彼女がロンドンに到着したとき、ロンドンはその姿を大きく変えていた。
ビッグベンは階にしてみると5階あたりに砲撃受けそこから上は崩れ落ちていた。バッキンガム宮殿は炎と煙で色を変え、そこにあったはずの街並みはすべて失われていた。
軍による組織的抵抗はすべて粉砕され、深海棲艦による虐殺がそこかしこで行なわれていた。
頭蓋骨ごと脳を握りつぶされ殺害される。
人間目線でみれば正真正銘の虐殺だが、実際はそうでないだろう。深海棲艦にとってこの行為はただの作業に過ぎないのだろう。彼らには一切悪意がない。
砲弾を節約するために素手で殺すことを選択しているだけなのだ。
遺体は一か所に集積され、一切の尊厳もなくただ衛生上の問題のために焼かれていた。少し離れた郊外でも人肉が焼ける異様なにおいに包まれていた。
「ビクトリア!なんか臭いよ。」
彼女はこのにおいが何なのか知らないのだ。
悪意のない純粋無垢なその言葉がどれだけ多くの人々の死を冒涜しているのか彼女は知りもしないのだ。
「そうだね。ここを離れようか。」
ヴィクトリアスは何も言わずに彼女を後ろから抱きかかえ、かつてロンドンだった町から背を向ける。
もし完全に見捨てられているわけでないならばポーツマスに多少の避難船があるかも知れない。
だがもし完全にこの島が見捨てられていたのならドーバーに向かって自力で渡った方がいい。
軽く三十キロはあり、ニーヴを抱えたまま渡り切るのは多少リスクがある。
ならプリマスならどうだろうか?あそこなら確実に何かしら残っているはずだ。
ロイヤルネイビーが壊滅したと言っても旧型艦の一隻や二隻残っているはずだ。
だがどうやってあそこまでたどり着くというのか?
ロンドンにたどり着くため半日もかかり、到着したときにはもうロンドンは陥落していた。
今は大丈夫でもきっとプリマスももう持たないだろう。
誰かに期待するのはやめだ。
「ニーヴ。泳げる?」
「うん。泳ぐの好き。」
それが嘘だというのはすぐに分かった。今の時代まともに泳いだことがある人間のほうが少ない。
それでも手段がないのだ。
ヴィクトリアスは待たせていたバスに戻り状態を報告した。
同乗させてもらう代わりに護衛をすることになったのだ。
「そうか。ならどうする?今のガソリンじゃそう遠くには逃げられないぞ。」
「ドーバーに向かってください。」
「ユーロトンネルはもうないぞ。」
「わかってます。」
「それしか手段がないのか。」
この島が見捨てられたことにほとんどの人間が気がつき始めていた。
支援は一切来ない、情報もない。そのうえ敵ばかり増えていく。
そんな状況はただ軍が劣勢であるだけでは起こりえない。
組織的に見捨てられたのだろう。もちろん英国政府の関与の上で。
「これでも今考えられる手段の中では正気な部類です。」
「昔はドーバー海峡は有名な遠泳コースだった。一般人が何の装備もトレーニングもせずに横断すればどうなるかわかっているのか?」
「このバスに乗っているほとんどが死ぬでしょう。どちらにせよこの島に残っていても希望はない。それならまだ自分で自分の命を決められるほうがいいでしょう?」
「そうだな。」
運転手は納得していなかった。納得したくない、信じたくない。そんな気持ちが働いていたのだろう。
それでもまだこの男は賢明なほうだった。
自分たちを守れなかった艦娘に汚い罵声を浴びせるのがある意味正常な反応だ。
けれど男はそんなことをせずにヴィクトリアス側について、ほかの乗客にドーバー行きを承諾させたのだ。
ヴィクトリアスが最初に出会った指揮官よりよっぽど勇敢だ。
勇敢だからと言ってそれが無条件で喜べるものでないとヴィクトリアスは体に教え込まれていたが。
バスの中には重苦しい空気が流れていたが運転手は幹線道路をうまく避けて、なるべく安全にドーバーまで車を走らせる。
ようやくたどり着いたドーバーは異常な様子だった。
港には大量の水死体が浮いていた。
その水死体をかき分けながらフランスに向けて泳ぎだしていく人間や、今にも壊れそうな簡素ないかだを作って海に出ていく人間もいた。
「いかだを作るのはどうだ?」
その様子を見て運転手がそう提案してくる。
「無駄ですよ。今から大急ぎでいかだを作ってもそんなもので海峡を渡れるはずがない。それに私達より前に来た人たちが材料となるものを使い果たしている。ここにあるものでは時間をかけてもまともないかだは作れませんよ。」
