息が荒くなる。逃げねえと。ここにいたらダメだ。体中が熱くなる。今にも後ろから肩を叩かれそうで気が気じゃねえ。もう限界まで疲れがたまった足で無理矢理走る。なんつう情けねえ格好だ。んなこと考えてる場合じゃねえ。このままじゃおいらぁ……死んじまうかも知れねえ。
ブルーシートを敷いていても、体育館の床は固くて冷たい。室温は常に一定に保たれて、暑くもなく寒くもない代わりに、暖かさも涼しさもない。うっかりすると気温の存在を忘れるほどの適温だ。もっとも、私はいま気温など感じている暇はない。なぜなら私の足の間には、うっとりするようなもふもふの塊が気持ちよさそうにごろ寝しているからだ。
一定のリズムで繰り返される呼吸で膨らんだり萎んだりを繰り返すお腹。ぴこぴことしきりに動かして周囲の様子を探る耳。ときおり大きな欠伸をしてはすぐに私の腿にもたれ直す重みを感じる頭部。それらの全てが柔らかな毛に包まれている。私はそのグルーミングをしていた。
「気持ち良いか」
「ええ、まったく。毛利殿の毛繕いは絶品ですなあ。どうもこの体はまだ慣れておりません故、拙僧だけではなかなか」
「構わないぞ。私もこの環境でこんな上質な毛に触れるとは思っていなかった。さぞかし腕のある人に手入れされていたんだな」
「ですから拙僧は人間であってですね……あぁふん、キモチイイ……」
未だに信じがたいことだが、狭山はあくまで自分が人間だと主張する。こんな毛むくじゃらで小さくて四足歩行の人間がいるものか。なぜ喋れるのかは気になるが、目の前の事実として狭山は狐なのだ。貴重なもふもふを摂取できることももちろんだが、それ以上に私の才能は基本的に動物相手だ。普通なら、カットやグルーミングをした相手から直接感想を聞くことはできない。だが、狭山ならそれができる。これ以上のモニターはいない。
「要望があればいくらでもきくぞ。どこをどうしてほしいか、どうされるとイヤか、いくらでも言ってくれ」
「でしたら背中の、特に首近くをもっと念入りに。動物のように器用に掻けないもので」
「この辺りか?」
「そのちょい左……ああそこそこそこ。あへぇ〜……」
こんなに細かく指定してくれることのどれほどありがたいことか。父さんと母さんにも会わせてあげたい。きっと相当に驚くだろうが、モニターとして重宝することだろう。
「いや〜、最高ですねえ。やはり人生は好き放題にだらだらするに限りますな。修行なんてもう流行りません」
そんな言葉とともに、ちらと狭山は片目で体育館の奥を一瞥した。私が狭山をグルーミングするのどかな空間のすぐ近くでは、何十キロとあるダンベルを片手にひとつずつ持ってトレーニングに励むカルロスの姿があった。なぜか上裸で、暑苦しく汗ばんだ胸板が露わになっている。周りにはそれ以外にもトレーニングに使う器具が散乱しており、あれをひと通りやるだけでもかなり体力を消耗しそうだ。
「
「暑苦しいったらないですね。その鍛錬の音が耳に入るだけで拙僧はあの艱難辛苦の日々を思い出してしまいます……うぅ、ぶるるっ」
「何をどうしたらあんなにポジティブな人間が出来上がるんだ」
私は生まれつき目つきが悪い。だから睨んでいると誤解されることは多くあったが、見惚れていると誤解されたのは初めてだ。今まで私に対する誤解は悲しいものばかりだったが、初めて腹立たしいと思った。自ら肌を露出してトレーニング姿をアピールするとはどういう神経なんだろう。
「本当はこんな汗だくな姿を見せるのはトップスターに相応しくないのだけれどね。この姿を見るためにトレーニング室に忍び込んで来る
「訊いてもない変な自慢をしないでください!拙僧がここで毛繕いを受けているところに後からカルロス殿が来て鍛錬を始めたのでしょう!」
「ボクだって自分の部屋でできるならそうしたかったさ。けれどここしかなかったんだからしょうがないじゃないか」
「器具を持ち帰ればいいんじゃないか?」
「部屋にしまっておく場所がなくてね。いちいち返しに来るのは面倒だろう?」
「目の前で汗だくむっちり胸毛筋肉を見せつけられる方の身にもなっていただきたい。まったく……明日からは毛利殿の部屋で毛繕いしてもらいましょう」
私は別に構わない。体育館の広々とした空間も開放感があって気分がいいが、自分の部屋なら今日ここにあるものより更に色々な道具で毛の手入れができる。つまり、毛並みも艶も柔らかさも全て私の思うままにできるということだ。うん、悪くない。私は狭山の頭を軽く撫でることで同意を示した。狭山はまた気持ちよさそうに目をつぶり、大きなあくびをひとつした。
のどかなその空間は、唐突に破られた。重い金属を引きずる音。館内にいた3人の視線が一斉に出入口に向く。誰かが入ってきた。それは、ひどく辛そうに息を弾ませた王村だった。
「ぜぇ……ぜぇ……ふぅ、げへっ、げへっ……」
「おや、王村殿。どうされましたかな、そんなに血相を変えて」
「こ、ここなら……大丈夫か?へぇ、あ、あぶねえ……殺されるところだ」
「なに?」
ふっと出た王村の言葉に、その場にいた者全員が眉をひそめる。ただでさえ様子がおかしい王村が、モノクマに監禁されているこの状況下で冗談では済まされない言葉を発した。ひどく疲れた様子で体育館に来たのも、もしかしたら今まさに命のやり取りをしてきたからなのか?
