紫恩が目を覚ます少し前。
白は、やけに身を包む空気が空虚である事に違和感を感じ、王室の寝具の上で目を覚ました。
物寂しさを感じ、隣を手でまさぐるがそこに兄の姿は無く。
寝具の上で寝ていたのは、白ただ一人。
「にぃ……?」
慌てて取り出したスマホのアドレス帳にも、そこに在った筈の兄の名は無い。
携帯の電話帳からも名前が消え、世界から痕跡もろとも消えていた兄という存在。
唯一無二の存在を求め、白が咽び泣き始めるのにそう時間はかからなかった。
「っ……にぃ、どこ?……しろを……一人に、しないで…!」
しかしいつまでたっても返答は無く、部屋は静寂に包まれていた。
残酷なまでの虚無に響くのは、その言葉にならぬ涙声だけ。
しかしその声も、やがて紫恩の名を呼び始めた。
電話帳にまだ残っていた、たった一つの名前。
親鳥の帰りを待つ雛鳥の如く、救いを求めひたすらに泣き続けていた。
―――――
所変わり、紫恩の自室。
自室にてジブリールからの詰問を受けていた紫恩。
そんな彼の"空"の名など知らないという言葉に、ジブリールは目付きを険しくした。
その目付きは鋭く、冷徹で。
まるで以前のジブリールのような空気に、紫恩は怖気つつも声をかける。
「ジブリール……?」
「……私は他にやることができましたので、これにて失礼致します。貴方はマスターがお呼びでございますので、早急に王室へ向かって下さいませ。」
にこりと微笑みながら行儀正しく腰を折って、ジブリール。
困惑する紫恩も無視し、直後部屋の戸をすり抜けるように姿を消したジブリール。
―――――やる事とは何だ、と問う事は出来なかった。
踵を返し部屋を後にするジブリールを、静かに見送ることしか出来なかった。
ジブリールから漂っていた、全身を突き刺すような冷たい空気。
今の彼女には質問の一つすらも許されていないと、紫恩の本能が告げていた。
「……何か落ち度でもあったでしょうか」
紫恩の言葉に、ジブリールが何を思ったかは定かではない。
だがあれほどまでにジブリールが苛立つ何かがあったのは確かだろう。
考えていてもしかたないと、気分を落ち着かせる意味も込めて紫恩はいつもの服装に着替える事にした。
寝間着で白の居る寝室に行くわけにもいかない。
いつもの執事服に着替えた紫恩は、そのままの足で王室へとやってきた。
王室は当然の如く締め切られていたが、その扉の前にはステフの姿。
途方に暮れたように扉に縋っている彼女に、紫恩は声を掛けた。
「ステファニー、そんな所で一体何を……」
「あぁ、お兄様!やっと来てくださいましたのね!」
寝起きの兄を見るなり、ステフは顔を明るくさせて腕を引いた。
その力が存外強く、紫恩の僅かな抵抗をものともせずぐいぐいと引っ張る彼女。
何となく男として複雑な心境になりつつも、成されるがままに紫恩は扉の前へと引っ張られた。
「あの、ちょっと、ステファ」
「白!お兄様が来ましたわ、扉を開けてくださいですの!」
鬼気迫るような表情で叫びつつも、王室の戸を叩く音はやや控えめ。
一体何事かと目を丸くし、紫恩がその様子を他人事のように見守っていると、ややもして封印されし王室の戸は開かれた。
「……紫恩っ!!」
そして開かれると同時に飛び込んできた白の体に、紫恩は再び目を丸くする。
「っと、白?どうされたんですか、急にこんな……」
「っ……ひっ……紫恩、にぃが……!にぃが!」
嗚咽混じりの白の叫びに、紫恩は顔を顰めた。
これはどういう事だとステフを見るも、彼女はただ無言で首を振るだけ。
―――――要領を得ないが、一先ず落ち着かせなければ話も出来ない。
自身の腰に縋る白の手をやんわりと解くと、落ち着かせるようにその小さな肩に手を置いて、紫恩。
「まずは落ち着きましょう、白」
「でもっ、にぃが……!」
「大丈夫ですから。白、深呼吸して下さい。落ち着いてゆっくり私に話してください」
白の眼を見ながら、紫恩は言い聞かせるように優しく告げる。
それでも暫く白は泣いていたが、その度に紫恩が白の頭を撫でて落ち着かせる事、数分。
