人知れず結んだ契り
暗闇に走った僕の手を
離さないで引き戻した君の手
昏く冷たい世界が暖かいのは君がいるから
既に街の向こうへと陽が落ちて、電柱に据え付けられた靄がかかった白い光が道を照らしていた。少しだけ夜の街は冷えた。ブロック塀で出来た花道を、風が通り抜けていくから。
僕は何度も深く深呼吸をして、ブロック塀に埋め込まれたボタンを押していた。ボタンの上で静かに明かりを小さく放っている、赤いランプが少しだけ不気味だった。
『はーい、今出まーす』
僅かながらにノイズの混ざったリサの声。10秒と経たずに、肌寒そうな格好で、リサが表に出てきた。
「ちょっとだけさ、外、散歩しない?」
「なになに? デートのお誘いかな?」
「こんな暗くなってからデートなんか……いや、デート、かな?」
自分から誘い出しておいて、それを逢瀬じゃないと言い張るなんて、今更図々しいこと極まりなかった。悪戯っぽく、クスクス笑ったリサの揶揄いは胸に仕舞い込んで、僕は努めて笑顔で返して見せた。
「うん、デート。ダメかな?」
「……せっかくだからお供しようかな?」
「お供って……はは」
愉快な物言いで、夜の少し澄み過ぎた空気を和ませるリサの手を取った。
「普段のRoseliaの練習、相当キツそうだから。ちょっとだけでも息抜きした方がいいかなって」
「……気にかけてくれてありがと。でもそんなに心配しなくても、アタシは大丈夫だよ?」
「そういうことに、しとこうかな」
僕は玄関灯の消えたドアの前で、リサの柔らかな手を握りしめた。暗くてリサの顔はよく見えなかったけど、差し込んだ明かりの影が少しだけ揺れたような気がした。
「それじゃあ、行こっか?」
「その格好で大丈夫? 寒くない?」
「寒いっていうような季節じゃないからねぇ」
どういうわけだか真っ暗に広がっていた世界に揺れていた、人の明かりの影に気づかないまま、僕たちは夜の薄暗い町へと繰り出した。
リサの疲れや、日々の努力を少しでも労おうと、そういうためだから、それほど遠出をしてしまえば本末転倒だし、人が多いところに行くのも右に同じだ。だから僕は、家の近くを流れている川の方に向かって、リサを連れ出した。
「この時間にもなると静かなんだね」
「……うん。僕はこういう落ち着いた夜の町も好きなんだけど。リサは?」
「えーどうだろう。心は少しだけ落ち着くけど、あんまり暗いと、怖いかな?」
斜め上から差し込んでくる白い街灯が僕たちの道に影を作る。光の進むスピードは何よりも早いというのに、光が作る影は実像には追いつけない。
「……前から思ってたんだけど、柳って9時とか10時とか、そんな時間でも結構外を出歩いたりしてるよね?」
「……あれ? 知ってたんだ」
「うん、アタシの部屋の窓から見えるからさ、たまーに夜遅くに帰ってきたりとか、逆に手ぶらで家を出る柳とか」
「……まぁ、ルーティンみたいなところかな……。と、ついたね」
僕たちは家と家の谷間を抜けて、小さな川に架かる橋を越えて、真っ暗になってしまった木々が手前側に生い茂って公園に着いた。お昼や夕方であれば、幼い歓声が聞こえてきそうなものだが、流石にこんな時間になると人っ子1人として居ない。
「この時間の公園、こんなことになってるんだ」
「静かで、居心地がいいんだよ。いるのなんてせいぜい野良猫ぐらいだからね」
そういえば友希那も、なんて言いかけて、僕は静かに口を噤んだ。今はそんなこと、どうだって良いんだって。忘れかけて居た自分を宥めすかすように語りかけた。2人してちょっとだけヒンヤリとしたベンチに腰を下ろして、星空の下で、他愛もない話に興じた。
「……ふぁぁ」
「もう眠い?」
「……わ、ごめん。欠伸しちゃってた」
「夜も結構遅いもんね」
「……うん。明日も早いからなぁ」
休日だというのに、リサが家を出る時間はかなり早い。それこそまだ僕がまだ睡魔に抗い続けている時間。……いや、これは僕が起きる時間があまりに遅いからかもしれないけど。
「最近やっぱり、忙しい?」
「そうだねぇ。Roseliaの練習、かなり本格化したからなぁ」
「……近いもんね、コンテスト」
僕も話を貰ったそのコンテスト。準備期間は殆ど与えられず、まさに即興であっても本来潜在的に持っている力が推し量られるような挑戦の場。直前に迫ってきたからこそ、友希那たちは、Roseliaはより厳しく、熱の入った練習をしているのだろう。先程握ったリサの指も、とても綺麗だというのに、少しだけ表面にタコができていた部分もあった。それはまさしくリサがRoseliaという場で健闘している証拠でもあった。
