宝塚記念が終わって早数日、俺は現在スズカが入院していた病院の前で彼女を待っていた。所謂定期検診というやつで、走る許可が出てからも何度かここに通っていた。俺はそれに毎回付き添っている。こういう時のためのアシスタントトレーナーだしな。
しばらくすると病院の入口の自動ドアが開き、それと共にスズカが出てくる。腕組みをしながら壁にもたれかかっていた俺は、背を離しゆっくりとスズカに近づく。
「医者はなんだって?」
「脚はもう大丈夫だそうです」
「そか。なら良かった」
夕暮れの道を二人並んでトレセン学園に向かって歩く中、今日の定期検診の結果を尋ねれば、聞きたかった言葉が聞けてとりあえず一安心。これでようやく本格的なトレーニングを行うことができるだろう。
「........八幡さん。私、迷惑じゃないでしょうか?」
「.......どうしたいきなり」
突然ポツリと呟かれるそんな言葉。立ち止まったスズカの顔には明らかに陰が見える。
「今の私のペースに合わせてくれる人が、自分のペースを崩してしまうことも.........」
「........スペのことか」
「八幡さんもです。最近八幡さんは私に付きっきりで.........」
どうやら彼女はスペの様子がおかしいことに気づき、それが自分のせいだと思っているらしい。厳しいことを言えば、それはまさにその通りだとも言える。もっとも、スペにもスズカにも落ち度なんてないのだが。
それにしても、まさか俺の事まで気にしていたとは。気がつかないうちに彼女に気を遣わせていたのだろうか。
「.........気にすんなよ。俺の仕事は元々ケアの面だけだ。トレーニング中はむしろ暇なまであるからな。何もしないとあいつらがうるさいし、せめてこれぐらいはな」
「でも........」
それでもスズカの表情は晴れない。その様子に溜息を吐いた俺は、彼女の頭に優しく自分の手を置く。
「本当に気にしなくていい。今は自分のことに集中しろ。........またレース、走りたいんだろ?」
「.........はい」
消えるように呟かれたスズカの返事は、夕焼けの空に溶けていくのだった。
「うわぁ!海だぁぁぁ!!」
「潮風はお肌の天敵ですから、まったく嫌になりますわ」
「もう着くからなー。大人しくしとけよー」
季節は巡り、すっかり夏が顔を見せている今日この頃。先輩の提案で以前のように夏合宿に行くことになったチームスピカは、俺と先輩の車で宿泊する宿へと向かっていた。
俺の車に乗るのはテイオー、マックイーン、スズカ、スペの四人。乗り出すような勢いで窓の外を眺めるテイオーを宥めながら、海の見える道を安全運転で走る。
そんなこんなで着いたのは、見上げるのも苦労するような超高級ホテル。ふと横を見れば、マイクロバスから降りてきたリギルのメンバー達がぞろぞろとホテルへと入っていく。
「やった!カイチョーと一緒だ!」
「同じホテルなら、走りを近くで見る機会もありそうですわね」
「おーい、何処行くんだ。俺達はあっちだ」
リギルに続くようにホテルに入ろうとするスピカを呼び止める先輩。指を差す方向を見れば、そこにあったのは目の前のホテルとは似ても似つかない、見るに堪えないほどボロボロな旅館があった。先輩の発言的に俺達の宿舎はあっちのようだ。
........うん、まあ、零細チームのうちがあんな高級ホテルに泊まる金なんかあるわけないよな。ただ、幾ら何でもボロ過ぎないか?今窓枠外れてたけど?
なんて文句を言ったところでどうにかなるものでもなく。荷物を置いて玄関前に集合し、今回の合宿の説明を始める先輩。
「さて、今回の夏合宿だが.........今回は二チーム制で行う」
先輩の言う通り、今回の合宿は事前に決められた部屋割りと同じチームに分かれてトレーニングを行う。らしくないと言えばらしくない方法だが、その意図は大体理解できる。わざわざスペとスズカを違うチームにしてるしな。
「そして、今回の合宿のテーマはこれだ!!」
そう言って見せてきた紙に書いてあるのは“馴れ合い禁止”という六文字。何のことかわからないというように首を傾げるスピカメンバー。
「二つのチームは互いに競争相手としてトレーニングに励んでくれ。そして、合宿の最後には二チームで勝負を行う。以上だ!」
こうして、前回とは色々な意味で異なる合宿が幕を開けるのだった。
***
合宿が始まって早くも一日が過ぎた。トレーニングに関しては何の問題もない.........とは自信をもって言い難い状況にある。主に二人のメンバーに関してだが。
二チームに分かれているため、先輩はスズカ、ゴルシ、スカーレットのチーム、俺はスペ、テイオー、マックイーン、ウオッカのチームの様子を監督している。が、スペに関しては宝塚記念後から明らかに避けられている。原因はもしかしなくても、あの時彼女にかけた言葉だろう。
はっきり言って、俺にはあんなやり方しかできなかった。だから、別に今更自分の言動に後悔はしていない。だが、正直少し言い過ぎたかという思いが無きにしも非ずなのも事実。なんて、今更言ったところで後の祭りではあるのだが。
「八幡、ちょっといいか?」
そんなことを考えている間に合宿二日目のトレーニングも終わりを迎えた。煮え切らない思いを胸に宿舎に戻ろうとする俺にかけられる先輩の声。振り返れば何処か剣呑な雰囲気をまとった先輩とスズカの姿。明らかにただ事じゃない感じだよなあ.........