次第に落ち着きを取り戻していく白に、ステフが感嘆の声を上げる。
「流石お兄様ですわ……」
「よしてくださいステファニー。それで、白……一体どうしたんですか?」
何故泣いていたのかと問いかける紫恩に、白は間髪入れず口を開く。
「紫恩……にぃ、どこ?どこに居るの?」
藁にもすがる思いだった。
絶望の中に見た希望に、白は夢中で手を伸ばした。
きっと紫恩なら知っていると、悲しみに塗れた瞳を彩る僅かな期待の色。
……だがそんな期待とは裏腹に、紫恩は白の言葉に首を傾げた。
「にぃ、とはなんですか?もしかして、兄……という意味でしょうか」
「……っ!?」
紫恩は嘘や冗談を言う人間ではない。
ましてやそれが白の精神にも関わるような事であれば、尚更である。
大真面目に"にぃ"の意味を問うた紫恩を、白は驚愕に満ちた表情で凝視した。
「にぃは、にぃ!紫恩……空、知ってるでしょ……!」
「うーん……?」
―――――思い当たる事といえばそれは夢の中の名だが、まさかその事ではないだろう。
視線を落とし、それきり考え込んでしまった紫恩。
そしてそんな紫恩が……唯一アドレス帳に名の残っていた紫恩が、まるで自分の知らない誰かのようで。
白は後ずさり、紫恩を唖然と見上げた。
そんな白の異変に紫恩も気付き、腰を上げる。
「どうしたんですか、白」
言いながら、手を差し伸べて近づいた紫恩。
しかし白はその手を払った。
好意を突き離し、遮断した。
それは丁度、いつか図書館で紫恩が白にしたように。
「来ないでっ!」
「……白?」
「どうして……どうして分からないの……紫恩!」
何で分からないのか。
何で覚えていないのか。
非難するような白の言葉に、しかし紫恩はただ困惑するだけ。
その意味が分からないとばかりに、紫恩は悲しそうに白を見下ろしていた。
……紫恩は、本当に知らなかった。
憶えていなかった。
空という存在が、分からなかった。
「白……本当にどうしたんですか?」
「……っ」
目を細め、見下ろす紫恩のその可哀そうな子を見るような眼に、白は息が詰まった。
その眼を直視しただけで、あれほどまで信じていた空の存在が自分の中で途端に曖昧になったのだ。
―――――もしかして自分が間違っているのか。
自分だけが間違ってて、紫恩が正しいのか。
そういえば紫恩はいつも正しかった。
そんな紫恩が言う事こそ正しくて、自分はおかしいのだろうか。
白は頭が真っ白になり、その場に立ち尽くした。
「……ステファニー、一体何があったのですか」
「私にも何がなんだか……。今朝白を起こしに来た時には、このようになってましたの。それでジブリールと相談して、お兄様を……」
「なるほど……そういう事でしたか」
紫恩がステファニーと相談している間も、白は無言だった。
虚空を見つめ表情の失せた白に、紫恩は痛々しそうに眉を顰める。
「空……空、ですか。ステファニーは知っていますか?」
「知りませんわ。ジブリールも分からない、と……」
ステフもジブリールも、そして紫恩すら知らない。
となれば、唯一空を知っている白がおかしいのだろうと考えるのが自然である。
事実、紫恩は既に"白をどうやって治すか"という事ばかり考えていた。
次に行うべき最善手を紫恩とステファニーが考えあぐねていると、不意にジブリールが姿を現した。
「ジブリール!大臣達の様子は……」
「ドラちゃんの想像通りでございます。空という名に心当たりはない、と」
「やっぱり……。では、白は……」
肩を落とすステフに対し、ジブリールはむしろ苛立ちを強くしていた。
もはや笑みすら見せない彼女に、紫恩。
「ジブリール、どうしたんですか?今朝から機嫌が悪いようですが……」
「……むしろ機嫌がいい方がどうかしてるかと思いますが。紫恩様はこの状況の意味、お分かりなのですか?」
「はぁ……意味、ですか」
考え込んで首を傾げた紫恩に、ジブリールは大げさに溜息を吐いて見せた。
「本当に貴方という方は……その平和ボケした頭、叩きなおしてさしあげましょうか?」