「殺されるとはただ事ではありませんね。一体どうなすったんです」
「いやあ、実は三沢に追っかけられててな」
「ツユコちゃん?この前オレの手当をしてくれたあの子が?優しそうな子がまさか!」
「何か訳ありのようだが」
「……実はぁ、おいらぁちょいと食堂で酒を飲んでたんだ。そしたら三沢が来て、急に腰に下げた鞭を振りかざしてきて……」
「何のわけもなく三沢がそんなことをするとは思えないが……」
まだ午前中だと言うのに酒を飲んでいたのか。三沢でなくても白い目で見られそうなものだが、かと言っていきなり攻撃するほどの理由ではない。一体何がそんなに三沢を駆り立てているのか、全く見当も付かない。本人に話を聞くしかないか?しかし、殺されると思うほどの勢いならむしろ危険か……。
「お酒を飲んでいたら襲われて、そのまま逃げてきたと……ということは、まだお酒は?」
「ちゃんとあるぜ。おいらぁ酒飲んでねえとダメなんだ。酒が抜けたらぼんやりしちまう」
「普通は逆なんだがな」
「ほほ〜う!もしかしたら三沢殿はそのお酒が目的かも知れませんね。どれどれ、拙僧が見て差し上げましょう」
「んえ?」
ぴょん、と狭山は私の脚の間から飛び出て、王村の元に駆け寄る。王村が懐にしまっていた小瓶を抜き取ると、瓶のラベルもよく確認せずに中を覗いたり臭いを嗅いだりした。狐とは思えないほど器用に前脚を手のように使っている。そして、軽く振って中にいくらか残っていることを確認すると、口に入れてぐいっと呷った。
「なっ!?お、おい狭山!!なにしてんだおめぇ!!そりゃおいらの酒だぞ!!」
「狭山!!吐き出せ!!アルコールなんて動物が摂ったらダメだ!!」
「そもそも日本の高校生はお酒はダメじゃなかったかい?」
何を考えているのか、狭山は王村から受け取った酒をすべて飲み干してしまった。狐が酒瓶を呷るなど昔話の世界みたいな話だが、実際に目の前で起きると仰天してしまう。動物の体にアルコールは厳禁だし、その酒は人の酒だし、何より未成年だし。一気にスリーアウトだ。
私は狭山の背中を叩いて酒を吐かせようとする。しかし、ぐびりと飲み込んだ酒はどうやらたちまち狭山の体に染み込んだらしく、ほんのり上気した顔の狭山は気分良さそうに笑った。
「うへへへ、大丈夫ですよ。拙僧は人よりアルコールに強い体質なので。いやあ、それにしても美味しいお酒ですね。さすがは“超高校級の蔵人”!舌が肥えていらっしゃる!」
「え、へへ……そうかい?」
「動物にとってアルコールは毒だ!どんな影響が出るか分からないんだぞ!」
「大丈夫ですって。酒の味も美味しい飲み方も知っておりますので」
「なんで知ってるのかは聞かない方がいいのかな?」
「そうしてもらえると助かります!」
「だとしてもお前は未成年だろう!どっちにしろダメだ!」
「それは人間の法律でしょう?今は拙僧、狐ですので関係ありません。それともなんですか?狐が酒を飲んではいけない法律でもあるのですか?」
「そんなピンポイントな法律はない……と思うが……」
よく分からないが、たぶん動物愛護法に引っかかる。しかしさっきは自分を人間と言っていたのに、今度は狐だから酒を飲ませろとは、なんて都合がいいんだ。
「そういえば毛利殿。あなたサラミをお持ちでは?」
「え、ああ……あるぞ。いつどこでどんな動物に出会えるか分からないからな。サラミを持ち歩いているんだ」
「そりゃあいいアテになるなあ。へへへ」
「動物用だから味は薄いぞ」
「構いません。ください。どうです王村殿。ここらで一
「おっ!イケる口か?へへへ、実はまだ一本あんだ」
王村の小さい懐からもう一本酒瓶が出て来た。法被を広げたら手榴弾みたいに酒瓶を装備してたりするのだろうか。しかし、さっき慌てて体育館に逃げ込んできたくせに、もう酒盛りを始めてしまった。王村の頭の中は酒でいっぱいなのか?それとももう手遅れなほど中毒なのか?
「どうです、カルロス殿も。海外では18歳からお酒が飲めると聞きますよ」
「サングリアなら眠気覚ましによく飲むね。日本酒は初めてだ。ちょっと楽しみだね」
「の、飲むのか?日本だと普通に違法だぞ」
「ボクは
「そんな治外法権があるか」
スペイン人が18歳から飲酒できるのは、スペインの法律だからだろう。ここは日本だ。日本だよな?モノクマは希望ヶ峰学園と言っているし、私は希望ヶ峰学園に来たつもりだから、日本で間違いないと思うが。いやそれよりも、どう考えても目の前でいま開かれようとしている宴会は間違っている。特に狭山にこれ以上飲ませてはならない。
「ま、待て。王村。お前は三沢から逃げてきたんじゃなかったのか?その話をだな」
「かんぱ〜〜〜い!」
「聞け!そして聞かせろ!」
元の話に戻そうとするが、私ひとりでは全く歯が立たない。うっかりしたら私まで酒盛りに参加していると誤解されかねない。こんなところを理刈に見られたらどうなるか分からん。今の内に逃げ出してしまおうか。それもアリだと思って、ちらと体育館の出入口に目を遣った。
「!」
目が
「み、三沢……!?」
「へ?ひえっ!?み、みさわ……!」
その蒼い眼は光がなく、じっとりとした視線を王村に注ぐ。昨日までは温もりを感じていた優しい微笑みなのに、今は底知れないほど不穏な雰囲気を醸し出している。何より、腰に携えていた鞭を今は手に握っているのが異様だ。
「王村さん、こんなところにいたんですねぇ」
「ツ、ツユコちゃん?何があったんだい?」
「うふふ。あちこち逃げ回ってくれちゃって、悪い人ですね。ずいぶん探しましたよ」
「おぉう……なんと禍々しい気配……!いったい何があったというのですか!」
ただならぬ空気を感じ取ったのか、さっきまで酒を飲もうとやんやしていたカルロスと狭山も、さすがに王村を守るように三沢に立ち塞がる。私は少し離れた場所で動けずにいたが、三沢の動きには瞬きも忘れて注視していた。
「王村さん、分かりますよね?」
「い、いや……えっと……」
「なにか心当たりがあるのか王村?」
「……つ……い」
「え?」
つい?
