十数階建てのランダル本社巡ヶ丘支部は、もはや人の営みを感じさせない廃墟と化していた。窓の外には瓦礫や焼け焦げた車両、崩れた屋根、ひび割れた舗道が広がり、街全体を覆う腐敗臭と静寂が異常な緊張感を生んでいた。
籠谷は廊下の角に身を潜め、冷静に周囲を観察する。左手薬指にわずかに触れる結婚指輪の感触は、普段の生活を思い出させるが、今は単なる存在確認の合図でしかない。任務に必要な集中力を切らす余裕はない。視界に入る情報を瞬時に整理する。廊下の幅、倒れたオフィス用品、階段の状態、群れの配置、さらには音や匂いまでも計算に入れる。
上層階で籠城していた社員の多くは、すでに屍の襲撃で命を落としていた。いや、正確に言えばまだ生きている者は数人いる。いるにはいるが…。
廊下には血痕が点在し、倒れた同僚たちの姿が生々しく残る。悲鳴の残響が頭の奥にこびりつき、心を揺さぶる。しかし籠谷は感情に流されない。恐怖や悲しみは、瞬間的に行動の判断力を鈍らせる。それだけは避けなければならない。
彼女の隣に立つ██は、表情を引きつらせ、声も震えていた。
「籠谷さん…一緒に…」
籠谷は落ち着いた声で告げる。
「██さん、ここからはあなた一人で脱出してください。私はここに残ります。やらないといけないことがありますので」
██は一瞬、驚いたように目を見開き、声を詰まらせる。
「でも、籠谷さん…私、怖い…」
籠谷は肩に手を置き、穏やかに言う。
「怖いのは当然です。でも、あなたは生き残るためにここを出る。私はここに残って戦う。お互い、それだけを考えましょう。」
██は少しの間逡巡した後、小さく頷き、非常階段の方へ歩き出す。振り返ることもできず、後ろ姿に籠谷は視線を固定する。彼女を守ることはできない。しかし、この行動こそが最善の策であり、任務を全うするための冷徹な判断であった。
籠谷が廊下を進むと、群れが待ち受けていた。倒れた同僚たちの血痕に引き寄せられるように蠢く屍の集団。廊下は狭く、数歩ごとに障害物があり、群れの動きを制限できる。しかし、一度の油断が致命傷となる距離感だ。
彼女は深く息を吸い、冷静に状況を解析する。敵はステージⅣ SCP-████-JP-Ωに感染した個体だ。筋組織は酸素供給効率の異常上昇により、正常なヒトよりも数倍の筋力があり、持久力も常人の数倍に達する。心肺機能は停止もしくは著しく低下している状態であっても、筋肉は臓器不全に影響されず活動を継続する。血液の粘性は異常に高く、損傷しても出血はわずかに留まり、体液から発生するSCP-████-JP-Ωはその強力な感染力で瞬時に拡散する。
彼女は微量の自血を用いたアスペクト放射を起動した。視界に微細な波動が現れ、局所的因果律操作が展開される。SCP-████-JP-Ωの感染能力を強制的に無効化する処理だ。無論、この市に来てからはSCP-████-JPを遮断するために微弱なシールドを常に展開し続けている。しかし、この処理では空気中に漂う感染媒介粒子を瞬間的に凝縮し、周囲の因果律フレームに封じ込める。彼女は呼吸を整え、廃墟の奥から低く唸る音を聞き取る。黒い瘴気が渦巻き、床の水溜りに触れると泡のように弾ける が、それは瞬時に消滅する。因果律操作が、感染媒体を物理的に「存在させない」状態に固定していた。
突如、ある一体の個体が異常な筋力でもって床を蹴り彼女に向かって跳躍 正確に言えば、捕食行動のために異常な筋力の足で床を押し出し、結果的に跳躍したように見えた。個体はそのまま、半ば無理やりな形で距離を詰める。彼女は反射的に右手を振り、微細な局所重力制御で跳躍の軌道を僅かに逸らす。
「っふう…聞いていた話と違って動きが速い…。異常個体か?」
個体の四肢が壁にぶつかり、膝を屈して床に着地した瞬間、彼女は因果律操作の強度を上げ、個体の体内で生成されつつあるSCP-████-JP-Ωの増殖因子を切断する。瞬間、個体の筋繊維がわずかに震え、咬みつきの動作が一拍遅れる。
「理屈はさっぱりだけど、奴の体内のΩを減らせば何とかなる…?それならッ!」
彼女の視界に、局所的な波動が線として見える。因果律操作の可視化だ。ステージⅣ個体の筋肉、血液、細胞における因果律 Ω生成の未来が、無数の光線のような形で分断され、黒い瘴気の塊が瞬間的に細かく崩れて空気に吸収される。籠谷はその場で踏み込み、障害物を利用して個体を廊下の角に追い込む。
個体は捕食行動を変え、低く唸りながら前肢を広げ、全身を床に押し付けて這いずる。筋組織の異常な収縮力により、瞬間的に数メートルを滑るように突進する。床に散らばった瓦礫は押しのけられ、彼女の予測軌道を試すように四肢が跳ねる。彼女は局所因果操作を微調整し、接触した瞬間に体液や瘴気の感染効果を打ち消す。触れるもの全てが“因果的に存在しない”ように見える瞬間、接触の危険はゼロに固定される。
しかし個体は止まらない。個体は一体ではなく“群れ”だからだ。異常個体ではないステージⅣ個体の群れによる咬みつきや体当たりによる攻撃が連続し、籠谷の防御が崩される。彼女はEVE波動によって敵の意図を予測する。微妙に歪む光線を基に瓦礫の跳ね返りや空間の微細な振動を分析し、局所的因果律操作の強度を変動させる。敵の筋収縮タイミングを数ミリ秒遅延させ、跳躍の頂点を少しずつずらしていく。