***
「ーーーー全力で走れない?」
「.......はい」
スズカから告げられるそんな告白に聞き返すように繰り返す先輩。目の前のスズカからは明らかに不安の色が見える。
「脚はもう大丈夫なことはわかっているんです。でも、もしまた怪我をしてしまったら.........」
(気持ちの問題、か.........)
一度怪我をしてしまったことによって植えつけられてしまったトラウマ。また再発してしまうのではないかという恐怖が、彼女の脚を重くする枷となってしまっているのだ。
「........トレーナーさん、おっしゃってましたよね?怪我が治っても、レースで走れるようになるかはわからないって。あれはこういうことだったんですね........」
この問題に関して、俺達にできることなどたかが知れている。何故ならこれは彼女自身の気持ちの問題なのだ。俺達がどれだけ大丈夫だと言ったところで、心の奥底に根づいた
ほんと、つくづく自分の無力さが嫌になる。自分の不甲斐なさで彼女をこんな目に合わせているのに、そんな彼女のために何もしてやれない。椅子に座る俺は、膝の上に置いた手をただただ握りしめるしかできなかった。
「.......どうします?こればっかりはそう簡単にはいきそうにありませんよ?スペのこともあるわけですし........」
当然すぐに対策など浮かぶはずもなく、とりあえずスズカを部屋に返し俺と先輩の二人だけになる。
「そうなんだよなあ.........一か八か、強行策に出るしかないか」
どうやら先輩には何か考えがある様子。それならここは先輩に任せるしかないか。
迎えた合宿最終日。両チームがトレーニング用の水着に着替えて砂浜に集合している。照りつける太陽が非常に眩しい。
「それじゃあ約束通り、二チームには今から勝負してもらう!」
「勝負ってビーチフラッグ!?」
「うわっ!それ燃える!」
「そんな可愛い勝負じゃない」
あれ?違うの?俺もてっきりそんな感じかと思ってたけど。
「今からやるのはトライアスロンだ!」
「トライアスロン?」
「どういうことですの?」
高らかに宣言する先輩に首を傾げるメンバー達。温度差が凄いと感じるのは俺だけだろうか。
「あそこに見える島、あそこまで泳いでいって自転車で島を一周する。最後に山を越えて下ったところがゴールだ!」
これまたハードな内容だな。確かにビーチフラッグなんて可愛いもんじゃない。さて、彼女達の反応はというとーーーー
「合宿楽しかったねー」
「ご飯も意外と美味しかったしね」
全員背を向けて帰り始めていた。おいおい........
「ま、待てえぇぇ!1着をとったチームにはリギルが泊まってるホテルのスイーツ食べ放題券をやるぞ!勿論金は俺と八幡が払う!」
そんな彼女達を必死に呼び止める先輩。というか待って?何それ聞いてないんだけど?