「つまみ食い……かなあ……?」
「は?」
「いや、酒飲むのにアテを探しててよぉ……冷蔵庫開けたら、ちょうど枝豆があったから……」
「今日の晩ご飯は豆ご飯にしようと思ってとっておいたのに、王村さんが食べちゃったのよ。全部ね」
「そりゃ怒られるね。これは仕方ない」
「痛
何かと思えば、夕飯の材料を摘まみ食いしたのか。しかも酒のアテにして。まだ昼前だから今から準備すれば夕飯には間に合うが、そういう問題ではないな。誰のか分からない、なぜ取ってあるのかも分からないものを、当たり前のように取って食べてしまう王村の無神経さが問題だ。
「わ、悪かったよう!でもだからって鞭持って追いかけてくるほどか!?おいらだってそんなことされなきゃちゃんと謝らあ!」
「うわっ、開き直った。最悪ですね」
「うふふ……♬」
追い詰められるやあっさり白状し、あまつさえ王村は開き直って三沢の行動を責め始めた。私たちの中では最年長だというのに、なんと惨めったらしいことか。それを聞いて三沢は、相変わらず笑顔のまま、強めに一歩を踏み込んだ。全然関係ない狭山が小さく声を漏らした。
「そうよね。まだ取り返しがつくのに、鞭まで持ち出すなんて、ちょっとやり過ぎてるかも知れないわよね」
意外にも三沢は、自分の態度を反省し始めた。今のところ王村は色々と問題が多いが、確かに鞭まで必要なほどとは思わない。
「でもね……仕方ないのよ。うふっ。今日はなんだか、
「ひえっ」
光のない眼差しのまま、三沢はうっとりと自分の鞭を見つめて深く笑った。その魅惑的でありながら暴力的な表情がなんとも言えず恐ろしく、その場にいた全員が小さく声を漏らした。三沢はさらに近付いて来る。このままでは私たちまで王村の巻き添えを食いかねない。となれば、やることはひとつ。
「ひいいっ!た、助けてくれ狭山ァ!」
「王村殿、お任せください」
「おおっ!」
狭山はそう言って王村の肩に両手を乗せると、そのままどんと突き放した。
「さあ三沢殿!思いっきりやっちゃってください!拙僧たちは何の関係もないので!決して一緒に酒を飲んだりなどしていないので!」
「どああああっ!!テメエ裏切りやがったなこんちくしょう!」
「だまらっしゃい!拙僧は自分の身が一番大事なんです!王村殿の命ひとつで済むなら安いものでしょう!」
「カルロス〜!助けてくれ〜!」
「大丈夫だイゾー。聞いたことあるんだ。可愛い女の子になら、ムチで叩かれるのってそれはそれでいいものらしいから!」
「この場合はそういうのではない気がするが」
「おうおう……も、毛利ぃ……!頼む、助けてくれよう」
「こんなに心に響かない涙というのも逆に貴重かも知れないな」
「どいつもこいつも薄情だ!」
「う・ふ・ふ・ふ・ふ〜♡」
私たちは王村から距離を取りつつ、酒盛りの証拠をさっさと片付けて体育館の端に避難した。王村はもはやまともに逃げることもできず、尻餅をついた背後に三沢が立つ。三沢が鞭を鳴らす度に、遠巻きに眺めている私たちまで背筋が伸びる想いだ。
「王村さん?何か言いたいことは?」
「ち、ち、ちくしょおおおっ!!おいらが何したってんだよお!!」
「(つまみ食いだろ)」
「反省なさいっ!」
「ぎえええええええええっ!!!」
体育館に、スパンと気持ちの良い音が響いた。それは王村の酒に焼けた悲鳴をくぐって、私たちの耳に届く。私たちは、同じ思いを抱いた。
「いったい、何を見せられているんだ」
まさかこんなことになるなんて思ってもみなかった。警察は一体何をやっているんだ?希望ヶ峰学園の新入生が20人も誘拐されたというのに、まだ助けに来ないのか。そもそもここが希望ヶ峰学園なら、教師や理事会はどうしたというんだ?まったく、どいつもこいつも無能ばかりだ。
ともかく、あのモノクマとかいうヤツは僕たちをここから逃がすつもりはないらしいが、向こうから手を出してくるわけでもなさそうだ。この息苦しい建物の中で大人しくしていれば、その内助けがくるだろう。それまでの辛抱だ。救出されたら、まずはあの忌々しいマネージャーをクビにしてやる。あいつが希望ヶ峰学園に行けなんて言うからこんなことになったんだ。
「ん」
部屋に持っていこうと厨房にミネラルウォーターを探しに来た。積み上がった段ボール、冷蔵庫、シンクの下、戸棚……どこを探してもない。どういうことだ。なんでミネラルウォーターがないんだ。
「どうかなさいましたか?虎ノ森様」
声をかけてきたのは谷倉だ。初日からこの厨房は彼女と一部の女子のテリトリーになっているらしい。あまりここに出入りしない僕がいたせいで、何か怪しまれたか?まあ、本当のことを話すしかないか。
「こんにちは谷倉さん。別に大したことじゃないよ。ミネラルウォーターが欲しくて、探しに来ただけなんだ」
「ミネラルウォーター……それなら地下の倉庫にございました。この建物は浄水設備がしっかりしていますから、水道水に味や臭いがまったくないんですよ。ですからミネラルウォーターは基本的にこちらにはございません」
「そうだったんだね。じゃあ、地下の倉庫に行ってみるよ。ありがとう」
「お気を付けて」
初対面のときから思っていたが、谷倉の畏まった態度は何か違和感を覚える。彼女も僕と変わらない年代だから、敬語やコンシェルジュとしての立ち振る舞いは意識してそうしているものだと思うけれど、そうじゃない何かがあるような。まるで、何かを隠しているような違和感だ。
