使われていない商業用ビルで塞がれたそこは、人間の脚力では到底屋上まで辿り着けそうにはない。
室外機やパイプを登ったのか―――とも考えたが、月宮はそもそも女の子だし、筋肉量もそんなになさそうに見受けられた。そんな事はまず無理な事だろう。
「どこに行ったんだ……?」
不思議に思い、その行き止まりを覗き込―――
「―――後ろよ」
「うわあぁぁっ!?」
―――もうとして、切り裂くような冷たい声によってその行動は中断された。
行き止まりの入口のところで仁王立ちをしているのは、髪の色とは正反対に、絶対零度の目線をこちらに向けている月宮だった。もはや目線だけでカチコチに凍りそうなレベルである。
「何をしているのかしら?」
不意に、瞳がキラリと紅く煌めく。
何をされるのかと少し身構えた俺だったが、予想に反して何かが飛んできそうな気配は無い。
「私は何をしているの、と聞いているの。貴方にぼけーっと惚けさせる為の時間を与えたんじゃないの」
「―――っ、いや、ごめんごめん……。君、生徒手帳落としてただろ? それを俺が拾ったんで、君に返そうと後を追っかけてたんだ。不快に思ってたんなら謝るよ」
そう言って、俺は右ポケットに突っ込んでおいた生徒手帳を取りだし、月宮に渡す。
彼女は「そんな事ね、良かった……」なんて言いながら、それを受け取った。
「それじゃあ、確かに渡したし、俺は―――」
―――帰る、そう言おうとして、空気が変わったことを察する。
何かが、この奥に俺の生命を確実に脅かすだけの『ナニカ』がいる事が、手に取るように分かる。
同時に、どれだけ俺が、スムーズに
ちらりと月宮の方に目を向けると、彼女は明らかにその顔を焦りの色に染め、歯を噛んでいるのが見えた。
場の緊張感が最大までそのボルテージを上げる。
観客は俺。選手は、彼女―――月宮とその相手―――つまり、路地の分かれ道のところにいるやつの事だ。
場の空気と緊張が、弓に張った弦のようにキリキリと固くなってゆき―――互いが動き出す。
均衡を破ったのは相手から。
まるで獣のように四足歩行特有の素早い動きでこちらへ飛び込んで来ると、その喉笛を嚙み切らんと、大口を開けて狙いを澄ます。
対する月宮は、なぜかゆっくりと目を閉じた。
そして目を開けた次の瞬間、その場に立っていた彼女の雰囲気がガラリと変化する。
目は瞳孔全体が赤に染まり、瞳の中央は縦に黄色く割れている。何より、先程まで理性的だった彼女が、理性の光をその瞳の中からは消しているのが、その変化を劇的に物語っていた。
「ヴルルグゥアアゥッ!!!」
豹変した彼女は、眼前まで迫り来る敵の口腔に対して、長く鋭く伸びた爪を、下から上に、一直線に振り上げる。
それだけで、柔らかく腐り落ちた敵の肉は呆気なく切り飛ばされる。
しかし、彼女はそれだけでは満足していないのか、あげた爪をクルリと回して今度は上から下へ、叩ききった。
俺を、いや、彼女を襲った化け物は、たったそれだけの攻撃で、呆気なくその身を三枚おろしへと変えた。
「―――うっ、っ……!」
痺れるような鉄の匂いと、むせ返るような
いつの間にか元に戻った彼女が、こちらを見て呆れたような顔をしている。よくこの光景を見て、気分が悪くならないものだ。慣れているのだろうか?
さて、このままここにいるのは不味いと思ったのか、彼女は(一応は)俺を連れてこの閉鎖空間を脱出する。
「―――今日見た事は忘なさい。良いわね?」
俺がようやく自力で歩けるほどまで回復したあと、開口一番にそう言われる。
「いや、それは無理だろ。君の髪は、その……ちょっと独特の髪色をしているし、ついさっき見た血塗れの路地裏なんて、忘れたくてももう忘れられそうにない」
意味が分からず、つい反発してしまう。
しかし彼女はこの反応を既に予想していたのか、クルクルと指で髪を弄りながら言った。
「いいえ、忘れてもらうわ、貴方にも」
そう言うや否や彼女は、シューッと何かスプレーのような物を俺の顔に吹き付けてくる。
瞬間、力の抜け始める俺の手足、そして薄れゆく自己の感覚。
「……あ、れ―――?」
何だか、急に、身体が重たく―――。
バタリ。
と、どこか完全ではなかったのか、薄らと、本当に薄らと意識が残っているらしい。
俺の体はうつ伏せだった状態から、仰向けに転がされる。
顔は彼女の顔―――というより目の一点を見るように向けさせられる。その瞬間、きん、と軽く音が響いたかとすると、さっきの時よりも大きく目が光る。
また何かされた、そう思いながらも、俺の体はコマンド入力の一切を受け付けてくれない。
少しだけ強引に置かれる頭脳の痛みも、今やどこか遠くの出来事のようにしか感じられない。
カツカツと彼女が去りゆく足音が聞こえる。
しかし、視界に映るのは黒一色。だんだん音も遠ざかり、辺りに広がるのは一面のまっさらな沈黙。
駅前にある繁華街の喧騒だって、どこか遠くのことのよう。
グルグルと回りゆく体の感覚、どこかおかしくなったんじゃないかと錯覚させられるほどのボリュームで鳴り続ける耳鳴り。
これらが綺麗に、薄汚くコントラストを描きながら、俺の意識を撹拌する。
そして、段々と閉じかけの瞼を抑える力は弱まっていき―――
―――気がついたら、俺は自宅のベッドの上で眠っていた。
一体夜にあったのか、俺には何が何だかさっぱり分からない。
そう、何も分かることは無いのだ。
「―――一体……一体なんだったんだ―――」
―――
過ぎ去った夜は未だ、明けぬまま。
四話分くらいは書き溜めてあります。