「スイーツ!?」
「食べ放題ですって!?」
あ、食いついた。
「さあ、それじゃあ張り切ってよーい『うおぉぉぉぉ!!』おわっ!?」
スイーツに釣られたのか先輩のコールよりも先にスタートするスペとスズカ以外のメンバー。現金な奴らだな。
「........先輩、俺聞いてないんですけど」
「悪い八幡!あいつらにやる気を出されるためについ!俺一人で払えるほど金もねえし.........」
なんか年明けも似たようなことあった気がするんだよなあ。まあ、意味なくトライアスロンなんてやる人ではないし、スペとスズカのこともある。こればっかりは先輩に任せるしかあるまい。
「........わかりましたよ。お金は払います。その代わりというわけでもないですが.........二人のこと、頼みます」
「........ああ、勿論だ」
***
『悪いがあいつらを追いかけるためのジェットバイクが一台しかなくてな。八幡はホテルに行ってスイーツ食べ放題の準備をしといてくれ』
先輩にそう頼まれた俺は、しかたなく宿舎の隣にそびえ立つホテルへと足を進める。流石に俺まで泳いで追いかけるとか無理だしな。元々俺はトレーニングに関しては口出しする立場でもないし。
「おや?誰かと思えば八幡じゃないか。トレーニングの方はいいのかい?」
「先輩がトレーニングの交換条件にここのスイーツ食べ放題を提示してな。俺はその準備だ」
何の因果か、ホテルに入ってすぐルドルフと鉢合わせる。不思議そうに尋ねる彼女に肩を竦めて答えれば、思わずというように苦笑を浮かべる。
「そういうことならせっかくだ。微力ながら私も手伝わせてもらおうかな」
「いや、お前こそトレーニングはどうしたんだよ」
「幸い今日はオフなんだよ。合宿最終日くらい息抜きしようってことでね」
「ほーん、流石は中央最強のリギル様だな。余裕そうなこって」
「君の解釈は相変わらず捻くれているね」
結局手伝ってもらうことになり、二人で場所を取ったり皿などの準備を行う。こうしてこいつと近くで接するのも随分久しぶりかもしれない。
「どうだい?最近のチームの様子は?」
「順調.......とは言えないな」
「........やはりサイレンススズカか」
「それに関しては先輩に任せるしかない。まっ、あの人なら大丈夫だろ」
何かと情けない部分も見え隠れする人だが、いざという時には頼りになる人だ。その人が任せろと言ったなら、俺は信じて待つしかない。結局人任せにしかできない自分が情けない。
「........八幡。君はまた、一人で全てを背負おうとしているんじゃないか?」
「は?なんだよいきなり」
「勘違いならそれで良い。そうじゃないのなら........お願いだ。少しでいいから周りを頼ってくれ。もう二度と、君をあんな目には合わせたくないんだーーーー」
ーーーー君が傷つくことで心を痛める人が居ることを、どうかわかって欲しい。
それはつい最近聞いた言葉と似た
「........まあ、なんだ。善処するわ」
「........今はそれだけ聞ければ十分だよ」
準備も終わり、ゆっくりと立ち去っていく彼女の後ろ姿を、俺はただ静かに見つめていた。
***
「お前らおつかれさん!1着とか関係なしに、全員好きな物食べていいぞ!」
それからしばらくして、トライアスロンを行っていたメンバーが帰ってくる。先輩のそんな声で、全員が好きなスイーツを好きなだけ皿に入れてくる。どうせそんなことになるとは思ってたし、こいつらが頑張っていたのは事実なので別に文句もない。
ふとスペとスズカの顔を見れば、前と違い何処か吹っ切れたような顔をしている。どうやら先輩がどうにかしてくれたらしい。まったく凄い人だ。
「ーーーー八幡さん。すみませんでした」
「.........なんだ?藪から棒に」
合宿の帰り道を走る車の中。腹いっぱいになったからか車内でぐっすり眠る一方、助手席に座るスペが突然そんなことを言ってくる。
「その、最近私、八幡さんのことを意図的に避けていましたから。だから、ごめんなさい」
「........あれに関しては俺が言い過ぎた部分もある。俺の方こそ悪かったな」
「八幡さんは悪くありません!だってあれは、私のために言ってくれたことですよね?」
「........さあな」
なんとなく恥ずかしくなって言葉を濁せば、“誤魔化さないでくださいよー!”なんて言うスペ。
「.........トレーナーさんに言われたんです。私がスズカさんのライバルになれって。今度は私が、スズカさんを背中で引っ張る番だって」
「その時思い出したんです。勿論スズカさんとは走りたいけど、私にはもっと小さい頃からの、お母ちゃんと交わした約束が........日本一のウマ娘になるっていう夢があったって。それを思い出させてくれたのは、間違いなく比企谷さんです」
そこで一度言葉を区切ったスペは、体ごとこちらを向いて意気揚々とした声音で宣言する。
「私、もう迷いません!スズカさんと走るために、自分の夢を叶えるために、前を向いて走り続けます!もう誰にも負けません!」
「........そうかい」
「だから、その.........八幡さんも私の走り、ずっと見ていてくださいね?」
「.........善処する」
“そこは言い切ってくださいよー!”なんて文句を言う彼女の言葉を聞き流しながら、俺は密かに口元が緩むのを自覚するのだった。