ここに在る筈のないハンカチ。
進んでいるカレンダーの日付。
自分達が陥っている事の異常さを、白は紫恩達に指摘した。
「そういえば、そのハンカチはクラミーに取られていたのでしたね……」
「……紫恩、クラミーと再会した事……憶えてる?」
「いえ、全く。郵送されてきた、なんて事も無かった筈ですよ」
―――――果たして国境を越えて郵送できるのかは不明だが。
いずれにせよ紫恩にクラミーと会った記憶はないし、第三者を介し返されたという事実も無い。
紫恩の返答に、白は満足したように頷いた。
「という、事は……」
「その失われた期間に紫恩様がハンカチをクラミーから返されている。そういう事ですね、マスター」
「……うん」
「でも白……どうしてそれが、本当に空が居るという事に繋がるんですの?」
控えめに、そして申し訳なさそうにステフは疑問を口にした。
事実、現状としてはクラミーと紫恩が会っているという事が分かっただけだ。
だからどうしたと言えばそれまでで、その情報が意味する事といえば精々ハンカチが今ここにある理由が分かる程度。
それが直接空の存在に繋がるかと問われれば、首を傾げざるを得ない。
「僭越ながら、今回ばかりは私もドラちゃんと同意見でございます。そもそも空の存在は、私達だけならまだしも他の者すら存じておりませんでした。この状況を説明するのは困難かと」
ジブリールまでもが同意を示すが、白は表情を崩さない。
いつものように無表情に、しかしその眼で確たる真実を見据え続けていた。
「重要なのは……ハンカチじゃなくて、クラミーが紫恩の前に現れた……という事。クラミーがハンカチの為だけに、私達の前に姿を現すと思う?」
「それは……確かに」
得心いったようにジブリールとステフ、そして紫恩の三人が顔を見合わせる。
「では、一体何が目的で……」
「……暴動」
そんなステフの言葉に返答したのは、白ではなく紫恩だった。
「え……?」
「種の駒を賭けられた事への不満……これが民の間で暴動を引き起こすきっかけになったわけですが、その不満が同じ人類種であるクラミーにもあったとすれば―――――」
―――――確実にもう一度、エルキアの現王にゲームを吹っかけに来るだろう。
国王選定戦でも感じた、クラミーの人類種に対する思いが本物であるならば。
売国奴と信じて止まなかった紫恩達に対し、本気で憤ってみせた彼女ならば。
紫恩のそれは推測だが、もはや確信にも近い。
白はここで初めて、紫恩に対し笑顔を見せた。
「うん。きっとお互いの存在を賭けた、全人類種を巻き込んでのゲーム」
「……なるほど。そのようなゲームは私一人では不可能ですが、クラミーの協力者である田舎者のエルフが居れば話は別でございましょう。そして確かにこの一帯に魔法の反応もあります……ですが」
思案顔で、ジブリールは白に向き合い尚も続ける。
「マスター、それでは既にゲームは決したという事にもなりませんか?その空なる人物の存在は既に世界から……」
「ううん。……まだ、残ってる」
そう言い、白は自身の胸に手を当てた。
―――そう、まだ白の中には残っている。
出会い、そして今に至るまでの空との記憶が欠ける事なく。
瑕(きず)一つ無くまだ白の胸中でそれは生き続け、白を支えていた。
……しかしジブリールはそれでも納得いかず、追及の手を緩めない。
「……その記憶すらも、偽物という可能性は無いのですか」
「ジブリール……!」
「白様、分かってください。私は、東部連合の思惑通りに白様が動かされている事程耐えられない事は無いのでございます」
可能性が一つでもあるならば、それすらも考慮しなければならない。
でなければ白は東部連合の傀儡になってしまう―――ジブリールはそんな白を見たくなかった。
白に睨まれようが、忠義の心でもってジブリールは異議を唱え続けた。
―――――だがそこに、白の肩を持つように紫恩が割って入った。
「ジブリール、白を信じませんか。いつも無口な白がここまで言うんですから、きっとただならぬ何かを感じ取っているのでしょう」
「……そのような感情論では、勝てるものも勝てなくなりますよ。まぁ、そのような考え方だから貴方は負けるのでございましょうが」
そんな紫恩に向けるジブリールの視線は、侮蔑に満ちていた。
