世界の天秤~侯爵家の三男、なぜか侯爵令嬢に転生する 作:梅杉
夏休みのある日、エスメラルドはスピネルを伴い、クラスメイトのニッケルの家であるペクロラス伯爵邸を訪れた。
以前にここを訪れたのは1年以上前の事だ。
ニッケルから父母の不和で悩んでいると聞いたのがきっかけで、それを解決したいと思ったエスメラルドは、伯爵夫人の描いた絵を見に行くという名目で屋敷を訪れ伯爵夫妻に会った。
そして時間をかけて二人から話を聞き、それぞれの本音を引き出して、離婚寸前まで行っていた二人をなんとか歩み寄らせる事に成功したのだ。
その件でエスメラルドは、ニッケルや伯爵夫妻からずいぶんと感謝された。
特に伯爵夫妻からは「是非お礼をしたい」と遠慮がちに何度か打診があったのだが、エスメラルド自身が忙しいのと、まだしばらく様子見をするべきだと思ったのとで、今までは伯爵夫妻と個人的に会う機会を作って来なかった。
だが幸い、1年経っても問題が再燃しそうな気配はないそうだ。
あれ以来親しくなったニッケルにも「良かったらまた屋敷に来て欲しい」と言われたので、今回夏休みを利用して訪ねる事にした。
「王子殿下、よくお越しくださいました!!」
ニッケルの父のペクロラス伯爵は相変わらず低姿勢だが、前回訪れた時よりは落ち着いた雰囲気だ。
伯爵夫人は愛想良く笑っていて、その姿は何だか以前より若返ったように見える。顔のやつれが改善されたからだろう。
そして、夫人のドレスの後ろからは小さな少女が顔を覗かせていた。ニッケルの妹だ。
夫人に「テルル、ご挨拶なさい」と促され、おずおずと前に出て少々緊張した様子でカーテシーをする。
「ようこそいらっしゃいました」
人見知りで引っ込み思案な性格だという彼女とは、前回ほとんど口を利かなかった。
スピネルとはお茶を飲んだりしていたらしいが、エスメラルドとは帰り際にちらりと顔を合わせただけだ。
近頃はだいぶ社交的になったとニッケルが嬉しそうに話していたが、どうやら本当のようだ。
彼女の人見知りもニッケルの悩みの一つだったので、良かったなと思う。
そのテルルという名の小さな少女は、顔を上げるとエスメラルドの斜め後ろに立つスピネルを見てぽっと頬を染めた。
彼女は幼いながらにスピネルに憧れているのだという。
ニッケルはそれを少々複雑に思っているらしいが、初々しいその様子は微笑ましい。
お茶を飲みながら、伯爵一家としばし雑談をした。
夫人が以前からペクロラス領の鉱山で探していた新しい顔料は、うまく原料になりそうなものが見つかったという。
実は鉱山近くには様々な色をした土が積み重なって層となっている場所があり、鉱夫たちにはその存在を知られていたのだが、特に役に立たないものとして長年放置されていた。
しかし伯爵の許可を得て堂々と顔料探しをするようになった事で、これはもしかして使えるのではないか?という話になったのだ。
それから画家などを呼んで調べてもらったところ、この土は加工すれば十分に顔料として使えるものだと分かった。
特に優れているのは、原料となる土が大量にあり、入手も容易いという点だ。
現在流通している顔料には鉱物を原料とする高価な物も多いので、安価な新顔料として市場に売り出せば必ず人気が出るだろうとの事だった。
今は工房を作り、その土で顔料の試作をしているところらしい。
「今まではただの変わった色の土だと思っていたものが儲けの種になると分かり、鉱夫たちは喜んで作業をしております」
伯爵はほくほくとした顔だ。夫人も嬉しそうにしていて、二人の間に以前のようなギスギスとした雰囲気は感じない。
これならば確かにもう、離婚の心配などないだろう。
「実は、その試作品を使って母と俺が描いた絵画があるんす。見てもらえますか?」
ニッケルに言われ、エスメラルドはうなずいた。
そうして披露されたのは、池の畔で青い葉の上にたたずむカエルの絵だった。
背景の少しくすんだ感じがしとしとと降る霧雨を思わせるが、手前に描かれたカエルははっきりと鮮やかで目を引く。
「これ、俺と母上の合作なんす。背景はだいたい母上で、カエルは俺が描きました」
「ほう…」
エスメラルドは感心してまじまじと見入った。
「良い絵だ。カエルも背景の池も、初夏に降る雨の涼しげな雰囲気がよく出ている」