「そうか。何かアドバイスはあるか?」
「意志を強く持つことです。今の時期の水温から考えて正直絶望的な展開しか見えません。何とかして渡り切ることが出来たとしても衰弱のためにそのまま命を落とすこともあるでしょう。」
難民のために高度な治療を受けさせてくれるほど今の世の中は甘くない。
「わかった。俺は動けない母を見捨ててまでここに逃げてきたのに結局は何も成せないまま死ぬしかないわけだな。」
運転手は悲しそうに目を細める。
「誰が生き残れるのかわかりません。私達にはそれを決める力がない。見捨てられ、今は神頼みするしかない。」
ヴィクトリアスは力のない自分が嫌いだった。どれだけ技術を磨いても戦局に何の影響を及ぼせなかった。
守ろうと思って手を差し伸べた難民の子供一人守れない。
自分の部下も、指揮官も守れない。
手を指し伸ばしたものが全て手の中から零れ落ちていく。
「そう悲しそうな顔をするな。あんたも俺たちも神からしてみれば所詮道端の石ころに過ぎなかった。そんだけの話だ。」
「それでも私には....」
「気にするな。君には何の責任も義務もない。みんな、誰かを責めたくて仕方ないんだよ。それがどれだけ意味がないことなのかわかった上でも。」
運転手はそう言って靴を脱いで海に飛び込む。
そして何も語らぬままフランスに向けて泳いでいく。
それなりの経験と知識があったようで、カエル泳ぎで泳ぎ去っていく。
それも見送った後ヴィクトリアスは水に手を付ける。
「うそでしょ....。」
水温は推定15度程度。トレーニングもしていない人間が支援なしで渡り切れる確率はほぼゼロだ。
一時間もあれば全身が硬直して機能不全となり、二時間泳げば体中のエネルギーを使い果たし、三時間もすれば深部体温も危険な域に入るだろう。
鍛え上げた人間がどれだけ速く泳いでも対岸に着くまで十時間以上かかる。
ニーヴを担いで泳げばニーヴだけは助けられる。けれど....。
いや、今言われたばかりだ。自分には助けたいものを助けられる力がないと。
「ニーヴ寒いかもしれないけど我慢してね。」
そう言ってヴィクトリアスは羽織っていた上着でニーヴを包み、肩に彼女を背負う。そうして静かに海に入る。
水は冷たいが艦娘である彼女にとってそれはそこまで大きな問題ではない。
艤装はなくとも極めて強靭な体を持っている艦娘にとって環境がどうであれ遠泳など容易い。
子供一人担いでも泳ぎ切る自信は十分にある。
「わかった!」
そこからはひたすら海を泳いだ。
深海棲艦はほとんどがブリテン島攻略に駆り出されているのか、ドーバー海峡は静かだった。大量の遺体が浮かび、中にはバスで見た人間もいた。
ニーヴもそれが遺体であることに気が付いたようでヴィクトリアスの上で静かになっていた。
彼女の足は水についており、痛みもあるだろうに本当に静かだった。
日が落ちてまた日が昇り、12時間が経過してようやく海岸がはっきりと見えてきた。
海岸線は鉄条網などで強化されており、戦車を潜ませておくための大型の塹壕がそこかしこに存在して、監視塔には数人の兵士が見えた。
その兵士たちが見張っているのは深海棲艦だけではない。
難民も拘束の対象だ。もう難民を受け入れる余裕はないのだ。
ヴィクトリアスは監視塔から見えない場所に上陸して鉄条網をくぐり抜けて軍の管理下にある海岸線から数キロの立ち入り禁止地区を慎重に抜けてようやくフランス国内に侵入した。
ニーヴもようやく元気を取り戻して口を開き
「ねえねえ?ここはどこなの?」
「ここは、フランスだ。料理がおいしい国だ。」
「フィッシュアンドチップスじゃない?」
ニーヴは少し訝しんだように聞く。そんなに不味かったのだろうか。
「違うから安心して。まずはどこか泊まれる場所に向かわないと。」
ニーヴは難民だ。防衛連合軍は比較的難民には優しい。もっとも、防衛連合軍は国連軍と逆の立場に無条件で立つ傾向があるためそれが優しさなのかどうかは甚だ疑問だが。
現在地はカレーとダンケルクのちょうど中間地点だが、どちらに向かうべきか。
カレーもダンケルクも国連軍が極めて強い勢力を持っており防衛連合軍の影響力は低い。
だが、予定ではヴィクトリアスの部隊はブレストで補給ののちダンケルクで指令まで待機することになっていた。
そうならばダンケルクに向かった方がいい。
