東方修羅道   作:おんせんまんじう

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ゆっぐりじていってね。


第四十三話 ごめん

 閑散。

 静寂。

 

 そんな言葉が顔をチラつかせる朝と昼の間。

 俗に言う昼前という時間が齎す静かな空気が、この邸宅の廊下に漂っていた。

 

 使用人やメイドなんて者が居れば平和な気持ちで掃除でもしていただろう。

 

 しかし、廊下の奥から小さな罵声が響く。

 怒声とも悲鳴とも取れる声だ。

 

 次第にその音は指数関数的な上昇を果たし、遂に廊下の静寂を派手に破壊してその場を駆け抜けた。

 

「やめろやめろやめろっ!!止まれヴェノムゥ!!」

<止まると思うか!?だとしたらお前は馬鹿だ!!…いや、失礼!>

 

 彼ら、シンとヴェノムは韋駄天の様な速度でこの邸宅内を駆り出していた。

 ついでに大喧嘩中だ。

 

<もうお前は腑抜けの大馬鹿だったな!!> 

「言いやがったなクソアメーバ!チョコなんて二度と買ってやらねぇからなテメェ!!」

<ならチョコを盗んでやる!お前は豚箱行き!依姫にも嫌われる!!あ〜あ!最高だ!!>

「ぐっ…ッ!!こんの…クソカスがぁ〜〜ッ!!」

<ハハハ!!なんとでも言え!!元はと言えば腑抜けのお前が悪いんだからな!!>

 

 歯を剥き出しにして爆走する彼はまるで地獄の鬼。

 おまけに周りから見れば独り言を宣っているため、鬼というよりは狂人だった。

 

「身体ァッ!動けっ!!ヴェノムを殴らせてくれぇ!!」

 

 シンの身体はヴェノムによって完全に統制され、まるでスポーツ選手の様な綺麗なフォームを維持し続けている。

 彼がヴェノムから身体の自由を取り戻せないのは、彼の体力や精神が万全では無いためだ。

 

 どうやっても身体のコントロールが取り戻せないと悟ったシンは、ヴェノムを説得する方向にシフトチェンジした。

 

「ヴェノム!!お前はお前のやってる事が要らないお節介だって事が分かんねぇのか!?」

<要らないじゃない!要るんだ!ナメクジは黙れ!!>

「ナメクジはお前だこのガン細胞!!」

<うらァっ!!>

「うぐぁッ!!」

 

 交渉決裂。

 誰の目から見ても分かりきった結末だった。

 

 流石のヴェノムもガン細胞呼びには腹を立てたのか、彼を走らせながら壁に頭を打ち付けさせた。

 乾いた音が足音に混ざって廊下に響き、フラフラとバランスを崩しながらも彼は走り続けさせられる。

 

 無論、頭からは赤い噴水が出ていた。

 

「うぐ…」

<なんて言ったっけ?そうだ、インガオホーだ!!>

 

 因果応報である。

 

 あまりの衝撃に流石のシンも白目を剥いて言葉を失う。

 鬼だった彼は、血濡れの白目幽霊へとジョブチェンジだ。

 

「ぉお…ぜっ、絶対許さん…」

<待て!…足音だ!角を曲がった先に誰か居る!!>

「っま、まさか…おい…待て」

 

 白目を剥いていた彼がヴェノムの言葉に反応し、目を白黒させながら顔面を蒼白させる。

 彼はカメレオンの様に顔色をコロコロ変えているが、その心内はかなり焦っている。

 

 この角を曲がった先には誰が居る?

 

 答えは明白だ。

 気配、いや、直感で分かる。

 

 だからこそ、シンはヴェノムを止めようと躍起になった。

 

「待てヴェノム!!頼む!お願いだ!俺は話せない!!頼むっ!!」

<…全財産、チョコレート>

 

 ポツリ、と。

 ヴェノムが呟く。

 

 その言葉の意図をシンはコンマ単位で理解し、続け様に言った。

 

「チ…チョコを買ってやれば…チョコを差し出せば…ほ……ほんとに…俺の言葉…を…聞いてくれるのか?」

<ああ~、約束するぜ…!>

  

 シンの灰がかった瞳がゆらゆら揺れる。

 全財産…頷けば一文無し。

 

 そうなれば妖怪を取って食う時代の幕開けだ。

 しかし、流石にそれは余りに人間的では無い。

 

 言うなればこの選択は、人間のプライドを捨てるか否かであった。 

 

 だが、彼女と会うのとを天秤に掛ければ。

 情けない姿を彼女に見せるか、社会的に人間を辞めるか。

 

 天秤に掛かるまでもない問題だった。

 

「俺の全財産分のチョコレートと引き換えのギブ・アンド・テイクだ…行けよ…早く足を翻せぇッ!」

 

 俺は人間をやめるぞと言わんばかりの意志を持って吐き捨てたシン。

 対するヴェノムの返答は。

 

<だが断る>

 

 全くもって無惨だった。

 

「なぁ!?」

 

 シンの中で一切の感情がヴェノムの一言に殺され、足が止まらない現状に冷や汗を吹き出す。

 口をパクパクさせて言葉を引き出そうとする彼はヴェノムから見てさぞ滑稽に映っただろう。

 

<ハハハッ!このセリフ一度言ってみたかったんだ!!>

「なっ、なぁっ!?ヴェノッ!!てめ…ッ!ッダメだダメだ止まれぇええッ!!」

 

 角はもう目の前だ。

 そう思った時には、手遅れだった。

 

「っその声…やっぱり貴方…っやっと…!!」

 

 輝かしい程艶めかしい薄紫の髪。

 それらを束ねるトレードマークの大きな黄色のリボン。

 

 朱のサロペットスカートとスリットの如く露出した足。

 腰に掛けられ、剣を模したバックル。

 

 いつもの服装。

 そんな言葉がぴったりの、依姫だった。

 

「…ああ…!っあああ…!!」

 

 彼女を見れば、心臓が握り潰される。

 全身が冷や水に覆われる。

 

 考える言葉は全て霧散し、瞬きすら忘れてしまう。

 掛ける言葉は塵となって心からその姿を消してしまう。

 

 手が、足が震える。

 

「…ぁあ…!!」

 

 嫌な想像ばかりが頭に過ぎる。

 

「あああ…!!」

 

"代わりに貴方が死んでくれたら良かったのに"

"貴方のせいで私は親友を失った"

 

 彼女がそんな事を言う筈、ある訳ない。

 しかし、否応無くその言葉と情景が瞳の裏に再生され続けるのだ。

 

「シン、さん」

 

 彼女が言葉を発する。

 その瞳は真っ直ぐだ。

 

 どんな言葉が紡がれる?

