第一話 目醒め、そして不幸
「———ぁあ?」
———ピクリ。
朧げに、それでいて確かな自然が、大の字で眠る男に目醒めの時を知らせた。
視覚を除いた五感が知らせるのは、僅かな鳥の嘶き、肌を撫でるひんやりとした風、甘い草の匂い。
そこは春風が靡く空の下、鬱蒼とした森の中。
「…眠ぃ」
———"俺''は目を覚ました。
その髪は肩に届かないほどには切り揃えられており、艶質が悪いとも良いとも言えない髪が太陽の光を反射し、くぐもった灰色の目は、気怠そうに辺りを見回している。
紛う事なき、青空。
蒼いキャンバスに白の斑点が横行している。
しかし寝っ転がった状態な物だから、背中が草に刺されてチクチクする。
仕方無く俺は起き上がり、呟いた。
目が覚めてからずっと考えていた疑問を、だ。
「ここはどこだ…?俺…は誰だ…?」
可笑しな話だ。
しかし、妙に頭が混濁し、過去を考えられないのもまた事実。
必死に頭を捻って考えても、何も出て来ない。
しかし、そんな自分でも分かる事はあった。
「俺は…人間…そう、人間の筈だ…!ああクソ…何も思い出せねぇ…」
思い出せるのは、自身が人間であること、そして、人間が生きるために必要な事や、社会における常識だけ。
要するに、俺の我が身に取り巻く環境や、名前等々がすっぽり抜け落ちてしまったと言うわけだ。
苦々しい顔で、俺は他に何も思い出せないことや、何故こんなことになったのか見当も付かないことに苛立ちながら、辺りを見回した。
しかし、周囲には地中から充分に栄養を吸い取った瑞々しい木々が連立しているだけ。
「ハハ…笑うしかねぇな、こりゃ」
余りにどうしようも無く、乾いた笑いが漏れ出た。
しかし笑っている場合でも無い。
何もしなければ、空腹になり、脱水症状を起こし、飢え死にすることは自明の理である。
何故?
何故俺がこんな目に遭ってる?
「クソ!」
沸々と、理不尽に対する怒りが身を覆っていく。
悪態を吐いてもそれが収まることは無かった。
思わず眉が吊り上がり、発散の為からか、俺は近くの木を思い切り殴りつけた。
乾いた打撃音が、森に響く。
「クソが…痛ぇ…!!」
しかし、当然、何も鍛えていない拳には激痛が走り、僅かに血が滲む。
アホらしい。
側から見れば、滑稽以外の何者でもないだろう。
チッ、と鋭い舌打ちが森に響いた。
「何やってんだ…俺…」
無駄な行動に呆れ、自分に対して独り言ちる。
しかし、明らかな痛覚を体感したためか、ただ頭を冷やしただけか、俺の頭は多少クリアになっていた。
———さて、どうするか。
(…よし、まずは衣食住の“食"だな)
当然ながら俺は真っ裸ではない、黒を主調とした、長袖長ズボンである。
よって衣食住の考えからして、"食"と"住“が必要だ。
俺は食べ物に関しては虫でも爬虫類でも何でもいける口なので、あまり食材に関しては心配ない。
最悪草でも食ってりゃ何とかなる。
しかし、問題は水だ。
水は川や雨でもない限りよっぽど手に入らない。
次に住処、これも充分問題だが、獣に襲われない限りは大丈夫だろう。
それも木の上で寝れば済む話と楽観視し、俺は水を探すため歩き始めた。
◆◆
「ぜぇ…ぜぇ…まだか…?」
草、草、草。
まだ青い木々は深く続いている。
俺はもう数時間歩いていた。
足取りが重くなり始め、喉もカラカラだ、数時間前こんな決断をした俺自身に文句を言ってやりたい。
空もオレンジ色に染まり始め、西から焼き尽くすかのような太陽の光が差し込んでいた。
俗に言う黄昏時であり。
———逢魔時とも呼ばれる、不吉な時間帯でもある。
そんなことを思った矢先、サラサラと川のせせらぎのような音が聞こえた。
「やっとか…っ!」
間違い無い、近くに川がある。
俺は数時間前の素晴らしい決断をした自分に感謝を示し、音の聞こえた方向に走った。
疲労で少し足がもつれるが、それでも草を踏み締め、川の元へ向かった。
「なっ…!?」
しかし、木を抜け、清流をお目にかかろうとしたその瞬間。
灰狼のような動物が三匹、水をぴちゃぴちゃと飲んでいた。
俗に言うハイイロオオカミのような動物であり、ギラギラした瞳が光っている。
そのうちの一頭が声に反応し、怪訝そうにこちらを見るが、咄嗟に木陰に隠れたお陰で気づかなかったようだ。
(んだよイヌッコロが…)
心の中で悪態を吐き、状況を打開するため、息を潜め、考える。
(今行けば確実に襲われる、だったらイヌッコロどもが去るのを待つしかない…幸いにもここは風下だ、嗅覚でバレることもない…か?)