戦闘は数分に及ぶ。異常個体は圧倒的な捕食本能で籠谷を追い詰めようとする。だが彼女は、障害物と因果律の複合網を操り、攻撃と接触の危険を逐次消滅させる。局所的空間に漂う瘴気は、光の粒子となって瞬間的に散乱し、Ω生成の未来は切断される。彼女の奇跡論的介入によって、異常個体の動きは封じられていく。
最後の追い込みとして、彼女は意識を一点に集中させ、全身の局所因果律操作を最大化した。異常個体の内部で生成されるSCP-████-JP-Ωの分子鎖が光線のように走り、全て断裂する。瘴気の渦は白色の閃光に変わり、廊下に散らばった水滴や瓦礫に触れた瞬間、完全に蒸発した。異常個体は立ったまま、全身の筋肉が震えるだけで、捕食行動は完全に停止した。籠谷は咄嗟に接近し、周囲の環境を固定した上で、異常個体における全ての因果律封じ込めを行う。
そして、他の個体に対しても同様の処理を行い、やがて周囲に存在する全てのSCP-████-JP-1を無力化した。
籠谷は疲弊しきり、崩れ落ちるように床へ倒れ、呟く。
「異常個体だったとはいえ…たった数体でこの有様か…。」
廊下は静寂に包まれ、そこには圧倒的な危険が潜んでいた痕跡だけが残る。ステージⅣ感染個体は“物理的存在”としてそこにいるが、因果律操作により、彼女がΩに感染する危険は完全に封じられた。籠谷はゆっくりと呼吸を整え、次の局面に備える。
屋上に残る静寂は、籠谷の呼吸だけが響く異様な空間だった。廊下の群れは完全に撃退され、階下には倒れた同僚たちの姿が点在する。荒れ果てたビルの窓から差し込む夕日が、瓦礫の上に斑模様の影を落とす。彼女は指輪に触れる左手を軽く握り、深く息をついた。疲労と緊張が肩に重くのしかかる。
彼女の視線は遠く、瓦礫の街を見渡す。先に脱出した██のことが頭をかすめる。無事に脱出したはずだが、合流することはできない。胸の奥に小さな痛みが残る。しかし、任務はまだ終わっていない。
その後暫くして、上空でローター音が響き始めた。彼女はこれ以上の調査続行は困難とみなし、緊急事態信号を発信したためだ。財団のヘリが、指定の着陸地点に向けて降下してきている。彼女は素早くビルの屋上端に移動し、ヘリコプターのブレードが作る風に髪を乱されながらも、冷静に着陸ポイントを確認する。瓦礫や倒木を避け、ヘリパッドの安全な場所に足を置く。
「エージェント・籠谷、こちらヘリ。屋上確認済み。搭乗準備を」
無線越しに指示が届く。彼女はヘリコプターに乗り込む直前、後ろを振り返って見る。振り返れば、このビルに籠城していた他の社員たちの死体が目に映る。彼女は目をそらすことなく、その事実を受け入れる。そしてそのまま感情を押し殺し、ヘリコプターの梯子を素早く登り、機内に乗り込む。
彼女が座席に固定されると同時にヘリコプターは揺れ、瓦礫の街を後にして上昇を開始する。眼下には、群れとの戦闘痕と廃墟の街が広がる。
彼女は深く息をつき、心の奥で微かに安堵する。だが、油断は許されない。空から見える街の惨状、瓦礫に転がる残骸、沈黙に支配された道路は、まだ危険が残っていることを告げていた。
ヘリコプターは海上に向かって飛行を続ける。目的地は財団所有の空母。空母上での安全な収容と、情報整理、さらに次の任務への準備が求められる。彼女は機内で装備を点検しながら、戦闘の振り返りと戦術分析を頭の中で行う。即席防御策や誘導戦術の成功点、改善点、そして失った同僚たちの顔が脳裏をかすめる。
次第にヘリコプターは海上に広がる霧の中へと進んでいく。視界は限定的だが、空母の輪郭が遠くに見え始める。彼女は左手の指輪にそっと触れ、過ぎ去った戦闘の緊張と、避けられぬ悲劇を噛み締める。しかし、彼女の表情には疲労と共に、揺るがぬ決意が浮かんでいた。任務は終わらない。生存者の保護、街の安全、そして群れの脅威が完全に排除されるその日まで、彼女は行動を止めることはない。
空母の甲板に降り立った瞬間、冷たい海風が体を包む。背後に広がる瓦礫の街、廃墟となったビルの影、そして戦闘の余韻が、彼女の内に深く刻まれる。彼女は荷物を整え、通信機を再確認し、任務報告を送信する。生存者の確保、状況の分析、次の作戦のための情報収集。全ては淡々と、しかし確実に進められる。
エージェント・籠谷は次の任務に向けて心を切り替える。吹き付ける風により肌寒い中、彼女は黙禱を捧げながら、静かに財団職員として最後まで職務を全うする決意を胸に刻んだ。
奇跡論難しすぎます。
この作品はクリエイティブ・コモンズ 表示-継承3.0ライセンスに基づき作成されています。
〇参考
████████████教授の応用奇跡論の講義の書き起こし
http://scp-jp.wikidot.com/goc-supplemental-thaumatology
████████████教授の講義の書き起こし:エーテルエネルギーとアスペクト放射について
http://scp-jp.wikidot.com/goc-supplemental-arad
████████████教授の講義の書き起こし:奇跡論の構造
http://scp-jp.wikidot.com/goc-supplemental-thaumworkings