 どんな罵声が飛ぶ?

 

 そんな事、聞くまでも無く逃げたい。

 しかし腕も足も、顔をヴェノムによって固定され、岩の様に動かない。

 

「私は…」

「止めてくれ…!!」

 

"貴方の事が■■■だ"

 

 言葉の続きを聞きたくない。

 それは何千と頭の中でリピートされた内容だ。

 

 そんな言葉、俺は聞きたくない。

 本当に、聞きたくない。

 出来る事なら、この身体を翻して、また、逃げたい。

 

 逃げたい、逃げたい、逃げたい。

 

「貴方の事…」

「頼むから…ッ!!それ以上…」

 

 ぶるぶる震えるシンの瞳に、言葉を紡ぐ依姫の唇が映る。

 

 貴方の事———

 その言葉の行き着く終着点が、容易に想像出来た。

 

"大嫌いだ"

 

 鮮明に、殺意の籠った瞳の依姫が頭の中を瞬く。

 その瞬間、シンの中で何かが切れた。

 

「それ以上!!俺に言葉を掛けないでくれぇッ!!」

<なに!?身体が!!>

 

 その時、不思議な事が起こった。

 ヴェノムが掌握していた筈の身体の支配権が、シンに戻った、と言うより、奪われたのだ。

 それまではヴェノムが完全にシンの身体を操っていたのに、何故なのだろうか。

 

 理由は簡単。

 シンの激情がヴェノムを上回った、ただそれだけである。

 

 その実態は逃げたいと言う情けない物だったが。

 

「ぁああああアアアアッ!!」

<なんて事だ!この土壇場で!?>

「待って!!シンさんっ!!話したい事が…!!まだっ!!」

 

 発狂した様にシンが叫び声を上げる。

 最早シンに依姫と対峙するだけの度胸、勇気は無く、180度回転して彼は逃亡しだした。

 

 それを依姫が黙って見ている訳が無く、回復しきっていない身体で彼を追いかけた。

 

「どうしてっ!?私を避けようとするんですか!?」

「っ…!!話す…意味なんて、ねぇッ!!」

「っいいえっ!…ハァ…話してもらいますっ!!…ハァ…何があっても!!」

 

 依姫は簡単に息切れするが、その速度が落ちる事は無い。

 

 彼の真意を、彼がこうまでして依姫を避ける理由を確かめる為だ。

 

 本当なら、こんな事したくない。

 と言うより、誰だってしたくないだろう。

 

 彼女の行為は、わざわざ自分から自分の欲しくない回答を得ようとしている様な物だからだ。

 簡潔に言えば、好意を抱いている相手から嫌われてると分かっているのに信じられなくて、相手にわざわざ私が嫌いかと聞いている様な物だ。

 

 どれだけ顔の皮が厚くたってそんな勇気はない。

 しかし…

 

 しかし、それでも。

 追わずにはいられなかった。

 

 姉さん(豊姫)に言われたのだから。

 私の中の激情が行けと言っているのだから。

 

「待って下さい!!シンさん!!」

<止まれ!シン聞け!!俺は止まれと言っているんだ!!>

「ぐぅ…ぅうううっ!!」

 

◆◆

 

 二人はいつの間にか外に出ていた。

 靴も履いてない、素足だ。

 

 それでも、両者どちらとも一歩も引かないままチェイスは続いた。

 

「いい加減っ!ぜぇっ、止まって下さいよ!!」

「ぜぇっ、っかひゅっ…ゲホッ!ゲホッ!頼むから!!ハァッ、ほっといてくれッ!」

 

 逃げて、追って。

 懇願し、拒否し。

 喘いで、咳をする。

 

 問題があるとすれば、昼飯の買い物帰りの主婦達の視線が彼らに突き刺さっている事だろうか。

 側から見れば喧嘩、とでも写っている事だろう。

 

 喧嘩なんて些細な物ではないが。

 

「どうしてですか!?私の事が嫌いだからですかっ!?」

「違うっ!!そんな訳ねぇ!!」

「っ!っだったらなんでっ!」

 

 玉のような汗がアスファルトを濡らし、二人の脚力でほんの少し、地面にヒビが入る。

 何度もえづき、顔を下に下げる依姫はいかにも苦しそうだ。

 

「だから!それを言う事に意味なんて…ねぇっつってんだよッ!!」

 

 叫びと同時にシンが大きく屈み、直径1メートルほどのクレーターを残して姿を消す。

 依姫は一瞬にして消えたシンを目にして焦るが、彼の姿はすぐに見つけられた。

 

 ビルの()()だ。

 

「ぐっ…ぉおおおおッ!!」

「くっ!」

 

 彼はビルの表面に掌を突き立て、イモリのようにビルの屋上まで上がって行った。

 彼の通った後には五指の穴が空いたヒビが残されている。

 これは修理が大変そうだ。

 

 一瞬にして大きな差を付けられた依姫はその場で歯軋りする。

 しかし、黙って地団駄を踏むわけではない。

 

「部分神降し…須佐男(スサノオ)様の…ッ!剛脚ッ!!」

 

 詠唱と同時に依姫の威圧感が跳ね上がり、彼女のスリットから覗く足に血管が浮き出る。

 依姫はシンと同じように大きく屈み、大ジャンプした。

 

 部分的とは言え、最上位の神の力を宿した彼女の跳躍力はシンを簡単に上回り、彼女はビルすらもやすやす飛び越えてシンの姿を瞳に入れた。

 

 彼も依姫の蹴り出した爆音が聞こえたようで、振り返って依姫を見る。

 その顔は、信じられない、だろうか。

 

「馬鹿な…っ!」

<諦めろ!俺は協力しないからな!>

 

 依姫は中で霊力を放ち、軌道修正しながらシンの元まで落下する。

 

「クソ…早い…ッ!」

 

 シンが逃げる暇もなく彼女がビルの屋上に着地した。

 その顔はシンに追いついたと言うのに苦しげだ。

 

 理由は神降しの能力使用にある。

 

