世界の天秤~侯爵家の三男、なぜか侯爵令嬢に転生する 作:梅杉
セレナは山道をひたすらに走っていた。
いや、走っているというよりはただの早足に近い。息が苦しい。足が、身体が重い。
だけど止まる訳にはいかない。
「セレナ様、しっかり…!」
「もう少しです!」
前を行く護衛のオーピムは心配げに度々こちらを振り返り、後ろのサーラはずっと励ましの声をかけてくれている。サーラが背負った荷物の中には、あの日ミーティオに貰った2つの宝が入っている。
萎えそうになる気力を奮い立たせてくれるのは、背中ですやすやと眠る我が子の温もりだ。
この子のために、何としても逃げなければ。無我夢中で足を動かす。
セレナたちが辿り着いたのは、川辺に建てられた山小屋だった。
すでに辺りは暗いが、オーピムは食べ物を探しに行き、サーラはお湯を沸かしてくれている。
とても空腹だし、足はもう棒のようだ。無理をして走り続けたせいで足の裏が酷く痛む。しばらく動けそうにない。
腕に抱いた我が子の柔らかな頬を撫でると、くりくりとした目を細めて笑った。その愛らしい表情に、思わず笑みが零れる。
しばらく赤ん坊の顔を眺めていると、サーラが湯気の上がるカップを目の前に置いてくれた。
「棚の中に茶葉があって良かったです。その子は私が抱いていますので、飲んで下さい」
「ありがとう」
子供をサーラに預け、カップに口をつける。お茶は薄かったが温かく、疲労した身体に染み渡るようだ。
「…ごめんなさい、サーラ」
カップを見下ろしながらぽつりと呟く。
「セレナ様ったら。どうして謝るんですか?」
「だって、貴女は私についてくる必要なんてなかったわ。…こんな風に追われて、狙われて…。オーピムだってそう。家に残っていれば、こんな目に遭わなくて済んだのに…」
「まあ!」
サーラは心外だと言わんばかりに憤慨した顔になった。
「そりゃ私はただの使用人です。でも、もう10年もセレナ様と一緒に暮らしてきました。雇い主は旦那様でも、私の主人はセレナ様です」
「…どういう理屈なのかしら」
「理屈ではありません!気持ちの問題ですよ!!」
ぷりぷりと怒ってみせるサーラにセレナは思わず吹き出す。逆境でもめげない彼女の明るさには、ずっと助けられている。
「オーピムだって同じことを言うはずです。行き倒れていた彼を助けたのはセレナ様ですよ。あの時の恩義を忘れていないから、こうして付いて来てるんです」
「そうね。でも、オーピムが付いて来たのはサーラが心配なのもあると思うわよ?」
「それは…」
サーラの頬がほんのりと赤く染まった。
二人が良い仲であり、結婚も考えているのだとセレナは知っている。
…だからこそ、巻き込んでしまった事が申し訳ない。
「と、とにかく。悪いのはソディー様ですよ!あの男、セレナ様に振られたからってこんな事」
「それは違うわ。私、ソディーに好きだなんて言われた事ないもの」
「でも…」
サーラが唇を尖らせる。
「…きっと誰かに唆されたんだわ。近頃人相の悪い人たちとよく一緒にいるって噂だったし…。それに、新しい魔術論文を先生に読んですらもらえなかったって落ち込んでいたの。また頑張るって笑ってたからあまり気にしていなかったけど、もっとちゃんと話を聞いてあげれば良かった…」
「セレナ様のせいじゃありませんよ。話を聞いて欲しいなら、そうと素直に言えば良かっただけです!」
「サーラはきっぱりしてるわねぇ…。皆が貴女みたいだったら良いのだけど」
思わず苦笑した時、山小屋の扉が慌ただしく開いた。
飛び込んできたオーピムの緊迫した顔に、セレナは息を呑んだ。サーラが急いで尋ねる。
「オーピム!どうしたの!?」
「追手が近付いています。まだこの山小屋の事には気付いていないようですが、時間の問題です」
「なんてこと…。セレナ様、早く逃げましょう!」
サーラに促されて立ち上がろうとしたが、足がもつれ、ふらふらとその場にへたり込んでしまった。
「…ごめんなさい。私はもう、行けないみたいだわ」
「セレナ様!!」
サーラが顔色を変える。
「何を弱気なことを言ってるんですか!この子のためにも、逃げて生き延びないと。オーピム、セレナ様を」
「その子のためによ」
セレナは強い口調で言った。
「私がいては足手まといだわ。それに、あいつらの狙いはきっと宝玉と天秤よ。私はあれを持ってここに残るから、貴女たちはその子を連れて逃げて」
「そんなっ…」
「これは命令よ、サーラ!!私は、貴女の主人なんでしょう!?」
セレナの鋭い叫びに、サーラは怯んだようだった。
彼女が言葉を失っている間に何とか立ち上がり、オーピムを見上げる。
「…貴方には分かるでしょう。私を連れて逃げようとすれば、そう遠くないうちに捕まる。きっと殺されてしまうわ。…だから、お願い。あの子を守る道を選んで」
オーピムはくしゃくしゃに顔を歪めた。…だが、小さくうなずく。
「…承知いたしました…」
「オーピム!」
「サーラ。セレナ様の命令を、いや、願いを聞くんだ。もう時間がない」
「…でも…でも!!」
「サーラ」