「ニーヴこれからまた歩くけど大丈夫?」
「足とお手手がジンジンする。」
ニーヴは元気になった代わりに、年相応の反応をして駄々をこねる。
しかしヴィクトリアスの体は彼女を背負ってまた10km近く歩くのは正直なところ難しかった。
ドーバー海峡を横断するために予想以上に体力を消費しており、若干の頭痛とめまいの症状が出ていた。
「そっか。じゃあ何か暖かいものを食べていこうか。」
そうはいってみたものの、ヴィクトリアスが持っていたのはポンドだけ。ユーロに両替する必要がある上に、濡れた紙幣を渡すなど自分が難民か、あるいはそれに相当する望まれない住人だという印象を強く与える。
どうするべきか考えていると、ニーヴの表情から無邪気な顔が消えていた。
「大丈夫。歩けるよ。」
子供が無邪気にわがままをいうのは、平和だからこそだ。
わがままを言っても許されると本能的に感じることができる相手だからこそわがままを言って迷惑をかけるのだ。
ヴィクトリアスはその対象にもなれなかった。
悲しさよりもむなしさが残った。
「そう。なら向かおうか。」
そうしてヴィクトリアスは歩き出す。
肉体を酷使し続け、エネルギーが足りない中でようやくダンケルクにたどり着いた。
平和な時代のこの町は知らないが今となっては大規模な軍事都市だ。
あちこちにバリケードが築かれて、何度も市街地戦が繰り返されたためにあちこちが損傷していた。
日常の中を戦車が走りまわり、小さな商店までもが物騒な品々を陳列していた。
清掃が間に合っていないのか、深海棲艦や人間の血が壁や地面にこびりついていた。
「やっと着いた。」
そんな街を歩き、ようやく防衛連合軍の施設にたどり着いた。
「ご用件は....ヴィクトリアス。あなたはこの鎮守府所属の艦娘では....ないですよね。」
ちょうどどこから帰ってきた女性の士官が話しかけてくる。
施設の前でボロボロの艦娘と幼女を見ればそんな反応になるだろう。
「ひとまずあなたは入渠してください。基地司令に話を通しておきます。君はこっちにおいで。」
その士官はヴィクトリアスをドッグに押し込みニーヴをどこかに連れていく。ヴィクトリアスの傷は十数分で回復する程度だったが精神的な疲労がひどかった。
数時間前まで死体に囲まれながら海峡をわたっていたとは思えない。
本当に長い一日だ。
「大丈夫だろうか。」
ようやく一安心できるところまで来た。そう思いたいのだが妙に落ち着かない。
司令部はニーヴを始め難民に死んでほしかったのかもしれない。本当に撤退が必要だったのかヴィクトリアスにはわからない。だがとてつもなく大きな力が働いているように思える。
入渠を終えて基地司令と面会することになったヴィクトリアスに基地司令は一言
「基地司令のマッカトニーだ。正直に言おう。君たちの存在は不都合だ。」
そう言った。
「ある程度は予想していた返答だな。」
「情報部は生き残りの存在を許容しないだろう。だが私は君たちのような功労者にそんな仕打ちをするのは間違っていると思う。一時的な避難先を用意する。そこでしばらく待機していてくれないか?その間に上層部と交渉してみる。」
マッカトニーはヴィクトリアスにそう微笑みかける。
「ありがとうございます。」
やはりこちらの存在を鬱陶しく思う組織がいるのだろう。
「裏口から出て、ここに書かれた場所に迎え。それと艤装は置いていけよ。国連軍のパトロールに見つかったら厄介だ。」
「わかりました。」
ヴィクトリアスは隠し持っていた副砲を司令に預けて執務室を出る。
監視の目を盗んでニーヴと合流した後に裏口から静かに出る。
「どこいくの?」
「ここは安全じゃない。だからもっとも安全な場所に向かう。」
「わかった!」
ニーヴはあの士官にお菓子をもらったようで上機嫌だった。
上機嫌でスキップしながらニーヴと歩いて行く。
途中で国連軍のパトロール部隊も見かけたがそんなニーヴを見て微笑みながら走り去っていくだけだった。
「ここか。」
そうしてたどり着いたのは小さな酒場だった。
Qどうしてブリストルが先に攻撃されたのか?
A敵の拠点がアイルランドにあり、単純に距離が近かったためです。
ドーバーより先にロンドンが攻撃されたのは深海棲艦側の指揮官が海峡で挟撃されるのを恐れ、ロンドン攻撃部隊を迂回させたためです。ドーバーはヴィクトリアスたちが去った後、地上からの侵攻で制圧されています。