世界の天秤~侯爵家の三男、なぜか侯爵令嬢に転生する 作:梅杉
翌朝、ランメルスベルグ家の人々に見送られながら出立した。
昨夜降った雨で道が所々ぬかるんでいるため、やや慎重に進むことになる。
道中、心配していた魔獣の襲撃は一度だけ。山から降りてきたばかりの小さい群れだったようで、護衛騎士たちが問題なく対処した。
モリブデン領に入ったのは夕刻になってからである。ぎりぎり日暮れ前には着きそうで良かった。
迎えに来たモリブデンの騎士たちの先導で、侯爵の屋敷へと向かう。
馬車の窓からカラミンの町を眺めると、結構人通りが多い。時刻的に家路についている人が多いのだろうか。
疲労を滲ませながらも充足した表情の男。夕食用らしいパンやワインを抱え足早に歩く女。手を振って別れる子供たち。
どこから見ても平和な町並みだというのに、胸がざわつくのを抑えられない。
殿下や皆を信じると決めたものの、やはり緊張してしまう。
怪しまれないよう自然に振る舞わなければならないというのに。
思わず握りしめた拳に、温かいものが触れる。
「…殿下」
「手が冷たいな」
そう言いながら、殿下は両手で私の手を包んだ。剣ダコが少し硬い、温かくて大きな手だ。
「大丈夫だ。約束は守る」
力強くそう言われて思い出す。
決して私を置いていかないと、殿下は約束してくれたのだ。
「…そう、でしたね。すみません…」
いつまでも、びくびくと不安に怯えてしまう自分が情けない。何度も励まされ、最悪の未来を避けられるよう自分でも努力を重ねてきたというのに。
恥ずかしさに小さく縮めた肩に、ぽんと手が乗せられる。
「謝らなくていいんだよ、リナーリア君。そのために、僕らが傍についているんだから!」
先輩は元気づけるように笑みを浮かべている。スピネルもだ。任せておけと言わんばかりに、唇の片端を上げ私を見ている。
…どうやら、自分で思っていた以上に深刻な顔をしていたらしい。
ふっと一つ息をつき、肩の力を抜く。
そうだ。私は一人ではない。
「ありがとうございます。頼りにしてますね!」
モリブデン邸に到着すると、モリブデン侯爵とその嫡男ダンブリン、そしてフロライアが出迎えてくれた。
水霊祭の時期は学院も休みだし、彼女も領に戻って来ているらしい。
まあ第一王子の訪問となれば一家が集まるのも当然だろう。
「エスメラルド殿下、皆様、ようこそお越しくださいました。ごゆっくりお過ごしください」
「よろしく頼む」
穏やかな笑みを浮かべた侯爵に、私たちも微笑んで挨拶を返した。
大丈夫、ちゃんと落ち着いている。殿下や皆のおかげだ。
もう日が暮れかかっているので、そのまま早めの晩餐を取ることになった。
モリブデン領特産の果実を使った軽めの発泡酒が、小さなグラスで食前酒として運ばれてくる。
毒検知の魔術を使いたくなるのをぐっと堪える。同席しているセナルモント先生がちゃんとやってくれているのだ、私が余計な事をする必要はない。
そっと唇をつけると、爽やかな酸味が感じられた。思ったほど甘くはなく飲みやすい。
しっかりと味わう余裕がある自分に少し安心しつつ、会話へ耳を傾ける。
晩餐は和やかな雰囲気で進んだ。
「今年の討伐訓練でも、エスメラルド殿下とリナーリア様の班が一番の成績だったのですわ。二番はスピネル様の班で」
会話の中心になっているのは主にフロライアだ。殿下、スピネル、私とはクラスメイトなので、共通の話題は多い。
侯爵は適度に感じの良い相槌を打っている。ダンブリンは無口な性質で、あまり喋らないが表情は穏やかだ。
こうして見ると、本当に穏和で上品な貴族の一家なのだ。
つい考えてしまう。何故、どうして、と。理解する必要などないと分かっているのだけれど。
いや、深く考えるのはやめよう。そんな事よりこのシチューが美味しい。何か干した果実のようなものが入っていて甘酸っぱいのが良い。
「…どうだろう、リナーリア」
殿下に話しかけられ、私は顔を上げた。
「あっ、はい、そうですね。私はこのシチューが好きです」
「?」
殿下が不思議そうな顔になり、皆の視線がこちらに集まる。
「えーとね、リナーリア君。この後、モリブデン侯爵の収集した水霊神の神像を見せてもらいたいって話をしてたんだよ。ほら、君も興味があるって言っていただろう?」
