『ウマ娘』。彼女たちは、走るために生まれてきた。ときに数奇で、ときに輝かしい歴史を持つ別世界の名前と共に生まれ、その魂を受け継いで走る。
この世界に生きるウマ娘の未来のレース結果は、まだ誰にもわからない。
彼女たちは走り続ける。瞳の先にあるゴールだけを目指して――
「――何がウマ娘だ。何が競走だ。何が…………」
惨めな幼少期の記憶が蘇る。ただえさえウマ娘というのは世間様には近寄りがたく思われているが、米国人との混血児でもあった彼女は周囲の人々にとってなおさら受け入れ難い存在であった。地元の学校ではほぼ村八分のような具合で、何が気に食わないのか『修正』しようとしてくる上級生もいたし、それを返り討ちにすると教頭が飛んできて必ず叱咤を受けるというような生活を送った。この小太りの男は毎朝のように愛国論をつらつらと述べこそしたが決して教育者とは言えず、ただ彼自身が普段から腹に溜め込んでいた醜い感情の発露に過ぎなかったことは傍目にも明らかだったし、陰ながら哀れみの目を向けたいくらかの教員たちもみな波風を立てまいとして、結局そうした顔ぶれが高等小学校へ行ってしまうまで彼女は耐え忍ぶほかなかった。
環境さえ違えば何かが変わるという淡い望みもやはり打ち砕かれた。逃げるように進学した競走学校では表立ってそういう扱いを受けることこそなくなったが、ウマ娘であることに対する疎外が消えただけで、彼女の瞳に輝く琥珀は依然として奇異の目に晒され続けたのである。
そんな彼女に走ることを教えたのはトレーナーだった。実際彼女には才能があったし、同期の誰も彼もを追い越して鼻を明かすのが気持ちよかった。今まで薄ら笑みと共に向けられていた黒い眼が大きく見開かれるのが痛快だった。今はまだ狭い練習用コースで僅かな自尊心を満たすだけだが、じきに自分は何千何万という観衆の前でターフを駆け抜け、今まで私を蔑んだ者、排斥した全ての人間を見返すのだ。自分で考えた勝負服のデザインを見せ、「少し気が早いんじゃないか」と言うトレーナーと笑いあった日々は彼女にとって唯一の幸せだった。
「それがどうだ。私が実際に着てるのは、勝負服どころか死装束じゃないか」
巨木の洞で身を横たえた彼女は、ほとんど生ける屍である。飢えと渇き、熱病によって痩せこけた頬、ラテライトの赤い泥にまみれたカーキ色の軍服、袖を捲くった腕に残る蛭の噛み跡。胸元についた薄汚い黄緑の兵科章と帽子の隙間から垂れた大きな耳さえなければ、それがウマ娘だということすら余所目には判らないだろう。何より彼女は全くの生きる希望を持たず、そればかりか希死念慮さえ抱いて鬱蒼としたジャングルを彷徨っていた。尤も衰弱しきった身体では一時間歩き続けることも敵わず、ほとんどを今のように地べたにへたり込んだまま過ごしていたのだが。
ヒトでないから蔑ろにされる。日本人ではないから恐れられる。だからといって見たこともないもう一つの祖国、しかも敵国にアイデンティティを求めることなどどうすればできようか? 既に数日前――朦朧とした中ではっきりしないが、確か三日前だったはずだ――の彼女は若い米軍兵たちの命を奪い、また彼女自身も死に絶えようとしていた。
尻尾に痒みを覚えて下半身の方を見遣ると、腰にひとつだけぶら下げていた手榴弾が目につく。本隊と分かれる直前、幾つかの装備と一緒に
高木の生い茂る葉たちの間から漏れていた陽の光が消え、元から薄暗かった洞穴の中は自分の身体がそこにあることさえ認められなくなった。夜がやって来たのだ。
シッソウは、ゆっくりと瞼を閉じた。