「…おっ、ぉあ…お…」
「っぅぐっ…」
茫然自失。
身体に篭っていた熱が消え失せ、薄ら冷たい夜の空気が纏わりつく。
思わずシンの手から神奈子が滑り落ち、彼女はべちゃりと地面に倒れ伏した。
「…お、おっ、俺は…な、にを…?」
「…?」
神奈子がなんとかシンを見上げているが、彼はそれを意にも介さず、震えながら一歩、また一歩と後退りしていく。
地面にシミを作る玉汗は、果たしてどちらから流れ落ちたものであろうか。
「俺は…諏訪国を、飛び出した…それで、ここに来た…それで…」
<なぜ、この女を喰おうとしていた?>
シンを取り巻くシンビオートが解ける様に内側へと戻っていく。
ヴェノムの意思による解除では無い、借りていた物を剥ぎ取られるかの如く、黒い武装が消えて行く。
顔を抑え、項垂れる様に俯くシンの姿は、神奈子に衝撃を与えた。
「…にん…げん…か…?」
今まで正体不明だった化け物の正体は、霊力も妖力も感じられない、ただの人間…に見える何者か。
目付きが悪く、筋骨隆々で、大小様々な傷跡が目を引く、言ってしまえばただの『戦士』にしか見えない。
だが、現実として今まで戦ってきたのは目の前の男。
見た目の話だけではない、気配だ、気配が全く違うのだ。
人外の気配を振り撒いていた『黒い風』と、少し目付きの悪いだけの青年、そのギャップに、神奈子は少しばかりの混乱を抱いていた。
「なんだ?なんで俺は…こんな…」
<答えろ!シン!>
「分かってるヴェノム…俺だって混乱してんだ…!」
時は二人に整理する時間を与えない。
彼らを取り巻く混沌は事態を更に捻れさせていく。
「お前は…一体、何だ?何処から来た…?」
神奈子の質問は、半ば無意識に漏れ出したものだった。
「俺は…シン…諏訪国から…来た」
対する彼の返答も、また無意識。
ヴェノムの存在を明かす事もなく、ただただ最小限の問答、それが精一杯。
その答えの意味を、全く考える事すらせず、疑う事すらせず、素直に答えてしまう。
彼は、何一つとして考えていなかった。
———
(諏訪国…今、大和国が手に入れようとしている国…)
結び付けるのは、容易だった。
実態がどうであれ、因果と結果が出会ってしまった。
(先日、使者が向かった筈…無理な交渉をふっかけ、『脅し』も掛けた筈…)
人は、神は、真空を嫌う。
諏訪国にちょっかいをかけたと言う原因、この人物が此処で暴れたと言う結果。
唐突に現れた結果に対して、その真空を埋めるようにそれらしい原因が現れてしまった。
もう一度言おう。
結び付けるのは、容易だった。
(…復讐…諏訪国から手を引けと言う意思表示…か…)
脳震盪に錆び付いた思考の歯車、断定と言う名の潤滑油を差し込まれ、彼女の脳が動き出す。
たとえそれが間違った発進の仕方でも、止められる者は居なかった。
(諏訪国の主神は女の土着神の筈…となると、このシンという男は、諏訪国の最も強い『兵』だろう…)
仮に全面戦争で諏訪国を押し潰すとして、諏訪子一人ならどうにでもなるが、そこにこの男も加わるとなると、大和国もただでは済まない。
それを真に理解するのは、実際にシンと戦った神奈子だけだろう。
つまり、考えるべきは、どの様にして諏訪国との全面戦争を避けるか。
ここで、彼女に一つの疑問が生まれる。
これ程までの怪物が、なぜ今の今まで話題にも上がらなかったのか。
諏訪国に属しているなら、情報の一つくらいは入ってくる筈だ。
考えられるのは———
諏訪国に流れた野良の猛者、もしくは武者修行者?