 ただでさえ彼女はまだ怪我人。

 更にこの数日間の体調のコンディションは最悪だ。

 

 そんな状態の能力使用。

 流石に一部分の憑依しか出来なかったが、血管が焼き切れ、血が吹き出してももしょうがない状態だったのだ。  

 

「追いつきましたよ…!!シンさん!!」

「どうして…どうして…お前は…!諦めてくれない…っ!」

 

 シンの言葉に依姫が力強く応じる。

 

「私は、貴方に諦めない事を教わりました…!模擬戦も、軍来祭も、エレクトロとも戦いも…!貴方は()()()()()()()()()()!瞳から意志が消える事は無かった!だから、私は、そんな貴方に憧れた…まぁ、だいぶ前にも言いましたが…」

「…」

「だから私は貴方が最善を尽くして、カレンを救おうとしてくれたのは、痛いほど解ります…!だから…だから私は貴方を恨んだりなんかしてない…!!むしろ…っ!私は…!貴方の腕を奪ったし…酷い選択をさせた事が…何より…」

「恨んだりなんか、しない?そんな…俺は…」

<だから言ったんだ、俺は>

 

 シンの身体が震え、依姫を見る目が震える。

 はっきりと聞いた、恨んだりなんかしない、と。

 

 その言葉の意味するところはシンの思惑がまったくの期待外れであったことだ。

 

 しかし後に続く言葉もシンの思惑通りで無い。

 

 腕が無くなった?酷い選択?

 それで…依姫が悲しむ?

 

 何を言っているのか分からなかった。

 だって、そんな訳…

 

「そんな訳…ねぇだろ…お前を恨むなんて…」

「え…?」

「当たり前だろ…!それぐらいでお前の事が嫌いになったりする訳がない…逆に俺は…!お前の親友を殺したんだぞ!?謝って済むような話でも…ましてや気にしてないだと!?優しいのも大概に———」

 

 シンの言葉の途中で依姫の啜り泣く声が辺りに響く。

 シンはギョッとして下げていた頭を上げ、依姫を見ると、そこには喜色を浮かべながらもへたり込んで座り込む彼女が居た。

 

 あまりの光景にシンの動きが止まり、冷や汗を垂らす。

 

<シンが依姫を泣かせた!このクズ!>

「ヴェ、ヴェノムは黙れ!よ、依姫、なんで泣いてる…?」

「っい、いや…安心してるんです…ずっと…避けられたあの時から…もう貴方と肩を並べられないんじゃ無いかって思って…」

「…依姫…違う…違うんだ、俺は…俺は———」

 

 死にそうな表情で依姫を見つめるシンの言葉は、最後まで綴られる事はなかった。

 

「キャァアアアアアッ!!」

 

 けたたましい悲鳴が辺りをつんざいたからである。

 声色は高く、怯えが混じっている。

 恐らく、女性だ。

 

<なんだ今のは>

「わっ、分からん、強盗かなんかか?」

「…わ、分かりません、兎に角、下を見ない事には…」

 

 顔を見合わせる二人。

 流石の緊急事態には話も中断するしか無く、彼らはビルの屋上から悲鳴の聞こえた方角を見下ろした。

 

 シンも強盗程度にしか思っていなかったが、目にした光景を見て驚愕に思考を染まらせる。

 

「ギ、ギ、ギギギギッ!」

「っいやっ!たっ、たすっ、たすけてっ!」

 

「なんだ…?あれ…妖怪か?」

 

 化け物(妖怪)が、そこにいた。

 

 人間大の真っ黒な団子のようなモノから、針金のような細い腕を何本も動かし、ウサギの耳を生やした女性を雁字搦めに捉えている。

 シンからはそのカビ団子の背しか見えないが、女性がもがく度に巨大な、剥き出しの歯が光に反射してシンの瞳に映っていた。

 

 恐らく、顔面の8割方は巨大な歯で構成されているのだろうか。

 ギリギリと歯軋りをして、不快な音を撒き散らしている。

 

 周りには人が五人ほどへたり込み、這い這いになってそこから逃げ出していた。

 

 シンが驚いたのは、その妖怪の容貌もそうだが、この都市内に妖怪が現れた事に対してだった。

 眼下の人々がここまで恐れ慄いているのも、これが原因だろう。

 

 まず妖怪とは、命ある者の行き着く成れの果て、又は思念が形を浴びたモノだ。

 よって、その姿形は動物の姿を取ったり、想像上の怪物の姿を取ったりする。

 

 しかしあのカビ団子はなんだ?

 あの生物とは思えない外見。

 妖怪と言うより、呪いや悪神の一種と考えてもおかしく無いほど気持ち悪い。

 カビの妖怪と言うなら納得だが。

 

 次が最も重要なのだが、そもそもこの都市に妖怪は出現しない。

 穢れだかなんだかを月読命が排除しているおかげらしいが、あまり理解はしていない。

 

 何故なのだろうか。

 その理由を考えるのには、圧倒的に時間的余裕が足らなかった。

 

<ヤバイ!あの兎が喰われる!>

「依姫!仕方ない!行くぞ!」

「っ一瞬で行きます!あの女性を奪還した後、黒い妖怪を討ってくださいっ!」

「分かった!」

 

 兎の女性が涙を流して抵抗していたが、遂にその手が黒団子の黒鞭に絡め取られ、ついでに口も塞がれてしまう。

 遠目で見ても分かるピンチに彼らは急いだ。

 

 依姫は刀も無しにビルから飛び出し、シンはヴェノムを纏ってビルの側面に指を突き立てながら降下していく。

 

「風神様ッ!!」

 

 空を舞い、落下を始める依姫を中心に気流が発生する。

 速度を増やし、着地点を調整していく。

 風によって自慢のポニーテールが揺れるが、その顔は厳しかった。

 

 能力使用にガタが来ていたのだ。

 先程でさえ能力は一部分しか使おうとしなかったのに、今は全身に神を降ろしている。

 

(神降しは…体力がもう持たない…!)

 

 徐々に近づいていく己の体。

 黒団子は、今まさに女性の頭を齧ろうとしていた。

 

 恐らく、このスピードのままでは…

 

(間に合わない…!霊力も使ってもっと速度を!いや、そうすると着地と同時に私の方が爆散する…突撃と同時に女性を奪い取って、地面と接触寸前で風で衝撃を和らげる!)

