世界の天秤~侯爵家の三男、なぜか侯爵令嬢に転生する 作:梅杉
「キンバレー領に行くには、高い崖の上にある道を越えなければなりません。だけど運悪く、そこで鳥型の魔獣の群れに襲われてしまいました」
鳥型の魔獣は珍しく、滅多に遭遇するものではないのだが、魔獣の中でも特に厄介だ。
本来魔獣が出にくいはずの川辺や水場の近くでも出てくるし、空を飛んでいるために攻撃を当てにくく、倒しにくい。取り逃がせば、何度もしつこく襲われる事になったりする。
「普通なら戦いを護衛に任せ馬車から出ませんが、何しろ崖上なので、万が一馬が暴れたら危険です。だから一旦馬車の外に出たのですが、その時期、キンバレー領は雨続きで足場が悪くて…。魔獣の攻撃を避けた拍子に、私は足を滑らせて崖から落ちてしまったんです」
殿下は「リナライト!」と叫んで私へと手を伸ばしたが間に合わず、私は真っ逆さまに落ちた。
魔術を使えば良かったのだろうが、落下する恐怖でその瞬間の私の思考は完全に停止していた。
崖に生える木の枝がバキバキと身体に当たる衝撃を感じながら、何もできずに目を瞑った。ただ漠然と、死ぬ、とそう思った。
…しかし次に目を開けた時、目の前にいたのは黒い翼と二本の角を持つ竜人の男だった。
私は仰天して悲鳴を上げかけ、それで自分が死んでいない事に気が付いた。
たくさんの枝に身体を打ち付けたせいかあちこち痛むが、大きな怪我はないようだ。
「…あ、貴方が助けてくれたんですか?」
恐る恐る尋ねてみたが、竜人はその問いに答えなかった。ただ私を見つめただけだ。
しかし、状況からすると助けられたのは明らかだった。あのままなら、私は今頃間違いなく死んでいた。
だから私は、精一杯の感謝を込めて頭を下げた。
「どうもありがとうございました」
すると、竜人の男が口を開いた。
『そなたは我に近い気配がする。我の仲間なのか』
竜人の言葉は古代語のようだった。
私は古代語を読むことはできても、話す事はできない。なのに、何故か言葉の意味が分かった。
竜人の力なのだろうか。
こちらからの言葉は通じるのだろうかと思いつつ、私は答えた。
「いえ、私は人間です。リナライト・ジャローシスと申します」
『…人間』
どうやら通じているらしいが、竜人は不快そうに眉をしかめた。
そう言えば、おとぎ話の竜人は人間に愛想を尽かして飛び去ったのだ。もしかしたら人間は嫌いなのかもしれない。
私は慌てた。竜人を怒らせたくないし、助けてもらった礼を何かすべきだと思ったのだ。しかし、渡せそうなものが何もない。
必死で懐を探ると、上着のポケットに飴玉がいくつか入っている事に気が付いた。馬車旅は時間がかかるので、殿下がお腹を空かせた時に差し上げようと思って持ってきたものだ。
あまりにもちっぽけな物だが、何も礼をしないよりはマシだろうか。
少し迷ったが、手のひらに乗せてこわごわと飴玉を差し出してみた。
「あの、これ。つまらないものですが、助けて下さったお礼です」
『……?』
竜人が怪訝そうな顔で飴玉を見つめる。もしかして飴玉を見た事がないのだろうか。
私はそのうちの一つをつまむと、包み紙を開いて自分の口の中に放り込んで見せた。
「飴玉です。こうやって食べるものです」
竜人もまた一つつまみ上げると、包み紙を開いて口に放り込んだ。そしてバリバリと噛み砕く。
「あ、ち、違います!噛むんじゃなくて、口の中でころころ転がすんですよ!」
口の中に含んだ飴を、舌を使って転がして見せる。
竜人は眉を寄せてもう一つ飴をつまむと、今度はちゃんと口の中で転がした。
『…美味い』
どうやら気に入ってくれたらしい。ほっと胸をなでおろし、持っていた飴玉を全て竜人に渡した。
『…そなたは人間だと言うのに、我を怖がらんのか』
飴を舐めながら、竜人は不思議そうな顔で言った。