まあ、そんなことはどうでもいい。何かを隠していようといまいと、僕には関係のない話だ。ここにいるヤツら……いや、人間は誰だって秘密を抱えているし、何かの嘘を吐いて生きているものだ。敢えてその嘘を暴いたり追及する必要もない。面倒だしトラブルの元になるだけだ。嘘は嘘のまま、白々しい真実として受け取ればいい。そうすることで世界は成り立っているんだ。
「……」
僕は谷倉に言われたとおり、地下の倉庫まで来ていた。よく考えたら、ここにミネラルウォーターがあったとして、自分の部屋まで運ぶのは一苦労だ。どうしてこの建物にはエレベーターがないんだ。今時普通の高校にだって置いてある。希望ヶ峰学園にないはずがないだろう。
「む?おお、これはこれは。爽やか王子のお出ましだ」
「あン?王子?」
「……チッ」
思わず舌打ちが出た。できれば出会いたくない2人に出会ってしまった。いや、ここに監禁されているヤツらの中で、出会いたいと思う人間なんてひとりもいない。まだマシな人間が何人かいるだけだ。だがこいつらは、どちらも僕が苦手なタイプだ。
「やあ、菊島君。岩鈴さん。こんにちわ。ミネラルウォーターを探しに来たんだけど、どこにあるか知らないかな?」
「水か?その辺にあンじゃねーの?」
「さてね……見たような見なかったような、如何とも
「そ、そう……」
考えもせずぶっきらぼうに返す岩鈴と、一言で済むことをだらだらと話す菊島。やっぱりこの2人は苦手だ。というか、むしろ嫌いな部類だ。だけどこの2人にも僕は爽やか王子という幼稚なあだ名で知られてしまっている。そのイメージを崩さないよう取り繕いつつ、さっさとミネラルウォーターを探して帰ろう。
「菊島君は何を探しているのかな?もしよかったら、僕も探すよ」
「代わりにミネラルヲオタアを探すのを
「あはは……まあ、そうしてくれると嬉しいかな」
なんなんだこいつは。せっかく愛想良く手伝わせようとしてやったのに、そんなことを普通言うか?こちらが善意を見せたら善意で返す。相手がそれを利用しているかも知れないと勘繰るって、なんて性格が悪いヤツなんだ。しかもそれを堂々と相手に言うなんて。もし僕が本心から手伝ってやろうと思ってたらどうするつもりだったんだ。
「折角だが、その
さすがにイラっとした。なんなんだこいつは。
「……。そう、なんだ。それじゃあ、僕は違うところを探そうかな」
こいつと会話していると頭の血管が吹き飛びそうだ。会話するどころか、視界にその姿が入るだけで口の中が気持ち悪くなる。なるべく離れた場所にいようと菊島に背を向けて、倉庫の違うエリアに行くことにした。
「ああ。ひとつ、忠言をしよう」
背中越しに、菊島が言った。声は壁に反射して聞こえてくるから、菊島も僕に背を向けているようだ。呼び止めておきながらこっちを向きもしないのか。なんて人を舐めたヤツだ。信じられない。
「その芝居は止めた方がいい。
「芝居……?」
「恍けるか。まあ、猶も芝居を打つならそれも構わない。君自身の問題だ。だがここでは、個人の問題が全員の問題になりかねない。十分に
「……なにを言ってるのか分からないな。どういうこと?」
「幾ら器用に取り繕っても、分かる者には分かるということだ。なあ、岩鈴?」
「まーそうだね。虎ノ森。アンタさ、キャラ作ってんだろ。別に
さくり、と背後から胸を刺されたような気がした。芝居、ストレス、取り繕う……菊島が何のことを言っているのかはすぐに分かった。そして菊島の問いかけに、手元で何やら機械なのかおもちゃなのかをいじっていた岩鈴が、やはり手元を見たまま口だけで応える。なんだっていうんだ。いったいこいつらに何が分かってるっていうんだ。
「目ェ見ればだいたいのことは分かるんだよ。あ〜、こいつウソ吐いてんな〜とか、こいつ本気じゃないな〜とか。アンタのは人をバカにした目だ。口先だけ繕ってもバレバレだよ」
何を言っているんだか、と一蹴してしまえばいいものを、僕はなぜかできなかった。菊島の言葉が不意の一撃なら、岩鈴の言葉はガードの上から叩き潰す強引な一撃だ。僕は、開き直って肯定することもできず、往生際悪く否定することもできず、言葉に詰まっていた。
「因みにだが、俺が気付いているということは、少なくとも月浦と尾田も気付いているだろう。同属嫌悪というやつだ」
分かっている。自分の性格が捻じ曲がっていることくらい。どうしてこんな考えをしてしまうようになったのか、どうして外面を繕うようになってしまったのか、今となっては思い出せない。ただ気ままにゴルフをしていただけなのに、いつの間にやら僕は注目を集めていた。それは憧憬だったり、尊敬だったり、羨望だったり、好奇だったり、あるいは冷笑や嫉妬、そして監視の視線だった。
同じような立場の人たちが、他愛ない言葉の綾や何気ない行動ひとつでたちまち身を滅ぼしていく様を何度も目にした。何が悪いのか、どうして悪いのか、誰も教えてはくれない。ただ、みんながそう思っているからだ。みんなが悪いと言うから悪い。それが、無遠慮に僕たちを監視するヤツらの正義だ。だから、僕は正義から身を守る術を生み出した。それが、自分を偽ることだ。
「……なんでもいいけど、それで僕にどうしてほしいわけ?僕が“爽やか王子”でいると、なんか困ることでもあるの?」
「いいや。言っただろう。芝居を
「
「何も知らない君たちにどうこう言われる筋合いはないね。これは僕なりの処世術だ。バレたのなら仕方ないけど、それで僕を強請ろうとか考えてるなら止めた方がいいよ」
「おお、それもいいな」
