世界の天秤~侯爵家の三男、なぜか侯爵令嬢に転生する 作:梅杉
デーナは、このヘリオドール王国の王家直轄領の生まれだ。
リンゴを特産とする小さな村に親子3人で住んでいたが、デーナが6歳になった頃に父は病気で亡くなってしまった。
生活に困った母は知り合いの伝手を頼って領内にあるオレラシア城という小城に行き、そこで住み込みのメイドとして働き始めた。
無論、デーナも一緒に働くことになった。
貧しい平民においては、子供だろうと働いて稼がなければならない。
しかしデーナが働くのは大変だった。
小さな村での暮らししか知らず、まだ幼いデーナには、城での暮らしは分からない事だらけ。
しかもデーナは言葉が話せない。まだ生まれたばかりの頃に喉の病気を患い、何とか一命はとりとめたものの、声が出なくなってしまった。
いくら話そうとしても、喉からはかすれた息しか出てこないのだ。
話せないのでは人に物を尋ねる事が難しい。手話ならば少しはできたが、理解できる者は母以外いない。
結果、仕事を上手くできずに叱られる事が多く、デーナは物陰に隠れて泣いてばかりいた。
だがどこに隠れても、母はすぐにデーナを見つけ出した。
母は優しく慰め、励まし、そして最後に必ずこう言った。
「大丈夫よ、デーナ。神様は見ててくれる。頑張って真面目に正直に生きていれば、いつか必ず報われるわ」
デーナは母が大好きだったが、そんなささやかな暮らしは長くは続かなかった。
ある時父と同じ病に倒れ、それから間もなく亡くなってしまったのだ。
デーナは一人になった。
母の知人や同僚たちの中には親切にしてくれる者もいたが、話せないデーナはどうしても彼らに対して引け目を感じてしまう。
同年代の少女にたった一人、友達と言える相手もできたが、彼女はやがて結婚して城での仕事を辞めてしまった。
ただ毎日、起きては働き、また眠るだけの孤独な日々。
主にやるのは野菜の皮むきや皿洗いなどの厨房の下仕事、それに掃除。
洗濯もたまにやるが苦手だった。仕事そのものよりも、洗濯場の雰囲気が苦手だ。洗濯女たちはとてもおしゃべりで、下世話な話や陰口も多く、聞くに堪えない。
そんなデーナが、ある時全く違う仕事を言いつけられた。
城の西側にある塔、その中にいる令嬢の世話をしろと言う。
「この事は誰にも言うんじゃない。行く時は必ず隠し通路を使え」と念を押された。その令嬢の存在を、城の者に気付かれたくないらしい。
西の塔と言えば百年以上前、罪を犯した王族を閉じ込めるために作られたのだと聞いている。そこで狂い死んだ妃の幽霊が出るなんて噂もある。
正直恐ろしくて仕方なかったが、言われた通りに食事を持って行くと、そこにいたのは美しい青銀の髪をした少女だった。
まるでおとぎ話に出て来るお姫様のようで、とても罪人には見えない。
思わず混乱していると、少女は静かに話しかけてきた。
「…あの、私、リナーリア・ジャローシスといいます。貴女は?」
慌てて懐からメモ帳を取り出す。古紙を束ねて作ったもので、表紙にはデーナの名前が書いてある。
昔いた庭師の老人が時折気まぐれで文字を教えてくれたので、自分の名前や簡単な言葉くらいは何とか読み書きができるようになったのだ。
リナーリアと名乗った少女はメモ帳を見て少し目を丸くして、いくつかデーナに質問をし、それでデーナが声を出せない事を理解したようだった。
…きっと酷く哀れんだ顔をされるだろうと思った。あるいは、怒り出すか。
今まで何度も体験してきた。デーナが声を出せないと知らずに話しかけた者は皆、そのどちらかなのだ。
だが、彼女はどちらでもなかった。
とても申し訳無さそうに、「すみませんでした。気付かなくて…」と丁寧に頭を下げて謝った。
デーナはびっくりしてしまった。
自分のようなみすぼらしいメイドにわざわざ謝る貴族がいるなんて、夢にも思わなかったからだ。
リナーリアは、デーナが部屋を訪れるたびに話しかけてきた。
たまに部屋の外の様子について尋ねたりもするが、ほとんどはただの世間話だ。ここは風が強いとか、鳥の声がするとか、昨夜の食事を残してしまって済まないだとか。
初めは困惑するばかりだったが、デーナもそのうち、うなずいたり身振り手振りで少しだけ返事をするようになった。
すると彼女は、ホッとしたように笑う。
彼女はきっと話し相手が欲しいだけなのだろう。この部屋の扉は外から固く閉ざされ、自分以外の人間が訪ねてくる様子はない。
そう頭では分かっていても、こんなに熱心に何度も話しかけられたのは初めてで、デーナもつい嬉しくなってしまった。
だが同時に、強い罪悪感も感じた。
彼女は気丈に振る舞っているが、少しずつやつれていっている。一日中、窓もろくにないような狭い部屋に閉じ込められているのだから当たり前だ。
美しい花が萎れていくのを見るようで、胸が痛んだ。
リナーリアははっきりとは言わないが、どうやら攫われて来たのだという事はデーナにも分かっていた。
この城の主、王兄フェルグソンは尊大で野心のある人物だという噂だ。
その息子オットレが横柄な態度で使用人達を叱り飛ばしているのも、何度も見た事がある。
ここにいれば、彼女はきっと酷い目に遭わされてしまう。