行き詰まり始めた思案、答えを確かめる為に、彼女は口を開く。
「…お前の…目的は…?」
未だに彼は呆然と地面を見つめ、項垂れている。
質問から数秒、漸く彼は額を上げ、ボソリと呟いた。
「………ただ、強くなる」
繋がる、全てが。
予想が確信へと変わったその瞬間、神奈子は口を開く。
それよりも早く、彼が呟いた。
「…悪かった」
「っ!っ待て———」
その言葉の意味を理解する前に、神奈子の前からシンは掻き消える。
肌を刺す烈風と土煙で、漸く彼が逃げたのだと気付いた。
それに伴い、鈍化していた身体の感覚が戻っていく。
反対に頭は少しずつ、深海に落ちるようにその思考を止めていく。
彼が消えた風景には、ボロボロの民家や道路ばかり。
被害も対処も、考えるのは億劫だ。
「…っはぁ…」
身体の力を抜き、ゴロンと地面に寝転がる。
疲労が重い、空が遠い、まるで地面に磔になったようだ。
「どうしようかな…」
『黒い風』への対処、他の神々への対処、都の復興への対処。
頭に重くのしかかるそれらを忘れようと、彼女は静かに、手のひらで瞼を下ろした。
◆◆
「…ぁあ…チキショウ…クソ、クソ!」
<あんなのはお前らしくなかった!>
「分かってる!!」
走る、ひた走る、怒鳴り返す声は自分の耳にも届かない。
行きは踊る様に駆けていた、今は対照的に、逃げる様にひた走る。
自分が残した破壊の跡先から、一刻も早く距離を取りたかった。
あそこに居ると、駄目だ。
自己嫌悪に潰れてしまう。
喉がえずく。
高揚の残り香が、濃い香水の様に纏わりついている。
臭くて、香ばしくて、堪らない。
まるで自分の中に、知らない他人の感情が染み込んだまま残っているみたいだった
<…もしかしたら、シンビオートの欲望を増幅させる作用が———>
「うるせぇよ、そういう言い方すんな」
ヴェノムのせいだ。
そう言葉に為すのは、ゲロを吐くほど気持ちが悪い。
例えシンを慰める為の言葉だろうと、彼がヴェノムを責めれば、一生相棒を名乗ることは出来ない気がした。
なぜなら、そこにヴェノムの意思は無かったからだ。
彼は寝ていたのか、はたまたシンが深層心理に押さえ付けていたのか、理由は分からないが、あの行動は全てシンの自意識に依る物だった。
「…あれは紛れも無く俺だった、夢みたいで、楽しかったんだ」
殴る感触、砕ける感覚、そこに躊躇や恐れは無く、純朴に戦闘が楽しかった。
その姿は、その生き方は、あの『角』と同質。
憎い憎い妖怪達と同じ、その事実が脳を侵す、ハラワタが煮えくり返る。
夜の冷たい風が吹く。
冷たさに晒され、燃え滾る怒りはネバネバした嫌悪へ転化する。
自己嫌悪は急速に肥大化し、重く内臓に絡み付く、ひた走る足が徐々にそのスピードを落としていく。
「お前、言ったよな……」
声が掠れる。
言葉を選んでいる余裕はない。
「俺が後悔してる限り、依姫は俺を嫌わないって」
やがて、彼の足が止まる。
俯いた彼の影が、ゆらゆらと揺れる。
あの行動には、後悔の二文字は影も存在していなかった。
あるのは自己本位と享楽だけだった。
「もう、分からねぇよ…俺は、俺の事が」
<…>
「戦いは楽しいさ、血湧き踊る…だけどよ、最近の俺は、ずっとそればっかだ」
誰も居ない荒野に、影が伸びている。
やがて影は、膝を折り、小さく蹲った。
「何よりも、依姫よりもだ…どっちかに振り切れれば良いのによ、一丁前に悩んじまってる俺は、何のために生きているのか分からなくなる」
掌で覆ってみる。
この狂人の顔を。
嗤いも、苦しみも、正体も。
誰にも見られていない様で、苦悩を直視せずに済む様な気がして、ほんの少しだけ気が楽になる。
「なぁヴェノム、俺達は、ヴェノムだ、残虐な庇護者だ」
ヴェノムは何も答えない。
「じゃあ、
目覚めたのは森の中で、ただ一人。
目的も無く、記憶も無く。
保護者も居なければ、知人も居ない。
この戦闘欲求はどこから湧き出る物なのか、何故中途半端な情けを捨てられないのか。
何故、『適応』なんて力を持っているのか。
この世界に湧いて出てきた様に『
胸の辺りに虚脱感が走る、喉を掻きむしる様な不快感が迫り上がる、を それらを何とか吐き出そうと、彼は静かにヴェノムにぶつけた。
これまで気にもしなかったその問い、決して解くことの出来ない疑問を。
<………お前はお前だ>
返答があったのは、長い沈黙の後だった。
「…そうだな、悪い、イライラしてた」
きっと、ヴェノムに明確な答えを求めていた訳じゃない。
相棒に尋ね、答えてもらう、これは心を落ち着かせる儀式みたいな物だ。
彼の答えが響かなかった訳じゃない、間違っているとも思わない。
ただ、答えが返ってきても、汚泥が晴れることはない。
底に沈殿して、見かけが透き通っただけ。
またいつか、汚泥は舞い上がって視界を閉ざす。
ヴェノムも、それを理解していた。
膨大な知識を有するハイブマインドをもってしても、彼に掛ける最適な言葉なんて物は無い。
だから———
<シン、お前には心を休める時間が必要だ>
まずは休めと、そう語り掛けた。
<
ヴェノムの言葉が胸にスッと入ってくる。
相棒の言葉、それだけで心は落ち着いて行く。
息を吸う。
冷たい夜気が肺を満たす。
「そう、だな…俺も少し、疲れた」
ゆっくりと立ち上がり、彼は歩き出す。
足元はまだ覚束ないが、それでも前へ。
「良かったよ、お前が居て」
< どういたしまして >
ただ、側にいる相棒に感謝を示して。
ご拝読、ありがとうございますなのぜ。
やっぱヴェノムがヒロインだぜ!
登場人物紹介っている?
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やってくれ 必要だろ(いる)
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それは雑魚の思考だ(いらない)