「バーカ。セコいこと言ってんじゃないよ。虎ノ森も、すぐそういうこと考えるような性根だからそんな処世術しかできないんだよ。もっと周りの人間を信じな」
何をバカなことを。そりゃ岩鈴が生きてきたような環境だったら、人を上手く騙したり陥れたりする知能さえあるか怪しい人種ばかりだから、盲目に相手を信じても問題なかっただろう。けど僕の生きる世界はそうじゃない。何を考えてるのか、どんな相手なのか、そもそも何人いるのかさえ分からない、泥の塊のようなもの僕の敵なんだ。信じたところですぐ裏切られるだけだ。
「余計なお説教どうもありがとう。とてもためになりました。それじゃ、僕はこれで」
「水はもういいのかな?」
「君たちがいなくなってからゆっくり探すとするよ」
もうこいつらに僕の本音を隠す意味はなくなった。吐き捨てる言葉に、心なしか勢いがついたような気がした。
この学園での生活は集団生活だ。料理は毎日谷倉さんを筆頭にお料理に自信がある女の子たちが作ってくれる。掃除は自分の個室くらいはやるけれど、共用スペースはモノクマがやってるらしい。意外とマメなんだ。このままだと私は何もやることがなく、他の皆におんぶにだっこだ。だから、せめて自分の洗濯物くらいは自分でやろうと、一週間分の洗濯物を抱えてランドリーにやって来た。
「ひーっ!重たい!」
倉庫から引っ張り出してきた大きめの洗濯カゴに、とにかくありったけの洗濯物をかき集めて突っ込んだものを、やっとの思いでテーブルに乗せた。私の個室からここまで、こんなひ弱な女子の腕力でよく運んだもんだよ。自分で自分を褒めてあげたい。いやまだ早い。洗濯しないと。
ランドリーは個室が並んだ廊下から食堂に行くまでの間にあって、いつでも誰でも出入りできる。洗剤や柔軟剤は常備してあって誰でも好きなだけ使えるし、洗濯するのにお金もかからない。それに機械は人数分がずらりと並んでるから使えないことはない。モノクマにしてはずいぶん気が利いてる。
「え〜っと……?洗濯物を入れて、洗剤と柔軟剤入れてスイッチ。これだけでいいんだ」
サングラスをしてるせいで見づらいけど、この機械はどうも簡単な操作だけで洗濯から乾燥までやってくれる優れものらしい。なんだかモノクマの気配りって俗っぽいところにばっかり集中してるような気がする。でも私、ややこしい機械とか使うのできないからめちゃ助かる。
「えいや〜!きれいになってこ〜い!」
洗濯機の口にカゴを添えて、そのままひっくり返す。詰め込まれた衣類がどばっと溢れて、あっという間に洗濯機の中をいっぱいにした。う〜ん、我ながらガサツ。でも別にいいんだ。あとでアイロンかけるから。その後、説明書きどおりに洗剤と柔軟剤を入れて、スイッチを押す。終了まで1時間くらいだ。
「よし!1時間か、ヒマだな……あっ!そうだ!」
急にまとまった時間ができたけど、私はそれを利用する方法をすぐさま思い付いた!まずはその場で辺りを見回して、
売店でモノクマから教えてもらったモノ探しが、この娯楽がない閉鎖空間で私が見つけた暇つぶしだ。あのとき売店には3モノ落ちてて、一緒にいた甲斐さんと湖藤君と1モノずつ分けた。その後も廊下の隅っこや教室の机の中、ひどいときにはトイレの蓋の裏まで探して、結構たんまり稼いだ。モノクマが毎日あちこちに隠してるみたいで、同じ部屋でも違うところで見つけたりする。
「ここにもないか」
体験型謎解きゲームとかだと、割と見つけやすいところに落ちてたりするんだけどな。モノクマの隠し方は分かりやすかったり分かりにくかったりが安定しない。分かってないな。こういうところを難しくしてもしょうがないのに。
「むっ!あれは……!」
視界の端で何かがきらりと光ったのを見逃さなかった。ランドリーに置いてある観葉植物の下だ。やっぱり今日もモノが隠してあった。
「どれどれ」
忘れてた。サングラスがないと細かいものがよく見えないんだ。サングラスをかけ直して、落ちてるものを見落とさないようにちょっとずつ近付いていく。ランドリーの床を這って、観葉植物の鉢を覗く。ここにはない。じゃあ壁と鉢の隙間とか──。
「いでえっ」
「ぎゃっ」
ごっ、と重い音がして脳が揺れた。鈍い痛みとくらくらする気持ち悪い感覚に襲われる。何事かと思ったら、私と同じようにくらくらしながら頭を抑えている長島さんが目の前で尻餅をついていた。え、なんで長島さんがこんなことになってんの?今ぶつかったのって、もしかして長島さん?
「いて〜……なにしてんの?長島さん」
「
「私は普通に洗濯しに来て暇だったから……ちょっとね」
「そうカ。じゃあそこどいてネ。ワタシは探し物ヨ」
長島さんがさり気なく視線を鉢植えに落とした。もしかして……長島さんもモノを探してる?
「実は私も探し物しててさ、この辺にあるみたいだからちょっと待ってね」
「こら!ワタシが先ヨ!ここら辺に光ってるの見たネ!」
「あれは私が先に見つけたの!」
やっぱり長島さんの狙いもモノか!この辺を探してるってことは私と同じものを狙ってるんだな!こうなったら長島さんより先に見つけてさっさと回収しちゃうに限る!絶対この辺にあるは
「あったああああああああっ!!!」
「っしゃああああああああっ!!!」
ほぼ同時……いや、私の方が一瞬早かった、はず!鉢植えの下に隠してあったものに私と長島さんが一斉に手を伸ばす。摘まみ上げたモノの反対側を長島さんがガッチリ摘まんでる。指先だけなのに全力で引っ張る私と競り合ってる。なんちゅうパワーしてるんじゃこの中華娘は!
