世界の天秤~侯爵家の三男、なぜか侯爵令嬢に転生する 作:梅杉
「…怪我はないか?」
やがてそっと身体を離した殿下が、私の顔を覗き込んできた。
「は、はい。何ともありません。殿下は?」
「俺も大丈夫だ。リナーリア…本当に良かった」
優しい手が手袋越しに私の頬に触れる。殿下の顔を見るのは、一体何日ぶりだろう。
一度は堪えたはずの涙が滲みそうになって、必死でぐっと我慢する。
「素直に泣いたって良いんだぞ?」
横からからかうような声をかけて来たのはスピネルだ。いつの間に拾ったのか、手には王錫を持っている。
「な…泣きませんよ!」
ちょっと目が潤んでしまっただけで泣いてない。泣いてたまるか。
殿下が安心したような顔でスピネルに笑いかける。
「お前も無事で良かった」
「当然だろ?…まあ、かなり苦労したけどな…。来てくれてありがとう、殿下」
スピネルはくしゃっと笑って言った。
…改めて周囲を見回し、助けに来てくれた騎士や魔術師たちを見る。
彼らは広間の消火をしたり、あちこち行き交ったり連絡を取ったりと忙しなくしている。怪我人はいるが、どうやら死者はいないようだ。ほっと安心する。
「でもどうして、殿下が自ら…?」
殿下の性格なら助けに行きたいと言い出すだろうと容易に想像できるが、よく皆が許したものだ。
すると、すぐ横で話を聞いていた一人の騎士が苦笑する。近衛騎士団長のスタナムだ。
「あのような啖呵を切られては、誰しも従いたくなるというものです」
「啖呵を?」
「ああ。俺の思いを告げたら、皆分かってくれた。…だが、もっと早く助けたかった。遅くなってすまない」
「むしろ来るの早かっただろ。もっと時間がかかると思って覚悟してたのに」
スピネルはそう言いつつもほっとした顔だ。平気なふりをしていても、やはり内心では相当きつかったのだろう。
「しかし、さっきの凄かったな。殿下なら避けるとは思ったが、まさか空中で剣を掴み取ると思わなかった」
「そうです!凄い!背中に目がついてるみたいでした!」
目の前で見てもなお信じられない。後ろから飛んでくる剣を振り返らずに掴むなんて。スピネルも私と同じ気持ちらしい。
「自分でも何故あんな事ができたのか分からない。スピネルなら必ず何とかするだろうとは思ったんだが、リナーリアの声が聴こえたら身体が勝手に動いて、気が付いた時には剣を掴んでいた。…しかし、もう一度やれと言われても無理だろうな」
殿下自身も驚いているようだ。どこか不思議そうに自分の手のひらを見つめている。
その時、「お~い!リナーリアく~ん!」という懐かしいのんびり声が聞こえてきた。
「セナルモント先生!」
杖を持ってよたよたと走ってきたのは、ボサボサ頭の王宮魔術師だ。
「先生も来てくれていたんですか」
「大事な弟子のためだからねえ、当然だよ!しかし、無事で良かったなあ…もお~、見つけるのに本当苦労したんだよお」
私の姿を見て安堵の表情で笑う先生を、スタナムが微妙な顔で見る。
「どうかしましたか?」
「いえ…喋り方が…ずいぶん変わったなと…」
「こっちが素ですよお。いやあ、ずっと真面目にしていたので、実に疲れました」
「はあ…」
スタナムはどうもギャップに驚いているらしい。
そう言えば先生、普段はゆるゆるだけど、きちんとした場に出る時はちゃんと王宮魔術師らしい態度になるもんな。
「リナーリア、セナルモントはとても心配して、誰よりも頑張って君を探していたんだ。今日もずいぶん助けられた」
「そうなんですか?」
「僕は戦うのは苦手だから、索敵とか隠蔽魔術の担当だったけどねえ」
なんと、騎士たちと共に城内に入っていただけで驚きだ。先生は探知魔術を使っての事前や事後調査にはよく呼ばれるが、戦闘任務について来る事はほとんどないというのに。
見るからに疲れた様子だし、大変だったんだろうな…。またお世話になってしまった。
「先生…、ありがとうございます。本当に、ご心配をおかけしました」
「いやいや。いいんだよ。それに犯人がすぐ分かったのは、リナーリア君のお手柄だし」
「…お前が?」
先生の言葉に、スピネルがちょっと目を丸くして私を見る。それに「ああ」と答えたのは殿下だ。
「リナーリアが放った使い魔が俺の所に来たんだ。おかげで秘宝が盗まれている事が分かったし、すぐにオットレやフェルグソンに辿り着けた。…そうだ、傷は大丈夫なのか?あれは君の血を使った魔術だと聞いたが」
「血!?」
私が怪我をした事は知らなかったのか、スピネルがぎょっとする。
「あっ、大丈夫です。ちょっと短剣でブシャっとやっただけですし、すぐ治療してもらったので」
「短剣でブシャっと!?」
今度は殿下が叫んだ。
「いえ、あの、ちょびっとです。本当にちょびっと手のひらを切っただけです。傷痕も残らないみたいですし」
ひらひらと手を振って見せる。今はまだうっすら痕があるが、そのうち消えるだろうとここの医術師は言っていた。
「お前は本当に…無茶ばっかりしやがって…」
殿下とスピネルが眉を曇らせ、少し申し訳なくなる。
「すみません…。でも、スピネルにばかり大変な思いをさせる訳にはいきませんし…」
…そう言えば、スピネルは王都で駆け落ちだの人攫いだのと疑われてるとオットレが言ってたよな。
殿下はそんな話信じなかっただろうが、一応言っておいた方が良いかもしれない。
「あの、スピネルはすごく頑張ってくれたんです。私を助けに来てくれて、捕まってからもフェルグソンと交渉したりして、色々と守ってくれていました」
「やはりそうか。…さすが、俺の従者だ」
うなずいた殿下に、スピネルが少しだけ照れくさそうな顔になる。
「…だが、謝らなければならない。俺は少しだけお前を疑った。お前がリナーリアを攫ったのではないかと」
「え…」
思わず殿下の顔を見る。
「だから、スピネル。俺を殴れ」
「え!?」
な、何でそうなる?どういう話の流れ?
