名無しの異形はその瞬間、完全悪と姿を変容させ、混沌を齎さんと夜を穢す。
さぁ今こそ殺戮を、神なる雷を。
矮小なる黒を、弱たる白を、哀れなる全ての色をーーー混沌に帰せ。
一方、シンが月読命の社を飛び出した頃のことである。
空は曇天に覆われていた。
太陽の光は完全に遮られ、黒洞々とした空が広がっている。
先ほど大空を我が物顔で飛んでいたカラスでさえ、その姿を消してしまっていた。
そんな暗澹たる空の下、フラフラと歩く一人の女の姿があった。
その格好は凡そ健康体とは言えず、耐えず進行と停止を繰り返し、それでも一歩、また一歩と目的の地へ歩を進めていた。
「ひゅー…ひゅー…」
偶然な事に、軍の誰からも発見されてはいないが、道端で嘔吐を繰り返し、何時間も歩き続けたため、体力はとっくの前に尽き、強烈な空腹感と渇きが体に警鐘を鳴らしている。
それでも、足を止めることは無かった。
彼女の目的地は、発電所。
しかし彼女にその場所の知識は無く、ただ電力のある場所に導かれているだけであった。
「ひゅー…あと…少し……ひゅー…」
黒く澱んだ結膜に光は無く、声も掠れに掠れ、疲労は極限。
彼女を突き動かすモノはーーーもう何も無かった。
薄れかかった記憶。
誰かへの承認欲求、誰かへの闘争心と羨望、誰かへの友情。
彼女の原動力となるモノを敷いて挙げるとするならば…人類への殺意と力の渇望。
人類を殺せ…大妖怪に植え付けられた思想を守るならば、力が必要だった。
認めてもらいたい、勝ちたい…そんな希望を叶える為には、常に力が必要だった。
全てを失ってしまった彼女に残ったのはその殺意と過程だけ。
いわば手段と目的の逆転が起こってしまったのである。
「…?」
そんな極限状態の彼女に、ある幻覚が囁いた。
『後はお母さんに任せなさい』
優しげで愛おしく、そして歪で忌々しい声。
降って沸いたその言葉は彼女を疑問で満たすには充分だった。
「殺した…筈じゃ」
『後はお母さんに任せなさい』
壊れたスピーカーの様に同じ言葉を喚くソレは、何度も何度も彼女に語りかけた。
後はお母さんに任せなさい、後はお母さんに任せなさい、後はお母さんに任せなさい、後はお母さんに任せなさい、後はお母さんに任せなさい、任せなさい、任せなさい。
まるで何かの執念。
悍ましさ、忌避感が疑いを押し退けて勝ったため、彼女は反射的に立ち止まってしまった。
その瞬間。
プツンと.。
張り詰めていた紐が切れ、パタリとその場に倒れ込んでしまった。
無理も無い、彼女は疲弊の中でもずっと歩き続けたのだ。
一度緊張の糸が解けると、それが永遠に戻らないことは明白。
起き上がろうともがくが、体は蛆虫の様に身をくねらすだけ。
やがて無駄だと感じたのか、彼女はうつ伏せに脱力してピクリとも動かなくなってしまった。
「は…はは……」
ひんやりと冷たいコンクリートを頬で感じながら、蒼色の掌を見つめる彼女。
その姿は哀れそのものであり、彼女は蟇の鳴く様な声で自らを自嘲した。
そしていつしか幻聴も姿を消し、辺りには静寂だけが満ちていく。
いっそこのまま眠ってしまおうか…そんな考えすら浮かんできたその時。
ザッザッザッ、と。
地面に押し付けられた片耳が、確かに足音を聞き取ったのだ。
「…?」
『行きなさい』
次いで頭に響くのは、消え去ったと思われた幻聴。
脳はソレを母上からの期待だと勘違いしたのか、溢れんばかりのアドレナリンを分泌し、彼女の体に湧き水の如く活力を与えた。
ぐらりと幽鬼のように立ち上がり、足音のした方向に顔を向けてみる。
