世界の天秤~侯爵家の三男、なぜか侯爵令嬢に転生する 作:梅杉
「…それにね、安全なこの島に居続けたって、いずれは限界が来るわ」
駒とチェス盤を片付けながら、セレナは呟いた。
「限界?なぜだ。この島には神の加護がある。水は人を守り、大地の実りは暮らしを支えてくれているだろう」
それに、自分という守護者もいる。全ての魔獣の侵入を防ぐ事はできないが、多くは自分が抑えている。
「だって、この島の大地には限りがある。このまま人が増え続ければ、いずれ食べるに足りるだけの畑を作る場所がなくなってしまうわ。鳥や獣は海からも食べ物を取れるけれど、私たち人間は呪われた海から恵みを得る事はできない。かと言って、迂闊に山や森を切り拓けば、周りの土地から水霊神の加護が衰えてしまって危険だし…。大地の実りだけで暮らし続けるには、この島はきっと狭すぎるわ」
それはミーティオが考えてもみなかった事だった。
竜の姿となったミーティオの翼を持ってしても、この島を一日で回る事などできない。そのくらいには島は広いからだ。
だが人間は既に、この島のあちこちに住処を広げ数を増やしている。全く手が付いていない場所は、山奥にあったり荒れ地だったり、暮らしにくそうな場所ばかりだ。
「いつかは食べ物が足りなくなり、飢えた人間同士が争う時が来る。そうでなくても、病害や日照りで不作の年があるというのに…。いくら神の加護があっても、真冬に麦を実らせたり、牛や鶏が産む仔の数を増やしたりはできないわ。だから、新しい土地が必要なの」
「…魔獣について調べているのは、そのためだったのか」
「ええ。何とか魔獣に襲われずに島を出る手段が見つからないかと思って。今の所全く成果はないけど」
…彼女の言う「いつか」は、意外に近いのかもしれない。
人は急速に繁栄している。
時折疫病が流行ったり飢饉が起こるために数が減るが、それがなければ今頃、人の数は倍ほどにも増えていただろう。魔獣は激しく活発化し、自分は抑えるのに苦労していたはずだ。
そして人は知恵を絞っては次第に病を克服し、豊かになる方法を編み出していく。
人の進化は速い。いつか、この島では支えきれないほどに増えてしまう。
その時、自分は一体どうしたら良いのか。そう考え、ミーティオは愕然とした。
主である神ならば何とかできるのかも知れないが、千年以上経った今でも神が帰って来る気配は全くないのだ。
「…ずいぶん深刻な顔ね、ミーティオ。未来が怖くなった?」
考えるミーティオの顔を覗き込むと、セレナはいたずらっぽく笑った。
「でもね、私が島の外に出てみたいと思ったのは、そんな大した理由じゃないの。今はこの島の人のために新しい土地を見つけたいっていうのが一番の理由になってるけど、きっかけはそれじゃない」
彼女は窓際へと歩み寄ると、大きく窓を開け放った。
「私は外の世界が見てみたい。ここではないどこかにある、こことは違う大地を踏みしめ、そこに広がる景色を見てみたい。…その最初の一人になれたら、とても素敵だと思わない?」
吹き込む風に銀の髪を揺らした彼女は、とても美しかった。
ミーティオは少しずつ、チェス以外の時間でもセレナと過ごすようになった。
彼女の聡明で機知に富んだ会話の数々は、強くミーティオを惹きつけた。
彼女も、朴訥でありながら時に老人のような深い思慮を持つミーティオに、強く興味を持っていた。
二人が愛し合うようになるまで、そう長い時間はかからなかった。
…そして、ある日。
ついにセレナは、ミーティオにチェスで勝利した。
「…
長い逡巡の後、彼女は呟いた。
それは竜の正体を暴く言葉。竜に願いを叶えてもらうための合言葉だ。誰が言い出したのかは分からない。だが、この島の民は皆知っている。
「君の願いは何だ。セレナ」
彼女がミーティオの正体に気付いているだろう事は、ずいぶん前から分かっていた。
気付いた上で合言葉を言ったのは、つまり彼女には叶えて欲しい願いがあるからだ。
それによって、今の関係が終わってしまうとしても。
「…私は、この島の外に出たい。知らない世界を見て、新しい土地を見つけたいわ」
「それを叶えれば、君はもう二度とこの島に戻って来られないかもしれない。…それでも、行きたいと望むかい?」
「ええ。それでも行きたい」
その迷いのない瞳に、ミーティオは微笑んだ。彼女のこういう強さ、潔さが好きだった。
何よりミーティオには、島の外に憧れるセレナの気持ちがよく分かった。ミーティオ自身、島の外を見てみたいとずっと思っていたのだ。
「承知した。…君の願いを、叶えよう」
それはミーティオにとっても、決して軽い決断ではなかった。彼女の願いは、神が定めたルールに逆らうものだったからだ。
その願いを叶えれば、きっと自分はただでは済むまい。力と魂は大きく削られ、島の守護者ではいられなくなるだろう。魔獣から人を守る事も難しくなる。
しかし彼女が語った「いずれは人が増えすぎて食べ物が足りなくなる」という話は最もだった。
この島の未来を救うために、彼女の願いは必ず叶えなければいけない。
ミーティオはしばらく考えた末に、赤い宝玉と黄金色の天秤を作り出した。