 

 依姫の身体から更に風が吹き出し、そこには緑色の疾風も混ざっていた。

 霊力を風神の風に乗せた神風である。

 

 彼女の身体が加速度的に速度を増し、彼女は風圧に目を細める。

 

「間に合えっ!!」

「っひっ…!!」

 

 女性の声が聞こえた。

 黒団子の生臭い吐息に顔面を撫でられ、恐怖に目を閉じた様だった。

 

「ギ」

 

 短い発声。

 いただきます、とでも言ったのだろうか。

 

 しかしその顎は虚空を喰らった。

 ガキンと、金属同士を打ち合わせる音が響く。

 

「はっ…はっ、もうっ、大丈夫です!」

「あ、あっ、たっ、隊員さん…?」

「ギギ…ギ?」

 

 黒団子の視線——といっても目は無いが、恐らく口の向いた方向が視線だろう——が依姫に向けられ、歯を打ち鳴らす。

 見れば見るほど奇怪な姿だ。

 黒団子、と言うよりカビを捏ねて丸くした様な姿だ。

 

 腕も左右に六組十二本、下部にも何本も足が生えており、絶えず指先を動かしている。

 

「ギギィ…ギィ!」

 

 折角の食事を邪魔されて怒り心頭であるかのように歯をギリギリ鳴らし、黒団子は十二本もの腕を依姫達に伸ばした。

 

「ひぃっ!」

 

 依姫の腕の中の女性が再び声を漏らし、瞼を閉じるが、衝撃が来る事はない。

 恐る恐る瞼を開くと、そこにはまた別の衝撃的な風景が映っていた。

 

 黒団子の腕が、黒い鞭に絡め取られている。

 

間に合った!アレは俺の餌だ!

冗談はよせヴェノム!…冗談だよな?

チョコを買わないからだ!冗談だって言いたくなる…!本当に食べてやろうか?

あの黒団子を食べても良い!お前の同族だろう!?ピッタリだ!

同族?俺の事をあのカビ団子と同じだと言ったのか!?

 

「ギギ…!」

 

 黒団子の背後に居るのは、言い争うシン達だった。

 腕を十二本に割かせ、黒団子妖怪の動きを封じている。

 

 膂力はシン達の方が上だ、充分抑えられている。

 しかし安堵したのも束の間、なんと黒団子が自分の腕を噛みちぎり、拘束から離れたのだ。

 そのままグルリと方向転換し、黒団子はシン達に一直線に襲い掛かる。

 

 どうやらターゲットを変更した様だが、シン達には好都合。

 

コイツ自分の手ぇ食い千切りやがった!イカれてやがる!

パクリ野郎!喰い殺し…いや、不味そうだから叩き潰してやる!

「ギギィィァァア"ア"!!」

 

 よく考えてみれば、ヴェノムとこの妖怪はなんとなく似ている。

 剥き出しの歯、黒い身体。

 いや、大きな身体的特徴は勿論違う。

 

 歯だって、黒団子は規則的に並んだ人間の様な長方形型に対して、ヴェノムは不規則な円錐型の、獣の様な歯だ。

 

 しかしこの珍妙な化け物と所々似ているのはヴェノム本人も虫に触るらしく、パクリ野郎と呼ぶのもシンは理解出来た。

 

しっかしカサカサカサカサ気持ち悪い…!ゴキブリは新聞紙で叩き潰してやらねぇとなァ!!

その通りだシン!!

 

 幾本もの手を動かして爆走する黒団子に、シン達は怯む事なくその黒腕をハンマーに変えて迎え撃った。

 

 一心不乱にガチガチ歯を打ち鳴らす黒団子には知能など感じ取れず、真っ向勝負にはうってつけ。

 シン達は相手のフェイント等を恐れずに飛び出し、ハンマーを振るった。

 更に腕をムチの様に変形させ、爆発的な加速を生み出す。

 

 歯とハンマーでは、勝敗は明らかだった。

 

「ギ…ィ…!?」

大した事ねぇなぁ!この黒団子野郎!

当たり前だヴェノム、俺達の方が強いからな

 

 地面が揺れる程の重低音が響き、舞い上がった砂煙が晴れて黒団子が姿を現す。

 しかしその姿は無惨で、球体の顔部分が大きく抉られ、下部がハンマーごと地面にめり込んでいた。

 

 ギラギラ光る歯はもはや見る影も無く、大部分が消失していた。

 よく見れば、周囲に白い残骸が散っている。

 恐らく爆散した歯の欠片だ。

 

 足もほぼ全てがハンマーの激突に巻き込まれてぐちゃぐちゃになっていた為、歩く事は叶わないだろう。

 

「ギィ…ァッ…ァ…」

これで一件落着———うぉっ!?

 

 しかし黒団子もタダでは終わらない。

 抉れた顔の断面から、腕を射出したのだ。

 

 先端は鋭利に尖り、真っ直ぐヴェノムの凶悪な顔面向けて放たれている。

 

 タイミング的にも速度的にも避けられない。

 その一撃をシン達は。

 

あーん…ッング…!

「ギ…!?」

 

 食べた。

 シンが、と言うよりヴェノムが。

 

 バリバリ音を鳴らして咀嚼すると、黒団子も絶望したのか、声を漏らして溶けてしまった。

 

 ヴェノムはヴェノムで黒槍をぺっぺと吐き出し、悪態を吐いた。

 どうやら不味かった様だ。

 

おえっ!不味っ!見た目通り肥溜めの泥みたいな味だ!クソ!ぺっ!

うわきったね!なんてモン体に入れてくれてんだ!?