「ご遠慮申し上げますジブリール様。いやでも本当に分からないのですが……」
「マスターである白様が今現在重要視している事、そしてその上で白様が混乱し戦意喪失している状況を鑑みてまだ分かりませんか」
「今現在、重要視している事……?」
―――――白が重要視している事なら、世界の攻略……いや、これは将来的なものだ。
むしろ今現在に限っていえば、白が重要視している事は東部連合の獲得。
そして、白が混乱している今の状況を鑑みると……
「……東部連合の策略、ですか?」
「ここまでヒントを与えてやっとでございますか。もう少ししっかりなさってください、保護者なのでしょう」
「いやはや、面目ない……」
ぐうの音も出ないとはこの事だろう。
押し黙ってしまった紫恩の隣で、ステフは構わず口を開いた。
「だとしても、実際問題これからどうしますの?私達だけで勝てる程、東部連合は甘くないですわ」
「ドラちゃんに言われずとも分かっています……マスターを元に戻すほかないでしょう」
「ですから、その方法を私は……」
しかしステフの言葉をジブリールは手で遮り、おもむろに白へと近づいた。
未だ呆然自失の白に、先ほどの紫恩同様ひざを折り、白と目線を合わせてジブリール。
「マスター。私とゲームをしましょう」
「ゲー、ム……?」
ここで初めて、白は口を開いた。
興味を示した白にジブリールは笑みを湛え、尚も続ける。
「賭けるのはマスターの空に関する記憶。そして、どうか私めに負けていただけませんか」
「……それ、はっ」
空を忘れる事。
ジブリールの白に対する要求はただ一つだった。
東部連合により植え付けられた空の記憶を消し去る事で、白を取り戻す。
無礼覚悟で、ジブリールは白の為に提案した。
「……」
白は無言で紫恩を見上げた。
変わらず白に対し可哀そうな目を向ける紫恩。
やはり自分が間違っているのかと、白は自身の記憶を否定し始めていた。
空とかつて、話をした記憶も。
共に遊んでいた記憶も。
初めて出会った時の記憶も。
―――――全て嘘偽りのもので、作られた記憶。
「……白、涙を拭いてください」
遠い目をして見上げていた白に、紫恩はハンカチを差し出した。
そして初めて、白は自身が涙を流している事に気付く。
頬を伝う熱い雫はそのままに、白はじっとその差し出されたハンカチを見つめた。
「……紫恩、これ……」
「私が地球で白に初めて貰った、ハンカチですよ」
「なんとまぁ、紫恩様が持つに相応しい可愛らしいハンカチでございますね」
「……一応お礼は言っておきますよ、ジブリール」
皮肉げに笑うジブリールに、白が居る手前否定できない紫恩は苦々しく笑う。
それは花柄の、男が持つようなものには見えない可愛らしいハンカチだった。
これは当時ハンカチを持っていなかった紫恩の為、彼の誕生日に白が贈ったものである。
後にも先にも、紫恩が持っていたハンカチはこれ一枚のみ。
所持していた唯一のハンカチにして、異世界に持ってきた唯一の紫恩の私物。
―――そして。
「紫恩……なんでこれ、持ってるの……?」
「……え?」
「だって、紫恩……これ、国王選定戦で……」
今の白のように、国王選定戦で泣き伏せたクラミーに紫恩が渡したのもまた、ハンカチだった。
そしてその時ハンカチは強奪され、以降紫恩の手には戻っていない。
故に、今ここにそのハンカチが有る筈はないのだ。
……紫恩が、クラミーと再び会い、その時返されていない限り。
「……っ!!」
弾かれたように白は王室のベッドへと駆け、置き去りにしていたスマホを見た。
そこに表示されていた日付が、記憶の中の最後の日付より幾日か先に進んでいる事に白は気付く。
そして、白は確信した。
自分は正しかったのだと。
「白、急にどうしたんですか?」
紫恩を筆頭に、不思議そうに白を見つめる三人。
「……にぃは、居る!」
「マスター……?」
彼らにスマホのカレンダーを見せつけ。
色を取り戻した瞳で、断定するように再び叫んだ。