背の高い木々が生い茂る、深い森の奥。
「はぁ、はぁ、はぁ──」
土汚が生地を上書きして、所々が破れている純白のワンピース。
非常に整った美しい顔立ちの黒髪の少女が、何かを抱えながら歩いている。
「だいじょうぶ、だよ。おかあさんが、いるからね……」
血相が悪く、視線はブレ、足取りは覚束ない。
そんな少女が抱えているのは、5歳程度の女の子だった。
大きな布で体を包まれている女の子。彼女もまた少女と同じように黒い髪で、幼いながらに整った顔立ちをしている。
「マナ。だいじょうぶだよ、マナ」
大丈夫、大丈夫。と、布で包んだ女の子に、そして自分に言い聞かせるように言う。
「ぁ」
大きな木の枝に足を取られて転倒する少女はそれでも、腕の中に抱いた女の子が傷つかないように抱きしめた。
「マナ。私のかわいい子」
心配するように頬に添えられた小さな手を握って、少女は微笑んだ。
「ごめんね、まな。あいしてるよ」
少女の瞳の光が消えていく。
ずっと前から冷え切っていたその体は、少しだけ残っていた熱を急激に失って、物言わぬ屍となった。
「──ぁあ。僕はまた、間に合わなかったんだな」
二人から少し離れた場所にある茂みから、簡易的な鎧を身に纏った少年が姿を現す。
「すまないな。僕は君のことを知らない。きっと、彼女の子なんだろう。よく……似ているよ」
空が泣いているかのように、雨が地表を強く打ち付ける。
彼らの身に起きたのは、この世界ではありふれた悲劇。
自由を求めた貴族令嬢が人の目を盗んで屋敷の外へ出て、悪意のある者に攫われた。
令嬢を乗せた馬車は魔物に襲われ、令嬢は魔物に捕らえられた。
ゴブリンという、人を襲って増えるしか脳がない最下級の鬼の魔物に。
子を産まされた令嬢は、どういう訳か非常に人間に似た容姿で生まれてきた我が子を愛した。
それは、ゴブリンの巣に囚われた彼女が縋った歪な愛の形だったのかもしれない。しかし令嬢は生まれてきた我が子に名をつけ、降りしきる雨の中ゴブリンの巣から逃げ出した。
彼女は雨の森を我が子を抱いてただ走り──力尽きた。
その瞬間を見届けたのは、彼女の幼なじみである少年騎士。
「でも僕は、君の存在を許容出来ない。君の事を、どうしても憎んでしまっているんだ」
人の歳にして、5つほどだろうか。母によく似た整った容姿と、額から人外の証である二本の角が生えている。
それはまだ幼さの残る鬼の少女。
母親によく似て美しい、ゴブリンと人のハーフ。
亜人に厳しいこの世界で、この子は生きていけるのだろうか。今ここで保護しないと、彼女のようにどこかへ行って帰ってこないかもしれない。
そんな思いも一瞬過るが、この少女の存在自体が彼女を守れなかった証であると思うと、少年は胸が張り裂けそうになった。
「……言葉なんて分からないだろうけど、ここから去ってほしい。君を殺せないのは僕の弱さだ。どうか、この世界の片隅でひっそりと死んでほしいんだ」
彼女が最期まで大切に抱えていた少女。
きっとこの少女の幸せを彼女は願ったのだろう。
それでも少年は心のどこかで人外の少女を恨んでしまっていた。
ぐちゃぐちゃに掻き回される感情をどうにか制御して、少女に言った。
「わか、り、ました」
「っ!?」
少年にとって誤算だったのは、本来人間の幼児より少し優れる程度しか知能のないゴブリンの子供が、人語を介したこと。
人間に近い容姿をしているが、言葉が通じるなんて思いもしていなかったのだ。
そしてもう一つ、少年は知る由もないことだが。
「わた、しは、きえます。おかあさんを、よろしくおねがいします」
特異な容姿をしたゴブリンの少女には特異な力があった。それは他者の心を読む、
それを使って、母を探して一人森に入ってきた少年の元へ母を誘導したのだ。
「で、も。マナはしにません。おかあさんがいきてっていったから」
少年が纏っているキズ一つない鎧に反射して、少女の顔が映っていた。
初めて認識した自分の顔。
その中に映る自分の瞳と目が合って、少女は無意識に自分の心を──魂を
その瞬間に流れてくる、魂に刻まれた、前世と呼べる他人の記憶。
前世の自分はこことは違う世界で生きていたが、どういう訳か自分と同じように心を読む
「さようなら」
膨大な前世の記憶を視ても、少女の自我は消えなかった。己の前世をただ糧とし、母から貰った愛と「マナ」という名を胸に、母の亡骸を抱く少年の前から立ち去る。
降りしきる雨の中、鬼の少女は森へと消えていく。その後ろ姿を見て、少年騎士は、これでよかったのかと自問自答しながらも、戻らない彼女の亡骸を胸に抱いた。
残された匂いも足跡も、雨水によって流される。しかし彼らの間には、決して消えない“何か”が残った。
「ごめん、ごめんよ……」
少年は彼女の亡骸を彼女の家に連れて帰った。
きっと彼女の亡骸を調べればどんな事があったか分かるだろう。そして怒り狂った領主がゴブリンたちの討伐に乗り出るのも自明の理だ。
その時にあの少女はどうなってしまうのだろうか。
娘とよく似た人外の少女を、領主は決して生かしはしないだろう。
──だからせめて、あの少女の存在は墓場に持っていこう。
その夜、行方不明だった令嬢の亡骸が発見され、一人の少年騎士が姿を消した。
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「おかあさん」
鬼の少女は、木々の隙間から見える大きな月を見上げながら静かに涙を流した。
温もりは消えようとも、愛は消えない。
今ここに、一人の鬼の少女の物語が幕を開ける。