 

 ヴェノムがシンの体の中へ戻っていき、今にも吐きそうな表情のシンが現れる。

 しかし、ヴェノムが噛み砕いていなければ少し危なかったのも事実、仕方なしと受け入れる他ない。

 

 身体の中の嘔気を必死に抑え、彼は依姫と腕の中の女性の方を見た。

 女性は心配そうな表情で、兎耳をしゅんと垂れ下がらせている。

 

「ふぅ…よか、った…」

「だ、大丈夫…ですか…?」

 

 依姫は顔色が悪く、女性を抱えながらもぐったりしている。

 もしもの時の為に神降しを実行させ続けていた様で、彼女が安堵すると同時にオーラが霧散した。

 

「…依姫、大丈夫だよな?」

「え、ぇ…ただ少し…肩を借りられれば…」

「…あぁ、道場まで送ってやる…そこで、俺から話がしたい」

「はは…私もですよ」

 

 彼女の血色は言うまでもなく悪い。

 目を閉じていて、今にも眠ってしまいそうだ。

 

 疲労も限界が近いのだろう。

 

 それに…彼らは二人きりで話すと言う口実が欲しかった。

 さっきの話の続きだ。

 シンも本来の目的を果たせずにいる。

 

 謝るという、小学生でも出来る事だ。

 

「…なぁ、あんた、多分軍の隊員やらがそろそろここに来る筈だ、事の顛末は説明しといてくれ」

「あっ、は、はい、ありがとうございます…あなた達は…」

「俺達はコイツを休ませるからよ…そうだな、依姫がやった、とでも言っとけ」

俺達がやったと言え!

「ひぃっ!」

 

 シンは依姫を背負い、兎耳の女性にそう言ったが、ヴェノムが肩から飛び出して女性の目の前に位置取った。

 目の前に鋭利な牙と、瞳のない巨大な白い目を持った化け物に女性は腰を抜かし、青い顔でへたり込んでしまう。

 

 かなり前に兎耳の少女に出会した時も、こんな反応をされた気がする。

 シン達は兎と縁が悪いのだろうか。

 

「まぁどっちでもいい、じゃあな」

 

 彼は女性に背を向けると、眠った依姫を起こさないよう、穏やかに道場へ向かった。

 いつの間にか、すーすー、と、依姫の寝息が耳を撫でていた。

 軍来祭の終わったあの時のデジャヴと背中の温かみをを感じるのは、きっとシンだけだ。

 

◆◆

 

 依姫が目を覚ましたのは、午後八時を回った時計が指し示す通り、あれから数時間が経った後のことだった。

 眩しくない、電気が付いておらず、薄暗がりに包まれていた。

 彼女は辺りを見回し、シンがそばに居ることに気付く。

 

 椅子に座り、真っ直ぐに依姫を見下ろしていた。

 

「シンさん…ここは…?」

「俺の部屋だ、豊姫や玄楽に忙しいからって面倒見ろって言われたんだ」

「…そう、ですか」

 

 …豊姫と玄楽は忙しいと言う理由だけで二人きりにさせたわけではないが、勿論、真実はシン達に言っていない。

 いわゆる言葉の行間を読め、と言う事だ。

 

 彼女は自分に何があったのかを思い出した。

 流石にこの身体で無茶をし過ぎたのだ、意識を失った自分をおぶってもらったんだろう。

 しかもそんな彼の背で熟睡していたんだ、恥ずかしい。

 

 それに、長い事自分の事を看病してもらったのだ。

 感謝しても仕切れない。

 

 ただ、そんな彼に、依姫には言いたい事があった。

 本当なら、あの屋上で言いたかった事だ。

 

「…っ」

 

 しかし、いざ言おうと思っても、呂律が回らず、言葉がでない。

 言葉の発し方さえ忘れたような気がする。

 

 彼女は苦し紛れに彼の目を見た。

 迷いのある目だった。

 あっちに行ったりこっちに行ったり、彼女を見たり、目を伏せたり、まるで、何かを決めかねているようであった。

 

「っあの、女の人…大丈夫です、かね」

「…あ、ああ…テレビでそれが触れられてたが…大丈夫だったらしい」

「あ…そうです、か」

 

 依姫は強引に話題を作った。

 しかし、無理矢理吐き出した言葉は続かない。

 

「…」

「…」

 

 嫌な、沈黙だった。

 やはり、言うしかないのだろうか。

 

 いや、ここで言うしか、タイミングは無い。

 

「…すぅ」

「…」

 

 深呼吸、息を吸い、決心を固める。

 

 彼も、同じような事をしていた。

 彼の目が閉じられて、鄒俊後にまた開く。

 決意の込められた瞳だった。

 

「あのっ」

「…っあのさ」

 

 言葉は綺麗にハモった。

 両者共この結果は予想だにしなかったようで、冷や汗をかいて目を逸らす。

 

 依姫は暇な時や困ったに行う、髪の毛を弄るという癖をいつの間にか行っており、彼はただひたすらに色んな所を見回していた。

 時折視線が重なると、両者物凄いスピードで目を逸らす。

 

 気まずい時間が一瞬だけ流れ、耐えかねた二人がまた言葉を発する。

 

「なんだ?依姫」

「そっちこそ、どうかしたんですか?」

 

 言葉の調子こそいつも通りだが、顔色と汗の量がいつも通りでは無い。

 ゴクリと喉を鳴らしたは、一体どちらだろう。

 

 考えがままならない状態で、依姫は言葉を絞り出した。

 

「そ、そっちからどう、ぞ」

「お、おう…言わせてもら、もらうぞ」

 

 言葉を噛んでしまうのはどっちもどっち。

 まるで話し慣れてないコミュ障だ。

 

「…」

 

 また、長い間があった。

 

「俺は…」

 

 静かに、しかし怯えのような色が混ざった言葉を、彼は喋り出す。

 

「お前の親友をカレンを殺して…依姫の願いを叶える事が出来なかった…っ本当なら…最初会った時に…謝るべきだったんだ…!っでも…でもよ、俺が思っているいる以上に…俺は腑抜けだった…逃げ出したんだぜ?あの時依姫がどんな気持ちだったかなんて考えもせず…」

「…」

 

 彼女は黙っている。

 彼は俯いて震えながら続けた。

 

「俺はさ…俺は…依姫に()()()()()()()()()んだ、だから、依姫の言葉を聞きたくなかったんだ…!嫌い、だとか、死ね、だとか…そんな言葉が頭をよぎって仕方なかったんだ…逃げ出したらお前がどんな反応をするか、半ば分かっていたのに…俺は…っ自分を優先しちまった…!」

 

 そして漸く。

 漸く、シンは依姫にかけるべき言葉を吐き出した。

 

「ごめん…依姫、本当に…ごめん…!!」

「…私だって、言う事がありますよ」

 

 依姫の言葉にシンは顔を上げる。

 困惑が見てとれた。

 

 こんな自分に言う事があるのか、と。

 

