世界の天秤~侯爵家の三男、なぜか侯爵令嬢に転生する 作:梅杉
「お前には手を出すなと言われているが、なぜ僕がそれに従わなきゃならないんだ?僕は王になるんだぞ」
「…ち、近寄らないでください」
私の言葉を無視し、オットレはゆっくりこちらに近付いてくる。
「お前をめちゃくちゃにしてやったら、エスメラルドや赤毛野郎はどんな顔をするだろうな?」
「……!」
冷たい汗が背中を流れる。焦りがざわざわと全身に広がっていく。
「僕は父上と同じ失敗はしない。まあ、第二夫人くらいにはしてやるさ。お前は見た目だけは良いからな」
手首を掴まれる。必死に振りほどこうとしたが、びくともしない。 それどころか、もう片方の手も掴まれる。
腕力では敵わない。魔術も使えない。
…怖い。
―――よせ!
誰かの声が聴こえて、はっと目を開けた。
オットレの顔が見える。
両手で首を絞められ、白目を剥いている。
「…え?」
びっくりして手を引っ込めた。
オットレの身体が床に落ち、「ぐぇっ」とかいう呻き声が上がる。
「…え…」
両腕が軋んで、関節がひどく痛む。ぼんやりと自分の両手を見る。
…オットレの首を絞めて、宙に持ち上げていた?
…私が?
その瞬間ふいに人の気配を感じ、横を見た。背の高い、見知らぬ男が立っている。
「だ、誰ですか!?」
黒髪に赤い瞳。どこかで見覚えがある気もするが分からない。
焦る私をじっと見つめると、男は無言のまますうっとその場からかき消えた。
「…!?…!?」
慌てて辺りを見回すが、男の姿はどこにもなかった。
見飽きた石壁の狭い部屋の中には、私と倒れたオットレしかいない。
ただ、胸のあたりがやけに熱い。
そこに触れると硬い感触があって、服の下で流星の護符が熱を持っているのだと分かった。
「……」
あまりに訳の分からない状況に混乱し、頭痛がする。
一体何だこれは。
呆然と見下ろした先はやはりオットレがいて、それで手首を掴まれた時の感触を思い出した。
瞬間、何があったのかを理解し、慌てて自分の身体を確認する。
服はちゃんと着ている。腕と頭が痛い以外おかしな所はない。…何もされていない。
思わずほっと安堵し、直後に怒りと恥辱で頭の中が沸騰した。
…オットレ。
この野郎、よくも。なんて事を。ぎりぎりと歯を食いしばり、両手で顔を覆う。
畜生。悔しい。こんな奴に、一瞬でも恐怖してしまった自分がたまらなく悔しく、恥ずかしい。畜生。
許さない。絶対に許さない。未遂だからって許せるものか。
殺してやりたい。
…いや、殺せば良いのではないか?
そう思い、顔を上げた。
白目を剥いたまま倒れているオットレを静かに見下ろす。
今なら殺せる。もう一度首に手をかけ、全身の体重を乗せれば、私の力でも確実に殺せる。
そうだ。こんな奴生かしておく必要はない。こいつはどうせ殿下の敵だ。
今、ここで殺しておいた方がいい。
ゆっくりと手を伸ばす。
オットレの喉元に手をかけようとして、何故か急に殿下の顔が浮かんだ。
思わず手を止める。
「……」
…違う。そうじゃない。
オットレを殺しても何にもならない。
こいつを殺した所で、塔を降りれば兵士がいる。魔術が使えない私はすぐに捕まるだろう。下手をすれば殺されるかもしれない。
そして息子を殺されたフェルグソンは確実に激怒する。どんな行動に出るか分からない。
殿下や私を守ろうとして、フェルグソンに取り入っていたスピネルの努力は無駄になる。
こんな奴は心底殺してやりたいが、今殺してはだめだ。
今するべき事はそんな事じゃない。
深く呼吸をして、気持ちを落ち着ける。
気絶したオットレの傍にしゃがみ込み、その腰に下がった短剣を抜いた。
貴族なら誰しも護身用の武器の一つや二つ持ち歩いていると知っているのに、その事を忘れていたのはやはり、頭に血が上っていたからだろう。
その途端、何かが床に落ちる大きな音がして顔を上げた。デーナだ。扉のところに立っている。
足元にたらいが転がり、水がぶちまけられている。大きな音はこれか。身体を拭くための水を持ってきた所だったらしい。
「……!」