野生動物三匹と、たかが人間、どちらが勝つかは明白だろう。
まぁ、ここで息を潜めておけばそのうち去る筈だ。
そうやって俺は少しひび割れ、老齢だろう木の裏で、座り込み、静かにその時を待った。
———ふと、俺は誰かに見られているような感覚に陥った。
早まる心臓のビート、言葉に言い表せない焦燥、心のどこかで打たれる警鐘。
汗が顔を濡らし、カラカラな筈の喉が更に渇いていく。
蛇に睨まれた蛙、それが今の心情にぴったりのセリフだった。
「…っ」
根拠の無い戦慄に襲われながらも、俺は恐る恐る狼どもの方を見た。
———頭数が、一つ足りない。
三匹から二匹に減っているではないか。
汗を垂らしながらも口がニヤリと裂け、イヌッコロが減っていることを喜ぶ前に、疑問が生じた。
(犬とか狼ってのは群れているのが普通じゃねぇのか?ましてや、ついさっきまで群れていた奴が、急に単独行動なんて…)
嫌な予感が膨れ上がる。
恐怖心が滲み出る。
(まさか、最初から気づいていたのか?あいつは囮?狼が?)
瞬間、二匹の灰狼ががこちらを見て、口端を薄く伸ばし、目を細める。
それは———嗤い。
すぐさま木陰に身を潜めるが、あの仕草を見て確信した。
(———気づいていやがる…!?)
しかし獣が人間と同じように罠を作り、冷笑する。
おかしい、知性がありすぎる。
獣とは元来本能で行動する生物の筈だ。
アレらは…その枠組みから外れ過ぎている。
(「アレら」は一体何なんだ?)
未知の生物に恐怖し、体がすくむ。
逃げなければいけないはずだが、足が動かない。
情けない話だ。
取り敢えず、恐る恐る二匹の灰狼が居た場所にまた目をやるが、幻が掻き消えたようにそこには何も居なかった。
また、幾分かの恐怖に襲われる。
清水のせせらぎがある物の、足音が一切聞き取れなかったのだ。
(奴ら一体どこに———)
———カサリ。
それは、草木の僅かな揺れ。
汗がブワリと噴き出し、急いで音の方向に振り向いた時には。
———目の前に、口腔と歪に並んだ歯が映った。
どうやって音も無く…と考える前に、反射的に頭を横にずらす。
そのおかげか、獣の牙は俺の背後にあった枯れ木のような樹を噛み砕いただけに終わった。
その一撃で仕留められなかったからか、不満そうに狼が低く唸り、木をバリバリと噛みちぎって吐き捨てる。
———危なかった。
避けなければ今頃トマトヘッドがぐちゃりだっただろう。
(クッソ…なんだ!?どうなってる!?)
かなり混乱しているが、目を動かし、現状を把握する。
まず目の前に一匹、囲い込む様に背後から二匹。
つまり…三方向を囲まれている、そして噛み付きを避けないと、死、あるのみ。
ふと、ある事に気付いた。
先は生存本能のままに回避したため、狼の姿をよく見ていなかったが、狼達の姿が。
(姿が…違う…!?)