白が心配げに紫恩を見上げるが、紫恩はそれに一つ微笑むだけで何も言わない。
「否定はしませんよ。ですが今回ばかりは、私も退くわけにはいきません」
「……」
「ふ、二人共!今は争っている時じゃありませんわよ!もっと協力し合わないと……」
「ステフ、大丈夫ですから」
真っ向から対立する二人に、ステフが慌てて仲裁に入ろうとする。
が、それを紫恩がやんわりと退けた。
「お兄様……?」
「ジブリール、私が貴方に空の名を聞かれた時に言った言葉……覚えていますか」
「さぁ……そのような事、一々覚えておりませんが」
「……私は、こう言ったんですよ。"空想上の人物の名を言われたから驚いただけで、あくまでも私は知りません"……と」
ジブリールはそれを、単に"空という人物は知らない"と受け取ったが、実際には微妙に違う。
確かに紫恩は空という人物を知らないが、"空想上では知っていた"。
あり得ないものとして一蹴しながらも、紫恩は確かに空の事を知ってはいた。
その事に今さら気づかされたジブリールは、僅かに瞼を見開いた。
「それでは貴方は……」
「はい。空の名は確かに知っていますよ。ただしそれは夢の中での存在でしたので、特に言及はしませんでしたが……これは私の失態でした」
白が呼んだ名前が、紫恩の夢の中の名前と一致していたという事実。
それは考慮に値する奇怪な偶然だった。
憂慮すべき事象から敢えて目を逸らした己を恥じるように、紫恩は苦笑し白を見る。
「白の言うとおり、恐らく空は居るのでしょう。あれは全て、夢の中での出来事ではありましたが」
―――――ただの夢と一蹴するには、あまりにも現実味に溢れすぎていた。
唖然と聞き入っていたジブリールに、紫恩は更に告げる。
「ジブリール。この部屋に魔法の反応が無いか調べてもらえませんか。今もまだゲームが続行中なら、場所はこの部屋の筈です」
「一体何を根拠にそのような……」
「白が自室ではなく王室に居た事、それ自体が根拠です。何故、白が居たのがあの狭苦しい小屋ではなくここなのでしょうか」
紫恩の言葉で、白を含む三人はハッとしたように辺りを見回した。
白は王室の広々とした空間を好まず、わざわざあの犬小屋をすら作らせたのだ。
そこまでしてみせた白が、何故王室に一人で居たのか。
その違和感に気付かされた白自身が、紫恩に驚愕の眼差しを向ける。
「紫恩……凄い……」
「白ももう少し冷静で居られたら、既に今頃気付いていたと思いますよ」
紫恩に気付ける事が、白に気付けぬ筈も無い。
ただ紫恩のほうが、少し白より冷静であっただけ。
「ジブリール、お願いできませんか」
紫恩の、再度の要求。
その上白からも懇願するような眼差しを向けられ、遂にジブリールは首を縦に振った。
「分かりました。"この部屋"でございますね」
あくまでもこの部屋だけだと、ジブリールは強調した。
ここで見つからなかったら紫恩にどのような皮肉を並べてやろうかと考えながら、ジブリールは陣を展開し、反応を探る。
―――そして感じた反応に、ジブリールの眼の色が変わった。
「……確かにありました。ただ、隠蔽されているようで正確な位置は特定できませんが」
ついぞジブリールの口から紡がれた言葉は、皮肉とはかけ離れたものであった。
「ありがとうございます。位置の特定が出来なかったのは残念ですが」
「だとしても凄いですわ。最初にここへ来た私でも分からなかったのに……流石、ゲーム以外の事なら優秀なお兄様ですのね!」
「……ステファニー、事実なのですが一言余計です」
意図せず放たれた言葉の矢が、紫恩の胸に深く突き刺さる。
心の痛みに呻く紫恩を余所に、ステフは奮起するように拳を振り上げた。
「私達も負けていられませんの!早速ゲームが続いている位置を探しましょう、白!」
「ステフ……張り切るのもほどほどに……」
王室を駆けまわり始めたステフ。
その様子が犬のようで白は手伝う事もなく面白そうに傍から見物していた。
「何を言っているんですの!お兄様やジブリールばかりに良い所を見せられては……っきゃあ」
しかしはしゃぎすぎたのか、ステフは突然盛大に転んだ。
痛そうな音と共に床へ突っ伏す哀れな犬を、白はジト目で見下ろす。
「……ステフ、何もない所で転んだ」