セレナは赤ん坊ごとサーラを抱きしめた。二人の顔を見て微笑む。
「貴女とオーピムにならその子を、アズラムを託せるわ。二人の子供として、優しい子に育ててほしいの。…どうか、元気で。今まで、本当にありがとう…」
「セレナ、様…」
サーラは両目から涙を零した。
それからすぐに、二人は赤ん坊を連れて山小屋を出て行った。
残されたのはセレナと、赤い宝玉。そして黄金色に輝く天秤だけ。
この2つの宝がどういうものなのか、サーラとオーピムには話していない。万が一捕まった時も、何も知らなければ命だけは見逃してもらえるかもしれないと思ったからだ。
だから我が子アズラムは、父である竜の事も、母であるセレナの願いの事も、何も知らずに育つのだろう。
それが少しばかり悲しかったが、それで良いのかも知れないと思う。知らない方が、きっと平和に暮らせる。
「…ごめんなさい、ミーティオ。貴方が叶えようとしてくれた願いを、私は叶えられない」
そっと手を伸ばし、宝玉と天秤を抱きしめる。
「でも、命が繋がる限り、夢も繋がると思うの。いつかは、きっと…」
セレナは目を閉じ、あの子はどんな風に育つかしらと想像を広げる。
…サーラはきっと私の願い通り、優しい子に育ててくれる。父親に似た、どこか控えめな雰囲気を持つ青年。私に似てきっと賢いわ。でもおっちょこちょいな所があるかもしれない。あの人はしっかりしているようで、どこか抜けていたから。
その姿をこの目で見られないのは、本当に残念だけど。
「生き延びて。血を繋げて。…そしていつか、取り返して。この島の未来を…」
「……」
目覚まし時計の音で目を覚ます。ゆっくりと目を開くと、ぼんやりと滲んだ視界の中に見慣れない天井が見えた。
目尻に手をやると、濡れた感触がある。どうも泣いていたらしい。
…とても不思議な夢を見た気がする。
セレナ。私のご先祖様だという女性の夢。
昨日、モリブデン侯爵邸で初めてあの黄金の天秤に触れた。そのせいでこんな夢を見たのだろうか。
泊まったのは1階が食堂になっている大きめの宿だ。目覚まし時計は朝食の予定時間の少し前に合わせておいた。
着替えて部屋を出ると、護衛の女騎士が待っていた。
「おはようございます、リナーリア様。皆様がお待ちです。ご案内いたします」
食堂に行くと、同じ宿に泊まった殿下とスピネル、先輩が既に揃っていた。王宮騎士や魔術師も別のテーブルに何人かいる。
やや遅い時間なので他の利用客は少ないようだ。席について「おはようございます」と挨拶する。
ウェイトレスによって朝食が並べられていくのを待ちながら、じっとスピネルの方を見る。
…さっき見た夢の事をミーティオに話したい。
ただの夢かもしれないけれど、話した方が良いような気がするのだ。
夢の中で聞いた、セレナとミーティオの子供の名前。ミーティオはきっと知りたいだろうと思う。
しかし人前でミーティオに話しかける訳にもいかないし、この話は王都に帰ってからにするべきだろう。
そう思って黙って目を逸らすと、スピネルが困ったように頭をかいた。
「何だよ、まだ怒ってんのか?」
「…そうですね」
別にそれが理由で見つめていた訳ではないのだが、説明する気にもならなかったので適当に返事をした。まだ怒っているのも事実だし。
「悪かったって。機嫌直せよ」
「リナーリア、本当にすまなかった…」
昨夜、あの後一言も口を利かなかったからか、殿下は見るからにしょげている。
わざと返事をしないでいると、ますます落ち込んだ様子で肩を落とした。思わず心が痛む。
うーん…でもあまりすぐに許すのもなあ…。
「王子殿下は今まで、一度も君を怒らせた事がなかったんだって?だからずいぶんとショックを受けているみたいだよ」
笑いながら言う先輩に、私は唇を尖らせる。
「…あの。私、先輩にも怒ってるんですが」
「おっとそうだったね、これは失敬!だけどそろそろ許して欲しいな!」
あっけらかんと笑う姿に、思わず毒気を抜かれてしまう。
「はあ…先輩は本当にもう…」
一つため息をつき、苦笑して顔を上げる。
「…分かりました、許します。でも、次はちゃんと話して下さいね。殿下も」
「……!」
殿下がぱっと顔を上げ、真剣な顔で何度もうなずいた。
「ああ。もう隠し事はしない」
先輩も真面目な顔になって頭を下げる。
「僕も約束するよ。本当にごめん、リナーリア君」
「…おい。俺は?」
そう言って自分を指さしたのはスピネルだ。
「貴方はだめです。まだ許しません」
「差別だろそれ!?」
「大丈夫です。先生のことも許してませんから」
「何も大丈夫じゃねえ!悪かったっつってんだろ!!」
情けないその叫びに、思わず吹き出しそうになるのを堪える。少し可哀想だったかな。
私は「仕方ありませんね」とあえて澄まし顔を作ると、テーブルの上に並んだ朝食を指さした。
「貴方がそのスクランブルエッグを差し出すのなら、許してあげてもいいですよ!」
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