世界の天秤~侯爵家の三男、なぜか侯爵令嬢に転生する 作:梅杉
「リナーリアお嬢様、お帰りなさいませ」
青銀の髪を揺らしながら馬車から降りた少女に向け、スミソニアンは深々と頭を下げる。
「出迎えありがとうございます。まだ少し時間があるので、お父様やお母様とお話がしたいのですが…」
「承知いたしました。すぐご案内いたします」
たおやかに微笑む少女に、背筋を正して返事をした。
この美しい少女に仕えられる自分は幸せ者であると、スミソニアンは疑っていない。
スミソニアンはジャローシス侯爵家に仕える執事長である。
この家の執事や使用人のすべてを取り仕切る立場だ。父から受け継ぎ執事長となったのがおよそ8年前、執事としての修行を始めたのはさらにその20年は前になる。
ジャローシス侯爵家は使用人にとって非常に働きやすい家であるという事は、早いうちから理解していた。
侯爵家としてはかなり新しく家格は低いが、その分古い因習に縛られる所がない。領民と目線が近く、親身だ。
当主は代々鷹揚な人物が多く、特に今代のアタカマスは大らかで度量が広い。
使用人に対してもきつく当たるような事はなく常に寛大だ。
若い頃はそののんき過ぎる気質が少々心配されたりもしていたのだが、今ではすっかり侯爵としての貫禄を身に着けている。
また、この家は魔術師系貴族にしては珍しく商才を持つ者が多いために裕福だ。
ジャローシス領は王都からは遠く離れた田舎だが、火山を持つという特色があり、他の土地にはない珍しい植物や鉱物などを産出する。それらは王都で高値で売れるのだ。
財政に余裕があるので、他の有力な貴族家に殊更媚びへつらう必要もない。
それどころか金を貸している家がいくつもあり、しかも利息が安いので、貴族の間では密かに(借金をしている事など大っぴらにしたくないのであくまで密かに)慕われているという。おかげで権力争いなども上手く避けていられるらしい。
そのような恵まれた環境で育てられた子供たちもまた、優秀で心優しい。
次期当主であるラズライトは既に部下や領民から大きな支持を得ているし、次男のティロライトは学院卒業後にブロシャン領で魔術師修業をする予定になっている。
中でも末娘のリナーリアは、スミソニアンにとって特別な存在だ。
母のベルチェによく似た美貌を持つ少女の成長を、スミソニアンは少々複雑な気持ちで見守っている。
当時はまだピアースという姓だったベルチェが、アタカマスに招待されて初めてジャローシス侯爵家の屋敷を訪れたのは、スミソニアンがまだ執事見習いの少年だった時だ。
その清楚な美しさにスミソニアンは心臓を撃ち抜かれたかのような衝撃を受けた。
貴族の女性には美人が多いが、彼女の美貌はその中でも群を抜いている。
流れるような青銀の髪も、楚々とした仕草も、小鳥が囀るような声音も、全てが美しい。
有り体に言えば一目惚れであった。
後日、アタカマスとベルチェは正式に婚約する事になった。
ピアース家はよくある魔術師系貴族、つまり領地が狭くあまり金のない貴族だった。有力な後ろ盾もおらず、ジャローシス家にとっては婚姻による旨味はほとんどない。
アタカマス側から熱心にアタックを掛けたらしいが、ベルチェもアタカマスに心を寄せている様子だった。
要するに、単純な恋愛結婚である。
若きスミソニアンは数年にわたる長い葛藤の末にようやくそれを受け入れた。
相手は身分違いの年上の女性、しかも主家の跡取り息子の婚約者なのだから諦める以外の選択肢は初めから無かったのだが、なかなか感情がついて行かなかったのだ。
心の傷は執事修業や昔から好きだった紅茶の勉強に打ち込む事で癒やした。
ラズライトが生まれた時は心からそれを祝福できたし、スミソニアン自身もまたジャローシス家に仕える騎士の娘と結婚し子供をもうけた。
そしてリナーリアが生まれ、スミソニアンは内心で歓喜した。
母譲りの青銀の髪。蒼い瞳。
間違いなくこの子は母親に似て美人になると、猿のように真っ赤な顔で泣く赤ん坊を見てスミソニアンは理由もなく確信した。
ならば執事としてやるべき事は一つ。この子を立派な
