世界の天秤~侯爵家の三男、なぜか侯爵令嬢に転生する 作:梅杉
部屋の窓を開けると、夜風がそよいでふわりとカーテンが揺れた。
昼間は天気が良かったせいでかなり暑かったが、日が沈むとさすがに涼しく、風呂上がりで火照った身体には心地良い。
賑やかな虫の鳴き声に耳を傾けながら、エスメラルドは夜空へと思いを馳せる。
…結局、リナーリアとは何も起こらなかったな、と。
水霊祭のために訪れたブーランジェ領。ここで過ごすのは、今夜が最後だ。明日の朝には王都への帰路につくことになる。
無論、とても楽しく思い出深い時間は過ごせたのだ。皆でぶどう畑や大きな聖堂などを見たり、庭園で様々な花を眺めたり、騎士団の訓練に参加したり。
しかし大勢と一緒の賑やかな時間ばかりで、二人きりの時間というのはほぼなかった。
エスメラルドとて分かっている。自分で行動しなければ何も起こる訳がないのだと。
だが1日目は到着したばかりでばたばたしていたし、2日目は彼女はカーネリアと一緒だったし、3日目はブーランジェ騎士団との手合わせが盛り上がりすぎたせいで疲労困憊だった。
「…いや、全ては言い訳だな…」
目を伏せながらひとりごちる。
分かっている。自分が臆病だっただけだ。彼女の部屋を訪ねるような勇気がなかった。
自分と彼女は想い合っているのだ。来年には式だって挙げるし、焦る必要などないとも思う。
それまでゆっくりと待ち、心の準備を整えればいい。それだけの事だ。
だがもっと彼女に触れたいという気持ちがあるのも確かで、それは日に日に強くなっていく。
…スピネルが言った通り、この祭礼の旅行はチャンスだったはずなのに。
「俺はヘタレだ…」
大きくため息をついたその時、部屋のドアがノックされた。
「…あの、殿下。私です」
「!??」
エスメラルドはぎょっとして飛び上がり、意味もなくきょろきょろと周りを見て、それから慌ててドアへと小走りで近寄った。
「り、リナーリア?」
ドアの向こうにいたのは、やはり彼女だ。寝間着の上に薄手のストールを羽織り、こちらを見上げている。
「あの、湯上がりのお飲み物を持ってきたんです。…いかがですか?」
見ると、彼女の横にはいくつかの瓶やグラスが乗ったワゴンがある。
エスメラルドは一も二もなくうなずいた。
「あ、ああ。入ってくれ」
「…えっと、これ、ブーランジェ領で造られている薬草酒なんです。安眠効果があって寝酒に良いんですが、炭酸水で割っても美味しいそうなので持って来ました。あ、この炭酸水も、ブーランジェ領で採れたものだそうですよ」
そう言いながらリナーリアはグラスの中に魔術で作った氷を落とし、ライムイエローに輝く酒を注いでいく。
その頬がほんのりと赤いのは、彼女もまた湯上がりだからか、それとも。
「ど、どうぞ…」
向かい合わせのソファに座ったリナーリアに促され、エスメラルドはグラスを手に取った。
ゆっくりと傾けると、しゅわしゅわとした刺激が口の中に流れ込んでくる。
「…美味いな。少し癖のある香りだが、それが炭酸水とよく合っている」
「それは良かったです!」
リナーリアはほっとしたように微笑んだ。
「これ、昨日カーネリア様と一緒に訪ねた修道院で造ったお酒なんですよ。見学させて貰ったのですが、とても興味深かったです。そのまま飲むと結構甘いんですけど、こうして割ると飲みやすいんですよね。ぜひ殿下にも飲んでいただきたくて」
「そうだな。喉越しが爽やかで良い」
エスメラルドはできる限り落ち着き払って答えたが、内心気が気ではない。
こんな時間に、女性が一人で男性の部屋を訪ねるというのは、つまりあれではないのか。
湯上がりに飲み物を持ってくるのは普通は使用人がやる事だし、こうして彼女が来たのはきっとスピネルあたりの差金だろう。あいつは気が利きすぎる。
いや待て、リナーリアの事だから、本当にただこの薬草酒を飲ませたくてやって来た可能性も捨てきれない。
思わずじっと彼女の方を見つめると、慌てたようにグラスの酒を飲み干し、おかわりの酒と炭酸水を注いだ。
手元が狂ったのか、先程よりも明らかに酒の比率が高く色が濃い。
…絶対に動揺している。
エスメラルドは一瞬だけ目を閉じた。
ここで焦ってがっついてはいけない。
未来の伴侶として、包容力と落ち着きのある所を見せなければいけない。
彼女の緊張をほぐし、あくまで優しく、余裕を持って事に臨まなければ。
「…薬草酒か。複雑な香りだが、きっとたくさんの薬草が使われているのだろうな」
「あ、はい、そうみたいです。何でも100種類以上使っているという話なのですが、レシピは秘密だそうで…シナモンだとかペパーミントだとか香りからいくつかは推測できるんですが、さすがに詳しくは分かりませんね」
「ほう。100種類は凄いな」
