世界の天秤~侯爵家の三男、なぜか侯爵令嬢に転生する 作:梅杉
ついに、モリブデン侯爵が敗北を宣言した。
僅かな間の後、がしゃっと剣が地に落ちる音が響く。
どこか呆然とした表情の者、小さくうなだれた者、怯えた表情の者。
皆次々に武器を手放してゆく。
モリブデン家の兵の半数以上が状況を理解できていない様子だ。ただ命令に従い戦っていた者たちには、何故こんな事になったのかが分からないのだ。
侯爵の近くにいた一人の体格の良い男が片手を上げる。
「私がモリブデン騎士団団長です。…知っている事は全て話します。だからどうか、ダンブリン様とフロライア様に…寛大な措置をお願い致したく…」
「…ああ。最大限配慮しよう」
殿下がしっかりとうなずく。
容易く聞き入れたのは、男の願いにモリブデン侯爵の名が含まれていなかったからだろう。男はきっと、侯爵が何をしていたのか知っている。
全てが明らかになるまで、そう長くはかからないかもしれない。
「かたじけない…」
団長の男はそう言うと、疲れ切った顔で礼をした。
…これで終わったのか。本当に。
水球を操るために持ち上げていた腕を、ゆっくりと下ろす。
何だか信じられない気持ちだ。思っていたよりもずっとあっけない。
膝をつくモリブデン侯爵の姿を見ても、私たちが勝ったのだという実感は湧いてこない。
だがこれで良かったのだろう。殿下も私も無事だ。…いや、周囲には負傷者がたくさんいる。急いで手当てをしなければ。
味方だけでなくモリブデン兵もだ。侯爵の企みを知っていたにしろ、知らないにしろ、彼らにも手当てが必要だ。正しい裁きを受けさせるために。
そう思った時、未だに剣を持ったまま立ち尽くす一人の男の姿が目に入った。
くすんだ灰色の髪をした、一見特徴のない男。しかしその紫紺の目には激しい戦意が消えずに燃え盛っている。
…ビスマス・ゲーレン。
突然、大きな爆発が起きた。
咄嗟に前方に広げた水の壁には、ほとんど手応えがない。ただ土煙だけが広がり視界を塞いでいる。
この爆発は囮だと気付いた時には、水壁を切り裂かれていた。
眼前に迫り来る、月光を反射した白刃。冷徹な紫紺の瞳。
あの時と同じだ。思考が凍りつく。恐怖に目を瞑る事すらできない。
…だが、ビスマスのその刃は鋭い音を立てて弾かれた。
「殿下…!!」
「スフェン!リナーリアを頼む!!」
すぐに体勢を立て直し攻め立てるビスマスの剣を受けながら、殿下が叫ぶ。
「承知!!」と応えた先輩が私の腕を引き、背中に庇った。
「もう決着はついた!剣を収めろ!!」
「できるものか!!」
殿下の言葉に、ビスマスが叫び返す。
「何故だ!どうしてそこまで…」
「どうしてだと…?」
剣を押し込みながら、ビスマスの顔が激しく歪む。
「…こんな所で潰えるのなら…!!」
ぎりぎりと、歯ぎしりが聞こえそうなほどに歯を食いしばり。
「…あの子は、何のために死んだんだ!!!」
血を吐くように、ビスマスは叫んだ。
鬼気迫るその様子に、殿下が眉を険しくする。
「…何の話かは知らないが、事情があるならば聞こう。だがまず剣を収めろ。このような事をしても…!」
「うるさい!!」
激しい剣撃によって、その言葉は遮られた。
これ以上の問答をする気はないらしい。
ビスマスの全身から放たれているのは激しい怒りだ。
よく見ればあちこち傷付いているし、身に纏った黒服は泥にまみれている。ボロボロだ。
ただその紫紺の瞳だけが、戦意を失うことなくギラギラと光っている。
そこまでこの男を駆り立てる、その源が「あの子」とやらなのか。