どうやらビルの隙間、路地裏を抜けた道路から、その音が響いている様だった。
「ぐぅ…っ」
最早、ガクガクと子鹿の様に震え始めた両足を必死に前に出して進もうとするが、足が地面を踏み込もうぜずに崩れてしまった。
無論、足という支えが無くなった彼女は無様に崩れ落ちてしまう。
それでも、空腹を感じながらも、這ってでも進んだ。
(ああ…私は…私は何がしたかったんだろう…母上かも分からなくなったモノの言う事を聞いて、ただ力を求めて…私は……)
彼女は、まるで空が押し潰そうとしている様に感じた。
自分の本来の目的さえも忘却し、さらに、まるで元からあったかの様な目標を刷り込まれ。
縋り、しがみ付き、挙句の果てには母上の幻聴。
自分という存在に虚無感を感じながら這った。
やっとの事で路地裏に手を伸ばし、壁を背にして立ち上がる。
路地裏は曇天だからか、それともただ単に光が差し込まないからか、先が見えない程に暗く、足元から僅かな光が闇に向かって伸びていた。
まるで、先へ進めば人の住む領域でなくなる様な。
『進め』
遂に命令となった母上の言葉。
彼女はただそれに従って闇に包まれた路地を歩いた。
「…?」
やがて、洞窟の様な暗闇を歩く彼女は確かな喧騒を聞き取った。
そこで彼女は思わず、いつかに聞いた"おむすびころりん"と言う童話を夢想してしまった。
落とし穴におむすびが穴に転がり落ちて、そして、穴から楽し気な歌が響いてくるという物語。
(
続いて夢想したのは、唄を読み聞かせる母親らしき姿と、それを母親の膝の上で楽しげに聞く一人の幼児。
彼女は殆ど無意識のうちに、消え去ったはずの、セピア色の記憶の一部を懐かしんだ。
『お前は何も考えるな、歩きなさい』
「お前は…本当に、お前は私の…
歩きながら、頭に響く存在の正体を確かめようと、半ば自問するかの様に呟くが、返答は得られない。
やがて、真っ暗な道の果てに、微かな光が映った。
出口である。
辛うじて聞き取れた喧騒も、今でははっきりと聞こえる。
「人、か…?」
薄々気付いていたが、先に居るのは人の群れの様だ。
その瞬間、思考は人類をひたすらに憎む物に切り替わり、心は殺意を満たされる。
「あぁ、そうだ…殺す…アイツら全員…絶滅させてやる…!』
暗闇を踏む脚は、遂に薄く汚れた光を踏み、多少の眩しさに目が眩むが、目の前にはどこかへ向かって押し退け合っている人々が居た。
その中に、二人の。
誰かの母親と、誰かの妹がいた。
「………母、上…?」
幼女の手を引き、駆け足で何処かに向かう女。
その時だけは、殺意よりも驚異が競り勝ち、彼女は呆然と二人も見ていた。
そして、女の目がコチラとあった瞬間、幻聴と共に、テレビの配線が切れたかの様に、ブツリと意識が途切れた。
『もういい、私がやろう』
◆◆
「………あ?」
意識がブラックアウトしてから目覚めたその時。
辺りは驟雨が降っていた。
顔を容赦なく叩く雨に濡れた顔を拭うが、べっとりと別の何かが顔を濡らした。
掌を見ると、紅。
鮮血が掌を、いや、それどころか身体中を濡らしていた。
雨と混ざり合う鮮血は、異様にテラテラと日照り、ねっとりと顔を伝っていく。
そして、背中に小さな、小さな衝撃。
「お母"さんを"はな''してよ"ぉ"!お"ねがいだから"ぁ"…っ」
首だけ後ろを向けると、そこには顔を涙でクシャクシャに歪め、頬に血飛沫の付いた幼女がいた。
非力な腕で彼女を引っ張ったり、ぽかぽかと叩いている。
(お母さん…だぁ?)