いつの間にか狼どもの姿も変わっており、血を連想する真っ赤な目、灰から夜を連想する真っ暗な体毛に変わっていた。
そんな死神達は歯を剥き出しにし、低く唸っている。
軽く言って絶望だ。
逃げられない、何だこの
狼———いや、化け物どもはニヤニヤとした表情でジリジリと近寄ってくる。
———不味い、どうしたらいい。
俺は、どうにかできないかと思案していたが、結局答えとして弾き出したのは"どうする事も出来ない"と言う事だけ。
遂に一匹が我慢できないといった表情で、飛び付き、俺の頭を齧り取ろうとする。
(やばいやばいやばい!!どうする俺!?)
何もしなければ死ぬ、と言う状況で、世界がスローモーションに見えた。
もしかしたらそれは、神が俺に与えた最後の余韻なのかも知れない。
歪な歯並びをした口腔が眼窩に近づく。
さっきまで水を飲んでいたとは思えないぐらい血がこびり付いていて、臓物の臭いが微かに感じ取れる。
化け物の鋭い牙が鼻先まで迫ったところで、辛うじて俺の右腕で防御に出ることが出来た。
しかしそれは、頭の代わりに右腕が噛み砕かれると言うことで。
「あがぁぁあああ"あ"あ"!!!」
ガブリ。
辺りに鮮血が飛び交い、濃い血の匂いが充満する。
奴らが心なしか喜んでいるように見えた。
現に今俺に噛み付いている狼も、うっとりと血潮を堪能していた。
———腹が立つ。
「こんのクソ犬がぁッ!!」
目の前の化け物にどうしようも無く腹が立った俺は、雄叫びを上げて痛みを食い縛り、化け物を外そうと———目に左指を突き刺した。
グチャグチャと掻き回し、目の中の神経を引き千切る嫌な感触を味わう。
「ぐルルアアァァ!?!?」
化け物がやっと声らしい声を上げたなと思うと同時に、右腕と背中に激痛が走った。
右腕は化け物が咬合力を強めたことだろうと推測できるが、背中は?
「……ッ!?」
声にならない声をあげて後ろを見る。
そう、化け物は三匹いる。
仲間が反撃を受けたのだから、化け物が俺に攻撃を加えることは当たり前のことだった。
背中を切り裂かれたことで、深い三本筋の血線が浮き出る。
「クソがぁぁぁあああ!!」
俺は怒号を上げ、後ろの化け物を蹴り飛ばし、右腕に引っ付いていた化け物を右腕ごと床に叩き付け、口を離した瞬間、踵落としを繰り出そうとした。
化け物を叩きつける際に、血が噴き出し、右腕がブチブチと壊れ、激痛を訴えるが、頭に溢れるアドレナリンのおかげで余り気にはならない。
怯んだソイツの片方の目が合うが、振り上げた足を戻す気にはなれない。
「らァッ!!」
骨を叩き折る音が響き、そいつがどうなったか確認する前に後ろに振り向いた。
———目線の上には鋭利な爪を振り上げた狼が、下には口腔を開けた狼が迫っていた。
どうやら俺が真下の化け物と戯れている最中に近づいて来たらしい。
「チィッ!!」
飛びついてきた一体は横に飛びかかることで回避。
しかし走ってくるもう一体の化け物には柔軟に対応され、転がった隙を突いて俺を噛み千切ろうと目の前に迫っていた。
それを最早肉と肉で繋がっているような右腕で防御するが、突撃した勢いもあって俺は化け物に押し倒されてしまった。
鋭い牙が貫通した腕からは肉と骨をミックスされた様な激痛。
オマケと言わんばかりに胸も切り裂かれた。
「オオオォォ“ォ"ォ"!!!」
痛みを紛らすように雄叫びを上げ、感覚も無くなってきた右腕を捩り、怯んだ化け物の背後を取り、左腕を化け物の首に回した。
もう一体の化け物は体勢を立て直し、俺に襲い掛かろうとして来たが、俺が化け物を人質代わりの盾とすることで、動きを止めた。
どうやら躊躇しているようだ。
「…はぁ…はぁ…化け物にも仲間意識は…あるんだな…はぁ…」
まるで人間のような行動に少しばかり感心する。
数秒の間の膠着状態。
しかし、腕の中で抑えつけていた化け物が暴れ出した事でその空間はまた戦場の空気へと戻った。
(腕が…抑えられねぇ…!!)
