世界の天秤~侯爵家の三男、なぜか侯爵令嬢に転生する   作:梅杉

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小さな赦し

 畑の土の上に伸びた草に手を伸ばし、ただ無心で引き抜いていく。

 昨日降った雨のお陰で土は柔らかく、いつもよりも抜きやすい。引き抜いた草を脇に捨て、フロライアは何とはなしに曇り空を見上げた。

 草むしりには丁度良い天気だ。日差しが強い時の畑仕事は、年老いた身には少々辛い。

 

 上を向いた拍子に被った麦わら帽子が風に飛ばされそうになり、慌てて押さえる。

 今日は少々風が強いが、フロライアはこのような風が嫌いではなかった。モリブデン領…今は違う名前になっているけれど。あそこも、風の強い土地だったから。

 ずっと昔に別れを告げた遠い故郷。二度と足を踏み入れる事のない場所。

 

 物思いに沈みかけた時、後ろから声がかかった。2年前にこの修道院に来たばかりの若い修道女だ。

「フロライアさん。そろそろ昼食の時間ですよ」

「ありがとう。今行くわ」

 よいしょ、とゆっくり立ち上がると少し腰が痛んだ。

 柔らかい土を踏んだせいで靴は泥に汚れている。軽く拭いてから中に入った方が良さそうだ。

 

 

 全員が食堂に揃い、昼食のパンとスープが配膳された所で、皆で祈りを捧げる。

 今日の糧を得られた事を神に感謝する祈りだ。

 いつもならばその後すぐに食事を始めるのだが、今日は修道院長が一言付け足した。

「今朝方、報せがありました。昨日、先王妃リナーリア様が亡くなったそうです」

 

「まあ…」

「あのお方が…」

 並んだ修道女達が少しざわめく。

「生涯を国のために尽くされた立派なお方でした。夕方の礼拝の時にご冥福をお祈りいたします。…草花をこよなく愛された方でしたので、お花の用意をお願いします」

 

 昼食後は、年若い修道女達が中心になって花を摘みに行くようだった。

 通りすがりにフロライアも誘われたが、「畑の草むしりがまだ終わっていないから」と断った。

 まだ若い彼女達は、フロライアが何をして、何故ここにいる人間なのかを知らない。

 …もしかしたら、知っていて気にしていない者もいるのかもしれない。まだ生まれていなかった者も多いだろうから。

 あの事件からはもう、40年以上も経っている。

 

 

 

 畑の中にしゃがみ込み、また草を引き抜いていると、草の陰から一匹のカエルが飛び出した。

 少しだけ驚いたが、ぴょんぴょんと跳んで逃げていくカエルを黙って見送る。

 若い頃は虫だとかカエルだとかは苦手だったが、今ではすっかり慣れた。もう何十年も畑仕事を続けているのだから当たり前だ。

 特別好きにはなれないけれど。

 

『リナーリアは俺のことなど関係なく、元々生き物が好きだ。だから大事にしようとする。君とは、違う』

 遠いあの夜に聞いた言葉が蘇る。

 

 今なら分かる。フロライアはリナーリアが嫌いだった。

 王子の言った通り、彼女はフロライアとは何もかもが違った。いつでも真剣で、何にでも真面目だった。

 正しい行いをする事を、大切なものを守るために戦う事を、何一つ迷わなかった。

 その愚かしいほどの真っ直ぐさが、妬ましかった。

 

「…私よりも早く、逝ってしまったのね…」

 ポツリと呟く。

 まだ60をいくつか過ぎたばかり。貴族としてはやや早い死だ。

 きっと忙しい人生だったのだろう。フロライアには想像もつかないような多くの苦労をしたはずだ。

 でも、満足して逝ったに違いないと思う。彼女は、目標のための努力を惜しまない人だったから。

 

 彼女が立てたいくつもの功績は、この僻地の修道院にまで届いていた。

 新しい魔術や魔導具の開発。福祉や医療の拡充。…そして、島の外への進出。

 夫である前国王エスメラルドを支え、現国王ネフライトを育て上げた。

 ネフライト王は堅実で温厚な王であるという。この国の平和は、まだこれからも守られていくだろう。

 

 

 草むしりを終えて立ち上がった時、ふと近くに植えられた薔薇の花が目に入った。

 薔薇が好きだったリナーリアは国民の間では青薔薇の王妃と呼ばれていた。

 青薔薇は珍しいものなのでここにはないが、彼女が学院で時々着けていた白い薔薇の髪飾りの事を思い出す。

 あれは彼女のために王子殿下が贈ったものに違いないと、皆が噂をしていた。

 

「……」

 ポケットに入れてあった剪定用のハサミを取り出し、一輪の白薔薇を摘み取った。

 丁寧に棘を取った所で、あたりに鐘が鳴り響く。

 礼拝の時間だ。

 

 

 礼拝堂に行くと、既にほとんどの修道女達が集まっていた。

 祭壇には沢山の花が飾られ、どこからか用意されたリナーリアの小さな肖像画が置かれている。

 フロライアは無言でそこに近付き、持ってきた白薔薇を花瓶の中に加えた。

 