「私は…貴方に酷い選択をさせたって…貴方の腕を奪ってしまったって…言いましたよね…?確かに、あの時、電流の槍が発射された時に貴方に突き飛ばされて居なかったら、私は死んでいたかも知れない…でも…!貴方が腕を失ったのは事実で…あの時の血が…腕が舞う光景が忘れられなくて…だから…ごめんなさい…ごめんなさい…!」

 

 次第に依姫も自分が何を言っているのか分からなくなって来た気がした。

 要領も得てないような気もする。

 

 しかし彼女には頭に浮かんできた言葉を放つのに精一杯だった。

 

 だが、彼は立ち上がって反論する。

 その顔には苛立った様な、申し訳無さそうな、そんな感情がありありと感じられた。

 

「…だから…!っだから!俺は気にしていないって言っているだろう!!腕も!あの選択も!だから俺の方が悪いんだよっ!ごめんっ!!」

 

「わっ、私だって折り合いは付いていますし!無視された事なんて気にして…気に、して」

 

「気にしてるじゃねぇーかッ!!だから俺が悪かったって言っているんだ!!大体なぁ!これぐらいでお前を嫌いとかあり得ないんだよ!」

 

 謝罪はヒートアップし、喧嘩の域に突入し始める。

 自分達が最終的に何に帰結すればいいかは、彼らにも分からなかった。

 

「っ違いますよ!私だって貴方に嫌いとか死ねだとか言うわけないじゃないですかっ!!私の事がそんな信頼できないんですか!?」

 

「っしてるよ!してるに決まっているだろうが!でも頭に湧くモンは湧いちまうんだよ!」

 

「なんですかそれ!!私がどんなに悩んだかも知らないで!!」

 

「悩んだぁ!?お前だって信用してねぇじゃねぇかよ!!依姫ェ!!」

 

 依姫も立ち上がり、彼を睨む。

 

「ぐ、ぎぎ…し、仕方ないじゃあ無いですか…だって…だって」

 

「仕方ない!?何が仕方ないんだ!?」

 

 自分の事は棚に上げるシン。

 兎に角彼らは、相手にごめんという事を認めさせるのに必死だった。

 

 それに何が仕方ないかなんて言えるわけが無い。

 好きだからこそ、失望されるのが怖い、だなんて、絶対に言えるわけが無い。

 

 シンが気付いていないだけで、彼が悩んでいたのもほぼ同じ理由だが。

 

「そっ、それより!貴方の腕はもう戻らないんですよ!?なんで気にしてないなんて言えるんですかっ!!もっと自分を大切にしてくださいよ!!私にごめんなさいって言わせてくださいよ!!」 

 

「それ言ったらお前…!!カレンだって戻らねぇだろうが!腕なんてヴェノムで補えるんだぞ!?」

 

「だからぁ!!仕方ないって!折り合いが!着いたってっ!言ってるでしょう!!そんな子供じゃないんですよ!!」

 

「現にお前は嫌われたらどうしようとか下らない事で悩みまくってたじゃねぇかよ!子供だろうがお前は!!」

 

 最早ヒートアップは活火山の領域に達している。

 自分が何を言っているかなんて、もうどうでもいい事だ。

 

「貴方だって…貴方だってぇ!!私の事無視してずっと居なくなってたじゃないですかぁ!私が子供なら貴方は赤ちゃんですよ赤ちゃん!!」

 

「ぐ、ぐぅ〜ッ!!大体…お前が優し過ぎるのが悪いんだよ!クソッタレ!!厳しくしてくれよ!それなら俺だって簡単にごめんって言えたのによぉ!!」

 

「貴方も私の事優しくし過ぎなんですよ!何なんですか!?全部責任は自分にあるみたいに…!!私だって悪いんですからごめんなさいぐらい認めてくださいよ!!」

 

 互いに反論出来ない言い合いに、彼らは論点をすり替えまくる。

 側から見ていたヴェノムは呆れていた。

 

「嫌われるような事をした以上、貴方の謝罪は絶対認めません!!するにしても私からです!」

 

「このっ…このぉ〜ッ!!強情女ァ!!いいか?もう一度言うぞ?俺は、お前を、嫌いになんか、ならん!天地がひっくり返ってもあり得ねぇ!!俺はお前の背を見て成長したんだぞ!?俺が世話になったのも殆どお前だ!!いいか!?お前は俺の恩人なんだぞ!?」

 

「は、はぁ〜ッ!?だったら私だって!貴方が居たから孤独から抜け出せたし、貴方と言うライバルを知る事が出来た!!貴方が諦めを知らないから私はここまで来れたし!私は強くなれたっ!!貴方が諦めなかったから!私は貴方の事が好きになったんですよ!!だからぁ!嫌いなったりなんか!絶対にあり得ないんですよ!!分かり…っま…し…た、か」

 

 言葉を綴る依姫の動きがスローモーションになって固まる。

 自分が今、何で言ったのか理解したのだ。

 

 その瞬間、両者間の時が止まった。

 

「い、いまお前」

「わ、私、は、今なんと?」

 

 ———()()()()()()()()()()()()()

 

 口が滑った、としか言いようがなかった。

 自分の言った事を噛み砕けば噛み砕く程、自分がどれだけの失言を犯したかに気付いていく。

 

 同時に顔が赤く染まっていき、口をへの字にしてふるふる震え出す。

 

「ぁ、いや…その…」

「…」

 

 取り返しのつかない事をした自分の口が恨めしく思い、依姫は口を手で塞ぐ。

 シンには真っ赤に染まった依姫が自分の顔を隠した様にしか見えなかったが。

 

「えと、貴方が…あ…ぅ」

「…」

 

 余りにも、今言う内容じゃ無かった。

 こんな事で想いを伝えるなんて、馬鹿みたいではないか。

 

 彼女は僅かに後退したが、後ろにはベットしかなく、そこに座り込む形になってしまった。

 先まであんなに怒っていたのに、今では急にしおらしく感じてしまう。

 

「今のは…ですね、あ、あはは」

「…」

(お、終わった…終わってしまいました…間抜けすぎる…こんな…うぅ…助けて姉さん…どうしたら…)

 

 観念した様にベッドに手を置き、乾いた笑みを浮かべる依姫。

 その顔色は真っ赤な恥じらいに真っ青な焦りが入り混じっていて、まさしく奇妙だった。

 

 心中も世紀末。

 神様も神降しを断念するレベルだった。

 

 見かねたシンはそこに助け舟を出した。

 