「え……え?私今、転んだんですの……?」
床に未だ寝転びながら、呆然と白を……そして紫恩達を見上げるステフは、本当に今何が起きたのか分かっていないようであった。
彼女の異変に何かを察知したジブリールは、静かにステフへと近寄り周囲を調べ始める。
「ジ、ジブリール……?」
「……やはり、ここですね。用意周到に隠されていますが、ここでゲームが行われているようです」
床に転がっていた、三つの白く丸いピース。
表面に数字が描かれているそれを拾い上げると、ジブリールはその裏が黒くなっている事に気付く。
「白黒のピース……?」
それはまるで、オセロのピースのような。
よくよく見てみると反対側にも同様に三つのピースが置かれていた。
"1"、"2"、そして"3"の数字が描かれたそれらを、ジブリールの横から白もまじまじと観察する。
「白、何か分かったのですか?」
紫恩の問いかけにも白は反応すら返さず、じっとそれを見つめ続け。
やがて微かに笑って見せた後、白はピースの一つを拾い―――何もない空間へ、ピースを"指した"。
―――――
空が選んだオセロの色、そしてピースを指す場所。
それらすべてが、手に取るように白には分かった。
勝つために、そしてこのような結果を得る為に、空ならばどのようにゲームに挑むのかが容易に理解できた。
それは、誰よりも……紫恩よりも空を理解しており、且つ常人離れした思考回路を有する白だからこそ出来る芸当。
一つ、二つと白が空間にピースを指す度に、本来何も無かった空間に幾つもの白いピースが姿を現す。
そして三つめのピースを指すや否や、盤上に並べられていたと思われる大量の白いピースが出現。
直後、ガラスが砕け散ったような音と共に空間が割れ、行われていたゲームの全貌が露わとなった。
「これは……」
唖然と呟く紫恩の目の前には、横たわる"空"とオセロの盤……そして、対戦者であるクラミーとその協力者の姿があった。
夢の中と同じ姿の空に紫恩は眼を剥き、そして思い出した。
―――――あれは決して、夢などではない。
夢の記憶から現実の記憶へと、まるでオセロのように記憶が反転し、紫恩の脳裏に蘇る。
「う、うぅ……ここは……」
「にぃ……!!」
存在が消失し、気絶していた空が意識を取り戻すやいなや、白は空に飛びついた。
「っと……白」
「ごめん、なさい……もっと、もっと早く気付けたら……!」
「……ありがとな、白」
心身ともに疲弊しきっているであろう妹に、空は精一杯の感謝を伝えた。
一度は見失いかけても、それでも信じつづけ、自身を見つけ出してくれなければ、果たして今頃どうなっていた事か。
ほっと息を吐き、空は対戦者……クラミーを見やる。
すると突然、今まで対峙していたクラミーが力なく床へと倒れ伏した。
「クラミー……?クラミー!しっかりするのです!」
協力者であるエルフが悲鳴のような声を上げその肩を揺するが、クラミーの眼は曇り切って動かない。
まるで死人のようなそれに、ステフは絶句し言葉を失う。
紫恩もまた、痛々しい面持ちで彼女達二人を見据えていた。
「本当に……狂ったゲームですよ、空」
「……だろうな。俺もそう思うよ」
言いながら、空はおもむろに立ち上がった。
存在が消失していた反動なのか途中よろけそうになるも、それを即座に紫恩が支える。
「っと……さんきゅ、紫恩。それじゃあ、ゲームも終わった事だし……こっちの要求を呑んでもらうぜ」
「ま……待って!私の事はどうにでもして構わないのです、だからクラミーだけは……」
床に伏せるクラミーを庇うように抱き、協力者のエルフは訴える。
涙ながらのその様子に、紫恩は彼女達が単なる浅い協力関係でない事に気付く。
それよりももっと深く……それこそ白や空と同じくらい、二人は強く結ばれているのだと。
―――紫恩は、胸中の痛みが更に強まるのを感じた。
「空、私からもお願いします。何も彼女まで……」
「お前までそれ言うか。ま、分かってはいたけどさ」
人一倍他人の思いに敏感な紫恩ならばそう言うだろうと、空は予想していた。
黙って見過ごす筈がない。
沈痛な眼差しを向ける紫恩に、空は笑う。
……そして。
「ダーメ」
軽々しく紡がれた空の言葉は、エルフの協力者を絶望へと突き落とした。