 …彼女はあの日、牢の中のフロライアに向かって「これから先もずっと許す気はない」と言った。

 でも、この花くらいはきっと、黙って受け取ってくれるだろう。

 

 

 

 礼拝はいつも以上に静かで厳かな雰囲気で行われた。

 リナーリアがこの国にどれほど貢献をしたのか、どんな若い者でも少しくらいは知っている。

 フロライアもまた冥福を祈った。

 自分などが祈るまでもなく、彼女は天国に行けただろうけれど。

 

 礼拝とささやかな夕食を済ませた後、フロライアは修道院長に呼ばれた。

 どうしたのだろうと思いながら部屋に入ると、フロライアよりもいくつか年嵩の老いた修道院長は、机の引き出しから一枚の小さな紙を取り出した。

 

 差し出されたそれを受け取る。

 白い厚紙に、風景画が印刷されている。未使用の絵葉書のようだ。

 どこか懐かしさを感じさせる、のどかな田園風景。その隅に描かれたサインが気になり、目を細めて確かめる。

 …ビスマス・G。

 

 

「…これは!?」

「リナーリア様からです」

 思わず顔色を変えたフロライアに、修道院長は静かに答えた。

「私宛に手紙が届きました。お亡くなりになる少し前に書かれたもののようです。絵葉書はその手紙に同封されていました。…貴女に渡して欲しいと」

 

「……」

 動揺しながら絵葉書を見つめる。この絵を描いたのは、まさか。

「その絵葉書は、ジンサイン刑務所で作られたものだそうです」

「!」

 

 必死で記憶を探る。

 確か、老いた者や傷病があって身体が不自由な者ばかりが服役する刑務所だったか。そこでは身体に負担の少ない小物作りや軽作業をするのだと聞いたような気がする。

 絵葉書作りも、それの一環なのだろうか。

 

 

「…こ、これを、描いた人は…まだ、生きているのでしょうか」

「ええ。その方は昔は鉱山近くの刑務所に服役していたけれど、10年以上前にそこで起きた崩落事故に巻き込まれ、近くにいた者を庇ったために左腕が動かなくなったのだそうです。それでジンサイン刑務所に移されたと、手紙には書いてありました」

 

 …ああ。彼は今も、罪を償っているのだ。

 そこで誰かを助け、障害を負った。

 

 胸が強く締め付けられ、涙が溢れる。

 懐かしい、遠い遠い記憶の中の彼の笑顔。あの日家族を失うまでは、ビスマスはとても優しかった。

 あの頃の優しさを、今はきっと取り戻せたのだろう。

 

 

 黙って涙を流すフロライアに、修道院長が言葉を続ける。

「手紙にはこうも書かれていました。フロライアさん、貴女の罪に対し、僅かな恩赦を与えると。…これより先、貴女は外に自由に手紙を出す事ができます。どんな場所、どんな相手に対しても」

「……!!」

 

 罪人であるフロライアは、今まで自由に手紙を出す事ができなかった。宛先は限られ、中身も検閲されていた。

 元々、手紙を出したい相手などほとんどいなかった。貴族の友人達は当然連絡を断っていたし、かつての家臣や領民達と時折近況を交換していた程度だ。

 

 唯一手紙を出したい相手…ビスマスには送れなかった。送れないと諦めていた。

 同じ事件に関わった罪人同士での連絡など許されない。

 それに、彼がどこにいるのかをフロライアは知らなかった。生きているのかどうかすら、知らされなかった。

 

 …だが、彼は生きていた。

 涙に滲んだ視界に映る、田園を描いた絵葉書。

 これは今いるというジンサイン刑務所から見える風景を描いたものだろうか。

 

 

「…良かったですね」

 修道院長の暖かな手が肩に乗せられ、フロライアは小さく嗚咽を漏らした。

 こんな風に泣くなんて、一体何十年ぶりだろう。

 

 やっと彼に伝える事ができる。あの頃はとても言い出す勇気がなかった、謝罪の言葉を。

 彼はきっと許してくれないだろうけれど、それでも。

 

 

 リナーリアに深く深く感謝を捧げる。妬ましくて、少し嫌いだった彼女に。

 彼女もきっと私の事が嫌いだった。いや、憎んでいただろう。彼女の大切な人を殺そうとしたのだから当然だ。

 別れ際に「さようなら。お元気で」と言った、あの冷たい一瞥をよく覚えている。

 

 でも、とても真っ直ぐで優しい彼女は、もしかしたら私の事を長い間気にしていたのかもしれない。まるで喉の奥に刺さった小骨のように。

 だから最後にこうして、小さな恩赦とこの絵葉書をくれたのだろう。

 

「ありがとう、リナーリア様…ありがとう、ございます…」

 今は遠い空にいる彼女に呼びかけると、脳裏の彼女は少し微笑んだ気がした。




フロライアはこの後も10年以上長生きしました。
エスメラルドもこの時点ではまだ存命で、もう少し長生きします。
第166話で「俺は決して、君を置いて死んだりはしない」と言った約束をちゃんと守りました。
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