「俺の性格が好き…ってこと、か?」

「…!!っそっ、そうな、そうなんですよっ!貴方の性格が好きだって言いたかったんです!!」

 

 別に依姫の好意が伝わらなかった訳ではない、決して。

 そもそも数ヶ月前から気付いていると言えば気付いていた。

 

 だが、この告白を受けるのには余りに依姫が惨めすぎる。

 そう思っただけである。

 

(それに…俺は依姫の事が好きでもなんでもない、ただの仲間で、ライバルだ…だから…後回しにしといた方が、断るよりずっといい)

<>

 

 シンはヴェノムに厳しい視線を送られている様な気がした。

 何故かと言えば理由は簡単で、依姫がシンの与えた選択肢に飛び付き、真っ先にシンのことが異性として好きじゃないと答えた瞬間、ヴェノムは彼の心がちょっぴり傷付いたのに気付いたからだ。

 

 ヴェノムはそれをシンに伝えようとはしなかったが。  

 

「…はぁ…なんだか、馬鹿馬鹿しくなっちまったな」

「そ、そうで、すか?」

 

 依姫は未だ顔の赤らみが治らない。

 顔を見られたくないのか、顔を見たくないのか、依姫はそっぽを向きながら答えた。

 

「結局、俺達は全く同じ事を考えていたんだからよ」

「確かに、まぁ、そうですね」

 

 話し合う前はあーだこーだ考えていたと言うのに、蓋を開けてみれば、てんでつまらない内容だった。

 

 双方どう思われているかに固執し過ぎていたのだ。

 嫌われているだとか、殺意を抱かれているだとか。

 口を開けばそれが決定的になってしまう可能性があった故に、話し合う事を恐れていた。

 

 だが、勇気を出して話し合ってみれば、互いに嫌われたくなかった、それだけだった。

 

 力が抜けた様にシンは椅子に座り込む。

 

「…なんでこんな必死になって喧嘩してたんだろうな、俺達」

「それは…貴方に謝罪なんて要らないって言ってるのに、全く引かないからですよ」

「いや、それは違うな…お前だよお前…お前に責任も無いのに謝らせてるのが俺は許容出来ないんだよ」

「…」

「…」

 

 彼らの目が細められ、視線が交錯する。

 弛緩した空気が再びヒリつき、いつまた喧嘩に発展してもおかしくないようにも思われた。

 

 だが、意外な介入が入る。

 

ああ面倒くさい!これで文句無いよな?はい仲直り!

「…いきなり何するヴェノム」

「そ、そうですよ」

 

 シンの肩からヴェノムが現れ、彼の右腕が依姫に伸びたのだ。

 無論、それはシンの意思による物ではなく、ヴェノムの身体操作による物である。

 

 腕がたどり着いた先は依姫の手のひら。

 ガッチリと握手し、ブンブン振っていた。

 

 依姫は密かに汗ばんだ手のひらを握られる事に動揺していたが。

 

謝らせたくないならどっちも謝ればいいんだよ、いいアイデアだ!そうだろう?それにこれ以上は呆れて吐きそうだ!

「…はっ、もうこれ以上言い争うならこれで良いさ、ヴェノムにもこう言われちまったしな」

「…シンさんは、それで良いんですか…?」

「良い、が、それはこっちのセリフだ依姫、お前は間違い無くカレンを失って辛かった筈なんだ…どれだけ折り合いがついたと言っても、謝る義務が俺にはある…むしろ謝るだけじゃなくてこっから出ていくぐらいの責任すらあるんだよ」

 

 ブンブン。

 依然、腕はシェイクされている。

 そのままの状態で依姫は瞳をシンに向けた。

 

「そこまでしなくても…でも…うぅ…わ、わかりました…でも、一つだけ…」

「…なんだ?」

「もう、貴方は悲しむような選択をしないで下さい…私が貴方に厳しい選択をさせたからこそ、今度は自分に素直になって下さい…もっと、自分勝手にしても良いんですよ…?」

「…ああ、だから俺はもっと強くなるさ…お前達を守る選択を取れるようにな」

「…はは、本当に諦めが悪いんですから」

「お前が相手だからな、諦めも悪くなる」

 

 半ば諦めたようににっこりと笑う依姫。

 そこにもう陰りはなかった。

 

 部屋に僅かに差し込む月光のように、暖かい笑顔だった。

 思わずシンも声色に喜色を忍ばせる…が。

 

 この会話の途中でも腕はブンブンブンブン振られ続けていた。

 

「…おい、ヴェノム」

なんだ?俺は今チョコレートの事を考えるので頭がいっぱいだ、仲直りしたなら添い寝でもしてろ

「そろそろ腕をだな、止めろよ」

…オーケー、止めた、じゃあおやすみ!明日はチョコレートだ、絶対に!

 

 すんなり要望が通った。

 これは珍しい。

 

 だが、こう言う時ほど決まってヴェノムのイタズラが仕込まれているのだ。

 シンは僅かに冷や汗を垂らしながら握手している手を見た。

 

「…」

 

 確かに、止まっている。

 

「…ふぅ」

 

 …いくらなんでも疑い過ぎだったかも知れない。

 シンは己への呵責からか、小さく息を吐いた。

 

 いくら横暴とは言えヴェノムは相棒だ。

 そこまで疑うのは失礼だったかも知れない。

 

「あ、あの」

 

 確かにヴェノムは最近勝手に体の主導権を奪っていたりしたが、それはシンを思っての行動だ、多分。

 日頃の感謝も込めて、本当に全財産分のチョコを買うのも手かも知れない。

 

「あの、シンさん」

 

 ———-やっぱりヴェノムは最高の相棒なのだ

 

「シンさんったら!」

「…?さっきからなんだ依姫?」

「あの、て、手を…そろそろ、恥ずかしいです」

「…ん?」

 

 思考がトリップしていたが、現実に頭を戻す。

 また依姫が顔を真っ赤にしていた。

 

 ただ、依姫の言っている事がよく分からない。

 手はもう離したはずだが。

 

 疑問に思い、また自分の手を見る。

 

「ん?」

 

 まだガッチリ握手している。

 余程恥ずかしいのか依姫の手は真っ赤だ。

 

 僅かに、動機がシンを襲う。

 

「ん〜〜〜?」

 

 どれだけ力を込めても手のひらが動かない。

 これはヴェノムに体を操られている時と同じ感覚だ。

 

 心臓がドクドク鳴る。

 脈拍がおかしな事になっている気がする。

 

「…依姫」

「ひゃ、ひゃい…な、なんですか…?」

 

 まさか、あのクソアメーバは。

 あのアホカビは。

 

「手、戻せなくなっちった」

「え、えぇ〜っ!?」

 

 手を固定して逃げやがったのだ。

 と言うかこんな芸当ができたのかと感心する。

 

 いや感心してる場合じゃない。

 

 いつ手は離せる?