スミソニアンの期待通り、リナーリアは元気に可愛らしく育ち始めた。
まだ幼いがとても愛らしい。目に入れても痛くないとはこの事だ。
少々やんちゃな所はあるが、聡明で素直だ。好奇心旺盛で、特に植物が好きらしい。
将来はきっと花を愛するたおやかな淑女になるだろう。
ところが10歳を越えた辺り、具体的には第一王子と出会った辺りから風向きが変わってきた。
明らかに様子がおかしい。
妙に大人びたというか、よそよそしい振る舞いをするようになった。前はあんなに懐いてくれていたのに。
いや、決して嫌われたとかではないのだが、どうも少し距離感が遠くなった気がする。
言葉遣いも少々おかしいし、やけに難しい魔導書に手を出したり、何やら真剣に考え込んでいる事も多い。
アタカマスやベルチェにもそれとなくその事を訴えたのだが、「あの子もそろそろお年頃なのよ~」という実にのんびりした返事が返ってきた。
この家の人々は、良くも悪くも大変のんきなのである。
それでも植物好きな所は変わらないらしく、よく庭に出て花を眺めているのでそこは安心していたのだが、おたまじゃくしやらカエルやらを見てニコニコしているのを見て驚いた。
前は虫やら魚やらカエルやらの生き物を怖がる素振りだったのに。
尋ねてみると、「内緒ですけど」と言ってスミソニアンの耳元に唇を寄せてこう言った。
「王子殿下は、生き物の中でもカエルが特別お好きなんですよ。もちろん、私もです」
その時のスミソニアンの衝撃は筆舌に尽くしがたい。
それはつまり、王子の影響を受けて苦手を克服したということではないか。
そうこうしている内に、リナーリアと王子は友人になり、頻繁に行き来して会うようになった。
王子もまたリナーリアを気に入ったらしい。あまり表情が変わらないので分かりにくいが、スミソニアンには分かる。
そもそもリナーリアはこんなに可愛らしいのだから、気に入らないはずがないのである。
2年が経ち、12歳を越える頃には既に「王子と最も親しい令嬢」として貴族の間に知られるようになってしまった。
スミソニアンは複雑だった。
彼女の器量ならば当然だとは思うが、少々早すぎはしないだろうか。そういうのはもっと後になってからだと思っていた。
いずれは家を出て嫁ぐ事は分かっているが、せめてあと10年は嫁がずここにいて欲しい。
そう思っていたらうっかり口に出てしまっていたらしく、リナーリア付きの使用人のコーネルに「心底気持ち悪い」と言わんばかりの目で見られてしまった。
心外である。自分はただリナーリアの将来を案じているだけだというのに。
同じくそれを聞いていたらしいラズライトには、後で肩を叩かれ「分かるよ。僕も同じ気持ちだ」と言われた。
やはり彼は良き主になれる人間だ。
できればそういう事は後からでなく、その場で言って欲しかったと思ったが。
そもそも第一王子妃になどなったらおいそれと会えなくなってしまうではないか。他の貴族とは格が違う。未来の王妃なのだ。
彼女はそれにふさわしい美貌と教養とを備えていると分かっていても簡単には納得できない。
ベルチェがアタカマスの婚約者となった時の、頭では理解しつつも感情がついて行かないあの感覚が蘇る。
年を取りずいぶん丸くなったつもりでいたが、人間そう簡単に変われるものではないらしい。
…これもいずれは時が解決してくれるのだろうか。
そう思いつつさらに数年が経ち、リナーリアは学院へと入学した。
学院では多くの男子生徒から想いを寄せられているらしい。例えば、あのパイロープ公爵家の嫡男だとか。
当然の事だとは思いつつ、複雑な気持ちが抑えられない。
そんなスミソニアンが密かに共感を覚えている少年が一人いる。スピネルという名の、第一王子の従者だ。
もはや少年を脱し青年となりつつある彼だが、昔からリナーリアとは気安い仲だ。
あまりにざっくばらんなその態度に最初は少々怒りを覚えたが、すぐに気が付いた。この少年は自分と同じ、主の想い人に心を寄せる葛藤を抱えているのだと。
そもそも、あの美しい少女の近くにいて心惹かれない男がいる訳がないのである。