「
「私が先に手ぇ付けたもん!そもそも私の方が先に見つけたの!」
「そんなの分かんないアル!なら、最後に持ってた方のものってことでいいのネ!」
「望むところ……おおっ!?」
立ち上がってモノを引っ張り合っていた私の足を、長島さんの下段蹴りが払った。我ながら見事にすっ転んで簡単に手を離してしまった。
「いて〜!暴力反対!」
「暴力じゃないヨ。これは身を守るための格闘術ネ。自分の身は自分で守れないと、世の中生きてけないヨ」
「どんな世界で生きてきたらそうなるの!そんなやるかやられるかの世界で生きてきてないよこっちは!」
「幸せなことヨ。幸せで恵まれた人は、不幸せで恵まれない人にお金も食べ物も武力も分けてあげなきゃいけないアル。幸せ税ヨ」
「なんじゃそら!」
ふふんとふんぞり返る長島さんは、私からぶん捕ったモノを弾いて袖口から自分の懐にしまった。器用なことで。いまの格闘術といい、スナイパーという才能といい、細々した小技といい、長島さんが見せる色んな面はいちいち一貫性がない。中華娘って属性もそうだし。
「幸せ税なんて私よりもっと恵まれてる人に払ってもらいなよ!落ちてる小銭くらいよくない!?っていうか長島さん、スナイパーの大会賞金でいっぱい稼いでるんでしょ!」
「恵まれてる人は恵まれてることに気付かないネ。それに賞金なんて端金ヨ。家族のみんなの暖かいおうちと少ないご飯ですぐなくなっちゃうネ」
「え?長島さん、家族養ってんの?」
「日本じゃワタシしかお金稼げないから仕方ないネ。希望ヶ峰学園に入ればもっと簡単にがっぽり稼げると思ったのに、小銭拾いしなくちゃいけないなんて思わなかったヨ」
家族を養ってるっていうだけで、長島さんがついさっきまでより随分大人に見えた。“超高校級”なんだから自分で稼いでる人は珍しくないけど、それで自分の家族にご飯を食べさせてる人となると、稼ぎ方や生活力の面で他の人たちより頭一つ抜けて立派だ。片や私は、お父さんとお母さんに養ってもらってる上に旅費からホテル代から出してもらって……チケット代もお小遣いだし……。
「長島さん、なんか大人だね」
「そりゃ
「大人なんだったら子供の私にモノ譲ってよ!」
「なんでそうなるカ!やめるアル!この!」
「おげーっ!サングラスに指紋付けないで!」
隙を見て長島さんに飛びかかる。まだ上着一枚ひん剥けばさっきのモノ出て来るでしょ!娯楽の少ないこの閉鎖空間で、モノ探しとそれ一枚で遊べることのどれだけ貴重なことか!家族を養ってる長島さんの苦労は推して知るべしだけど、それとこれとは話が別!そもそもモノってここでしか使えないから外の家族とか関係ないし!
「ぬぎぎぎっ!」
「うぬぬぬっ!」
「おいやめろ。何してんだお前ら」
「うえっ?」
取っ組み合いの奪い合いになった私と長島さんの頭が小突かれた。誰かと思ったら、金髪桃目のハーフイケメンが呆れた目で私たちを見下ろしてた。危ないところだ!もし私の性癖がハマってたら落ちてたところだ!私は俺様系より草臥れ系の方が好きだから……ってそうじゃないそうじゃない。なんで小突かれた?
「なんだ
「どうしたじゃねえ。お前らがぎゃーぎゃー言う声が聞こえたから来てみたらこの有様だったんだよ。取りあえずケンカやめろ」
「でも長島さんがこれ取ろうとするからさあ!」
「
「なるほどな。だいたい分かった。じゃあ宿楽。これやるよ」
「へ?」
芭串さんがポケットをまさぐって何かを取り出した。私の前に差し出したそれは、今まさに長島さんと取り合ってるモノだった。これをくれるって言った?
「1枚しかねえから取り合いになるんだろ。オレの部屋にあったやつだけどやる」
「え〜〜〜?なにそれ〜〜〜?かっこよ!」
「あ」
「え、なに?」
「ついでだからこれもやる。なんかオレにはよく分かんねーから持っててもしょうがねえし。いらなきゃ捨てていいよ」
モノとは別に、芭串さんは別のポッケからくしゃくしゃに丸めた紙を出して私にくれた。開いてみると、何やら記号と文字の並びが3行書いてあった。芭串さんはよく分からないと言っているけど、ぱっと見ただけで私には分かる。これ、謎解きだ。
「これ、芭串さんの部屋にあったの?」
「いいや。地下にゴミ捨て場があっただろ。あそこに落ちてて、なんか気になったから拾っといたんだ。ただのゴミとも違う感じだったし」
「そうなんだ。じゃあ、これもありがたくもらっときます!」
「ん」
なんでそんなところに謎解きが書かれた紙が落ちてるのか分からないけど、これを見過ごしたら“超高校級の脱出者”の名が廃るよね!大した才能じゃないんだし、せめてこういうところで良いとこ見せとかないと……。
「くだらねえことでケンカすんじゃねえぞ。まあ、オレもここ来たときはイライラしてたけど……」
「最初のイメージと全然違うネ。なにかあったカ?」
「別に。女がキィキィ言うもんじゃねえってだけだよ。手が掛かるのは妹だけで十分だ」
最初にみんなで体育館に集まったとき、芭串さんはこのおかしな環境に適応できてなくてかなり苛立ってた。理刈さんともケンカしてたみたいだし、益玉さんも怒鳴られたらしい。だから、顔面はいいけど癖が強すぎて近寄りがたいイメージがあった。でもどうやら、落ち着いた今の方が本当の彼みたいだ。第一印象の反動か、かなり大人びて見える。妹さんがいるってことはお兄ちゃん属性も持ってるんだ。盛り過ぎじゃね?