「殿下!!」
近くにいた王宮騎士たちが、加勢しようと駆け寄って来る。
ビスマスがそちらへとほんの半瞬気を逸らしたのを見逃さず、殿下がその手元へと突きを繰り出した。
だがビスマスは思いもかけない方向へとその身体を動かした。
…殿下の剣の、その切先へと。
「……!?」
手元を狙ったはずの剣がビスマスの脇腹を深々と貫き、殿下が驚きに目を見開く。
自らの剣を投げ捨てたビスマスは、突き刺さった剣ごと殿下の腕をがっしりと両手で掴んだ。
血反吐を撒き散らしながら叫ぶ。
「…
その瞬間。
私は用意しておいた水球の全てをそこへ…ビスマスのすぐ横へと集中させた。
巨大な一つの塊となった水球の中に、小刀を持った一人の女が忽然と姿を現す。
白い寝間着に青いショールを羽織った蜂蜜色の髪の女。フロライア。
驚愕に歪んだその口から、ごぼりと泡が溢れ出る。
腹部から剣を生やしたままのビスマスが、王宮騎士たちによって地面に引き倒されるのが目の端に映った。
「…残念ながら。貴女には、貴女にだけは絶対に油断しないんです。私は」
フロライアを閉じ込めた水球を維持しながら、自分でも驚くほどに冷たい声が出た。
「爆発の時、幻影を解除して姿隠しの術を使ったんでしょう。そうしてビスマスが戦っている間に密かに近付き、殿下を殺すつもりだった」
爆発そのものには意表を突かれたが、すぐに気が付いた。『私』の姿も、フロライアの姿も見当たらないと。
水の中で、フロライアの表情が驚愕から苦悶へと徐々に変わっていく。
「許しません。絶対に許さない。貴女の事は、絶対に。…ここで、私の手で殺します」
喉元を抑え、のたうちながら溺れる彼女を見上げながら告げる。
私の声などもう耳に届いていないかもしれないが、それでもいい。このまま苦しみの中で殺す。
一度ならず二度までも殿下を殺そうとした、その報いを受けさせてやる。
「リナーリア君!!」
先輩の声が聞こえたが黙殺した。
この女は、あの方が受けた苦しみを少しでも味わってから死ぬべきなのだ。
あの夜、血を吐きながら倒れたあの方の、
「…リナーリア!!」
ふいに、腕を掴まれた。
「もういい。そんな事はしなくていい!!」
「…殿下。どうして」
どうしてそんな必死な顔で、私の腕を掴んでいるのか。
「彼女はこの場では、恐らく誰も殺していない」
「でも、殿下を」
殿下を殺した。私の主を。
今だって殺そうとしたのだ。
私の、私の大切な。
「だとしても、君が手を汚す必要などない」
「…それでも…!!」
許せない。絶対に許せない。怒りが、憎しみが、炎のように身体中を焼き焦がす。
殺したい。殺してやる。罪を償わせてやる。
「この女を、許せる訳が…!!」
「リナーリア!!!」
…気が付いた時には、強く抱きしめられていた。
「俺は今、こうして生きている。…それだけでは、だめか」
耳元に降ってきたその痛切な声音に、ひどく胸を衝かれた。
「…殿下」
きつく抱きしめてくる腕が温かい。
広い胸にそっと耳を寄せると、確かな鼓動を感じた。生きている。
強張っていた身体から少しずつ力が抜けていく。
「…いいえ。いいえ…」
…そうだった。私の主はもういない。取り戻せはしない。
だけど、殿下はここにいる。
「殿下が…貴方がいてくれるなら、私はそれで十分です」
両腕を回し、殿下の身体を強く抱きしめ返す。
殿下がここにいる。生きている。それ以上望むことなどあるものか。
指先に残っていた魔力を霧散させると、大きく水が弾ける音がした。