その日、胡蝶しのぶが貰い受けたのは医術について事細かく書かれた洋書と、翻訳のための辞書だった。
鬼殺を使命とするしのぶが人を救うことは少なくない。今日はたまたま商人だという人を助け、しのぶが薬学に通じる人だと知るや否やこれ幸いと洋書や珍しい薬の素材を包んで持たせてくれた。
蝶屋敷に帰り、治療に入っていた何人かの症状を見て薬の調合をメモしアオイに渡す。
あの人はもうそろそろ任務に復帰させていいでしょう、こっちはあまり思わしくないので後回し、洗濯に掃除に、気づけばとっくのとうに太陽が頭のてっぺんを回っている。
アオイに叩き出されるようにして湯浴みをし、ふらふらと寝室に戻ってからベッドに入らず貰い受けた洋書を、胸を躍らせながら開いた。
「……これはこれは、」
西洋の言葉で書かれた洋書を今までにいくらか読んだことはあったが、これはどうも……文量が多そうである。
ひとまず手元に紙を手繰り寄せ、ガリガリと気になる単語を書き連ね、辞書で調べては単語を紡ぎ、そうしてこの洋書が統計学や看護に基づく書物だということを理解する。
読み解けば読み解くほどに興味深く、面白く、洋書の端に書かれた注意書きのようなメモのようなものでさえ貴重な情報が書かれていて、
しのぶはどんどんと呑まれに飲まれて、そうして気づいたのが統計学にも医学にも関係のない、手慰みで書かれたような一枚の紙だった。
「……陰陽師の描きそうな陣ですねぇ」
しのぶはくすくすと笑う。
こういった手合いのものは男の子が好きだったか。手慰みにでもなりそうなものなら、この洋書を貸し出し可にしてもいい。
カリカリと辞書で調べた単語を並べて文を作る。
書いてあることが例え誰かの惚気や愚痴であっても、語学の勉強にはいい薬になる。
「素に銀と鉄」
思考を整理するために言葉に出すのは大事なことだった。
藤の匂いの立ち込めるこの部屋で、既に徹夜を超えて動いているしのぶは気づけない。
「礎に石と契約の大公
降り立つ風には壁を。
四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ。
繰り返すつどに五度。
ただ、満たされる刻を破却する。
――――告げる。
汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。
聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ。
誓いを此処ここに。
我は常世とこよ総すべての善と成る者、
我は常世総ての悪を敷しく者。
されど汝はその眼を混沌に曇らせ侍はべるべし。
汝、狂乱の檻おりに囚とらわれし者。
我はその鎖を手繰たぐる者――。
汝 三大の言霊を纏まとう七天、
抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ―――」
ぶわり、小さな魔方陣が光を放つ。
風の吹かないはずの部屋の中をぶわりと風が舞い、そうして一人の人間が光を纏ってそこに降り立つ。
「召喚に応じ、参上いたしました。あなたが私のマスターですね」
鬼殺隊の服によく似た、けれどどこか警官を思わせる赤い洋装。
長く伸ばされた髪を結わえ、括って。端正な顔立ちの彼女はどこからともなく現れて、鬼とも違う赤い瞳が私を見つめた。
「……ど、どなたでしょう……」
▼
鬼殺隊の医療を担う場所──蝶屋敷。
怪我を負った隊士は皆ここに運ばれ、医師や蟲柱である胡蝶しのぶの治療を受け、回復機能訓練を持って任務へまた旅立っていく。
そんな場所に現れた女──フローレンス・ナイチンゲールは、自身を「婦長」と呼ぶようにと言い、今日も傷ついた隊士の看護にあたっていた。
「消毒! 殺菌!」
彼女は蟲柱の胡蝶しのぶのことを「マスター」と呼ぶ変わった女性だった。
高い身長、いつ寝ているのかも、いつ食事をとっているのかもわからない。気づかないうちに部屋や背後にやってきて、隊士たちの健康状態を紙に記入し、必要があれば処置をして不要であればそっと去っていく。
それが朝であろうと夜であろうと関係ない。手に持たれた小さな灯りを頼りに枕元へ立ち、患者の容態を確認する姿はいつしか傷ついた隊士の心の救いになった。
……微々たる怪我をしたとしても、何故か見抜いてきて強制治療に入ろうと抑え込んでくる姿はとても恐ろしかったが。
そんな婦長を見て目を白黒させていたのは、隊士だけではない。
召喚されたあの日、婦長としのぶは盛大に疑問符を浮かべたものだった。
「……聖杯戦争、ですか」
「願いを叶える万能の器。それを稼働させるための聖杯戦争。本来であれば、私はそのために召喚されるはずですが……どうにも様子がおかしいようですね。この時代のこの場所は聖杯を降ろすには些か不向きなようですし、そもそもマスターは魔術師ではないようですので」
「魔術の類も、陰陽の類もからきしです。話としては好きなのですが……」
「ふむ……まあ、いいでしょう。私としてはマスターから伺った状況の方が優先事項のようですから」
時間の無駄だとお互いの状況を瞬時に理解すべく設けられた話し合いの場で、婦長としのぶは互いについて惜しむことなく話した。
すぐに座に還ることも考えなくはなかったが、ここが医療施設であり、怪我人がいて、鬼という「病気」が蔓延しているというのなら話は別だった。
「私が来たからには、どうか安心なさい。すべての命を救いましょう。すべての命を奪ってでも、私は、必ずそうします」
その言葉通り、蝶屋敷は瞬きの間に婦長が胸を張って誇る医療機関へと成長したのだった。
▼
記憶がある。
忘れられない、忘れてはいけない地獄を見た記憶が。
そう、私は地獄を見た。
私は決してクリミアを忘れない。
親に恵まれ、環境に恵まれ、歴史や語学、音楽をはじめ様々なことを学んだ。
知識も志も、全てが暖かで清潔な毛布の中で育まれ、そうして私はあのクリミア戦争に赴くことになったのだ。
自分で望んだ道だった。
女だからと排除されようと、私には使命があった。誰かの命を守って、明日を迎えるためにこの身を擦切らしたかったのだ。
……あそこは、クリミアは地獄だった。
野戦病院は不潔で、不衛生で、傷ではなく感染症で命を落とす人間が多かった。
消毒と殺菌を、澱んだ空気を入れ替える換気をしっかりと。
──命が終わる前に、命を救え。それが、彼らの命を奪うことになったとしても。
ほんの少しの傷にでさえ死がついてくる。
血濡れの彼らに残された時間はどれほどなのか。
穏やかに迎える最後を私は許さない。
一人でも多く帰すために。
明日の朝陽を、共に迎えるために。
それが私の誓い。
それが私の怜侍。
それが、私の使命で誇りであるならば──
「……しのぶ、それは、私に対する侮辱です」
「……見つかってしまいましたか」
──自室で一人藤の毒を食むマスターを、私は殺してでも止めなければならない。
フローレンス・ナイチンゲール
バーサーカーとして胡蝶しのぶにより召喚された。
鬼殺隊や鬼の説明を受け、鬼を「病気」と判断。駆除に向かおうとする最中に、蝶屋敷で負傷した隊士を見つけて急ブレーキ。
呼吸は使えないが刀を貰ったり銃の弾丸に諸々仕込むことで戦うことも可能。
会話は鬼殺隊の説明を受けた時と、英霊としての自分について説明した時に終了した。
しのぶの令呪は蝶のような模様。密かに婦長のお気に入り。