早く誰か、彼女を助けに来て欲しい。
デーナはこっそりと祈った。
…それから数年。
デーナは今、オレラシア城ではなく王都にある王城で、住み込みのメイドをやっている。
あの事件でフェルグソンの悪事に加担していた者は全て処罰されたが、デーナは命じられてやっていただけであり、リナーリアが外部へ連絡を取る際に協力した功績もあって罪には問われなかった。
しかし同僚たちからはあまり良い目で見られないだろうという事で、この城に移り住みメイドとして働くよう勧められたのだ。
リナーリアの口添えもあり、デーナはその提案を受け入れる事にした。
王城はオレラシア城よりはるかに広く、かなり戸惑ったが、ここの使用人達は皆デーナに親切だった。
きっとリナーリアのおかげだろう。彼女はただ鉛筆を貸しただけのデーナにとても感謝していて、初めてここに来た時も、わざわざメイド長にデーナを紹介してくれたのだ。
今や王子の婚約者である彼女は昔からよく城を訪れていたそうで、皆が彼女を知っていた。
「自分たち使用人にも丁寧に接して下さる方だ」と評判もすこぶる良く、デーナもそれには大きくうなずいて同意した。
しかも、城には手話のできる人間もいた。家族に聾唖者がいるのだそうだ。
おかげでデーナは思ったよりもずっとすんなりと、ここの仕事と生活に慣れる事ができた。
そして今日も城の廊下の掃除をしていると、後ろから声をかけられた。
「やあ、デーナ」
箒を動かす手を止めて振り返る。衛兵のカーフォルだ。
「もう休憩時間だよ。昼食に行こう」
少しだけ微笑み、デーナはうなずいた。
彼とはこの所、よくこうして一緒に昼食を取っている。
使用人用の食堂に向かって、2人並んで歩き始める。
「そういや今日、またリナーリア様を見かけたよ。もうすぐ結婚式だから、忙しそうだ」
リナーリアと王子は仲睦まじく、時々一緒に歩いているのを見かける。
王子はあの事件の時、自ら彼女を助けに来たのだと聞く。デーナの祈りは天に届いた。お姫様を助けに来るのはやはり王子様なのだ。
まあ彼女は大人しく捕まっていた訳ではなく、自分で助けを呼んだのだが。
幸せそうなリナーリアを見ると、デーナも思わず嬉しくなる。彼女が救われて良かった。
「当日は俺も警備に参加するんだ。ちらっとでも見られたら良いんだけど。きっと凄く綺麗だろうなあ」
カーフォルはただの衛兵だが、リナーリアとは顔見知りだ。何でもタルノウィッツ領で起きたとある事件の被害者で、その事件の解決にリナーリアが関わったのだという。
彼は事件の影響で王都に移り住む事になったんだそうで、デーナとそっくり似た境遇だ。
何かと親しく話しかけてくれるのは、きっとそれが理由だろう。
故郷を離れる寂しさや心細さを知っているから。
優しい人だと思う。デーナは話せないというのに、それをあまり気にしていないようだ。
そうこう言っているうちに、食堂に着いた。たくさん人がいる。
「食事が終わったら、いつもの場所で勉強しよう」
デーナは真面目な顔でうなずいた。
実は今デーナは、カーフォルに改めて文字を教わっている。
読む方はもう大分上達したが、書く方はまだ難しい。
カーフォルから借りた本を見ながら、真剣な顔で書き写して行く。
「デーナは熱心だから、俺も教え甲斐があるよ。アイキンもこれくらい真面目に勉強してくれたらなあ」
アイキンはカーフォルの甥だ。両親が亡くなったために引き取って育てているのだと言う。
デーナも何度か会っているが、明るく元気いっぱいの少年だ。
カーフォルは勉強して商売でもやって欲しいようだが、本人は騎士になりたいと言っている。
「でも、こんなに一生懸命覚えてるのはどうしてだ?誰かに手紙でも書きたいとか?」
尋ねられ、デーナは顔を上げてうなずいた。
それから、書き取りをしていた紙の隅にある名前を書く。
「…リナーリア様に?」
デーナはうんうんとうなずき、さらに文字を書く。
「ありがとう、おめでとう…。そうか、感謝とお祝いの手紙か。なるほど」
カーフォルはにっこりと笑った。
以前とは比べ物にならないほど居心地の良いこの職場を、生活を、デーナはとても気に入っている。
周りの人達からも、「ここに来たばかりの頃より元気になったね」だとか「若々しくなったんじゃない?」だとか言われる。
以前は年よりも老けて見られたためによく30代に間違われたのだが、近頃はそれがなくなった。デーナは実はまだ20代なのである。
生きる事が楽しいと、人は若くなるものらしい。
いつかはきっと報われると言った母の言葉は本当だった。
それをもたらしてくれたのは、神様ではなくリナーリアだったけれど。
囚われのお姫様だった彼女は自分で運命を切り開き、ついでのようにデーナの運命まで変えてしまった。
…その感謝を、彼女のこれからの幸せへの祝福を、自分の力で伝えたい。だから文字を練習しているのだ。
こんな風に自ら何かをしたいと思うこと自体が、デーナにとっては新鮮だった。
「リナーリア様もきっと喜んで下さるよ」
優しくそう言ってくれるカーフォルに、デーナはほんのりと頬を染めてうなずいた。
本当は彼にも感謝の手紙を送ろうと思っているのだが、その事はまだ秘密だ。