世界の天秤~侯爵家の三男、なぜか侯爵令嬢に転生する 作:梅杉
ヴォルツ・ベルトランはジャローシス侯爵家に仕える騎士である。
元々ヴォルツの家はとある伯爵家に代々仕えていて、そこの騎士団の中でもそれなりの地位にあったのだが、祖父が同僚との間に起こした揉め事が原因で放逐されてしまった。
それから間もなく祖父は病死したが、父母とヴォルツは行き場を失い困っていた。父もまた腕に覚えのある騎士だったが、問題を起こし放逐された者の息子であるために、なかなか再士官先が見つからなかった。
そこを拾ってくれたのが、ジャローシス家だったのだ。
ジャローシス家は温厚でのんびりとした家風で、その使用人や騎士たちも温和な人間が多かった。
厳格で何かあるとすぐに殴りつけてくる祖父に育てられたヴォルツは、そんなジャローシス家の雰囲気に初めのうちかなり戸惑ったのだが、すぐに気が付いた。
ここの人たちは、前にいたあの伯爵家の人たちよりずっと、生き生きと明るい表情をして働いている。
それはこの穏やかな家風のおかげなのだ。
やつれて暗い顔をしていた父や母も、ジャローシス領に来て働くようになってからはすっかり顔色が良くなり、以前よりもずっと多く笑うようになった。
この家に拾われた事はとても幸運なのだと、ヴォルツは理解した。
そしてこの恩を返すために、生涯ジャローシス家に忠誠を捧げようと誓った。祖父から教わった槍術を磨き、立派な騎士となるのだ。
ヴォルツは祖父に対しては複雑な感情があったが、先祖代々伝わる槍術には誇りを持っていた。
まだ幼いが他の子供に比べ体格の良かったヴォルツは、いくつか年上の見習い騎士の少年たちの稽古に参加する事を許された。
熱心に修業に打ち込んでいたある日、ジャローシス家の子供たちが稽古の見学にやって来た。次男のティロライトと末娘のリナーリアだ。
この兄妹はこうして時折顔を見せる。ジャローシス家は支援系魔術が得意な家系であり、騎士の動きを観察するのも勉強の一環なのだそうだ。
ティロライトは兄妹の中でも一番気さくで、同い年であるためかヴォルツにもたびたび親しく声をかけてくれている。明るい性格の少年だ。
そしてリナーリアはヴォルツよりも2歳下。青銀の髪をした美しくおとなしそうな少女で、今まで挨拶くらいしか交わした事がない。
少女はどうやら人見知りな質のようだったし、祖父に厳しく躾けられて育ったヴォルツは自分の感情を表に出すのが苦手だった。
この小さな少女からすると、自分のような無愛想な人間はきっと怖いだろうと、ヴォルツは思っていた。
稽古では1対1での練習試合が行われる事になった。
ヴォルツは槍ではなく剣を手に取った。試合となるとリーチの長い槍が有利となり不公平だからだ。
それに槍は持ち込める場所が限られているので、槍使いだろうと剣術もある程度修めておく必要がある。この国に槍使いが少ないのは、その辺も理由の一つだ。
相手はヴォルツより3つ年上の少年だった。
年上を相手にヴォルツはなかなかに奮闘したのだが、途中で足を滑らせて相手の剣を避けそこね、怪我を負ってしまった。
練習用の木剣なのでそれほど深い傷ではなかったが、運悪く剣先が眉のあたりをかすめていた。
頭部の怪我というものはとにかく血が沢山出る。一瞬にしてヴォルツの顔面は血に染まった。
ぼたぼたと零れる真っ赤な血は、まだ10歳にも満たない少女にはあまりにショックが大きい光景だっただろう。
リナーリアはわんわん泣き出してしまい、付き添っていた使用人のコーネルは真っ青になりながら彼女をその場から離れさせようとした。
ところが、リナーリアはそれを頑なに拒んだ。
ヴォルツはとても痛いはずだから、今は傍を離れてはいけないのだと言って譲らなかった。
慌てて飛んできた医術師が治療を終えるまで、リナーリアは傍らに座り込み、泣きながらヴォルツを励ましていた。
ヴォルツは大きく衝撃を受けた。
まずたった一度名乗っただけのヴォルツの名前を覚えていた事に驚いたし、大して親しくもないはずの自分を泣きながら心配してくれた事には、もっと驚いた。
後でティロライトから聞いたのだが、彼女は記憶力が良く、ここの見習い騎士の少年たちの名前も皆覚えているのだという。
「人見知りだからなかなか自分から話しかけないけどさ、前からヴォルツの事、すごく熱心に稽古してるって褒めてたんだよ」とティロライトは言った。
それ以来、ヴォルツの中でリナーリアは少し特別な存在になった。
やがてリナーリアは第一王子と出会い、みるみるうちに親しくなっていったが、ヴォルツは素直に二人の仲を応援したいと思った。
そもそもヴォルツはリナーリアが自分に振り向く事など初めから望んでいない。身分が違う。
ただ、彼女が幸せであってくれればそれで良いのだ。
それから時は流れ、成長したヴォルツは念願叶ってジャローシス家の騎士となった。侯爵から与えられた仕事は、リナーリアの護衛である。
誰よりも敬愛するお嬢様の護衛に任じられ、ヴォルツは誇らしい気持ちでいっぱいだった。
リナーリアから学院の卒業祝いにと贈られた万年筆を大切に懐にしまい、実直に、謹厳に任務に当たっていた。
…だが、しかし。
ある日リナーリアは、王子に会いに行った城の中で姿を消してしまった。