そう感じた俺は、鄒俊どうするか悩んだ。
だが———俺は今、この化け物の首を掴んでいる。
だったらやる事は一つ。
(コイツの首…叩き折ってやる…ッ!!)
首を折って、ぶっ殺してやる。
そう決意して化け物に回した腕の力を強めて行く。
しかし、片腕が使えないため、力が足りない…なんてことは無かった。
このチャンスを逃したら、絶対に殺せないと悟った俺は火事場の馬鹿力を発揮し、ゴキリ、という音と共に化け物の首を180°回転させてやったのだ。
「へへ…どうだイヌッコロ…ざまあねぇ…」
ここまで起死回生したことに気分が高揚する。
最後の一匹となった化け物は、仲間を殺されたこと、たかが獲物にここまでされたこと、不意打ちをしたのに仕留めきれなかったことに、正に憤怒の形相を浮かべていた。
そして、冷静さを失った化け物は、雄叫びと共に、闇雲に俺に突進した。
避けなければ。
しかし。
(体が、動かな———)
無常な事に、疲れが蓄積した体をまともに動かす事は叶わず、突進に直撃してしまった。
ダンプカーに吹っ飛ばされたかの様に宙を舞い、川へ投げ出されてしまう。
幸い、水がクッションとなり、衝撃は少なかったが、肋骨が折れ、意識は既に遠くなり始めていた。
最後の化け物が近づいてくる。
血が川に流れていく。
濃縮された血の臭いが辺りに広がっていく。
絶体絶命、しかし、何故だか気分は高揚し、思わず顔がにやける。
(俺は気でも狂ったのかね…)
そんな疑問が出る程度には、心に余裕ができていた。
悠々と歩く化け物を睨み付け、
いつに無く思考と感覚が冴え渡る。
体はとっくに徒歩の疲労と血の流しすぎで、限界を迎えているはずだが、まだ動けるような気がする。
「…どうした、イヌッコロ…ほら、かかって来いよ…」
俺は身体中の激痛を無視し、化け物を煽ってみせる。
「グルるるルるル…」
化け物は瞳孔の開いた目で、俺を見た。
おのれ、同胞を殺した餌風情が…そんなセリフが実際に浮かんでくるようだ。
だが、そんなことはどうでも良かった。
化け物の一挙一動を観察し、攻撃に備える。
———しかし、ここでとんでもないアクシデントが起こった。
空から徐々に大きくなっていく空気を裂くような轟音。
両者、首を空に向けると、青い空に赤い尾を引いた隕石が映り込んだのだ。
更に、それはどうやらこちらへ飛んで来ているようではないか。
「———は、はあぁぁあああ!?!?」
「ぐるぁぁあああ!?!?」
ついさっきまで殺し合いをしていた一人と一体は、同じリアクションを取ってしまう。
化け物は明らかな命の危険にピューッと逃げ出し、俺は隕石に圧倒され動けずにいた。いや、そもそも負傷で動けなかった。
何とか左腕で這いつくばりながら、木の裏に移動し、衝撃に備える。
(何でだよ!?水が飲みたかっただけなのに、何で死にそうになったり、隕石が降ってきたりすんだよ!?)
俺は内心で大いに不満を抱いた。
しかし、この隕石の衝突が俺に運命的な出会いを。
永遠にも渡る戦いと幾重にも及ぶ出合いの歴史を紡ぐ第一歩になった事は、俺は知らなかった。
ご拝読、ありがとうなのぜ。
登場人物紹介っている?
-
やってくれ 必要だろ(いる)
-
それは雑魚の思考だ(いらない)