デーナは顔色を変え、私へと駆け寄った。短剣を持った手を無理やり抑え込まれそうになる。
「デーナ、お願いです、離して…!」
私にはこの短剣が必要なのだ。しかし彼女を傷付けたくはない。
何とか説得しようとし、彼女が必死の目で私を見ている事に気が付いた。
デーナは私を捕らえようとしているのではない。
私の身を案じ、止めようとしているのだ。
「…デーナ、大丈夫です。私はこれで死ぬつもりはないし、誰かを傷付ける気もありません。逃げ出したりもしません」
できる限り冷静に、優しい声で語りかける。
「本当です。嘘ではありません。だから、この手を離して下さい。…お願いです」
真剣な目で見つめると、デーナはしばらく私を見つめ返していたが、やがてそっと手を離した。
「…ありがとう、デーナ。もう一つお願いがあるんです。貴女の鉛筆を、少しだけ貸して下さいませんか」
彼女は筆談に使う鉛筆をいつも懐に持っているはずだ。私の頼みに、デーナが困惑した顔になる。
「必ず、すぐに返します」
重ねてそう言うと、デーナは恐る恐る鉛筆を取り出した。
手渡された鉛筆を握り締め、デーナに「ありがとう」と礼を言う。それから背後の小さなテーブルを振り返った。
小さな円形の、木製のテーブル。魔法陣を描くには丁度いい。
テーブルの上に素早く鉛筆を走らせていく。いつオットレが目を覚ますか分からない。
なるべく急いで、しかし正確に描かなければ。失敗は絶対にできない。
「…できた…」
やがて一つの魔法陣が完成した。
「これ、ありがとうございました」
鉛筆をデーナに返す。後は魔法陣に魔力を込めるだけだ。
でも、今の私は魔術封じの首輪のせいで魔力を外に出せない。一旦ベッドの上に置いておいた短剣を手に取る。
左の手のひらに刃を当てると、思い切ってそれを引いた。
「……!」
ぼたぼたと血が滴り、デーナが息を呑むのが分かった。
人間の体液、特に血液には魔力が多く含まれている。これを魔法陣に吸収させれば、きっと発動できるはず。
滴り続ける血でテーブル全体が赤く染まった所で、ようやく魔法陣が光を発した。
じわじわと血が魔法陣に吸収され、光が中央に集まっていく。
…成功だ。
伝えられるのはほんの一言。ちゃんと届くかどうかも怪しい。
でも、
床から手ぬぐいを拾い上げる。身体を拭くためにデーナが持ってきたものだ。溢れたたらいの水で濡れているそれを使って、無事な右手でごしごしとテーブルを擦る。
血で汚れてはいるが、魔法陣の痕跡はほとんど消えた。
未だに血が滴り続ける左手のひらを握り締める。物凄く痛い。早く血を止めた方がいい。
蒼白な顔で立ち尽くしたままのデーナの目を見つめる。
「…これから、人を呼びます。今見た事は、どうか誰にも言わないで下さい」
デーナはこくこくとうなずいてくれた。
少しだけ安心し、大きく息を吸い込む。
…そして私は、思い切り悲鳴を上げた。
慌ててやって来た兵士の前で、私は錯乱したふりをして暴れた。
手の傷は、錯乱した際に自分で傷付けたように装った。おかげでますます血が出たが、すぐに取り押さえられ、医術師を呼ばれ傷を塞がれた。
死ぬような傷ではないと分かっていたが、思っていた以上に出血したらしく頭がぼんやりとした。傷もとても痛い。
オットレはどこかに運ばれて行った。首に結構はっきり手の跡がついていたが、多分命に別条はないだろう。
私の治療に当たった医術師の前では、「もう嫌だ、死ぬ、こんな目に遭うくらいなら舌を噛んで自害する」と繰り返し訴えておいた。
フェルグソンたちにとっては、私はまだ生かしておく価値があるはず。これでもう、オットレのようなクソ野郎が近付いてくる事はないだろう。
本当にぶん殴ってぶち殺してやりたいが今は我慢だ。
いくつもの不可解な出来事については、一旦棚上げする事にした。
いつの間にか妙な怪力を発揮してオットレを締め上げていた事とか、見知らぬ黒髪の男とか。
いくら考えても全く分かりそうにない。
…きっと助けは来るはず。
殿下を、先生を、皆を信じろ。
これが必ず、起死回生の一手になるはずなのだ。