思った通り、植物が好きなリナーリアは薬草の話には食いついてきた。
しかし、エスメラルドは特別薬草には詳しくない。むしろ全く知らない。話を膨らませる事ができない。
「……」
その場に落ちた沈黙を埋めるかのように、彼女は何度も小刻みにグラスに口をつけては傾けている。
グラスに寄せられる唇は、いつもよりも少し赤く色付いている気がする。
大きな青い瞳がちらりと上目遣いでこちらを見た。
かわいい。
いや、今はそんな事を考えている場合ではない。
落ち着け。深呼吸…は挙動不審すぎる、素数を数えろ。待て、数えてどうする。
「き、君は、赤ワインが苦手なのか?」
「えっ?」
リナーリアはきょとんとした。
…しまった、酒の話の続きをしようと思ったのに、唐突な感じになってしまった。
「その、前から気になっていたんだ。出された時は飲むが、自分で選ぶ時は必ず赤ワイン以外を選ぶだろう、君は」
「…そうですね。あまり、飲みたくはありません。あっ、別に、特に理由はないんですが…」
慌てて付け足した彼女に、理由がないというのは嘘だなと思う。
彼女は嫌いだとか苦手だとかではなく、「飲みたくない」と答えた。
それはきっと、赤ワインに嫌な記憶があるからだ。
あの時聞いた『前世』のエスメラルドの最期の話。
毒入りのワインを飲まされたのだと、彼女はそう言っていた。
そして、エスメラルドは思う。
…完全に話題を間違えた。
空気が重い。
先程までとは別の意味で居心地が悪い。喉の渇きを覚えてグラスの中身を一気に飲み干す。
リナーリアが立ち上がり、グラスにおかわりを注いでくれた。
ライムイエローの酒と、炭酸水。
グラスの中でしゅわしゅわと泡が立つ音を聞きながら、離れていく彼女の腕を咄嗟に掴んだ。
「殿下?」
「す、座ってくれ」
「…はい」
リナーリアは大人しくエスメラルドの隣に座った。
緊張した様子で自分のグラスを手元に引き寄せ、3杯目を作る。さっきよりも更に色が濃い。
「…この酒は、美味いな」
「そうですね。私もこれ、好きです」
「リナーリア」
彼女がグラスから唇を離したタイミングを見計らって、ゆっくりと言う。
「酒など、赤ワイン以外にいくらでもある。白ワインでも、薬草酒でも、果実酒でも、麦酒だってある」
「……?はい」
「だから、飲みたくないなら断っていいんだ。俺もこれからはもう、赤ワインは飲まない」
「えっ?」
リナーリアは驚いた顔をした。
「ど、どうしてですか?殿下、赤ワインはお好きですよね?」
「嫌いではないが、どうしても飲みたいようなものでもない」
…だって君は本当は、俺が赤ワインを飲む所など見たくないだろう。
その言葉は口には出さず、代わりに口の端を持ち上げた。
「それよりも俺は、君と同じものが飲みたいんだ。君の好きなものを一緒に楽しみたい」
「殿下…」
リナーリアは一瞬目を見開き、それから嬉しそうに笑顔を浮かべた。
「…やっぱり殿下は、お優しいです。嬉しいです…」
ふにゃふにゃと笑いながら、グラスに口をつける。すごくかわいい。
「…私、本当はこういう少し甘いお酒が好きなんです。果汁で割ったものが一番好きで…あまりたくさんは飲めないんですけど…」
「ああ」
「でも、炭酸水割りも良いものですね。冷たくすると特に美味しく感じます。…殿下、もう一杯いかがですか?」
「ああ、頼む」
リナーリアは新たに氷を作ると、自分とエスメラルドのグラスに落として酒を注いだ。
彼女と二人、ただ無言でグラスを傾ける。
複雑な甘さと、炭酸の少しの刺激。泡の弾ける音に、氷のぶつかる軽やかな音。
今度の沈黙は気まずいものではない。むしろ心地の良いものだ。
彼女と共に過ごす時の、こういう静かな沈黙がエスメラルドは好きだ。
ようやく平静を取り戻した自分に安心しつつ、しばしの間、この穏やかな空気に身を委ねる。
…その時、肩に温かいものが触れた。
さらりと流れる髪の感触。彼女が身体を預けてきている。
落ち着いていたはずの心臓が、再び早鐘を打ち出した。
穏やかさはどこへやら、緊張が全身に漲る。
今こそ手を伸ばす時ではないのか。
静かな夜、部屋に二人きり、近くに寄り添っている。
これ以上のチャンスなどあるものか。
「り、リナー…」
「……すぅ…」
伸ばしかけた手をぴたりと止める。
…彼女は目を閉じ、静かな寝息を立てていた。
リナーリアはあまり酒に強くない。だけど今日は既に何杯も、エスメラルドよりも多く飲んでいる。
この手の酒は甘くて口当たりが良いが、実はワインなどより遥かに度数が高い物が多い。
しかも安眠効果があるとも言っていた。
ゆっくりと引っ込めた手で、自分の顔を覆う。
「…お約束過ぎるだろう…!!!」
こちらは今夜、とても安眠できそうにないとエスメラルドは思った。