「ま、今日は言っても練習してる時間自体はそんなになかったんだけどね」
「あれ、そうだったの?」
リサたちの帰ってきた時間はてっきりいつもとそれほど相違ない、それどころか以前までよりもより長い時間練習して、帰りが遅くなっているとばかり思っていたから。それだけにリサのその発言は意外なものだった。
「何かあったの?」
「え? いやぁ……、友希那の声の調子がちょーっと、おかしかったから。あんまり喉に負荷かけすぎても良くないから、休み休みやってたんだよ」
「……そっか」
僕の心は複雑だった。僕は今こうして、リサに歌う意味を取り戻させてもらっている。友希那は自分の夢、僕にとっては桎梏にしか見えない、FWFの舞台を眼前に据えて、羽ばたこうとしているのだ。僕は本当ならそれを応援すべきなのだろうに、あろうことか邪魔をしかけて、友希那から目を背けた。そんな僕が友希那のことを心配するのは烏滸がましいことこの上なかった。
「友希那は……色々と悩んでる顔してたけど。焦っても仕方がないからね。……って、あんまり、友希那の話するのは、良くなかった?」
「……ううん。友希那だって……僕の幼馴染だからさ。……僕は、音楽から一度逃げようとしたのに、ずっと音楽に向き合い続けられる友希那は、強いなって」
「そう……なのかな」
友希那の幼馴染であるリサは何を思っているのだろうか、なんて。考えたって仕方がないことだし、出来ることなら考えたくないけど、巻き込んでしまったのは己のせいだ。愛する人に贈る歌しか知らなかった僕が歌を取り戻す、なんてのはただの口上で……。
……いや、これ以上考えることはやめよう。卑下している自分よりもさらに惨めになってしまったら、きっと僕は耐えられないから。今、歌が歌えているのだから良いのだ。聞いてくれなかったとしても、友希那だって、Roseliaで歌えているのだから。別々のステージで歌えているのだから、それで構わない。友希那だって僕の歌は聞いてないし、求めてないんだ。……それよりももっと、歌うべき人がいるから。
「……ねぇリサ」
「……え、どうかした?」
「……僕さ、歌いたいな」
「歌いたい?」
僕の発言の意図が汲み取れて居ないのか、きっと相当眠気と戦ってもいるのだろう。けれど、少しだけ僕は我儘になりたかった。
「リサ。……聴いて欲しいな」
「……柳」
リサの瞳に光が宿った。元から明るいリサの表情が、一段と光を放っている。遂に、と言ったような期待の混ざった眼差し。
「ギターは持ってきてないから、アカペラになるけど」
「……うん。アタシは、柳の歌なら、なんだって聴くよ」
僕はまた、肺いっぱいに酸素を取り込む。なんだか、そのまま空気の軽さで浮き上がってしまうんじゃないかって錯覚してしまうような、弾むような夜の町。
「……じゃあ」
リサはそっと、僕の肩に軽くて、重たい、頭を乗せた。呼吸と呼吸がクロスして、ほんのわずかに上下に揺れるリサの息遣いが耳の奥にまで響いて居た。
凍ってしまうほどの
この痛ましい世界で
ただ一つ明るさを失わないでいた
陽だまりに希望を抱いた
狂ってしまうほどの
この悍ましい世界で
ただ一つ優しさを失わないでいた
陽だまりに愛を抱いた
暗がりに迷い込んだ
ルージュを包んだその熱に
浮かされてしまう今だけは
打ち拉がれてた僕を
赤よりも明るい赤で溶かして
静かな観客のアンコールが胸に届いた。これ以上は冷えると、手を取った。
「……歌、歌えるようになったんだね」
「まだ、声は全然本調子じゃないけどね」
「……それでも、良いんだよ」
「うん。……歌、取り戻せたよ」
こちらに振り向いて、微笑みを投げかけるリサの顔は、綺麗だった。
歩き始めた暗い町のコンクリートは、灰色をさらに暗くしていた。照らされた部分だけがその元の灰色を覚えていて、残りは全て空白の記憶のように真っ暗である。
「送ってくれてありがと……って言っても、柳も家の前だもんね」
「あはは。それもそうだね」
「……ううん。連れ出してくれて、ありがと」
リサの微笑みが僕を熱く溶かしていく。リサがドアの向こうへと消えてしまうのが名残惜しくて、リサの手を握ったまんま、ゆっくりと星の光る空を見上げた。都会に近しいこの町で見える星はそれほど多くないけれど、それでも十分綺麗だった。
今日の夜空は少し暗かった。部屋からは明かりが漏れていた。
歌を取り戻した僕
けれど君は遠ざかってゆく
僕は闇から逃げ出したのに
君の影が闇から覗いていたんだ
☆9をくださった菜刀様。
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