さらにとても大きく丈夫な船を作ると、南の浜辺の地中深くにそれを隠した。
ミーティオはセレナに会いに行くと、まずこの島で魔獣が増える原因について説明した。
海に近付く人間や、空を飛ぼうとする人間が攻撃される理由も。
水霊神の伝説は部分的にではあるが人の間に伝わっている。セレナもすぐに理解できたようだった。
それからミーティオは、天秤と宝玉を取り出して言った。
「南の浜に、大船を隠してある。この天秤と宝玉の両方を持って浜に近付き、合言葉を言えば、船は姿を表す」
まず、右手に持った赤い宝玉を彼女に手渡す。
「この竜の宝玉には私の加護をできる限り込めてある。これがあれば、きっと呪いの海も越えられる。魔獣に襲われ、風雨に晒されても、決して船が沈むことはないだろう」
流星は願いを叶える竜だ。その加護は、持つ者の願いを叶える後押しをしてくれる。
続いて、左手に持った黄金の天秤も渡す。
「島を発つ前に、信頼できる人間を探し、この天秤を託せ。これは女神の呪いの強さを示すものだ。これが右に傾いている間は、呪いは弱い。人の力だけで十分に魔獣に抗える。しかし左に傾き出せば、魔獣は徐々にその数を増やし、やがて人では抗えない程の数が溢れ出すだろう」
受け取ったセレナは、真剣な目で宝玉と天秤を見つめた。
「魔獣が島に溢れれば、多くの人間が殺される事になる。そうなる前に…天秤のバランスが崩れる前に、この島から人を減らさなければならない」
「…島の民を、別の場所へ移住させるのね」
「ああ。君の意志に賛同し、違う大地へ行ってみたいという者を募れ」
この島にはたくさんの人間がいる。その中には、彼女のように新天地を求める者もきっといるだろう。
「島の外に、安住できる豊かな地を探せ。この世界は広いらしいから、きっと見つかるはずだ」
主である神は、女の魂を探しに行く前に言っていた。この世界はとても広く、そこには別の神がいて、この島とは違う人間が住んでいる。自分の愛した女はきっと、その中に生まれ変わっているはずだと。
つまり、外の世界には必ずどこかに人が住める土地があるのだ。
「住める土地を見つけたら、宝玉を掲げて私の名前を呼ぶといい。そうすれば門が開く」
「門…?」
「この宝玉には、天秤から宝玉へと向かう門を作り出す力がある。ただしとても狭い門で、一度門を通れば、また島へ戻ることはできない。一方通行だ。…それでも、海を越えるよりはるかに安全に島を出られる」
人々を新天地へと送る門。
それがミーティオの考えた、この島の民を救う方法だった。
人を島の外に出してはいけないという神の意志には反するが、それが最後には人を守る事に繋がるはずだ。
どれほどの人の移住が必要なのかは、天秤の傾きを見れば分かる。
ミーティオはセレナの瞳を見つめた。
「…そうやって、門が開いた時。この天秤は、
「……。ありがとう、ミーティオ。私、新しい大地を見つけるわ。この島の人たちが移住できる新天地を見つけてみせる。何年かかっても、必ず」
セレナは宝玉と天秤を胸に掻き抱いた。
「天秤は、ソディーに託すわ。彼ならきっと、天秤をしっかりと管理してくれる」
ソディーとは、セレナの幼馴染だ。彼女と仲が良い気のいい男で、ミーティオも時々顔を合わせている。
「でも、一つ気になる事があるの。貴方はどうなるの?貴方は、新天地に行くことはできないの?」
「ああ。私は行けない」
ミーティオは静かに首を横に振った。
「私はこの島からは出られない。神がそう創ったからだ。…それに、私はこれを作るのにずいぶん消耗してしまった。これから長い眠りにつくことになる」
長く眠り続ければ、少しは守護者としての力を取り戻せるかも知れない。
島の外に憧れはするが、神から与えられた使命はミーティオの誇りでもある。守護者をやめたいなどとは思わない。
「…だから、君と話せるのはこれが最後だ」
セレナは小さくうつむいた。これがミーティオとの別れになると、薄々気付いていたのだろう。
この島に伝わる流星の竜の話は、どの話も全て、願いを叶えた後に竜がどこかへと飛び立って終わっていた。
「旅立つ君を見送れないのは、とても残念だが…。君には、私の分の願いも託す。外の世界を見るというその願いを、どうか叶えてくれ」
セレナは少しの間うつむき、それから決意のこもった目で顔を上げた。
「…分かったわ、ミーティオ。任せておいて。そして待っていて」
「待つ…?」
首を傾げるミーティオに、セレナは微笑んだ。
「ずっと先…もしかしたら、何十年、何百年とかかるかも知れないけど。私たちこの島の民や、その子孫たちがきっと、外の世界から水霊神様を見つけ出して見せるわ。そしてこう叱りつけるのよ。『こんなにも長い間留守にするなんて酷いじゃない!帰って来て、貴方の竜を起こしてあげて!』…って」
それを聞き、ミーティオもまた笑った。
「じゃあ、神が帰ってきたら、私は神に頼んでしばらく休日をもらう事にしよう。そして、君が見つけた地を見に行く」
「それは素敵ね…!必ず、いつか会いに来て。約束よ」
「ああ。約束だ」
そうしてミーティオはセレナとの最後の夜を過ごすと、火竜山へと戻り、長い眠りについた。