「
「ま、まあな。そりゃそうだ。素直でやさしくて、おまけにかしこいんだ。たまにわがまま言うけど、それがまた……」
「あ゛〜〜〜っ」
「どうしたどうしたオイ。なんだその呻き声」
「いえ、なんでも……ちょっとヤバかった」
お兄ちゃん属性だからもしかしてと思ったらやっぱりシスコンだったわこの人!オラついたお兄ちゃんはヤバいほどシスコンってそれ昭和の時代からのテンプレだから!なんでテンプレかっていうとめちゃ萌えだからだよ!!なんだよそれ!!このくだりで好感度100,000,000倍にしようとしてる!?
「よく分かんねえけど、とにかく仲良くしろよ。そんなもんだったらいくらでもくれてやるからよ」
「おお……!芭串お兄ちゃんネ」
「ばぐにい……!」
「気持ち悪い呼び方すんな」
また小突かれた。小突くの好きだね。
小麦粉と牛乳とバター、そこにたっぷりお砂糖を加えた生地を混ぜる。厨房が甘く優しい香りでいっぱいになる。型抜きで切り取った星やハートを並べたら、温めておいたオーブンでじっくり焼いていく。生地の焼けた香ばしくてとろけそうな香りが漂ってきても、まだまだガマン。紅茶を淹れて待っていよう。
「いいにお〜い!あっ!つゆこちゃん何作ってるの〜?」
「あら、陽面さん。クッキーを焼いてるのよ。なんだか今日は、みんなに施してあげたい気分なの」
「クッキー!わーい!」
「はぐ。厨房は火とか刃物とか危ないから近付いたらダメだよ」
「月浦さんもいるのね。一緒に食べる?」
「僕はいい。甘いものは好きじゃない」
「え〜?ちぐ、よくかりんとう食べてるのに?」
「はぐ……」
「うふふ、じきに焼けるから、一緒に食べましょうね」
鼻をくすぐるいい香りにつられて、食いしん坊さんが寄ってきたみたいね。みんなに分けられるだけ焼いてるから、ちょっと味見でもしてもらおうかしら。せっかく紅茶もあることだし、おやつにしましょうか。クッキーが焼けるまで食堂のテーブルの準備でもしていようと思ったら、長島さんと益玉さんもいた。ちょうどいいところだわ。
「こんにちわ、長島さん、益玉さん。そろそろクッキーが焼けるの。よかったら一緒にどう?」
「こりゃちょうどいいところネ!小腹が空いてたから肉まんでもないかと思ってたのヨ!」
「ぼ、僕は別に……」
「据え膳食わぬはナントカの恥っていうネ、
「変な言い方しないでよ」
「
「うふふ、じゃあお任せするわね」
「えっ……僕はっ、あの……」
食堂から出て行こうとした益玉さんを、長島さんが担ぎ上げて留めた。元気がいいのはいいことだわ。紅茶が適温に冷めるまで待つ時間で、ちょうどよくクッキーが頃合いになった。焼きたてサクサクのクッキーをバスケットに移して、みんなが待つテーブルまで持っていった。
「うわ〜い!美味しそうなクッキーだー!」
「紅茶にミルクもあるわよ。お砂糖は控えめにね」
「……」
「あ〜!ちぐってば、こっそり一番乗りしてる!ズルいよ!」
「はぐが食べるものなんだから、一応確かめとかないと」
「
「お味はどうかしら?月浦さん?」
「……大丈夫」
相変わらずそっけない態度だけど、どうやら味は上出来みたいね。月浦さんの味見が終わってから、陽面さんがバスケットからわっさと掴んで口に放り込んだ。まだ出来たてで熱いのによくかっこめるわね。舌までは猫じゃないってことかしら。
「おいし〜い♡つゆこちゃんお料理上手だね!」
「子供たちに配るために何度作ってたら楽しくなっちゃって、自分でもたまに作るのよ。喜んでもらえたみたいで嬉しいわ」
「“超高校級のサンタクロース”の手作りクッキー……なんだか、すごく貴重なものを食べさせてもらってるような……」
「やあね、益玉さんったら。褒めても何も出ないわよ」
益玉さんがクッキーをしげしげ眺めながら真剣な目つきでそんなことを言うから、ちょっとおかしくって笑いそうになっちゃった。“超高校級”って言ったって、クッキー作りの才能じゃないんだから、普通のおいしいクッキーよ。一緒に頂くためのお紅茶を淹れるのもついでに上手くなったけど、そっちはあまり気付かれないわね。
「
さっき益玉さんが恭しげに言ったのと違って、長島さんは真っ直ぐに尋ねてきた。心底不思議そうな顔をして、クッキーをぽいと口に放り込んだ。
「何の為、か……。そうね。やっぱり……後悔したくないからかしら」
「後悔?何をアルカ?」
「たとえば……お腹を空かして泣いてる子がいたとして、私には人に分けても有り余るくらいの食べ物がある。助けられるのよ。助けようとさえすれば。その人が次の日に目を覚ましたとき、空腹や寒さに絶望しているか、少しだけ元気になって希望を持って生きようとするか、私の一言で、ちょっとした行動で変わるの」
「ふむふむ」
「できることがあるのにしなかった。その選択が悪いことだとは思わないわ。結局はその人の善意だもの。だけど私は、助けられる人を助けられなかったことを抱えながら次の日を迎えるのは……イヤなの。この世の恵まれない人全員を助けることはできなくても、目の前で困ってる人を助けることくらいは……私にだってできるはず。私は、助けてあげない私に後悔したくない」
はっ、と顔を上げた。いつの間にかクッキーを入れたバスケットは空になってた。陽面さんがほとんど食べちゃったみたい。それよりも、長島さんの何気ない質問に少し喋りすぎてしまったことに気付いて、私は少し顔が熱くなった。たぶん長島さんはそこまで興味を持って質問してないのに、なんだか私すごい語っちゃって……ああ、恥ずかしい……。
「あ、ご、ごめんなさい……つまらない話しちゃったわね」
「
「そんなこと……」
「ワタシの小さいときに
「どうして?」
「なんとなく、そんな気がするヨ」
「はぐはいま幸せだよ!つゆこちゃんのおいしいクッキー食べられて、ちぐと一緒にいて!」
その月浦さんは、陽面さんのお腹にこぼれたクッキーのくずを拭き取ってた。あどけない陽面さんの笑顔は癒されるけど、月浦さんにお世話されてばかりなのはちょっとだけ心配にもなる。そんな心配も、きっと月浦さんにしてみれば余計なお世話なんだと思う。陽面さんのことはなんでも自分でやろうとするから。
「二人ともいつも一緒なのね」
「そうだよ!寝るときも一緒のお布団で寝るんだ!」
「え……そ、そうなの?ずいぶん……仲良いのね」
「おい」
不意の陽面さんの発言で、私は動揺して言葉に詰まった。私だけじゃなくて長島さんもびっくりしてたみたい。だって、小学生ならまだしも、高校生の男の子と女の子が同じ布団で寝るって、もうそれって、仲が良いと飛び越してもっと深い関係ってことよね?そんな考えが顔に出てたのか、月浦さんが鋭い目つきを向けてきた。
「変なこと考えるな。たとえお前の妄想の中だけだとしても、はぐを汚すことは許さない」
「あっ……いえ、そんなこと、ごめんなさい。私、あなたたちがそんな関係だったなんて知らなくて」
「なんだそんな関係って。ふざけるなよ。はぐと僕をそんな風に見るな」
「違うカ?同衾なんてそこそこの仲じゃしないヨ!