彼がかなりの紅茶好きであるらしい事も、スミソニアンにとっては好感度が高い。
スミソニアンは紅茶を淹れる腕前に関して、密かに絶対の自信を持っている。数十年にわたる研鑽は伊達ではない。
リナーリアは自らお茶会を開くような事を滅多にしないので、存分に腕を振るう機会がない事を少々残念に思っていたのだが、この従者の少年はわずか一口飲んだだけでスミソニアンの腕に気が付いたらしい。
さらに数口でどこの産地の茶葉かも当ててみせ、それ以来彼には一目置いているのだ。
いっそ彼がお嬢様を娶ってくれないだろうか…と少しだけ思ったが、どうも彼にその気はないらしい。
リナーリアも、親しくはあるが彼をそういう対象とは見ていないようだ。彼女の気持ちが最も大事なので仕方ない。
ある時、ガーデンテーブルに座ったままぼんやりと王子と彼女の姿を眺めているスピネルに声をかけてみた事がある。
「分かりますよ。私も若い時はそうでしたから」
そう言いながら彼のカップに取っておきの紅茶を注ぐと、彼は怪訝な顔をしつつそれを飲み、それから盛大に顔をひきつらせてこちらを見た。
絶対に違うとでも言いたげな顔だが、仕方がない。若いうちは己の感情を受け入れがたいものなのだ。
そして、年が明けリナーリアは16歳になった。
成長してますます美しくなった彼女は、相変わらず王子と親しい。
このまま受け入れるべきなのだろうと思い始めていたスミソニアンだが、リナーリアが同級生から求婚されたと聞いて目を剥いた。
なんと、むさ苦しい男どもが列をなして参加するという武芸大会にリナーリアもまた参加し、そこで負けたら婚約する約束らしい。
どこからそんな馬の骨が生えてきたのか、王子は一体何をやっているのか。
スミソニアンは一瞬で考えを変え憤ったが、驚いたことにリナーリアは優勝を成し遂げ帰ってきてしまった。
スミソニアンは大いに安心し、それから呆れ返った。
周りの男たちは一体何をやっているのか。
彼女が優秀な魔術師である事は分かるが、あのように可憐でか弱い少女に負けるなど、そんな事があるだろうか。
あの王子と従者も、リナーリア相手に正面から敗北したらしい。情けないにも程がある。
…やはり、彼女にふさわしい男などそういるものではない。
少なくとも今は認められるものではない。王子や従者ですら例外ではない。全員顔を洗って出直してきてもらう。
リナーリアはあと5年、いややはり10年はこの家にいるべきだ。
スミソニアンは強くそう思った。
重い扉をノックし、「失礼いたします」と言って室内に入ったスミソニアンは、談笑していた主人やリナーリアたちに折り目正しく礼をした。
「お嬢様。先生がご到着なさいました」
「分かりました。すぐに広間に案内をお願いします。…お父様、お母様、また後ほど」
「ああ」
「がんばってね」
励ましの言葉をかける両親に、リナーリアは軽く会釈をしてから扉へと向かった。横に控えているスミソニアンに話しかける。
「私は先に広間に行きますので、ティロライトお兄様を呼んできて下さいますか?」
「承知いたしました」
リナーリアが今日ジャローシス屋敷に来ているのは、近くに迫った芸術発表会の練習のためだ。
彼女のクラスは合唱をやるのだが、その中でも独唱部分を任されたらしく、重点的に練習するためにわざわざ歌の教師を招く事にしたのだという。何事にも真面目な彼女らしい。ティロライトには練習の伴奏を頼むつもりのようだ。
リナーリアは声も美しいので、独唱を担当するのも当然だろう。武芸大会などより、こちらの方がよほど似合っているとスミソニアンは思う。
武芸大会は見に行けなかったが、芸術発表会はスミソニアンも見に行けそうだ。
血涙を流さんばかりの勢いで見に行きたいと訴えたら、主人が連れていくと約束してくれたのだ。やや腰が引けているように見えたのは気のせいだと思おう。
…何にせよ、とにかく楽しみだ。
この家の執事として完璧に勤め上げると共に、彼女の成長を見守ることこそ、スミソニアンの生きがいなのである。
第一話の前に、簡易版の登場人物紹介を入れました。
こいつ誰だっけ…というキャラが出てきた時にどうぞ。