「ありがとうございます!」
ニッケルも夫人も、喜色を浮かべて頭を下げた。
「…あの、王子殿下。よろしければ、この絵を貰っていただけませんか?」
そう言ったのは伯爵夫人だ。
「拙い素人絵ではありますが…。もしよろしければ、ぜひ…」
「…良いのか?」
ニッケルの方を見て確認すると、ニッケルは大きくうなずいた。
「貰っていただけると嬉しいっす」
「…ありがとう。なら、遠慮なく貰っておく」
王子という立場上、あまり気軽に贈り物を受け取らないよう周りの者からは言われているが、これは個人が趣味で描いた絵なのだ。受け取っても特に問題はないだろう。
何より、エスメラルドは一目でこの絵が気に入っていた。色彩のコントラストも美しいが、題材がカエルだというのが特に良い。
部屋に飾るのも良いかもしれないなと考える。
「良かったっす。殿下にはどうしても何かお礼がしたかったんで…」
ニッケルはほっとしたように笑った。
「実はリナーリアさんに、殿下はどんな絵が好きかって相談したんすよ。そしたら、きっとカエルの絵が好きですよって教えてくれて」
「そうなのか」
ニッケルはクラスメイトであるリナーリアとも仲が良い。一見共通点はなさそうに見えるが、どうやら気が合う部分があるようなのだ。
彼女は素直で裏表のない人間を好むようなので、そういう点でもニッケルには好感を持っているのかもしれない。
ニッケルはいかにも素直で純朴な少年で、エスメラルドも好ましい友人だと思っている。
「このカエルも、リナーリアさんから貰った絵筆で仕上げたものなんすよ」
「…リナーリアから?」
「あっ、はい。前、リナーリアさんにレポート用に使う絵を描いてくれって頼まれた事があって。そのお礼にって貰ったんす」
ニッケルはぱたぱたと壁際に走り、そこの棚から一本の絵筆を持って戻ってきた。
「これっす!!」
嬉しそうに掲げられたそれは、真っ青に塗られた軸を持つ絵筆だ。
「へえ。立派な筆だな」
横のスピネルが呟く。
「はい!この筆を持つとなんか、創作意欲が湧いて来るんす。やる気が出るって言うか…」
「…ほう」
エスメラルドは努めて平静な表情で相槌を打った。
自分は彼女から贈り物を貰った事などない。いや、お菓子なら貰った事があるが、後に残るようなものは貰った事がない。
別にだからどうだという訳ではない。
ないのだが、そうかニッケルは彼女から筆を貰ったのか、と思う。
「…に、ニッケル!」
「え?何?」
伯爵夫人がはっとした顔になって少し慌てるが、ニッケルはきょとんとした。
それからすぐに何かを察したらしく、母と同じ表情でおろおろし始める。
「えっ…えっ?だって、殿下もリナーリアさんから何かプレゼントされた事くらいあるっすよね?」
「…ない」
「え…」
ニッケルが言葉を失う。そんなまさか、と顔に書いてある。
「いや、あるだろ。ほら、前に何とかいう変わったお菓子を貰った事あっただろ」
「あれはお前も貰っていただろう」
スピネルに言われ、エスメラルドは少しムスっとしながら答える。
「俺のとは明らかに差があったじゃねーか。しかも俺なんか3倍返しを要求されたんだぞ」
「俺はむしろお返しがしたかった…」
「面倒くせえな…」
呆れたように言われ、ぷいっと目を逸らす。
「…あの、でもほら、俺のはあくまでレポート手伝ったお礼として貰った物なんで…」
気まずそうな顔をするニッケルを見て、エスメラルドは少し反省した。彼は何も悪くないのだ。
「すまん。つまらん事を気にした」
「それにあいつ、そのへん妙に物わかり良いっつーか、弁えてるからなあ。殿下の立場考えて遠慮してんだろ、きっと」
スピネルの言う事も分かる。
確かに彼女は、王子の立場だとか王宮でのしきたりだとか、そういうものに対して昔から理解が深い。
あまり物をあげたり貰ったりするとまずいという事も、きっと分かっているのだろう。
以前プレゼントした髪飾りも、時々身に着けてくれているのを見かけるのだが、エスメラルドから貰ったとは誰にも話していないようだ。
そういう所も彼女と一緒にいて気楽に感じる理由の一つなのだが、もう少しわがままを言ってくれても良いのにと時々思う。
…自分は多分、もっと彼女に振り回されたいのだ。