「だから違う!そんな浅い関係じゃないんだよ僕たちは!」
「浅いかしら……?」
照れ隠し、という感じでもなく、月浦さんは私と長島さんの頭に浮かんだフレーズを否定する。いやでも、ここに来る前から知り合いだったみたいだし、単にアイドルとプロデューサーっていう関係なだけでもないみたいだから、もうそういうことなのかと思ったのだけど。月浦さんにとって、そう思われることも嫌みたい。でも陽面さんが嫌いなわけじゃなくて、なんだか複雑みたいね。
「じゃあ質問ネ。二人とも同じ布団で寝るのは本当カ?」
よせばいいのに、長島さんは無遠慮にそんな質問をする。余計に月浦さんが興奮しちゃうじゃない、と思ったけれど、月浦さんは意外にも落ち着いて淡々と答える。
「ああそうだ。当然だろ」
何が当然なのかしら。
「じゃあお風呂は?」
「長島さん、ちょっと」
「お風呂は一緒じゃないよ。ちぐはお風呂長いから一緒に入るとはぐが逆上せちゃうんだもん」
「はぐ、答えなくていいんだよ」
「……もう、いいわ」
そういう問題じゃないでしょ、と言おうと思ったけど諦めた。お風呂の時間が長い短い以前に、そんな関係でもない高校生の男の子と女の子が一緒にお風呂に入ること自体が大問題だわ。もしかして、私の考え方が古いのかしら?いやいや、友達でもそんなことしてる子なんて聞いたことないわ。兄弟姉妹でもしないもの。
「そう言えば、地下に大浴場があったヨ。みんなで入るのはどうカ?」
「ああ、あったわね。10人くらいなら入れそうだったわ」
「みんなでお風呂入ると楽しいヨ!ワタシも家族とよく一緒に入ってたネ!」
急に閃いたのか、長島さんが楽しそうに提案した。確かに、修学旅行とかで学校の友達と一緒にお風呂に入ると、なんだか新鮮な気分で楽しかったことを思い出した。まだここに来て日は経ってないけれど、これから協力して脱出するんだし、親睦を深める意味でも悪くない提案かも知れないわね。部屋の狭いバスタブよりも気持ちよさそうだもの。
「いいんじゃないかしら。狭山さんは……どうするの?」
「
「それじゃあ、今日みんなに声をかけてみようかしら」
「待て。勝手に話を進めるな」
私と長島さんで盛り上がってきちゃったところに、月浦さんがぴしゃりと釘を刺した。陽面さんじゃなくて、どうして月浦さん?と思ったけれど、陽面さんはなぜか私たちを不安そうな目で見て、何か言いたそうに口をパクパクさせていた。
「はぐがアンタたちなんかと一緒の風呂に入って、何かの病気になったらどうするんだ。それに、はぐは繊細なんだ。シャンプーだって石鹸だってちゃんと僕が用意したものでないとダメだ」
「病気とは失礼アル!ワタシは元気いっぱい健康優良児ヨ!」
「陽面さんはどう思うの?」
「は、はぐは……みんなとお風呂は、楽しそうだと思うけど……」
さっきまでと違って、陽面さんはずいぶんお喋りに勢いがなくなった。気を遣ってお世辞を言っている風でもないし、だけど何か言えないことがあるような、そんな感じがする。
「いい提案かも知れないけれど……無理強いはしない方がいいよ。陽面さんにも、何かしら都合の悪いことがあるんだろうから……」
「これは女子のお話だから
「いいえ、長島さん。益玉さんの言う通りよ。人と一緒に入るのが苦手な人だっているわ」
「ごめんなさい……」
「いいのよ。私たちも強引だったわね。ごめんなさい。お風呂は無理だけど、一緒におやつを食べることならできるものね。またクッキーを焼いてあげるわ」
「うわーい!ありがとー!」
しおらしくなってた陽面さんは、クッキーを焼くと言ったら途端に元の明るさを取り戻した。こんなに切り替えの早い人がいるのね。どうしてお風呂に入れないのかは分からないけれど、わざわざその理由をきかなくても、他の方法で喜んでもらえることが分かっていればそれで十分。長島さんの提案もせっかくだから、入りたい人たちに呼びかけてやればいいこと。ひとまず今日は、次に焼くクッキーのアレンジを考えることにしようかしら。
1章の日常編です。色んなところで色んなことが起きています。
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