「……」
スピネルはなんとも言えない顔で眉を寄せて殿下を見ている。
「ま、待って下さい。何故ですか?それはあの、どんな親しい仲だって、状況次第でちょっとくらい疑う事はありますよ。今こうして助けに来て下さっただけで十分じゃないですか」
疑う瞬間があったのだとしても、最後にはちゃんとスピネルを信じていたのは、さっきの戦いを見ても明らかだ。疑っていたなら、あんなに無防備に背中を晒したりしていない。
「だめだ。殴ってくれ。そうでないと俺は自分を許せない」
「……。よし、分かった」
「え!?」
びっくりしてスピネルを見る。しかしスピネルは、既に拳を固めていた。
ガツン、という音と共に殿下が大きくよろめく。
…どう見ても一切の手加減がない一発だった。
「えっ…え、ええー!?」
仰天する私の前で、口元を拭う殿下にスピネルが尋ねる。
「どうだ、すっきりしたか?」
「ああ」
「えええええ…」
私はひたすらオロオロした。
何で殿下が殴られる必要があるのか。でも殿下が自ら望んだことだし、やけにすっきりした顔してるし…。
でも、えええ…。
「約束する。俺はもう二度とお前を疑わない」
「おう」
「……」
困惑する私の横で、「なるほど…」と呟いたのはスタナムだ。
「熱い友情ですね…まるでこれは、千里を走るミロスのような…」
「あっ」
そうだ。この流れ、小説で読んだ事がある。友情のために走る男の物語だ。
主人公の男は自分の身代わりとなった親友のために必死で走ったが、一度だけ心が挫けかけ、見捨ててしまおうかと迷った。
そして親友は一度だけ男を疑いかけ、自分は騙され見捨てられたのではないかと思った。
再会した二人はそれを素直に打ち明け、お互いに一発ずつ殴り合って許し合い、改めて友情を誓った。
殿下もあの物語と同じく、疑った自分を友に罰してもらう事を願ったのだ。
「……」
私とスタナムは思わず、期待を込めてスピネルの方を見た。スピネルが怪訝な顔になる。
「…何だよその目?」
「えっ?だってここは貴方が、『俺も一度は殿下を裏切りそうになった。だから殿下も俺を殴ってくれ…』って言う所ですよね?」
「いや何でだよ!俺は裏切りたいとか思った事一度もねえよ!!」
叫ぶスピネルを、殿下が疑わしげに見る。
「本当か?本当は裏切りたくなったんじゃないのか…?」
「ついさっき二度と疑わないって言ったばっかだよな!?」
「でも貴方フェルグソンに一生懸命取り入ってましたよね…」
「それは作戦だろうが!!!」
スピネルが私の方を睨み付ける。
「そういう事言うんなら、攫われた馬車の中で呑気にぐーすか寝てたのを殿下にバラすからな」
「もう言ってるじゃないですか!それに寝てたのは魔術で眠らされたせいでしょう!」
「だからってあんなに眠りこけるか?神経太すぎてビビったぞ」
「そんな事があったのか…さすがリナーリアだ」
「えっ、そ、それほどでも…えへへ」
「いや喜ぶのかよそこ!!」
…まあ、もちろんこれらは冗談だ。
3人であれこれ言い合うこの空気に、懐かしさで胸がいっぱいになる。
こんな軽口を叩けるのも、こうして無事に再会できたからだ。
すると、一人の騎士がこちらに近付いてきた。スタナムの方に話しかける。
「団長、城内全区画の制圧が完了致しました」
「よし、分かった」
そう言ったスタナムが私たちの方を振り返った。
「あと数時間で夜明けです。一旦休息を取った後、改めて状況を確認してから皆様に王都にお戻りいただこうと思います。急いで部屋を用意させますので、今はとりあえず休まれて下さい」
早く帰りたいのは山々だが、後始末だってあるし兵には休息が必要だ。
先生などかなり疲れた様子だしな…。殿下の手前へたり込んだりはしていないが、杖にもたれかかるようにしてぐったりしている。ゆっくり休んで欲しい。
それに殿下もだ。殴られた頬が変色しかかっている。これ結構腫れるやつなのでは…。
「殿下、大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。これは俺への戒めだ」
「それに、目元に隈が。少しおやつれになられたのでは」
「毎日夢見が悪かったんだ。君の方こそ、ずいぶん痩せてしまって…」
「毎日?どんな夢ですか?」
ふと気にかかって尋ね返す。殿下は少し躊躇いながらその内容を口にした。
「…スピネルが俺を裏切ったり、君が俺から離れていく夢だ。毎日そんな夢ばかり見て…まだまだ心が弱い証拠だ」
「それは、昼夜関係なく見たのですか?」
「うん?…いや、夜だけだな。ソファでうたた寝した時は見なかった…」
「私から使い魔が届いた時、きっと少しは安心なさいましたよね?その後は?」
「…その後も見た。昨夜も…」
「で、で、殿下!!」
私は思わず大声を上げる。
「それ多分、攻撃されてます!!」
「…何?」
急いで先生の方を振り返る。
「先生!!今すぐ王都に戻って調べてきて下さい!!」
「ええええええー!?」
先生の世にも情けない悲鳴が響き渡った。