「貴方は私の命の恩人ですから」
私は竜人の赤い目を見返すと、はっきりと答えた。怖がっていない事を示すためだ。
正直、全く恐怖がないと言えば嘘になる。人とは違うその姿もだが、何よりこうして近くにいるだけでもその強大な力をひしひしと感じる。
その気になれば私など赤子の手をひねるように殺せるのだろうと、理屈ではなく理解できる。
だが助けてもらった恩があるし、何故だか分からないが、妙に懐かしいような不思議な感じがするのだ。
「人の間には、貴方の…竜人のお話が伝わっていますが、私はあれは人の方が悪いと思うんです」
あの話の王様は、自分が持つ不思議な宝石は人々の暮らしに必要なものだから渡せないと考え、代わりに剣を竜人に差し出した。
それは王としては当然の判断だと思うが、それなら「これは大事なものだから、別の宝で許して欲しい」と正直に話せば良かったのだ。
竜人はそれまで人を守ってくれていたのだから、話し合えば分かってくれる可能性は十分にあったはずだ。それなのに、違う宝を渡してごまかし騙そうとしたのだから、竜人が怒るのも当然だと思う。
「願いを叶えて欲しいと思うなら、誠意を尽くし、できる限りの対価を用意するのは当たり前だと私は思います」
『……』
私の言葉を聞き、竜人はしばらく考え込んでいるようだった。
そして私はちょっと困っていた。
助けてくれたのはありがたいが、そろそろ戻りたい。きっと殿下や皆が心配している。
ここは崖下にあった森の中のようで、周りには高い木が生い茂っている。上からはこちらの様子は見えないだろう。
思い切って竜人に声をかけようとした時、竜人は顔を上げて私を見た。
『…そなたには、叶えて欲しい願いはあるのか』
「えっ?…いえ、ありませんけど」
そう答えながら、ふと学院の先輩だったスピネルの事を思い出した。1年以上前、彼が卒業する日、彼にも冗談半分で問われたのだ。「願い事は何か」と。
私の答えはあの時と同じだった。叶えて欲しい願いなどない。
殿下が立派な王になる事こそが私の願いだが、それは誰かに叶えてもらう必要などないものだ。
その答えに、竜人はまた少し考え込んだ。
しばし無言になり、私が本格的に困り始めた頃、竜人はようやくまた口を開いた。
『…分かった』
「はい?」
『我が名はライオスだ。覚えておけ』
そして竜人は大きく翼を広げると、どこかへと飛び去っていった。
私はただぽかんと口を開け、それを見送るしかなかった。
「…その後すぐ助けが来て、私は無事に崖下から救出されました。しかし不思議なことに、他の者は誰一人として竜人の姿を見ていませんでした。夢でも見たのではないかと言われ、私自身もそうだったのかも知れないと思いました。あまりにも現実離れしていたので、夢という方が納得できたんです。…ただ、私の上着のポケットからは確かに、飴玉がなくなっていました」
私はそれから竜人に興味を持った。元々、魔術の師匠だったセナルモント先生の影響で古代には興味があったし、あのライオスという竜人について知りたくなったのだ。
ライオスが私に『近い気配を感じる』と言っていたのも気になった。とにかく不思議なことばかりだった。
だが、何しろ遠い昔の存在だ。例のおとぎ話以外、竜人について大した伝承は残っていなかった。
「それから時が過ぎて…二度目にライオスに会ったのは、私が20歳の時でした。…ただ、この時の事はずっと忘れていたんです。あの日、オレラシア城でライオスに会って初めて思い出しました」
「20歳?」
殿下が問い返す。
「さっきの話でも、君は17歳の秋と言ったな。だが君は俺と同い年だろう?子供の頃から知っているのだから間違いない」
「…はい。
スピネルが考え込むように眉を寄せた。
「…まさか、それがお前の契約の内容か?」
「そうです。二度目に会った時、私はライオスに願いました。…