世界の天秤~侯爵家の三男、なぜか侯爵令嬢に転生する 作:梅杉
揺れる馬車の窓から、スピネルは外を見ていた。
見送ってくれたリナーリアやジャローシス家の者達の姿はもう見えない。
視察の行程は一日遅れになってしまったが、この程度のずれは天候次第でいくらでも起こる。今日はとても天気が良いし、順調に進むことだろう。
「スピネル。…俺は間違っていただろうか」
ふいに、エスメラルド王子が呟いた。
沈んだその様子に、スピネルは「どうしてそう思う?」と尋ねる。
「俺は、リナーリアを守りたい。危険な目になど遭わせたくない、彼女はただ笑っていてくれればそれでいいと思う。…でも、彼女はそうは思っていないようだ」
「……」
「俺が叱った時、彼女はとても悲しそうだった」
『二度とあんな事はするな。…その時は、俺は君を許さない』
自分より王子を優先しようとした彼女に対し、王子はあえて厳しい言い方をした。
もしスピネルが王子の立場だったとしても同じことを言っただろう。彼女にそんな事をして欲しくはないし、する必要もない。それは自分の役目だ。
だが彼女は、それを悲しんだ。叱られて落ち込んだのではなく、何かとても辛い事を言われたかのように目を逸らした。
「…どうしてリナーリアは、あんな事をしたんだろう」
それはスピネルも疑問だった。
王子を助けたかったという動機は分かる。しかし明らかに自分も危機に陥っている時に、咄嗟に「殿下を」などと普通言えるものだろうか。
彼女はまだ13歳の少女で、危機があれば誰かに助けを求めるのが当然の存在だ。一人立ち向かい、自力でなんとかしろと言う人間などいない。
一昨日の夜、握手をした時の事をスピネルは思い出す。細くて小さな手だった。
あんな小さな手で、それでも「助けて」とは言わなかった。
「何故そうまで殿下を助けたかったのか」と尋ねたかったが、その前に話を逸らされてしまった。彼女はたまにそうやって、ふざけて煙に巻こうとする時がある。
何か触れられたくない事があるのだろうと、王子もスピネルも薄々勘付いている。
だから、スピネルはあえて明るく言った。
「あいつはバカだから、ただ殿下を助けたかっただけだよ。それ以外何も考えてないのが困りものだけどな。あんたが大事なんだ」
「どうしてそんなに俺が大事なんだ」
「知るか。あいつに聞けよ」
「『理由が必要ですか?』とか言われそうなんだが…」
「…言いそうだな。あいつは」
これが恋心だというのなら話は簡単なのだが、そうは見えないのでややこしいのだ。
王子も、彼女がそういう態度だったならこのように悩みはしなかっただろう。彼女の気持ちに応えるかどうか、それだけ考えればいいのだから。
「リナーリアはとても純粋だ。…だから俺は、自分が間違っているような気がして仕方ないんだと思う」
純粋。それは確かに彼女を表現するのにぴったりなのだろうが、あまり好きにはなれない言葉だなとスピネルは思った。
純粋なあまり自分の身を顧みないというのは、どこか歪んでいるように感じるのだ。
「純粋なものが正しいなんて限らない。俺は、殿下は間違っていないと思う」
殿下はあのままでいいのだと、彼女は言っていた。
スピネルもまたそう思う。王子はこのままでいいし、変わって欲しくはない。
「殿下が言った通りだ。俺たちは足りないものばっかりで、だから失敗もする。間違ってるからじゃない、力が足りないからだ」
王子は顔を上げ、それから自分の手のひらを見つめた。
「…そうだな。悩むより前に、やる事はいくらでもある」
「心配なら、あいつがおかしな無茶をやる前に殿下が止めりゃいい。俺も少しは手伝ってやる」
「お前のそれが『少し』か?」
「何のことだよ」
「本当に素直じゃないな。感謝はしているが、遠慮ならしなくていいぞ」
「だから何のことだよ」
王子は呆れたような顔をしたが、スピネルの方はあくまで「何のことかわからない」という顔だ。
「それならそれでいいが。…とりあえず、王都に帰ったら剣の稽古だな。魔術もだ。もっと鍛えたい」
「了解。いくらでも付き合うさ」
「まずはお前に追いつかなければな」
そう言って笑う王子に、スピネルは「できるもんならな」と不敵に笑い返した。