先輩が説明してくれ、私は自分が何も話を聞いていなかった事を知った。
「す、すみません…!そ、そうです、神像、見たい、ので、見せてい、いただけたら」
恥ずかしさで完全にしどろもどろになってしまった。顔中が熱い。
「疲れてるんじゃないのか。大丈夫か?」
「だ、大丈夫です。ちょっと、料理を味わうのに集中していただけで」
スピネルにも心配されてしまい、私は少し慌てた。
いつもなら絶対に呆れ顔をしてくる所なのに…。侯爵の前だから真面目に振る舞っているだけかもしれないが。
「ふふ、こちらのシチューはこの辺りの郷土料理です。プルーンという果物が入っているのですが、貧血に効くと言われていて、女性には特におすすめなのですわ。お気に召したようで嬉しいです」
「そうなんですね…とても、美味しいです」
フロライアが優しい微笑みでフォローしてくれる。本当に恥ずかしい。穴があったら入りたい。
「では、晩餐後にコレクションをご覧に入れましょう。王都の屋敷にも多く置いてあるのですが、こちらの屋敷にも特に気に入っているものがいくつもありますので」
気を取り直したようにモリブデン侯爵が言った。
「ああ。よろしく頼む」
「よろしくお願いいたします」
殿下がうなずき、私も一緒に行くという意志表示を込めて微笑んだ。ここには天秤があるはずなのだ、しっかりやらなければ。
「僕もご一緒させていただいて良いでしょうか?」
さっと手を上げたのはセナルモント先生だ。
「侯爵のコレクションならば、考古学的価値のある品も多いでしょう。ぜひ拝見させていただきたいのです」
「ええ、もちろん構いませんとも」
侯爵は嬉しそうにしている。殿下や私たちにコレクションを披露できるのが嬉しいのだろう。収集家というものは、他人に収集品自慢をするのが大好きな生き物なのだ。
王都の屋敷と違い、こちらにあるものは披露する機会が少ないので特に嬉しいのかもしれない。
それからほどなく晩餐は終わり、侯爵に案内されコレクションの展示室へと向かった。
がちゃりと重い音を立て、侯爵が大きな鍵を開ける。
中に入ると、ひんやりとした空気と共にわずかな魔術の気配を感じた。と言っても特におかしな気配ではない。恐らく、保存のために温度や湿度の変化を防ぐ魔法陣だろう。
神像は大理石などを彫って作る石像が多いが、ものによっては木像だったり魔石だったり様々だ。保管に注意が必要な素材が使われる事もある。
「これは…、5代目スコロドの作か?」
高さ3メートル以上あろうかという白亜の水霊神像を見上げながら、殿下が嘆息する。
5代目スコロドと言えば、今から800年近く前にいた偉大な彫刻家だ。過去の大災害によって多くの作品が失われてしまっているため希少である。
「ええ、そうです。台座などの一部に修復を施してありますが、これほど状態の良いものはそうありますまい」
「ふむ…。王宮にあるものと比べても遜色ないな」
「こちらのものは実に細かな彩色がされていますね。とても美しい」
先輩がしげしげと見つめる像を見て、侯爵が上機嫌に応じる。
「それは木像です。今は手に入りにくい顔料が使われていて、特に青の発色が素晴らしいでしょう」
私が目を留めたのは50センチほどの大きさの金の像だ。
「これは…」
「これも木像ですね。150年ほど前に製作されたもので、表面には金箔が貼ってあります。無傷のものはかなりの希少品です」
モリブデン侯爵は本当に熱心な収集家だ。
前世でも見せてもらったのだが、改めて見るとやはりすごい。単に高価な品だけではなく、手に入れるには広い人脈も必要だろうと感じさせる品が多い。名家ならではのコレクションと言えるだろう。
…だが、これを見るのが目的ではないのだ。
「実に素晴らしい物ばかりだ。しかし、足りないように思うな」
殿下がモリブデン侯爵を振り返る。
「これだけ揃っているのに、初代スコロドのものがない。…そなたならば、所持していないはずがあるまい」
初代はスコロド派の元祖であり、若くして夭折した天才彫刻家である。現存している作品数は非常に少なく、その価値は計り知れない。
モリブデン家が密かにそれを所持しているというのは知る者だけが知っている話だ。
侯爵は嬉しげに笑った。
「ええ、もちろんですとも。…ご案内いたしましょう」