彼女は幼女の言葉を聞いて、初めて自分が誰かに馬乗りしている事に気が付いた。
顔を元に戻し、目線を下に向けると。
限界も留めないぐらいにぐちゃぐちゃになった
白い肌は雨に濡れ、黒く紅く濡れ。
脳髄が飛び出した顔は陥没し、泥人形をこねたかの様な形相を示している。
目玉も片方がなく、もう片方は飛び出し、視神経で繋がっているだけ。
どうやら、更に自分は破れた腹部から飛び出す腸を座布団にしている様だった。
無論、息は無い。
次いで理解したのは、
体を蝕んでいた疲労と空腹感が消え、十分すぎるほどの満足感と満腹感が心の中を渦巻いていた。
喧騒を作っていた人々は辺りに肉の塊として散乱しており、どれもが苦痛に満ちた表情でコト切れている。
(全部…私がやったのか…?目の前の女を、く…く、喰っーーー)
『オマエのせいだ』
罪悪感とは似ても似つかない様な感情が彼女を襲い、そして、悪意が母上の声で、彼女を責め立てた。
「ち、違う…私は…私は…」
『何が違う?オマエは人間が憎いんだろう?素晴らしい事だ、褒めてあげる』
知らぬ間に息が早く、動悸が激しくなる。
彼女は人間が憎いはずなのに、これは彼女の望んだことでは無い。
彼女はその矛盾に気付くことは無く、歪な褒め言葉に身を震わすだけだった。
やがて、彼女は。
「…は、ははっ、ハハハ!あはははははっ!!!!」
『そうだ!壊れろ!壊れてしまえ!』
笑った。
さまざまな胸中が入り混じる中、彼女が最後に至った境地は、
理由は彼女自身にも分からない。
ただただ、可笑しいのだ。
背後で泣き叫ぶ幼女のことなど目にくれず、大声で嗤った。
激しく地面を叩く驟雨は彼女の頬に流れる悲しみを隠し、狂気だけを全面に押し出している。
彼女は声が枯れ果てても、笑って、嗤った。
「は、はは、は……」
ひとしきり嗤った後、彼女は顔を再び女に向け、呪詛が吐くように呟いた。
「……もう、私は…何も、考えたく無い…」
『そう、何も考えず、オマエは私に任せろ』
冷たい雨が髪を伝って肉塊へ流れ落ち、肉片に落ちていく。
幼女の叫び声は鳴り止まず、驟雨も降り止むことは無い。
「なんで…なんでこうなった?」
「ね"ぇ!はなじて!おね"ぇ"ちゃんおねがい"!!」
叫び泣く幼女の言葉。
その中の、おねぇちゃん、と言う単語に、彼女はまた心が揺さぶられ、激しい動悸が襲った。
『全ての発端は…オマエのワタシを奪った…コイツだろう?そうだろう?』
「そう、だ…そうだ、そうだよ、お前が…全部、お前が…!お前がぁああっ!!!」
「う"っ!?」
彼女は悪意の言葉に惑わされるがままに、振り返って一転、幼女の首を掴んで絞めた。
骨すらも握り潰す勢いで首を絞めようとするが、手にへばり付いた鮮血で手が滑ってしまう。
彼女は幼女を地面に押し付ける様にして細い首を絞めた。
「お前がッ!生まれて来なけりゃ良かったんだッッ!!!!クソがッ!!オマエのせいだッ!!お前の!!お前のぉぉおおおっっっ!!!!」
「ぅ…う"ぅ"…ぁ」
溢れる言葉は無意識に、本能の内から漏れ出ていく。
そうだ、オマエさえ、生まれて来なければ、ワタシがーーー愛されていた。
絞める腕に力を加えるごとに、底無しの悪意に身を委ね、飲み込まれていく。
そして、夢中で幼女を締め殺そうとする彼女の目に、あるものが映った。
悲しさと苦しさが入り混じった涙の流れる幼女の、瞳の中に映る自分の姿。
それはーーー口も鼻も無く、ただのっぺりとした顔の広がった…見覚えのある
「…っ!?」
「かひゅ…っげほっげほっ…!」
全身の血液が凍ったかの様な、
混乱と驚嘆でつい首から手を離してしまった彼女だったが、次の瞬間には幼女の瞳にそんな人物など映っておらず、蒼い肌を鮮血と雨に濡らし、黒く染まった瞳を見開いた顔の彼女が映っているだけだった。
幼女は苦しそうに喘ぐが、彼女はそれに目もくれずに顔に触れる、しかし、異常はない。
だから彼女はーーー背後に迫り来る一人の男の気配に気付かなかった。
「はッ!!」
「ぁぐぉっ!?」
彼女は足音が聞こえていたはずだったが、無防備に後頭部を蹴り飛ばされ、結果的に幼女からかなり遠くまで吹き飛ばされてしまった。
ゴロゴロと転がり、全身が雨水に濡れていく。
「…ぁあ…?」
軽い脳震盪を患いながらも、立ち上がる彼女。
その姿は血だらけでゾンビの様であり、まさに妖怪と言える風貌だった。
そして、彼女はグッタリとした幼女を抱える、
「やぁ、カレン…こんな最悪の再会は初めてだよ」
「誰だ…?オマエ…いや、どうでもいい…どうせ殺す…」
『いいぞ、殺せ』
殺意は簡単に湧く。
無機質な声も了承しているのだ。
それならば。
「一応名乗っとくよ、僕の名は…
ただ殺すのみ。
ご拝読、ありがとうなのぜ!
忘れ去られ始めた人物、レジック・アースにもそろそろ活躍させたいなぁ…とか奴隷が言ってたのぜ。
正直無茶なのぜ。
ツワモノ感出してるけど、彼、まだまだ弱いのぜ…
スロースタート能力が十二分に発揮できれば…って感じなのかぜ…?
登場人物紹介っている?
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やってくれ 必要だろ(いる)
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それは雑魚の思考だ(いらない)