 依姫の手に負担は掛かっていないのか?

 そもそもボケ野郎は分かっていてこうしたのか?

 

 考えばかりがぐるぐる回る。

 

「おいヴェノム!ヴェノム!!…多分ヴェノムの仕業だ、応答しねぇ…よ、依姫、痛くないよな…?」

「え、ええ、絶妙で…なんか強引に手を握られてるような感じです…」

「…あのチョコ脳がぁ…!!」

 

 不味い、非常に不味い。

 ヴェノムは夜に寝ると言い出したら朝まで起きない。

 エネルギー的な問題だろう。

 

 つまり夜までこのまま…?

 添い寝してろってのはまさか直球の意味で?

 

「おいこれ…どう、寝ればいいんだ…?」

「一緒…に?」

「い、いやいやいや…それは不味いだろ…豊姫とか玄楽にバレたら…こ、殺され———」

 

 否定した瞬間、依姫の瞳がじっとシンを見つめた。

 心なしか、小動物の様にうるうる潤んでいる。

 

「し、シンさんは…私と一緒じゃ、いやです…か?」

「っ…!い、嫌じゃない…に、決まってるが」

 

◆◆

 

(なんでぇえええ!!なんでぇええええ!!なんでこうなったぁああッ!!)

(さ、誘っちゃった!誘っちゃった!横にシンさんが…!!ぁあああっ!!布団から彼の匂いが!!匂いが!!!)

 

 いつの間にか彼らは同じ布団の中に収まっていた。

 しかも握手している腕の都合上、向き合って手を握りながらである。

 

 なんとか目を閉じているが、どっちも心持ちは嵐だ。

 

(ヤバいって!絶対一線超えてるんだが!!どう弁解すりゃあ良いんだよクソ!!)

(スゥー…ハァー…あぁ…ナイスです、ナイスですヴェノムさん)

 

 じっとり手のひらが濡れ、互いの手汗が混ざり合う。

 気温の高く、湿度も高い。

 俗に言うむわぁっとした布団の中の空気が、いっそう背徳感に拍車をかけていた。

 

(ね、寝れれば良いのに…クソ、良い匂いする…クソ!眠れん!!)

(…ッハッ!この状況…シンさんは寝てるみたいだし…う、うへへ…こんな事してみたり)

 

 依姫の中に邪な感情が渦巻く。

 その瞬間、布団がモゾモゾ動き、不信感からシンはゆっくり薄目を開けた。

 

 同時に胸に何か柔らかい物が当たる。

 

(ッ!!待て…!近いっ!近い近い近いッ!!ね、寝返り!?てか寝れてんのかコイツ!?)

(う、へへへへ…こんな密着出来るなんて、ヴェノムさん様々です…)

 

 目の前に、依姫。

 もう数センチの所に、依姫の顔が。

 

 まつ毛が長い。

 肌が白い。

 唇がツヤツヤ。

 

 じゃあ胸のこの感覚は…

 

(おっ、ぱ…!!っぱ…!っぱぁ…っ!!)

(て、手を回したりぃ、とか…足を絡めたりとか…えへ、えへへへぇ…)

 

 依姫の思考は布団の中の熱気で暴走している。

 普段なら絶対しないようなハレンチな事も、どんな事も、今の依姫なら躊躇わないだろう。

 

 本能の赴くままに更に身体をぐいと寄せ、握手してない方の腕でシンの首に手を回し、彼の足に彼女の足を絡めさせる。

 更に自分の額を彼の額にコツンと合わせる。

 抱きついているとしか言えない体勢だった。

 

(———)

(あ〜♡これは快眠できますよ〜♡)

 

 依姫はR18として規制されるであろう声を心の中で叫ぶ。

 

 …ここまでこればもう言い逃れも出来ないだろう。

 ついでにシンの理性もベコベコに歪んで溶け、辛うじて残った倫理観も布団の中の熱帯夜に沸騰している。

 

 自分を抑える事なんて、シンには出来なかった。

 

(…ここまで来たら、仕方ねぇよな)

(へっ?)

 

 彼は空いている方の手で、依姫の細い腰に手を回し、更にぐいと引っ張った。

 最早つま先から頭まで距離感はゼロだ。

 

 辛うじて身長がシンの方が大きい為に唇と唇が合わさる事態には陥っていないが、それでもギリギリで、額どころか鼻先も触れ合っている。

 

(ここがヘヴン(天国)か…あ〜、甘い匂い…頭がクラクラする)

(目の前に!目の前に…!鼻息が当たるぅ…腰の腕も、ち、力強いし…流石に、おき、起きてない、ですよね?)

 

 もう体の押し付け合いと言っても良い。

 おしくらまんじゅうされて更に体感温度の上がった彼らは———-

 

(い、意識が…やべ…ばれ…たら…)

(あ…堕ちる…♡)

 

 堕ちた。

 睡眠の底へ。

 

 シンはオーバーヒート。

 依姫はオーバードーズ、と言った所か。

 

 極度の疲労状態でもあった彼らだ。

 かなり遅い起床になるのは確定している。

 

 不審に思った玄楽が部屋を訪れ、布団を捲って崩れ落ちるのも時間の問題なのだ。

 哀れ玄楽。




どうも奴隷です、ご拝読ありがとうございます。

腹をぶち抜かれた傷が五日で治るのが依姫クオリティです、はい。
余談ですが、東方修羅道における玉兎の存在は、古代に地上の妖怪兎が家畜化され、その後月に渡った、という解釈でいます。
原作と同じ様に軽く言えば奴隷ですが、ちゃんと人権も確立されているので冷遇とかはされていません。

それはそれとして少し書き過ぎました。
三話分くらい書いて死にそうです。

登場人物紹介っている?

  • やってくれ 必要だろ(いる)
  • それは雑魚の思考だ(いらない)
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