世界の天秤~侯爵家の三男、なぜか侯爵令嬢に転生する 作:梅杉
挨拶回りが一段落したところで少し座って休むことにした。この後ダンスを踊るのだから体力は温存しておいた方がいいだろう。
前世は剣術も一応やっていたからもう少し体力があったが、今世では剣はほとんど振っていない。
その代わりに刺繍やら音楽やらをやらされているが、これらはほとんど体力に結びつかない。もっと運動しなければだめだろうな…。
ティロライトお兄様は少し離れたところで友人と話しているようだ。
壁際には軽食なども用意されているが、コルセットがきついのもあってあまり食べる気にならない。
飲み物だけ少しもらってぼんやり会場を眺めていると、やっと挨拶行列が終わったようだ。
いつの間にかやって来て準備をしていた王宮楽団が静かに音楽を奏で始める。舞踏会の開始の合図だ。
あちこちで人が動き始める。
やや緊張した表情のご令息達が、お目当てのご令嬢の元に向かう。嬉しそうに、あるいは恥ずかしそうに頬を染めてその手を取るご令嬢達。
青春だなあ…などと言っている場合ではない。私もお兄様と踊らなければ。
お兄様も友人と別れ、こちらに歩いてきていた。立ち上がり、差し伸べられたお兄様の手を取ろうとした時、私の横に一人の男が立った。
「やあ、こんばんは。リナーリア」
「…アーゲン様」
驚いてその顔を見上げる。艷やかな黒髪に青い瞳の、物腰柔らかな…しかしどこか油断ならない雰囲気を持つ少年。
パイロープ公爵家の嫡男、アーゲンだ。後ろには腹心のストレングもいる。
二人共私と同い年、今年新入生となる貴族令息である。
「こんばんは、アーゲン様。お久しぶりでございます」
パイロープ公爵家は代々この国の重鎮であり、その権力は全貴族の中でも5本の指に入る。我がジャローシス家とは比べ物にならない大物だが、領地が近いので良好な関係を保っている家だ。
私も以前から面識があり、年に一度はお茶会やパーティーに招かれていたが、今日はまだ挨拶ができていなかった。姿が見当たらなかったように思うのだが遅れてきたのだろうか。
「君と会うのは春先以来かな?見違えたよ。君は年を追うごとに美しくなっているが、今宵はひときわ皆の視線を奪っている。君のお母上に勝るとも劣らない。まるで湖の妖精のようだ」
「ありがとうございます。とても光栄です」
微笑みながら頭を下げる。我が家が水の魔術の使い手だからか、この母譲りの銀髪や青い瞳のせいか、湖の妖精というのはよく用いられる例えだ。
しかし、どうして今声をかけてきたんだろう?もうすぐダンスの曲が始まってしまう。
このタイミングで声をかけてくるというのはつまり、ダンスを申し込もうとしている事になるが…。まさかそんなはずがないと思いつつ、では何故かというと理由が見当たらない。
何しろ彼はパイロープ家の跡取りなのだ。この会場にいる新入生の貴族令息の中では、殿下に次ぐ地位がある。私のような下っ端侯爵家ではなく、もっと家格の高いご令嬢をいくらでも望めるはずだ。
まさか誰とも約束していなかった?どうして?
戸惑う私に、彼は優しげに微笑む。
「リナーリア。良かったら僕と…」
「待って下さい」
アーゲンが手を差し出しかけた時、どこかから聞き慣れた声が聞こえた。
…スピネルだ。何故かやけに慌てた様子で、こちらに向かってきている。
何が起こっているのか理解できないまま固まっている間に、スピネルは私の横へと立った。真剣な表情でアーゲンへと向き合う。
「アーゲン殿。申し訳ないが、ここは俺に譲ってはもらえないか」
私は思わずびっくりしてスピネルを見た。…何言ってんだこいつ?
「…僕が?君に?」
アーゲンが片眉を上げる。表情こそ面白がっている風だが、目が笑っていないように見える。
当然だろう、スピネルとアーゲンはどちらも公爵位を持つ家の人間だが、アーゲンのパイロープ家の方が力が強い。スピネルは王子の従者という特殊な立場だが、それは直接権力の強さになる訳ではないのだ。
アーゲンは数秒の間スピネルと私の事を眺めていたが、ふっと笑うと「いいだろう」と一言言った。
「君に貸しを作るのも悪くなさそうだ。…リナーリア、君とのダンスはまた後で。僕は大人しく順番を待っているよ」
「は、はい…」
なんとか返事をし、戸惑いながらもおずおずと横のスピネルを見上げる。
スピネルは私の斜め後ろにいたティロライトお兄様を見た。驚いた顔で様子を見守っていたお兄様が、我に返って「どうぞ」と笑う。
「…リナーリア。俺と踊ってくれないか」
スピネルは真面目くさった顔でそう言い、私は笑みを繕いながらその手を取るしかなった。
ワルツが始まった。
私は慎重にステップを踏みながら、目の前のスピネルへと向かって小声でささやく。
「…びっくりしました。どういう風の吹き回しですか」
「俺にも色々都合があるんだよ」
「はあ…何が何だか…」
急に色々と起こって頭がついていかない。それ以前に、考えていたらステップを間違えそうだ。
スピネルは的確にリードをしながら、表情だけはいかにも優しげに私へささやきかける。
「いいから黙ってダンスに集中しろ。喋ってて舌を噛んだらどうする」
「噛みません」
「ドレスの裾を踏むなよ」
「踏みません」
「俺の足も踏むなよ」
「それは踏むかも知れません」
そう答えると、スピネルは周囲にばれない程度にごく僅かに私を睨んだ。
「ちゃんと上達したって言ってたよな?」
「そうですね」
…良かった。何だか分からないが、やっぱりいつものスピネルだ。
「心配しなくても大丈夫ですよ。練習の成果を見せて差し上げます。スピネル
優雅に微笑んで見せると、スピネルは一瞬だけにやりと笑い、また澄ました顔で私をリードした。